堕天
‐‐‐ 壱
「あ~、暇だ暇だッ!」
退屈な道行きに辟易したかのように、犬耳の少年が言の葉を吐いた。
「暇なのは良いことでしょう。」
「何言ってやがる!四魂の欠片の気配がねえってことだぞ、わかってんのか!?」
諭すように言った、黒衣と袈裟姿の男の言葉を、荒ぶる声音で否定する。
「だからって、暴れないでよ。」
「ほんと。子供じゃないんだからさ。」
うんざりなのはこちらの方だ、と言わんばかりに、異国の衣を纏った少女と、一目見ただけでは使い道の定かでない白い得物を背負った娘が溜め息を吐いた。
旅の、途中。
これまでにも、幾度となく繰り返されて来た会話である。しかし、これまでと違ったのは、其処で第三者の声が介入して来たこと。
「お坊さま!」
明らかに、幼い、声。高く響くその呼び声に、一同は後ろを振り返った。
「はい?」
呼ばれた僧職の男・弥勒法師が返事をする。その視界に映ったのは、村人であろうことが一目でわかる
形をした男
童。此処まで駆けて追って来たのだろう。息が上がっている。
「なんだぁ?おめえ。」
十に届くか否か、という年頃のその幼子は、怪訝そうに言った犬夜叉の方は見向きもしなかった。ただ、一点に、弥勒を縋るように見つめ、両膝に手を掛け息を整えようとしている。
「大丈夫?ほら、飲みな。」
膝を折ってその童の目線まで降りた珊瑚が、腰に下げていた水の入った竹筒を差し出す。
小さな手が珊瑚からそれを受け取ると、その竹筒を逆さにする勢いで水を飲み下した。ふっくらとした童の口許から溢れたそれが、顎を伝って滴り落ち、足元に黒い染みを作る。
「私に何か用か?」
ぷはぁ、と子供が息を吐いたところで、弥勒も地に片膝を着いて声を掛けた。
「お坊さま、村を…救って!みんなを、助けて!」
幼子は、切羽詰った声を上げ、弥勒の両肩にしがみ付いてくる。
「何、何があったの?」
かごめが、不安そうに訊ねる。
「殺されるんだ!神様に…殺されるんだ!」
「な」
神に、殺される?
「何を言うておるんじゃ?こやつは。」
合点がいかぬ、という風情で、弥勒の肩に留まった七宝が首を捻る。
「神様にと言うのは」
弥勒が眉を顰めて言い掛けた時。
「
仁助!」
女の声が、割って入った。童がびくり、とした後に硬直するのを見遣った弥勒が目を上げると、母親と見受けられる女が追いついて来たらしい光景が映る。
「何してんの、おまえは!」
「だ、だって、お坊さまが通るのが見えたから…。」
「だからって、何が関係あるんだい!?」
明らかに慌てた様子の母親が、にすけ、と呼んだ男児の首根っこをひっ掴まえる。
「もし、母御。」
しゃら、と錫杖を鳴かせつつ、弥勒が立ち上がった。唖然として親子の様子を見守っていた珊瑚も、法師につられたように後へと続く。
「今、神に殺される、とその童から聞いたのですが。」
弥勒の言葉に、母親は一瞬間を置き、はあ、と溜め息を吐いた。
「おまえ、またそんなこと言ってたの?」
「だって、かあちゃん!」
反駁しようとする子供には答えず、女が法師を見て告げる。
「この子は、夢でも見ているのです。こんな、馬鹿なことばかり言って…どうか、お気になさらないで下さいまし。」
「夢だぁ?」
呆れたように、腕を組んだ犬夜叉が言った。
「しかし」
法師の言葉は、遮られる。
「今に始まったことではないのです。こんな戯言を言っては通りすがりのお坊さま達に御迷惑を掛けて…まったく。ほら、帰るよ!!」
「ま、待ってよ、かあちゃん!」
襟首を掴まれたまま、ずるずると引き摺られて行く仁助を、為す術もなく見送る一行。
