SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



堕天



‐‐‐ 参




同じ場所に居るのに。
声が、聞こえるのに。
姿が、見えるのに。
どうしてあたしの手は、届かないのだろう。
以前にも、こんなことがあった。伸ばした手が空を切り、倒れ伏したことが。
たった少しのその距離が、永訣を連れて来た、あの夜。
今此処に広がる暗闇は、あの日の空に、似ているだろうか ――― 。







ばし、と音を鳴らし、聳え立っていると思われるその壁を、殴る。
「ちくしょう…っ。」
わかっている。例え結界の中へ残ることが許されていたとしても、己には、何も出来なかったであろうことは。
先程降り注いだ葛城の力の中、あたしは、立っていることさえ叶わなかった。どれ程退治屋の生まれだと意気がってみようと、その邪気の中に佇む術さえ持ち合わせてはいないのだ。
此処は法師に任せるしかない、と先程から言い聞かせてはいるのだが、それでも口惜しさを消す方法には成り得ない。
「先程、己は神だと申されましたな。」
「如何にも。」
その、閉じられた空間の中、重く圧し掛かる激烈な圧迫感に踏み堪え、弥勒が葛城へ言葉を投げた。
「ならば、何故(なにゆえ)葛城などという人の姿をとっておられるか。」
「知りたいか?」
「…本当の葛城さまを、如何した?」
確信したように、弥勒が再び問う。
「わしは、葛城そのものよ。」
「笑止。先程神と申したは嘘偽りだと認められるか。」
ぬけぬけと言い放った眼の前の"葛城"を、弥勒が眉宇を顰めて問い質す。無論、己とてこの男を神だと思う心など微塵も持ち合わせてはいないが。
流れる汗を拭うことなど、疾うに忘れていた。右手に握り締めた錫杖の柄尻を地面へ押し付け、両膝に力を入れ踏み止まるので、精一杯。それでも、まだ退く訳にも倒れる訳にもいかなかった。何一つ、真実を見極めてはいない。
「神と崇めたは、村人の方ぞ。」
「答えになっておらぬ。葛城さまの存否と、神を騙るその意図を問うておる!」
このような堂堂巡りの問答を続けるのは、弥勒の本意ではない。この間にも、簡易結界に生じる綻びが広がって行くのだ。
「神でないと何故言える。人間が、認めたのだ。神である、と。この力を崇める人間が、それを望むならば、何故わしが神であってはならぬ!?」
叫ぶ葛城の哄笑と共に、その骨ばった右掌中から唸りを上げた激流が弥勒へ向けて叩き込まれた。か、と黒色に光ったその流れを防ぐ暇も無く、無防備な人間の身体が後方へ吹き飛ばされる。
「ぐ…っ!」
凄絶な圧力に耐え、後退った左膝を折り、法師は己の体を止めることに辛うじて成功した。しかし、身体を侵食する悪気をも止めることが出来た訳ではなく。肺を遡って来る嘔吐感を喉の下で無理やり眠らせる。
「法師さまっ。」
くぐもって届く、外の声。
「民を惑わしたは…籠絡せしは、きさまであろう…っ。それを民の所為にするなど…このようなこと、誰も望んではおらぬっ!」
乱れた息の下、弥勒が反論する。
「望んでおらずとも、甘い話を鼻先にぶら下げられただけで喰らい付いて来たは、否定出来まいよ。楽であろうて。他人を差し出せば自らは何の苦労もなく(ながら)えることが可能なのだから。その心底にあった望みを叶えしわしが、神でなくて何である?」
馬鹿な。
ただ、慎ましやかに暮らしていただけだ。神仏を信ずるは、その具現を願ってのことではなかった筈だ。それを、民の願いし望みの果てがこの愚行だと言うのか。
神の贄だと?
土地を護ってやるから、童の血を寄越せだと?
