堕天
‐‐‐ 弐
土を盛っただけの質素な墓に珊瑚が持参した山百合を供え、二人は静かに手を合わせた。
小さな墓に不釣合いな大量の花と、農作物。そして、其処に眠るのが幼い者だと知らせる玩具が、供物として其処にあった。
有り難うございます、と母が小さく礼を述べる。幸い、既に辺りには村人の誰一人として居はしなかった。
「私の元へお出でになるところでありましたか。」
弥勒が問うと、母親は、こく、と頷く。
「話してくれる気になったんですね?」
優しく促すのは、珊瑚。
十年程前から、という。その、"神隠し"が始まったのは。
豊かな村ではないが、それでも食うに困るほどの貧困さもありはしなかった、一昔前。それが急に、農作物の実りが極端に傾き始めた。
雨が降らぬ訳ではない。なれど、干乾びたように硬くなった田畑に実る物は到底無く。長く村に住まう長老も、首を捻るばかり。
それと時を同じくし、一人の子供の姿が消えた。
どうしたことか、と騒ぐ大人達の眼の前に、たった一晩で還って来た子供は既に息をしていなかった。身に着けている着物以外に、それが"その子供"だと判断する材が無い程に、変わり果てた姿で。
物の怪の仕業か、と恐れ慌てる村人達を鎮めたのは、村の外れに在る神社の新しい神主・葛城。
代々受け継がれて来た筈の血筋の者ではなく、病に倒れた先代から後継を言い遣った者だという。この村には、土神様がいらっしゃる、と。子供の純潔なる血が、神の贄になったのだ、と。
『その証拠に、一両日中にも
御験が顕れましょうぞ。』
そして、一日も待たぬうち、葛城の言う通りになるのだ。あれほどに腐りかけていた田畑が生き返り、成長の過程もなく、たわわな実りが村人達の目の前に現れた。
そして、その後は、繰り返されるのみ。
枯れた、作物。消えた、童。血の抜かれた骸。そして、命を繋ぐ農作物の繚乱。
おかしい、と、誰もが思っていたのだ、最初は。このようなことが、真実神の為されることか、と。
しかし、生きて行く糧を失うことは出来ない。物の怪だなどと騒ぎ妖怪退治を依頼したところで、本当に神がおり、その逆鱗に触れてしまっては、と考えると、誰も行動に起こせる者は居なかった。その中で、葛城の絶対性が徐々に浸透していった。
そして、何時しか当たり前になっていく。目もあてられぬ愚行が、慣わしとなっていく人の脆さ。そして、逞しき我欲。
己が腹を痛めた分身の命が失われようとも、土神の名を出されれば、何の苦言を述べることも出来ず、母は、父は、ただ声も無く泣き伏すのみ。
その姿に、子を持つ親の誰もが声を掛けることも出来ずに。何時それが己の番に回って来るか、と怯えながら。
「…ふざけやがって…。」
低く、低く呟き、珊瑚が唇を噛む。
憎むべきは、吸血の土神。なれど。
何故、守らない?闘う腕力も無い、抗う方法さえ知らぬ、幼き命を。
喩えそれが神であろうと、何故己の命の半身をもぎ取られて猶、下を向き黙っていることが出来るのだ。
「…闘う術を知る者の考えを押し付けてはならん。」
弥勒が、そのような珊瑚の思いを見透かしたように彼女の肩に手を置くと、小声で囁いた。
わかっているけれど。
「…法師さま。この村は…まこと、土神様に護られているのでしょうか…?仁助は…息子は、本当に死ななければならなかったのでしょうか。」
虚ろな目をし、何処か遠くを見遣りながら母親が呟いた。まるで、答など最初から期待してはいないように。
その言葉を受け、弥勒は一呼吸置き口を開く。
「…少し、聞きたいことがあるのですが。」
珊瑚と母親、二人が法師の顔を見つめ返し、二の句を待った。
「珊瑚、一つ、頼まれてくれるか。」
仁助の墓参りの帰り道。弥勒が隣を歩く珊瑚へ、一言告げる。
「ああ。じゃ、あたしは、西へ。」
弥勒がその依頼の内容を述べる前に、彼女はすらりと答えてみせた。そんな珊瑚の気の回りの早さに多少目を見張りながらも、彼の方もそれについては異を唱えずに、潤滑に会話を進める。