「なんだったんだ、ありゃ…。」
「…さあ…。」
呆れたように、ぽかん、とするしか、ない。
ただ、その目が。
後ろ向きのまま連れ帰られる、その少年の縋るような瞳が、法師の心を捉えて、放さなかった。
「何さっきから考え込んでるのさ。」
野宿を決めた大欅の下で夕餉を摂っている最中だった。
口数の少ない法師へ、珊瑚が問いを投げた。
「…いえ。」
気の無い、返事。
「どーせ、昼間のガキのことでも考えてたんだろ。」
かごめが郷里から持って来た麺状の汁物をすすりながら、犬夜叉が代わりに答える。
「夢見の戯言だと言っておったではないか。」
これは、七宝。
「はあ…。」
「…気になるの?」
珊瑚が、些か懸念するような面持ちで再び法師へ問う。その顔を見て答えたのは、
「…いや。あの童に、坊さまではなく法師と呼ぶよう言うのを忘れていたなあ、と。」
一瞬の沈黙の後、皆は食事を再開させた。
ざわざわと、風が…否、心が、騒ぐ。
(夜が明けちまうな…。)
木の幹に背中を預け、眠りに就こうとしても浅い睡魔が襲い来るだけで、深くは堕ちぬ、闇の入り口。
それは、頬を撫でる生
温い風の所為だけではないだろう。
(…明日、やはりあの童の元へ一度行ってみるか。)
そんなことに何の意味があるんだ!と、欠片探しの旅を頓挫させられた犬夜叉が怒る様子を脳裏に浮かべながら、やれやれ、と思った其処へ。
(…なんだ?)
風に紛れて、何かが、来る。
こちらへ。
走るように、近付く気配。
音を立てぬよう、右胸に抱いていた錫杖へ封印を施した右手を掛ける。
妖気では、ない。これは…
『お坊さま。』
弥勒の目の前に忽然と姿を現したのは、昼間の童 ――― 仁助。
「にす、け…?」
弥勒が、その姿を凝視する。何処かぼんやりとした輪郭は、今此処に在る者が実体ではないということを容易に知らせていた。
『お坊さま、みんなを、助けて。村を、救って。』
泣いていた。
繰り返される、一度聞いた請願の言葉。
何故、今、此処へ…?
弥勒がその問いを投げ掛けようとした時、風が歪んだかと思うと、闇に溶けるように仁助の姿も掻き消えた。後に残るのは…霊気。
(
魂駆けかっ!?)
がば、と立ち上がった弥勒の気配に、珊瑚と犬夜叉も眠りから覚めた。
「法師さま!?」
そう名を呼んだと同時、辺りに微かに漂う残留思念が、珊瑚の背中をぞくりとさせる。
既に、弥勒は駆け出していた。
「雲母!」
荷を掴んだ珊瑚の召喚に、妖獣が間を置かずに答える。
「かごめ、七宝、起きろッ!!」
異変を感じ取った犬夜叉が、まだぐっすりと寝入ったままの二人を起こし、半ば強引に己が背へ負う。
「な、なんじゃ!?」
事態を飲み込めぬ二人に説明をくれてやる暇も無く、弥勒の背中を追った。
「法師さま、乗って!」
光焔を足先に纏った真白な体躯が、先を走る弥勒の隣へ追いついた。差し伸べられた珊瑚の左手を弥勒が掴み、ひらり、とその彼女の背後へ跳び乗る。
「どういうこと?」
珊瑚の問いには、何を指しているのかが、欠けていた。彼女自身にも、わからないのだ。何を、どう、問えばいいのか。
「…まだ、わからん。」
わからぬけれど。
最悪の事態が引き起こされているのだと、それだけは頭の隅で理解していた。
夜が、明けようとしている。
何ものをも染め抜かんとする黒き闇夜の終焉がやって来る。それは、約束されたこと。人の力の何を以てしても止められぬ、天の配剤。当たり前のように、陽は昇り、光を放つ。
その天の光さえ届かぬ在り
処 ――― 愚かなりしは、惑う、人心。