ふざけるのもいい加減にしろ。
人が、愚かで脆いことなど百も承知している。けれど、これは願いし祈りの具現などでは決して、ない。
「望むことを全て為されるが、神か?きさまの言う神など、己の傲慢を隠す為の戯言(たわごと)に過ぎぬ…っ!」
両肩に圧し掛かる邪念の中で、着いた左膝を起こすことはまだ叶わぬまま、それでも弥勒は葛城へ屹なる言葉を投げ掛ける。
そもそも、土地を枯らし、生きる糧を奪いしは誰の所業か。
「それこそが戯言であろうて!事実、村人達は童の命と引き替えに育った作物に依って日々を繋いでおるではないか。恥を知れ、と彼奴等に仏道でも説いて来ては如何か!?法師どのよ!」
「望んだことではないと、何度言えば理解する。その頭は飾りか?」
人間という存在そのものを愚弄する葛城の言い草に辟易しながらも、むしろ奴を逆撫でするような科白を返す弥勒。しかし、当の葛城は楽しげに低く笑うばかり。
「このように愉快なのは、()に久し振りよ。」
笑顔、とは呼べぬその歓喜の顔を、何と表せばいいのか。
「…笑えることの尊さも知らぬ者が、今此処でそのような顔を晒すのも厚顔と心得よ。それとも、きさまに奪われし笑みの数を知った上での死者への侮辱であるか。」
まだ、真実の苦しみも知らず、心の思うままに笑えた筈の童達。その笑顔諸共に断絶された数多の命へ思いを廻らせば、こやつが此処で笑うことさえ許されるべきではない。いや、自分自身が、許したくはなかった。
助けて、と己の肩に縋って来た小さな指先を、まだ、忘れてはいない。
「喰ろうた童の数か。十年(とおとせ)の間に、わしの血肉となりしは幾人かなど覚えている筈もない。なれど、今わしが笑うたれば、小童どももこの体の一部として笑うておるのと同一だとは思わぬか。」
「…魂を貶めるのも、大概にされよ。」
弥勒の声が、最後通告の響きを持って低く放たれた。右手に握る、地へ寝かせていた錫杖を、ぐ、と垂直に立てる。
「わしを成敗するか、弥勒法師よ。このわしと神通力の融合を止める程の力を持ち合わせていると申すか。」
ぼたり、と一際大粒の汗を落とした弥勒が、其処でぎり、と顔を上げた。じゃら、と起こした錫杖へ重心を預け、再び立つ。
「…喰ろうたのか、葛城さまを!」
睨み据えたその視線を見返し、またも葛城が破顔してみせた。
妖の力だけではない、と、かごめは言っていた。何か、"そうであってはならない"ような嫌悪感を覚える、と。故に、予想出来なかったことではないが、改めて突き付けられたその事実は、新たな怒りを呼び覚ますには充分で。
これ以上の問答は無用。神であろう筈もなく、人の匂いさえ宿してはおらぬこやつに対し取る策は、最早、一つ。
「奴の強大なる神通力は、わしと邂逅する為にのみ与えられし天の配剤。」
ゆっくりと、葛城の右手が前方へ伸びる。
「故に、我は神なり。」
「詭弁を!」
法師が反駁したその刹那に飛ぶ、再びの"神通力"。既に神聖さを失った、汚濁した紛い物のその力が弥勒を獲物に選び、放たれた瞬間。
「タリツ タボリツ パラボリツ シャヤンメイ シャヤンメイ タララサンタン ラエンビ ソワカッ!」
錫杖を前方へ斜に構え、その手許へ印を切った左の指を掲げる。呼ぶ真言は、明王が総帥・大元帥明王の鎮護の功徳。
地を駆ける獣のように襲い来る黒き波動を、弥勒は真正面から受け止めた。
気と、気が、激突する。
轟然たる響きに共鳴するが如く、結界が瞬間、歪む。
二つの波動が(まみ)えたその場所で生まれた烈風が、閉じられた空間の中で唸りを上げて逆巻いた。
錫杖の鐶が引き千切れんばかりにがちゃがちゃと靡き、破裂する光が結界の外に居る珊瑚の目にも灼けつくように突き刺さる。
狭い、その結界の中で暴れ狂う幾つもの光芒。それが収まるまで幾らかの刻を要した。
「…ほほう。」
感嘆した葛城の双眼に映るのは、しゅう、と浄化された悪気(あっき)が湯気のように立ち込める中で仁王立ちした法師の姿。
「童を喰らい殺す悪鬼でありながら明王へと解脱した、大元帥の真言を使うとは。偶然か、それとも意図したことか?どちらにせよ、面白い男よ。ならば、わしが神と成れることをも肯定可能な教えを、その胸に抱えておろうて。」
心底楽しげに、奴は笑う。人の表情を疾うに無くして。
「御仏に教化されし明王に、きさま如きが同列に並ぼうとするなど、許し難く陋劣(ろうれつ)なる妄言なり。」
葛城の放った使いの塊から直撃を免れた弥勒の声が、結界の中で静かに響く。
壮絶な力の衝突が、少しずつ、少しずつ、限界点の低い簡易の檻を蝕んで行く。
急がねば。