「では、私は東の方へ。良いですか、くれぐれも、深入りはせんように。」
「わかってる。」
短い返事をした後、きらら、と呼ぶと、それまで猫のように寄り添っていた小動物が風の唸りと共に変化する。その白い背に跨ると、珊瑚はくる、と法師の方を振り返った。
「それじゃ、夕餉までには戻ってよ。」
現状には似つかわしくない、あまりに穏やかな科白の内容に、弥勒は返事の代わりに苦笑を以て、それに答えた。
「遅いのう、弥勒達は。」
ぐぐぐぅ、と腹の虫の声を聞きながら、七宝が言った。寝床にしている大欅の下に集うは、犬耳の妖と、小柄な少女、そしてこの狐妖の三名。連れの法師と、退治屋の娘と妖獣は、辺りが漆黒の闇に塗り替えられた今になっても戻って来てはいなかった。
「どうしたのかしらね、ほんと…。」
「けっ、駆け落ちでもしてんじゃ」
ぐしゃ。
犬夜叉の言葉が言い終わらぬうちに、その背中の上へ、目掛けたかの如く雲母が見事に着地していた。
「あれ、犬夜叉其処に居たの?悪い、見えなかった。」
雪白の背中から容易く跳び下りた娘が、悪い、という言葉には感情がこもっていないながらも一応謝罪を述べる。
「珊瑚ちゃん、お帰り。」
「かごめちゃん、ごめんね。夕餉の仕度やらせちゃって…あれ、法師さま、まだ?」
「うん。一緒じゃなかったの?」
共に帰って来るだろう、と思い込んでいたかごめは、一人で戻った珊瑚へ疑問を投げ掛ける。
「ああ。…徒歩、だしな…。雲母、悪いけど、法師さま迎えに行ってあげて。」
雲母のふさふさとした頭を一撫でしてやると、み、と返事をするように鳴き、あっという間に暗い空を切り裂いて白い姿が飛び去った。
「なんなんだよ、一体。てめえら、こそこそ何してやがるっ。」
土埃に塗れた前身を起こし、たった今足蹴にされた羞恥を振り払う為、故意に怒気を孕ませて犬夜叉が言う。
「別にこそこそしてる訳じゃないけどさ。ちょっと、気になることがあってね。」
「なんぞ調べに行っていたのか?」
きょと、とした目で見上げて来る七宝へ、珊瑚が頷いてみせる。
「あの村で"神隠し"が起きるのは、雪の降る前と、溶けた後…要するに、土が眠りに就く前と、目覚めの春、ってことだったんだ。」
「…如何にも土神、って感じね、それじゃ…。」
眉間に皺を寄せたかごめが、呟く。今は、花の散り行く春の終わり。仁助は、この春最後の犠牲になったのだろうか。
「如何にも過ぎて、却って胡散臭ぇな…。」
腕組みをし、犬夜叉が珊瑚を見返す。彼女も、そうなんだ、と答えたところへ。
風切り音と、枝葉の揺れる音が近付いて来たかと思うと、次の瞬間には雲母が再び地上へと舞い降りていた。
「遅くなりました。」
「ほんっとに遅ぇんだよ、てめえはっ。」
法具の鐶を鳴かせつつ、すまんすまん、と答えつつ、弥勒も其処へ胡座を掻いた。変化を解き、ふるふるっ、と身震いした後に珊瑚の膝へ甘えるように飛び乗った雲母を、彼女もご苦労様、と優しく迎えてやる。
「で、どうであった。珊瑚。」
「睨んだ通り、だよ。」
珊瑚が雲母と飛んだのは、仁助の村の西方の集落。
其処で、同じような"神隠し"が起きていないか探りを入れた。すると、案の定、血を抜かれる童が後を断たぬ、との答え。
事の起こりは十年前。そして、それが起きるのは、夏と冬である、と。その西の村では作物に関係した事象はなく、土神の名前は最後まで出て来なかった。ただ、妖怪の仕業に困っている、と。何の尻尾も掴まえられず、今に至っているらしい。
「なるほど。」
「法師さまの方は?」
「…同じです。まったく。」
珊瑚の問いに、ふう、と嘆息した後に弥勒は答える。
「随分と念の入った遣りようじゃねえか。」
回り口説くて堪んねえな、と犬夜叉が吐き捨てる。
何者かが、仁助の村を根城にしているのはこれで明らかになった。土神の所業、と信じさせる為に作物を操り季節を限って血を喰らい、足りぬ分は他の土地で調達している、という訳だ。
ならば。