未だ薄暗い空の下、其処へは、その村の全ての人口にほど近い人数が集っていた。
ひそひそと、囁き合う、声。祈るように、数珠を握る者。有り難い、有り難い、と平伏している者。それら、一同に会しているとは思い難い、異なった表情を示す者達が一点を取り囲むように渦を成していた。
「法師さま、あれ…。」
「…降りてくれるか、雲母。」
上空から認めたその異様な光景に、多少距離を置かせ雲母を不時着させる。其処へ、林を抜けて来た犬夜叉等が合流した。
「…何、してるのかな…。」
かごめの、幾許か恐れを含んだ声が、一行の思いを代弁する。
弥勒は、何も口には乗せず、何時もの如くゆるり、とその輪の方へ足を向けた。
「このような刻限に、皆様方がお集まりとは、何かおありですか。」
冷静な口調で、輪の一番外側に立つ野次馬の男へ声を掛ける。すると男は、ひ、と小さく悲鳴を上げた。その一つの波が、瞬く間に渦へ浸透して行く。
「な、なんだ、てめえは!」
ざわめく、空気。それを切るように人波を掻き分け、中心部へ進む法師。その彼の眼前に現れたのは。
小さな骸を抱く、女。
その抱いた胸から零れ落ちた骸の、腕。それはまるで、樹木の皮を剥ぎ、その皮を天日に晒しておいたような…木彫り細工よりも哀れに干乾びた、もの。
(…子供、か?これが…?)
一瞬間息を呑んだ弥勒の方へ、地面に座り込んだままの女が顔を上げた。
「…その胸の骸は…仁助、か?」
頬を涙と土で汚したその女は、見紛う筈もなく、昼間、童を追って来た母親。小さく声を絞り出した弥勒の片脇で、珊瑚が言葉を失っていた。
法師の問いに力無く、こくり、と頷く、もう母ではなくなった、女。
やはり。
遅かったのだ。何もかも。
先程からのことは、"終わってから"始まっていたのだ。
「何があったのか、話してはくれませんか。」
続けた法師の言葉へ、母親ではない別の者からの返事が飛んだ。
「あんたには関係ない!」
「そうだ、出て行ってくれ!」
くる、と周囲を見回す、弥勒。口々に叫ぶ大人たちの目は、迷惑だ、と言わんばかりに彼の体を容赦なく、射抜く。無論、それにたじろぐような男ではないが。
「関係なくはございません。私は昼間、こちらの親子と逢っております。おまけに、辺り一面に漂う不可思議な空気。これを放って帰っては、何の為の緇衣でありましょう。」
清冽なる響きを保ったその科白に、言い返せる者は居なかった。黙りはしたものの、今度は話を始める者も居ない。
「…なんなんだよ、一体…。」
遠巻きに見ていた犬夜叉が、苛つきを隠さずに腕組みをしている。
「神に殺される、とはどういう意味です?」
先に、弥勒の方が仕掛けた。すると、案の定直ぐさま声が発せられる。
「そんなバチあたりなことを言ったのか!?」
びく、と仁助だったものを抱く女の体が震えるのを、珊瑚は見た。
「殺されるなどと…!有り難く思え、
土神様に選ばれたのじゃぞ!?」
「これで村は安泰だと言うのに!」
それまでの沈黙が嘘のように、あちらこちらから罵声が飛ぶ。
いいえ、いいえ、と女は震えるばかり。
埒があかない。弥勒は、直接的な質問へ方向を転換させる。
「何故、仁助はこのような姿になったのです。」
法師の言葉に、一人の老人が一歩前へ出て、答える。
「…神隠しじゃ。」
「神隠し?」
訝しげに、珊瑚が呟いていた。今此処に、奇怪な骸が在るのに?
「…夕刻辺りに、姿が見えなくなって…捜していたのです。…神隠しに遭ったのだろうとは、思ってはいたのですが…。」
震える声で、母親が言う。
思っていた?姿が見えなくなっただけで、神隠しに直結させて?