流出を防ぐ結縛の界だけが限界を迎える訳ではない。檻の中で濃密に圧縮された気の只中、両足で立っていられる時間はそう長くはないだろう。その証拠に、次第に脆弱になっていく己の体を既に認めている。
水を浴びたように止まることを知らず流れる汗が、その弥勒の思いを嘲笑うかのように、一瞬彼の視界の邪魔をした。
その隙を見逃さず、葛城の背から二つの影が飛ぶ。それは、大人の手を握った程度の大きさの、二匹の、蜘蛛。
「ちっ。」
弥勒がその存在に気付いた時には、既にその口から銀色の糸が吐き出されていた。錫杖を振り薙ぎ糸を切り払うが、その軌道を逃れた細い数千のそれらが弥勒の体を絡め取る。
「くっ!」
動きを封じられたその目の端に、にいいと笑った葛城の手が再び掲げられるのを認めた時。
「法師さまっ!」
珊瑚の呼ぶ声が、聞こえた…ような、気がした。
次の瞬間、法師の体を襲った熾烈な衝撃。
「…ッ…!!」
薄黒く歪んだ邪念の塊を、何の防御も取れぬまま、まともに喰らっていた。
目を閉じる直前に見たのは、その邪気に、じゅっ、と一瞬にして焼かれた蜘蛛の残像。
目的の為ならば、己の生きた使いをも、逡巡する様子もなく獲物毎消しにかかることが出来るとは。
やはり、てめえは神なんかじゃねえ。
途切れそうになる意識の中、弥勒は、葛城が人さえも物と変わらぬ扱いをする輩だったということを、ぼんやりと思い出す。遠くで聞こえる金属音は、先程まで握っていた筈の錫杖が、地面へ落下した音だろうか…。
叩き付けられた背中が土を抉るように、ざざぁっ、と音を立て地を滑って行く。その痛みの副産物で、消えかけた意識が引き戻された。
「法師さまッ!」
今度こそ、幻聴ではない彼女の声をしっかりと耳朶に捉える。
「ち…っくしょ…。」
体中が悲鳴を上げていた。
目が、霞む。
内臓を取り出して済むことならば、そうしてしまいたいと思う程に己の体の中に深く巣食う、悪想念。それが、渦を巻いて暴れ出す。
力を込めることが出来ぬ体細胞の弱りを、如実に確信する。張り巡らされた簡易結界にも、ぴしり、ぴしり、と罅が入り始めているのは自明の理だ。
残された体力と時間は、目に見えて減っていた。
波動と灼熱の光に原型を留めていない蜘蛛の糸の残骸を払い、無理やり上半身を起こしたところへ、凄まじい速さで走り寄った影が、被さった。
がしっ、と掴まれたのは、己の、首許。
「が…ッ!」
突然呼吸の自由を断絶されたのを知った弥勒が、一瞬声を吐いた。起こした筈の半身が、為す術もなく再び地面へ背を打った。
「強き力を持った者が弱き者の上に立つ。其は、万象の(ことわり)なり。故に、わしは此処では神と成る。卑しき人間どもを支配し、意のままに操り食す、わしの楽土を此処に創る!」
弥勒の体に圧し掛かり、その首へ両手を掛けた葛城が、血走った目で高らかに笑う。
「…っ…、そのような、驕慢(きょうまん)…っ、聞けは、せ・ぬ…!」
酸素を取り込む術を奪われたその喉許から、それでも譲れぬ信念を吐き出してみせる、法師。まるで、うわ言のように。
「笑止!わしが神と言えば、それで全ては事足りる!」
ぎりぎりと締め上げられる首許にある奴の手を払おうと、己の手を其処へ持って行くが、如何せん力が入らない。
こやつには、人間の残り香は疾うに失われている。悪しき念のみが漂うその気は、例え神通力を含もうとも、操る者が邪である限り、封じねばならない。なれど、既にその余力が。
「法師さま、何してんのっ!?立ってよ、立ちなさいよっ!」
滑り込んで来る、己を容赦なく叱咤する女の声音。
無茶言うよなあ…と、その珊瑚の科白を頭の何処かで聞いていた。
脳裏に過ぎるのは、仁助の、顔。
今もおまえは、悲痛な、悲愴な面持ちで、何処かで俺を見ているのだろうか。
不様に地に伏している、己が最期の願いを託した、一人の非力なる法師を。
「しっかりしなよっ!ちょっと、聞こえてんのッ!?返事してよ!」
どうして。
こんな風に、おぼろげながらも彼が窮しているところが見えるのに。
水の中で聞く音のように不確かであろうとも、声だって何とか届くのに。
それなのに、この不可視の壁が、傍へ行くことを許してはくれぬのだ。
結界などと言いながら、中の様子を伝えて来るこの中途半端な壁さえも、越えて行くことが出来ぬもどかしさ。
ならば、見えぬ方が良かった。聞こえぬ方が、救われた。彼の苦しむ姿を見ずに、己の嘆きも聞かずに済んだ。
それなのに。
全てが、焼き(ごて)を押し当てられたように胸に刻まれて行く。強く、熱く、掻き毟る。
これ以上、痛みを伴う印など、要らぬのに。
手を緩めずに襲い来るその傷を、抱き留める術など知らぬのに。
どうして?