「怪しいのは、あの葛城って神主か。」
まるで予想していたかのように、犬夜叉がいとも簡単にその名を口に乗せる。
「土神の名を最初に出して来たのは、あの神主って話だからね…。」
尚早な答は避けながらも、珊瑚も思案げな顔で彼の言葉を受け、言う。
「では、邪しき神ではないということか?そうまでして何故神にこだわるのじゃ?そやつは。」
「まあ、そういうことにしておけば、どんなに無茶なことをしでかしても、成敗される心配はありませんからねぇ。」
矢継ぎ早に疑問を口に乗せる幼子へもわかり易いように、弥勒が答える。そんな簡単な理由じゃねえだろうが…と思いつつ。
「しかし、まだ正体は知れませんからな。これだけで、土神ではないと言い切るのは危険ですし…第一、大地を操る程の力を持った輩のようですから。」
「…確かに。これだけの広範囲を股に掛けてる奴だからね。力がでかいのだけは、間違いない。」
弥勒の言葉へ珊瑚が続ける。
神と、呼ばれる程に。否、神やも知れぬ、その力。
「四魂の気配はねえんだろ?かごめ。」
確認するように問う犬夜叉へ、かごめが無言で頷いた。
「のう。」
其処へ、七宝が割って入る。
「まだ、食ってはならんのか?」
しょんぼりとした上目遣いで、かごめへと訴えた。
「ご、ごめん、七宝ちゃん。お腹空いたわよねえ。さ、食べよっ。」
慌てて笑顔を作ったかごめが、話を切るように、ぽん、と手を叩く。ぱあ、と明るくなったその子狐の表情を見て。
(そういえば、仁助の笑った顔を、見てはいなかったな…。)
弥勒が、胸の内で一人思った、その時だった。
どうっ!という気の猛りが夜空を
劈いたのは。
「!?」
犬夜叉、弥勒、珊瑚。三者が同時に驚愕の瞳を上げる。
「なんだッ!?」
山の端へと駆け出した弥勒の目が、闇夜の中で彼の村の姿を見下ろした。その先には。
「つ、土蜘蛛か、あれは…?」
かごめの肩に飛び乗った七宝が、弥勒の背後で声を震わせる。
夜目にもはっきりと捉えることが出来る、村を蹂躙するかの如く佇む巨大な、影。
「野郎、出やがったな!」
鉄砕牙を腰に滑り込ませ、犬夜叉が叫ぶ。
その隣で。
(何、これ。…気持ち悪い…。)
正体の定かではない、"気"の奔出。妖気に紛れて届く、匂い。妖怪だけの気配ではない。
身体に纏わりつく、この違和感はなんだろう。
それを、神の力と呼ぶのかも知らずに。
かごめが、肩をぞくり、と震わせた。
「土神様のお怒りじゃ!」
「あのような無礼な言葉を吐いたものだから…!」
咆哮と共に襲い来る土蜘蛛の前に、立ち竦むしか出来ぬ、蟻のような村人達。
「何をしている!早く逃げなさいっ!」
其処へ振って来たのは、白い妖獣より跳び下りた法師が放った、声。
かごめと七宝を降ろした犬夜叉も、腰の鉄砕牙の柄に手を掛け、苛々したように辺りを見回した。
「なんて邪気だ…。」
手足を動かすことにまで影響は無いものの、その力の強大さに、珊瑚も警戒心を最大限まで引き上げる。
「きさま達の所為だ!土神様の怒りを買って、このような使いを出されて…!」
次々と浴びせられる、村人達の叫び。
「こいつら、終わってるぜ…。」
低く呟き、犬夜叉は唾を吐く。
今己達が住んでいる土地を踏み躙られているのを目の当たりにし、よくもそんな意味のないことを言えたものだ。もっと他にするべきことがあんだろうが、とのぼやきは胸で言ってみる。
其処へ、土蜘蛛の口から何かが大量に放出されたのが目に入る。蜘蛛の糸を手繰るように、ふわふわと蠢く影が、村人達の頭上へ降って来る。それは。
「蜘蛛!?」
拳大の、数百、いや、数千には上ろうかという数多の子蜘蛛。それが、村人達の身体を覆うように、侵食する。
「う、うわ!?」
ちくり、ちくり、と体中を刺す痛みに、男が声を上げる。
「ちぃっ。」
しゃら、と錫状を一閃させ、その蜘蛛の子を散らす。すると、男の体に無数の刺し傷。其処から血がほんの少し顔を覗かせていた。
「何してやがる、てめえらっ!」