「初めてではないのですね?子供が居なくなるのは。」
「仁助は、
贄になったのじゃ。これまでの子供達と、同じく。」
贄だと?何を言ってやがる、こいつらは。
「この村にはの、土神様がいらっしゃるのじゃ。神隠しに遭った子供の骸が発見された次の昼間には、信じ難く田畑が潤い、実りを授けて下さる。」
無言で弥勒はその説明に耳を傾ける。
おかしい。この村は。何故、気付かない?
「…それが、子供の血を吸い尽くした神様の、相応の礼だとでも言うのか?」
低く、辺りを睨み付けるように珊瑚が言った。その彼女を、柔らかく弥勒の左手が制する。
「神隠しに遭った童が血を抜かれて戻って来ることに、異論はないのですか。あなた方は。」
代わりに、弥勒が村人たちへ問う。
「…土神様のすることに、異論などあろう筈がない。お蔭でこの村は永劫安泰じゃ。」
老人が、答えたその時。
「真実、神が贄など求められるとお思いか!?」
其処で初めて、法師が声を荒げてみせた。びく、と周囲の人垣が狼狽するのが、背後から見守る犬夜叉とかごめ等にも見て取れる。
「信心深い村人を責めるが、僧の徳であったとは知らなんだ。」
割って入ったのは、良く通る、男の声。
「葛城さま。」
弥勒の視界に映った神主姿の男を、村人たちがそう呼んだ。
「今起こった一つ処しか見ておらぬ者に、幾年と積み上げて来た過去を無視した発言は、控えて貰いたいものだが。」
五十前後、といったところであろうか。白髪交じりのその男が落ち着き払った物腰で、輪の中心へ歩み出る。
「…慣わしを知ったところで、この童の命が断たれるべくして断たれたなどとは思い難い。」
こちらも一寸たりとも乱れぬ言葉を返す、弥勒。
かつらぎ、と呼ばれた男が、年若い法衣姿の男と対峙する。緊迫した空気が生まれるかと思われたが、其処は、お互いに思慮深き立場に在る者。言い争うような不様な真似には及ばずに。それでも、"会話"は続けられる。
「…名を、何と申せられる。わしは、葛城と申す者。」
「拙僧は、弥勒法師と申します…葛城さま。」
静かに、名乗りを上げた。
「では、弥勒どの。仏に対し、供物とは必要不可欠なものであろうて。神への贄は、それに等しい。」
また、始まった。これでは、同じことの繰り返しではないか。
「人と物とを、同列に考えまするか、あなたさまは。」
「これは面妖な。人のみを上位に祭るが、御仏の教えか。」
「今話しているのは、説くべき道の在り方ではございますまい。
何故吸血の土神などを信じ、村の将来を担うべき子供達の庇護を放棄しているのかと、それを問うておるのです。」
揚げ足を取るような葛城の言い様に、さしもの弥勒も少々癇に障っていた。無論、そのような表情はおくびにも出さぬけれど。
何やら押し問答の様相を呈して来たところで、法師の脇に控えていた珊瑚がふ、と視線を落とす。すると、目に映るのは、哀れな母子の姿。その、がすがすに干乾びてしまった腕が、足が。血の一滴たりとも流れていないその体が。眼球を通り越し、その更に奥まで張り付いて、離れない。
珊瑚は、己の腰に手を回すと、小袖の上に巻いた深緑の腰巻をするりと外し、母親の眼前にやおらしゃがみ込んだ。その衣を、仁助の背中から回し遣る。
母親は…そして周りの村の衆も唖然として珊瑚の姿を見つめていた。
弥勒も、そして、葛城も。
血を抜かれ、水気を失った皮膚が干上がり、目玉だけが、ぎょろり、と開いている修羅の如き、
面。
年頃の娘がこのような屍骸を目にすれば、卒倒するか、喚いて逃げ去るか。少なくとも、触れることはまず出来まい。この女だとて、母親なればこそ、その体を抱いてやることが可能なのだ。
なれど、この娘は。
己の衣で包んでやりながら、珊瑚は母親の腕からやんわりと仁助の体を譲り受ける。