嫌な予感ばかりが、現実になって行くのか。
「きさまの法力、なかなかに魅力であった。その力、わしが一滴残らず喰ろうてくれるわ。安心せい。」
珊瑚の耳にも、そのおぞましい科白が辛うじて、届く。
「神の一部と成るは、光栄と思え。」
混濁する意識の底で、冗談じゃねえ、と思うのは、弥勒。
人が必死になって会得したこの力を、喰らうだけでてめえのものにしようなんざ、虫の良過ぎる話じゃねえか。
しかし、どんなに胸の奥で悪態を吐こうと言葉にすることは出来ない。肺から昇って行く声を、塞がれた喉が吐くことを拒む。
(かす)み行く視界に映るのは、見たくもない醜悪な壮年の男の顔。
ほんと、冗談じゃねえよな…。
この法師らしい文句を浮かべたところで、双眸が閉じられた。
「法師さまっ!」
叫ぶ珊瑚の両眼にも、法師の力が消えて行く様が映し出される。袈裟の紫も、衣の黒も、判別は出来ないけれど。
澱んだ空気の只中に在る、その姿が。
「ちょっと待ってよ、合図はどうしたのさ、この大嘘吐きッ!」
だんっ、と壁を拳で叩き遣り、珊瑚が声の限りに叫ぶ。
その壁に両の拳を掲げるように押し付け、だらり、と項垂れる。その頬にぱさり、と降り掛かる、己の黒髪。それさえも、煩わしくて。
冗談じゃない、と今度思うのは、珊瑚。
あたしはまだ何もしていない。あんたの死ぬとこを見届けに来た訳じゃない。
なのに、あの男はあたしの手を拒むように、この結界を発動させた。
「どうして…っ、どうしてあたしに何もさせてくれないのっ!」
流れそうになる涙を、力の限り、堪える。此処で落涙しては、彼の命が消えるのを受け入れるようで怖かった。
また、失うのか。
また、繰り返すのか。
あの、生き地獄を。
――― どうすれば。どうすれば、抜けられる。この、暗闇を。
ぎりぎりと法師の首を締め付ける、あの両手。あの手さえ、解けたら。
「…る、な。」
低く、結界の外から、言霊を飛ばす。
届いて。誰でもいい。何の力を持つものでも構わない。だから、誰か、あたしの声を聞いて。
「その人に…っ、法師さまに、触るなあぁッッ!!」
ぎゅう、と寄せた眉の下にある双眸を瞑り、投げ放つ。
裂帛の、叫びを。
それは、渾身の力を込めた、魂の声。
「愚かなものよ、人間とは。」
その珊瑚の声を聞いた葛城が、法師の首許から手は放さず、彼女の方をゆるりと見遣り、嘲るように、呟く。
叫んだからとて、何になる。この状況を覆すことなど出来はせぬ。抽象的な"思い"など、周囲を凌駕した力の前では何の意味も持ち得ない。
「…愚物なり。」
そう、葛城が吐き、目を閉じた法師の顔へ視線を戻した時だった。
ゆっくりと、法師の片目が開いたのは。
二度と開かぬかと思われた、その、目が。細く、瞳を覗かせた。
まさか、とでも言いたげに一瞬瞠目する葛城。
「…俺に、触るな、…ってよ…。女の言うことは、ちゃん、と、聞いてやらねえと…火傷、する、ぜ…?」
ふらりふらりと彷徨うような言葉を、弥勒が喉から絞り出す。
「特に…あいつの、言う、ことは…っ…。」
にっ、と無理やり口端を上げた弥勒の喉許へ掛けた手に、力を入れ直し、我に返った葛城が笑った。
「命乞いか?法師どのよ!」
その、勝利を疑わずに震わせた喉に。
びたり、と突きつけられた法師の指。皺の刻まれた葛城の肌と法師の指の間に挟まれた、紙片。彼奴に気付かれぬよう、懐から引き出したその符は、灼符。
「何時の間に…っ」
奴の科白が終わるのを待たず、力の抜けた指先を半ば強引に己の顔の上で結ぶ。
「発…火ッ!」
余る力を喉へ集中させ、炎の召喚に成功する。
瞬時に燃え上がる、灼熱の火柱。
「ぎゃああっ!」
がば、と己の喉許から派生した火炎を払うように両手で押さえ、葛城が地面をのたうちまわった。
げほっ、ごほっ、と苦しげに咳き込みつつ、ようやっと自由になった気管へ酸素を送り込む弥勒。左半身を地へ倒し、右半身を起こした体勢で、ぜいぜいと肩を揺らす。そのまま息を整える暇も惜しみ、ずるずると地を這い、取り落とした錫杖がある場所まで辿り着いた。
「ほ、うし、さま。」
珊瑚は、途切れ途切れに、その名を呟く。驚愕に見開かれた目が、一点に集中している。捉える姿は、無論、錫杖を掴んでゆらり、と立ち上がる、法衣の男。
「舐、めるな…人間、を…!」
「おのれ、小賢しいっ!」
己の上半身を包む炎を鎮めんとする葛城を、弥勒がぎらりと睨み遣る。今、この機を逃してはならぬ、と警鐘が鳴らされているのを体の何処かで聞いていた。
再び呼ぶは、その背に大火炎を携え、炎で全ての魔を焼き払う不動明王が調伏の真言。
「…っ、ナウマク サマンダ バサラダン…ッ、センダ マカロシャナ ソワタヤ…ウンタラタカンマン…ッ!」
まだ乱れたままの息の下から、一気に言霊を放つ。