蜘蛛に襲われている民を見ながらも一歩も救済に走ろうとしない村人達へ、次々とその群がる塊を鋭爪に掛ける犬夜叉が、罵声を投げた。
「こ、これは、神罰なのだ。それに、歯向かうなど…。」
震えながら、言う。
「救いようがねえなっ!」
「救わねばならぬ、それでも。」
一声吼えた犬夜叉へ、弥勒が低く返し遣る。
「
限が無い、こいつら…ッ!」
抜刀した珊瑚が、蜘蛛を斬り払いながら親蜘蛛を睨み上げた。かごめの体の前には、次々と狐火を繰り出す七宝の姿。
「気付いているか、犬夜叉。」
錫状を振るいつつ、弥勒が言った。
何処かから、もう一つ、波動を感じる。この土蜘蛛を操る、巨大な力を。
「ああ。どっかで、念を送ってる臆病で暇な奴が居るみてえだな。」
「…此処を、頼めるか。」
「…辿れるのか、この波動を。」
眉間に皺を寄せた法師の顔を、其処で犬夜叉が振り返る。丁度、じゃらん、と錫状を鳴かせてまた一人村人を自由にしてやったところ。
「恐らく。」
「…封じられんのかよ。こんだけの力を、おまえ一人で。」
「やってみるしかあるまいよ。」
犬夜叉の問いに、ふ、と微笑を返す。問うた方にしてみれば、何時もの如き、"確かに私はか弱き人間なれど、見縊られたものですなぁ"、などという不遜なのか謙遜なのか傲慢なのかわからぬような返事を期待していたのだが、やはり今回は、そのように易い状況ではないらしかった。
ばらばら、と回りに同胞達が集まって来る。
「弥勒さま。」
不安げな、かごめの表情。その足元から、子狐が見上げている。
「村人達と、あの土蜘蛛は任せました。」
そう口早に言い駆け出そうとする弥勒へ、
「弥勒っ。」
犬夜叉が、怒鳴る。
「"明日"は、四魂の欠片探しに戻るからなっ!」
法師の方は、見ずに。
一瞬の間の後に、その法師が短く返す。
「…承知。」
既に、犬夜叉は異形の刀を携え、土蜘蛛へ突進していた。七宝も、再びその小さな掌に炎を宿し、蜘蛛を払いに掛かる。
そして振り向いた弥勒の眼前。蜘蛛の子を牙に掛けた雲母が飛び去った、その背後。
真っ直ぐ彼を見つめる珊瑚が居た。
眉根を寄せ、縋るような瞳で。
「…そのような顔をせずとも、直ぐ戻る。」
「あたしも行く。」
諭すように言った法師の言葉などお構い無しに、珊瑚が呟いた。
「ならん。おまえは此処で犬夜叉と」
「あたしを連れて行けないようなところへ、一人で行くって言うの。」
「私なら心配は無用。戦力の配置の問題だ。」
なにさ。そんな風に、言葉使いが何時もより乱暴になっているくせに。
「信用ならないね、そんなのは。戦力の割き方ならば、あたしにだってわかっている。」
それ程までに、強大なのだ。一人で行かせたくはない程に。
珊瑚の一歩も退かぬその態度に内心うんざりしながらも、彼女の右腕を掴み、己の方に引き寄せ、弥勒が言った。
「ならば、言おう。珊瑚、帰り道の保証は無いのだ。故に、おまえを連れては行けぬ。私の言うことを聞き届けてくれ。」
馬鹿だね、と心底思う。あたしのことが、まだわかっていないらしい。
「そんな脅し文句は、他の女に使いなよ。帰り道くらい、あたしは自分で切り開く。」
怒気を含んだ厳しい目を向ける弥勒の態度にたじろぎもせず、珊瑚は凛々しい瞳を、きり、と上げた。
「…・・。」
珊瑚の言い様に、返す言葉も無い。
俺としたことが、使う言葉を…使い道を誤ったらしい。その辺の娘にかけるような脅しが、この女に通用する筈がないであろうに。
「珊瑚ちゃん、弥勒さまと行って!」
蜘蛛に向かって矢を番えたかごめが、二人の背中を後押しする。
不安な時は、
一時も、離れてはならない。何時か訪れる
永久の別れなど、今はまだ、許さない。
かごめの言葉に頷いた珊瑚が、先を促す。
「早く。行くよ、法師さまっ!」
眼の前に迫り来る常軌を逸した惨禍の予感を、この、二人の女神は振り払ってみせるのだ。
怯む姿を刹那も見せずに。
この状況で、苦笑せずにすむ男など、何処の世界に居るだろう?