まるで、自然に。
昼間、はあはあと息を切らしていた、口許。己の竹筒を受け取った、柔らかそうに、ふくふくとした幼子の腕。それは、既に過去のものだと告げている。血の通った体は、疾うに失われているのだと。この目の前の、骸があの彼なのだと。
「…可哀想に…。」
己の腕に抱くと、その骸の前で松葉色の衣を合わせてやる。そして、驚くほど軽いその体に顔を近付け、きゅう、と抱き締めた。
「…恐かったね…きっと…。」
珊瑚の、柔らかな声音。それが、響く。耳ではなく、別の場所に。
「…あ…。」
母親が、目を見開いて眼の前の娘を凝視する。
――― かわいそうに。こわかったね。―――
言えなかった、言葉。村の為だからと。自分の子だけが召されたのではないのだから、と。
本心が、何故この子が死なねばならぬと叫んでいても、押し潰された、母の想い。
「お母さんのところへ還って来たから、もう大丈夫だよ…。」
そう言い、珊瑚は母親の胸へ仁助を還してやる。すると、それまでは嗚咽を漏らすのみだった女が、辺りも憚らず、骸を抱き締め泣哭した。
誰も、咎める者は無かった。
その姿を見遣る珊瑚の目に、一瞬光るものが溢れたのを弥勒は見たが、直ぐに彼女は己が右手でぐい、と拭い、立ち上がる。
「…先程、私は仁助に会った…。」
珊瑚と母親の姿を交互に見た後、弥勒が口を開いた。
「え…?」
流れる涙を拭かぬまま、母親が顔を上げる。
「何をいい加減な!」
先程の老人が、法師を蔑む声を発した。そちらへ向けた弥勒の瞳に気圧されたように、直ぐ黙りこくってしまったが。
「…魂ならば、千里をも一瞬にして駆ける。それでも、幼子には、暗き夜道は恐ろしかったでありましょう。」
先程の、霊気。あれは、仁助の魂駆けの名残であったかと、珊瑚は知った。
「私に告げた言葉は、昼間と同じ。村を、救って、皆を、助けて、と。」
しん、と静まり返った辺りに溶ける、法師の声。
「このような小さき者が、最期に魂を飛ばしてまで請うたのは、あなた方の救済ですぞ…童にもわかることが、何故大人にわからない?」
感情の波を感じさせぬ響きでありながら、聞く耳を持たなかった村人に届くには充分な重みを持って。
「仁助は勿論、手厚く葬って下さるのでありましょうな。」
「…無論じゃ。」
弥勒の問いに、葛城が短く答える。
錫杖が、ゆっくりと後方を向いた法師の動きに合わせ、しゃら、と透き通った音を零す。その清澄なる法具の声が、空気を、裂く。何処か歪んでしまった、この村の、空気を。
「私は、二日、三日程はあちらの山中で営を張っております故、何かございましたらお声がけ下さい。では。」
あっさりとそう告げて、弥勒は割れた人垣の間を悠然と、戻って行く。誰も、一声も発しない。
その彼の背を追い、珊瑚が続く。
「おまえさまが救うと言うか。神に抗ってまで?」
低く言ったその声は、葛城のもの。
それには答えず、弥勒は歩みを止めはしない。ちら、と小さく振り返った珊瑚の目には、仁助を抱いた母親がこちらを見つめる様が映った。
「…と、いう訳で。」
口を挟まずに事の成り行きを見守っていた犬夜叉、かごめ、七宝の前まで戻って来た弥勒が、言う。
「すまないが、二、三日留まることになりました。」
「なりました、じゃねーだろ、てめえはっ。」
むっつりと顔を顰めた犬夜叉が、さも迷惑そうに科白を吐いた。
「先に行くか、犬夜叉。それでも構わんが。」
「…捨て置くワケにもいかねえだろ。」
今度は真剣な眼差しになり、言う。
「おめえ一人に任せられる程度の邪気のでかさじゃねえらしいからな…。」
「信用がないのだな。」
ふ、と眉尻を下げて笑ってみせる。が、気付いていたか、やはり、と。
「土神に邪気が宿るのか?