鎮火へ向かっていた葛城を包む炎熱が、再び猛るように紅蓮の翼を大きく広げる。
「ぐぎゃああああッ!」
聞くに堪えぬ醜い叫びが、結界の中を揺るがす。
びし、びし、と外界とを遮断する壁に走る、限界を伝える報せ。それでも猶、弥勒は真言を唱えることを止めはしない。
じわじわと更に浮かび行く汗が気持ち悪い、などという罰当たりな思いには目を瞑り。
眼前で猛る灼熱地獄の中、身を捩る葛城を見据えたまま、一連の帰結を目指す。
「…つ…っ!」
ぴしり、と右手に走った静電気のような痛みに、珊瑚は小さく声を上げた。今其処に広がる光景は、轟々と燃え盛る炎と、黒く煙る霞。それが、まるで綺麗に切り取ったかのような半球を形成し、絵空事のように思われた。
其処へ手を触れても、その半球の中を皮膚に感じることは出来なかった。たった、今まで。
軽く痺れた右手を左手で包み、限界が来ている、と珊瑚も悟る。間もなく、失われる、悪気を閉じ込めておいた檻。
「…バサラダ…ッ…」
がく、と遂に弥勒の左膝が崩折れる。前方に倒れ行くその体を支えるように、左手を勢い良く地に着いた。
ぜえぜえ、と、空気が漏れるが如く乱れる息は、直ぐさま整えられるような域を、疾うに超えていた。途切れた念が、葛城を抱き込んだ炎の勢いをも急速に弱まらせて行く。
どろり、と溶けた人の皮を被った仮の姿。残り火の中から現れたのは、弥勒の体の半分に満つるかどうか、という ――― 餓鬼。
「よくも、わしの体を…っ!」
だらり、と伸び切った腕を垂らし、焦げ付く匂いと共に、骨ばかりの足を一歩、出す。
「そ、れが、きさまの、正体か…っ。」
ぎら、と目を上げた弥勒が、息も絶え絶えに、言った。
「餓鬼ならば、餓鬼、らしく…、冥土へ、還、れ…っ!」
「亡者と一緒にするでない。わしは、鬼なり。わしは、この現し世で神と成る!」
先程までの強大なる力は、今は無い。結界に充満していた暗黒の波動も、何時の間にか立ち消えていた。
彼奴の力の大半も、確かに失われている。
それでも、どっ、と噴出した鬼の邪念に、弥勒の体が、ぶわ、と後方へ投げ飛ばされた。
「ぐっ!」
どさり、と勢い良く仰向けに落ちた体。その法師の視線の先は、天。映ったのは、(いかづち)が如く走る結界の裂け目。
割れる。
弥勒がそう思ったのと時を同じくし、ばちぃッ!と激しい爆裂音が轟いたかと思うと、張られた簡易の檻は、跡形も無く崩れ去った。中の黒さと、外の暗さが、瞬時にして交錯する。
まるで、何も無かったかのように混ざり合う空気。
その、刹那。
「珊、瑚っ!」
その名を、呼ぶ。それと同時に、右手に握った錫杖を、眼前に迫った餓鬼の下段 ――― 足元へ、薙ぎ払った。しかし、その一閃には少しの鋭敏さも残されてはおらず。小鬼はひらり、と宙へ舞ってそれを避けた。
「そのような、蝿の止まるが如き」
其処まで言った餓鬼の視界が、中空で暗くなる。
何、と思ったその双眸に、法師の背後から跳び上がった影が、映る。
漆黒の戦装束を纏った、少女。
「な」
そう一言漏らした時には、既に(つか)に掛かっていた彼女の右手が疾風のように動いていた。
鞘走りの音をさせ抜刀したその軌道上。彼奴の右下から左上へ、逆袈裟に斬り上げる。
ざしゅうっ、という音が響く。
「ぎゃ」
悲鳴を上げる間も許さずに、翻った切っ先を真横へ薙いだ。
正に、瞬きをする間の所業。
すとん、と見事に着地した珊瑚の向こう側。ごとり、と落つは、悲鳴を上げようと口を開けたままで胴体と分かたれた、餓鬼の頭。
それは、片膝を立てて座り込んだ、弥勒の目の前。其処に、かたかたと顎を震わせる、その頭が転がっていた。
「わしは…神、なり。人間を、支配せし」
ぐしゃり、と錫杖の柄尻で貫かれたその頭は、最後まで言葉を紡ぐことも叶わず、ざら、と砂塵のように消滅した。
「…神、など。」
寸刻前までのことが、まるで嘘のように静まり返った空気の中、低く、法師が言う。
「人間を支配するのは、神ではない…。」
人を創ったのが誰かなど、真実は知らぬ。
喩えそれが神であろうとも、人を支配するものは、他に在る。
天ではなく、この、人界に。
不可侵の神ではなく、不可視の、心。
何時の世も、繰り返される不幸は、常に其処に…底に、存在している。
故に、願わずにはいられない、人の性。
神に、仏に。
縋ることをやめた時、人は、一体何を見るのだろう。
(法師の俺が、考えることじゃねえな…。)
そう。多分、何かに縋るということは、決して悪いことではない。その祈りの向かう先を、願いの色の染め方を、間違ってしまわなければ。
己がこの緇衣に身を包むその訳を、自身、知らぬ間に理解していたように、この村の民達も思い出してくれるだろうか。
祈りの前に、それより"先"に何があったのか、を。
(仁助。これで、勘弁してくれるか?)