だから、どっちよ、ねえっ、と急かす彼女に、はいはい、こちらです、と何時もの掴み所のない口調で法師が返し、抜けた後には光があると信じられる闇の中へ、二人は走り出していた。
足を進める程に、地を踏みしめる為の力が必要以上に必要になって行くのが、わかる。
次第に強大になって来る、闇の波動。それでも法師と退治屋が娘は、駆ける速さを緩めはせずに、その源泉を求め走る。
「あれは…。」
闇の中でざわめく木の葉の音を聞きながら辿り着いた二人の眼前。其処に在るのは、古ぼけた社。
「神社…?」
珊瑚が呟くと同時、観音開きの白木の戸が、人の力を借りずに勢い良く開け放たれた。
途端、迸る、不可視の気流。
「っ!?」
ごう、と音を立て辺りを一気に包む ――― 邪気。四肢を侵食する…否、引き千切るように埋め尽くす、負の本流。
「な…っ…」
妖気、と一言で片付けられぬ、強力な力が、珊瑚の膝を地へ着かせていた。高く一つに結い上げられた髪が、煽られ闇の黒へと溶け込むように靡いている。
立って、いられない。こんな力を、ついぞ見たことが、感じたことが、ない。
憎き仇敵の瘴気とは一線を画しているそれを受け、珊瑚の直ぐ眼の前には紫紺の裾を盛大にはためかせたまま立ち竦む、法師。
「よくぞ此処まで来たものよ。」
低く、笑いを含んだその声が響くと、渦巻く気流が暴れるのを止めた。ど、と両手を地に着く、珊瑚。風は止んでも、己を圧迫する力の存在は消えはせず、彼女の細い顎を伝い、ぽたり、と汗が地に落ちた。
「何故このようなことを為されます…葛城さま。」
その力に抗いながら、弥勒が声を絞り出す。姿を現した、その"源泉"へ。
弥勒の問いには答えず、白い着物に浅葱色の袴を身に着けた神主が、言う。
「気を辿って此処まで来るとは、なかなかに侮れぬものよのぅ。法師どの。」
にやり、と笑う顔が、刻まれた皺を強調してみせる。
(な、に…あの顔…。薄気味悪い…。)
呼吸をするのも辛い珊瑚が、それでも瞳だけは、ぎり、と上げ、葛城の姿を見遣る。額から頬へと流れる汗が、後を断たずに地面をも濡らして行く。
葛城の、顔。人は、あんな風には笑えない。本能で、そう、珊瑚は感じた。
「そのように勇んで来ずとも、村を滅ぼす気などない。少々緩んだ信心を、締めるが目的ぞ。」
全ての所業の根本は己にある、と認めるような言葉を葛城が吐いた。
一人の法師風情に嗅ぎ付けられたからと、揺るぐような自信ではないということか。
「あの、土蜘蛛も…っ、きさまの、仕業、か…っ!」
地へ伏せさせようとするが如き力へ抵抗を試みながら、珊瑚が低い位置から葛城を睨み、問うた。
「如何にも。他愛もないものよ。人の血の味を教えてやったれば、味を占めおって、わしの手となりよう働くわ。」
ただの地蜘蛛であったものを、己の手足とする為に妖怪化させたと言うのか。
「知らぬのだ、ぬし達は。童の血の底無しの美味さを。」
下卑た笑みを張り付かせ、葛城が珊瑚を見下ろしている。
「こ、の…ッ!」
本来なら、こやつの正体が知れぬままであろうと、胸座を掴んで横っ面を張ってやるところであるのに。
動かない。立ち上がることが出来ない。その体を強引に引き上げようとする珊瑚を遮るように声が重なる。
「葛城さま…一つ、不躾な質問を許されよ。」
噴出する汗を拭いもせずに、眉間に皺を寄せた法師が、言った。
「あなたさまは…人間、か…?」
「否や。」
楽しげに、葛城の口が開く。問い掛けに答えし言葉は、たった、一言。
「我は、神なり。」
その声を聞いたと同時、前に立つ弥勒の指先が、つい、と後方へ投げられたのを珊瑚は見た。
己の眼の前に、ひらり、と浮かんだのは…
(え?なんで、護符が)
彼女がそう思った時には、胸の前で指を結んだ弥勒の言霊が飛んでいた。