邪しき神か?」
炎の色に染められた衣の上から、まるで反対の闇色の肩に跳び移りざま、不安げに七宝が問う。
「水神様の例もありますから…まあ、神だろうと悪しきものなら何とかせねばな。」
目を伏せて笑ったように見えた弥勒の口が、静かに答えた。
(あの法師…厄介なことを…。)
何とも均整の取れていない一行の背中が遠ざかって行く姿を苦々しく見遣るは、葛城。
「葛城さま。」
「…心配は要らぬ。皆、もう戻るが良い。」
明らかに、民の心が惑っている。本当に、神の為される所業なのか、と。これまで
蟠っていた塊が、噴出しようとしている。
戒めが、必要か ――― 。
浅葱色の袴を揺らしながら、葛城が踵を返し村人達へ、背を向ける。それは、昇り来る朝陽に背を向けたのと、同一だった。
「今日は、ずっとあのままねぇ…。」
かごめが、小声で囁く。
村から戻った後。然程高くも無い山の中腹辺り。彼の村を一望出来る山の
端を選ぶと、錫状を抱えたまま弥勒は座り込んでいた。
ずっと、ずっと、見下ろした景色から視線を外さない。
「弥勒、仁助のことに責任を感じておるのじゃろうか…。」
七宝の言葉には、かごめも、隣に居る犬夜叉も答えなかった。それは、言わずもがな、であったから。
大木の陰に隠れるように身を潜めている三人は、静かに弥勒の様子を伺っていた。
「…そーいや、珊瑚何処行った?」
銀髪を揺らして辺りを見遣った犬夜叉が、思い出したように、問う。
そう言えば、珊瑚の姿が先程から見当たらない。かごめにさえ何も言わずに、ふらり、と姿を消している。珊瑚ちゃんまでどうしたのかな、とかごめが思ったところへ。
向こうから、その噂の主が姿を現す。
「法師さま。」
呼ばれた声に、弥勒がそちらへ首を廻らすと。
薄淡い紅色が滲んだ白い山百合を、両腕に抱えた小袖姿の娘が立っていた。
弥勒と視線が絡むと、彼女は目を細めて、ゆる、と笑む。
「行こう。」
それだけ、告げた。
一瞬面食らった後に、弥勒が引かれたように立ち上がる。
お見通しなのだな。
おまえこそ、本当の…。
「…はい。」
胸の内で思った幻想的な言葉は呑み込み、微笑を浮かべて短く、答えた。
「弥勒と、珊瑚、何処へ行くのじゃろ。」
かごめの肩の上から、七宝が呟く。
「…大丈夫よ、七宝ちゃん。」
果たして、自分の言った答が、この幼い狐妖に何処まで通じたかはわからぬが。
(弥勒さまは、珊瑚ちゃんが居れば、大丈夫。)
今朝早く、雲母と駆けた道を、今はゆっくりと己の足で歩む。
午後の、曇天の下。
先程山から見下ろしていた光景の中に、恐らく仁助の弔いをしているのだろうと思われる人の動きが見て取れた。懸念していたより迅速に行われたそれに、法師は幾らかの安堵を覚えたものだった。
それから、結構な時間が流れている。そろそろ落ち着いた頃合だろう。
「あ。」
珊瑚が、小さく声を上げる。その視線の先。今向かっている方角からやって来るのは…仁助の、母。
法師と珊瑚の姿を認めたその女は、足を止めると、深々と、頭を下げた。
落ちて来そうな、どんよりとした空。青く晴れ渡っていたならば、清風に靡く新緑の姿も、もっと心を軽くさせるものであったろう。
その真実味のない緑色と、何処かから聞こえて来る子供達の戯れる声が、酷く空々しいものに思えてならなかった。
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