おまえは、笑ってくれるだろうか。
弥勒は、立てた左膝に左の腕を軽く掛け、柔らかく目を閉じた。
その横顔を見遣った後に、身(じろ)ぎもせずに無言で彼を見守っていた珊瑚が、ぶん、と一度刀身を振り、それを腰の鞘へ収めて言う。
「…あんな大雑把な合図が、あるかっての。」
まったく、と半ば嘆きつつ、かちゃ、と鍔を鳴かせ、弥勒の傍らへ歩み寄る。
「…わかったではないか。」
衰弱し切ったその顔で彼女を見上げると、ふ、と笑んだ。
「…あたしを誰だと思ってんのさ。」
ふん、と一旦鼻を鳴らしてみせた後、しゃがみ込んだ珊瑚は弥勒の右腕を掴み、己の首の後ろへ回す。
「さ、帰るよ。」
ぐい、と彼の体を支えるようにして立ち上がる、珊瑚。
「……。」
無言のまま右腕を引かれ、彼女の細い肩に体を預けた弥勒もそれに続く。
しかし、彼女の誤算。
失敗した。
想像以上に、力の抜けた彼の体は重量を増しており、肩に負い、ずる、ずる、と歩む速さは亀並みだ。
「…珊瑚。」
「なにっ。」
彼の体を支えることに意識を集中している珊瑚は、顔も上げずに法師の声へ答える。
「失敗したな、と今思ったろう。」
「いいから怪我人は黙ってちゃきちゃき歩かんかっ!」
ムキになった珊瑚が柳眉を上げて、怒鳴る。いちいち図星であるから頭に来る。
それでも。
先程、失われてしまうのではないかと思われた弥勒の姿が、今、揺るぎ無い重みを持って、この肩に在る。
その重みが心地良いと感じる、などと言っては笑われるだろうか。
もとより、この法師にそんなことを伝えるつもりもありはしないが。これ以上、この男を優位に立たせてやる義理などないのだから。
珊瑚がそのような言い訳を己の胸に(あげつら)っている頃。
引き摺られるようにして歩く法師が、珊瑚の頭の上の方で、くすり、と気付かれぬように微笑していた。残念ながら、「大丈夫だ」と珊瑚の腕を振り解く余裕は、爪先にさえ残されてはいない。辛そうな彼女の足並を見るにつけ、その元凶である己を情けなく思うのだが、いっそ今は、この細い肩に甘えてみるのも悪くはないだろう。
怪我の功名、ってやつか。
また、ふ、と笑む。
俺は、まだ、笑えることは幸せなことなのだ、と、忘れてはいない ――― 。







「よう、早かったじゃねえか。」
ようやっと村の中心部まで辿り着いた弥勒と珊瑚を、斃れた土蜘蛛の上で右足を左の腿へ組み上げた犬夜叉が待っていた。
「なんでぇ弥勒。随分くたびれた格好してんなあ。」
「おまえこそ、土埃に塗れたその着物を何とかした方が良いのではないか?」
上方からからかうように言葉を降らせる犬夜叉に負けじと、余裕を漂わせた声音で弥勒が返す。
「弥勒さま、珊瑚ちゃん!」
「二人とも、無事だったのじゃな~。」
駆け寄るかごめの胸に抱かれた七宝も、よれよれ、という言葉が似つかわしい有り様で、法師の肩へ飛び乗る得意の芸当も、この時ばかりはお預けのようだった。
ふわ、と珊瑚の横へ降り立つ雲母の牙には、未だ蜘蛛の残骸がぶら下がっている。
「よくやった、雲母。ご苦労さま。」
弥勒の腕から離した右手でその頭を撫でてやると、雲母は赤目を瞑って珊瑚の体へごろごろと鼻先を寄せた。
珊瑚の肩からゆるりと右腕を解き、弥勒は支えになっていた彼女の体の代わりに錫杖を地へ着かせる。
「一人の犠牲者も出てないわ、弥勒さま。」
土に塗れた頬を柔らかく緩め、かごめが、ふわん、と微笑む。
無論、それを望んではいたものの、難しいことだろうと睨んでいた弥勒は辺りを見回した。