「
結縛。」
「な…っ!」
がば、と立ち上がろうとする彼女よりも早く。宙に舞った符を触媒にした護りの力が、一気に駆け抜ける。視界に映らぬ光が、ばちばちと音を立てて珊瑚の眼の前に広がっていた。途端、今まで圧迫に耐えていた体がふわり、と軽くなる。
「法師さま、何を…っ!」
伸ばした手が、壁に、触れる。その壁を透かして見えるは、輪郭をぼやけさせた、法師と葛城の姿。
遮断されている。
此処と、其処、が。
辺りに充満していた邪気が、嘘のように感ぜられなくなっているということは。
法師は、己と神主を抱き込んだ周囲に結界を張ったのだ。
葛城の力を、外へ流出させぬ為に。
「ほほう…簡易結界か。わしと一戦交えるおつもりのようじゃな、弥勒どの。」
真言を唱え続け、精神を一箇所へ集中させて張る結界とは異なり、護符を介しただけのそれは、その場凌ぎに過ぎぬもの。なれど、この邪気の流れを堰き止めつつ、両手を空かせて向き合うのには、これしか取るべき道はない。何時まで、何処まで、
保つか ――― 。
「ちょっと、何なの、法師さまっ!あたしを中に入れてよっ!」
遠くで聞こえる結界の中の会話へ割って入るように、珊瑚が叫んだ。薄墨のような霞が掛かる、目に見えぬ壁が立ち塞がる向こう側へ。
「すまんが、珊瑚。其処で少し待っていてくれるか。」
視線は葛城から離さず、弥勒が答える。
「何馬鹿言ってんの!?何の為に、あたしが来たと思ってんの!?」
此処で、高見の見物を決め込む為などではないのだ。それを。
「その時が来たら、合図をする。」
その時、とは?
それは、何時訪れるのだ。そして、本当に"その時"とは来るのか?
胸の不安が喉許へ込み上げて来るのをはっきりと自覚し、珊瑚はそれが零れぬよう、必死に蓋を閉めた。
「始まったか…。」
鉄砕牙の刀身を肩に掛けた犬夜叉が、弥勒達の消えた方角を振り返り、ぽつ、と吐いた。
土蜘蛛から発せられていた邪気が、瞬く間に弱体化していくのが、容易く読み取れる。
彼奴に送られていた強力な念が何者かに因って断ち切られたという事実が、もう一方の場所での戦いの始まりを告げていた。
「くっ!」
何人目だろうか。村人の体を覆う蜘蛛を払う為、矢尻をその塊へ軽く刺してやると、じゅう、という音と共に広がる破魔の光。かごめは、額に浮かんだ玉のような汗を拭いながら、一息吐く間もなく次の被害者の元へと走る。
狐火を放ち続ける七宝の体力も、そろそろ限界を迎えるだろう。雲母とて、蜘蛛の子の全てをその牙に掛けることが出来る訳ではない。
「逃げる気がないんなら、どうして仲間を助けてあげないんですかっ!?」
堪らず、かごめが非難の声を上げる。
「祟りなのじゃ。これは、天罰なのじゃ。」
「これ以上のご不興を買っては、わしらはこの先立ち行かぬ…!」
石頭、とかごめは内心ごちる。この先も何も、今死んで行かんとする者が目の前に居るというのに、何を言っているのだろう。そんなにまでして、神の加護が必要なのか。
その会話を背中で聞いていた犬夜叉が、何とか繋ぎ留めていた最後の堪忍袋の緒を、己の爪で豪快に引き裂いた。
其処に響くは、村全体に届くが如き、大音
声。
「てめえらが護りたいのは、土神への信仰心か!それとも自分が生きる、この、大地かッ!?どっちなんだ、はっきりしやがれッ!!」
夢を砕かれ、未来を閉ざされ、無惨に
手折られし小さき花達。
今生で、二度と同じ姿で
見えることの叶わぬ、無垢な不二の花を差し出した、父よ、母よ、大人達よ。
己の体面と、保身を図ることに余念の無い、逞しき弱者達よ。
血染めの花の、慟哭を、聞け。
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