確かに、人型をした骸は、無い。散らばるのは子蜘蛛の残骸。そして、それぞれが斧や鍬を携えた、村人達の姿。
あの時叫んだ、妖の言葉。
護りたいのは、土神か、土地か、と。
恐る恐る、それでも彼等が選んだのは、己が生きて行く、この、大地。
その土地を耕す農具を手に、吸血の妖蜘蛛と遂に向き合った、結果。
しかし、それでもまだ恐れは消えはしない。法師の口から事の顛末を告げられようとも。
「これから、わしらはちゃんと暮らして行けるのか…?」
この先、どうなるのか。失われた ――― 例え邪悪であろうとも、確実に在った糧を放棄した、明日は。
「もともと、土神など居はしなかったのですから…。」
その弥勒の言葉に、彼と珊瑚を交互に見た犬夜叉が、思い出したように無礼な言葉を吐き出した。
「そういや、あれだけの力を、おめえらなんかがよく封じられたもんだな。」
「…なんか、って、何よ。」
射抜くように睨み返すのは、珊瑚。
「…はあ。見縊られたものですなあ…。」
その法師の科白を聞き、ふんっ、と不敵に犬夜叉が口端を上げる。その顔は、何処か満足げで。
ゆら、と弥勒は民の方へ向き直る。
「…あなた方は、最初から望んでいた訳ではないでしょう。神の力など。」
ただ、"奴"に付け入られただけ。他者へ依存することで生きて行ける道を知ってしまった、最も弱くて脆い、人心。
「初めに、戻るだけです。何も、特別なことをする必要は無い。」
失われた子等の命は、戻りはしないけれど。
この生きる大地を己の手で護る、と選ぶことが、思い出すことが、出来たのだから。
救いは、ある。
それでも、誰一人としてこの退魔を施した一行へ労いの声を掛ける者は居なかった。
「礼くらい、言ったらどうじゃ。」
その、押し黙ったままの大人達の態度がどうにも()せず、ぼそ、と呟いた七宝の口を、かごめが慌てて塞ぐ。
そのかごめの腕の中の子狐を優しく見下ろした後、再び瞳を上げた弥勒が言う。
「此度のことは、私にも責の一端はある…。」
礼など言える心境にあろう筈もない、とわかっている。これまで積み重ねた十年の歳月。それを無に()したことの答えは、直ぐに出るものではないのだ。
失われたものは、あまりに大きく、与えられし未来は、どうしようもなく頼りない。
しかし、この先は、村人達次第。この余所者達に為し得ることは、これで終わりを告げる。
初めてこの村へ姿を現した時と同じく、法師の持つ錫杖の鐶が、涼しげな音を立て。
「では、我々はこれにて失礼致します。行きますよ、皆。」
一礼した後、ゆっくりと歩み出す弥勒の背へ、一行が続く。
そーいや腹減ったなあ、などと言葉を交わしながら。
何時の間にか、どの色の迎合をも許さぬ暗闇が、失われつつある。当たり前に、朝が来る予兆。これこそが、誰にも抗えぬ、天の為様。
長い長い、夜が明けようとしている。
願わくは、光射す空が、再びこの村を覆い尽くさんことを ――― 。







「じゃ、そろそろ行こっか。」
かごめの一言に腰を上げた一行は、営を張った山を後にする。
弥勒の体力の回復を待ち、腹を満たし、時は未の刻。
普段と何ら変わらぬ旅路へと戻ったその道に。仁助の母親が、一行が山中から姿を現すのを待っていたかのように立っていた。
「何かありましたか?」
些か心配げに、珊瑚が問う。しかし、女はいいえ、と首を振った。そして、両手に抱えていた風呂敷をゆっくりと、開く。その中から取り出したのは、濃い、松葉色の衣。
「息子にお貸し下さった物とは違いますが、これが一番似ていたもので…。」
え、と珊瑚は一瞬驚きの表情を作る。これを、あたしに?
「同じ物を返せればそれが一番良いのですが…死者の穢れを含んだ物をお返しすることは出来ませんので、宜しければこれをお持ち下さい。」
丁寧に折り畳まれたそれを、母親が珊瑚へと差し出す。
「そ、そんなつもりじゃ。」
あたふたと遠慮の言葉を珊瑚は述べる。こんな風に見返りを求めて取った行動ではなかったし、おまけに、自分の使っていた腰巻よりも数段上物の品である。
しかし、母親の方は、その彼女の慌て振りにも退く様子は欠片も見せずに。
「貰ってやって下さいまし。私が…嫁いで来た時に郷里より持って来た物ですが…どうか、これをあなたさまに…。」
潤む母親の目を見て、猶も断れるような性格には出来ていない珊瑚である。大層恐縮しながらも、礼を言いつつその深緑の衣を女の手から受け取った。
「皆様、お世話になりました。法師さまには、息子の最期の願いを聞き届けて頂き、本当に感謝しております。」
深く御辞宜を寄越した母親へ、弥勒も無言で頭を下げた。
「お嬢さん。」
珊瑚の方を見返り、彼女の手を握り、母親が言う。
「どうか将来、元気で強い子を、産んで下さいませ。その子が健やかに育ちゆくことを、此処から願っております故。」
普段の珊瑚であらば、真っ赤になって照れ隠しの言葉を吐いていただろう。なれど。
仁助の墓参りに行った際、父親…この女の夫は、三年前に流行り病で呆気なく逝ったと聞いた。そして今、たった一人の息子を亡くし、通りすがりの娘に託す、ささやかな希望。
その瞳の色を、なんと表せば伝えられるだろう。
「…有り難うございます。」
母親の手を握り返し、珊瑚はこくり、と頷いてみせる。
再び旅路へ就いた一行が見えなくなるまで、女は道の上から見送っていた。途中で振り向いた珊瑚の目に映ったのは、小さく、小さくなっていく、その女性(ひと)の姿。
「珊瑚ちゃん、似合うよ。」
先程小袖の上から着けた腰巻を見遣り、かごめが珊瑚の隣で優しく笑む。
「ありがと。」
短く返す珊瑚の頬にも笑みが宿ってはいるけれど。
これからの、あの村と母親のことに思いを廻らせると胸が縮んだように苦しくなった。
一人で、子を失った悲しみに耐え行かねばならぬ、母の想い。それは、己の抱える憂いにも似ていた。
全てを失ったところから始まる明日は、どんな風に染められて行くのか。無論、それを先に知る術など無くて。
もしも ――― 。
もしも、今。母が生きていたなら、琥珀を想い、先程のあの女のような瞳をしたのだろうか。
(つまらない、感傷だ。)
柄にも無い、と自分で自分の胸の内を振り払う。今己に出来るのは、あの女性に再び幸福が訪れることを、願うことだけ。
珊瑚の心中を見透かしたのかどうか勿論誰にもわからぬが、彼女の横顔に降りた一瞬の翳りを見逃さず、傍らに並んだ弥勒が何時もの口調で戯言を投げた。
「まこと、珊瑚はどのような子を産むのでしょうなあ。」
両腕を袂へ差し込み、錫杖を胸に抱え空を仰ぎながら、あっさりと。
「そ、そんなことっ。」
いきなり思考を遮られ、現実へと引き戻された珊瑚は、流石にこれには平生のように顔に朱が上るのを認めるしかなく。
後は、ふい、と何処かへ顔を背けてしまう、お決まりの成り行き。
「神のみぞ知る、だろ。」









B.G.P. <廃墟> 谷川俊太郎


お疲れ様でした。意味無く長い、っていうか、法師と葛城の問答は、書いてる方も意味がわからなくなってしまいました。
そして、其処の仏教に精通しているアナタさま、ツッコミは無しです。見逃して下さーい。
此処に存在するのは、こういう事を弥勒サンにして欲しいな、という単純且つ王道な煩悩のみです。故に、使い方etc.について一切の苦言は受け付けませんすみません(だから、知らない方は丸呑みして信じないで下さい。造語もいっぱいです)。
もう一つ。春の終わり、と5月くらいを匂わせる書き方をしてますが、山百合って夏の花ですわ…他に思いつかなかった無知ヤロウですみません。
そして、最大の突っ込み所=何故法師は風穴を、珊瑚嬢は飛来骨を使わなかったのか?…これについて興味のある方はこちらを御覧下さいませ。
最後まで暗い雰囲気を持続出来ないのは私の悪い癖(というか技量)です。ただ単に真面目な法師が書きたかっただけなのに、こんな分不相応な題材に手を付けてしまい、ご都合主義な上に消化不良でまとまりもないという三重苦。ラブ無しで行こうと思っていたのに、結局ちょこっとミロサン入ってしまったし、反省。
それでは、最後まで読んで下さいまして、有り難うございました。

2001.09.10