SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



そして、扉は開かれた



‐‐‐ 四




引き摺り出されたのは、鬱蒼と広がる森のとば口。
幾日か前、彼の法師と訪れた、あの場所。
たえはあの時の気分の悪さを思い出し、村人達の手から逃れようと必死に後退る。
この森へ入れば、また具合が悪くなるように思われてならなかったから。そして今は、あの日のように助けてくれる弥勒は居ない。
怖い、怖い、怖い。怖くて堪らない。
何処か懐かしさを含む緑の香も、切れ間なく湧き上がる恐怖感の前では翳んでしまう。
人として生きた時間の分だけ、たえの中の本能は"捧げる"ことよりも"滅する"ことに反応を示していた。
「嫌だ、行きたくない!村へ帰して!お願いだから…ッ」
頭を激しく左右に振り、たえは最後の抵抗を試みる。涙でくしゃくしゃになった顔は既に土埃に(まみ)れ、それが此処へ引き摺られて来るまでの経緯を如実に物語っていた。
「聞き分けろ、たえ!おまえを村に隠していると思われては適わんのだ…!」
「この森が神奈備(かんなび)の地となれば、村はどれだけ助かるか!」
隠す?
かんなび?
意味が、わからない。
一体自分は何者だと言うのか ――― たえには、全くわからない。
留まろうと踏ん張る彼女の両足は土を削り、地面へ筋を残す。ぎりぎりと引かれる腕から徐々に森へと分け入って行かざるを得なかった。
一歩、一歩。
辺りを埋め尽くす、木々の群れ、緑の波。日照りで色を変えてしまった葉が目立ち、それががさりがさりと立てる音は、まるで、嘆声 ――― 。
足が竦み、身体が小刻みに震え出す。
あの日と、同じ。
たえが身体の変調を自覚し始めたその時、村人の一人の手が彼女の首から掛けられた勾玉へと伸びた。
「!何すんのっ!」
じたばたと足を暴れさせ、たえは精一杯の抗議を示す。
「これを、これさえ外せば … 」
封印は解かれ、たえは緑児(みどりご)としてこの地へ多大なる恵を齎す ―――
村の男は、ごくり、と音がするほど盛大に唾を飲み込んだ。他の男達も額に汗を浮かべ、期待と不安の入り混じった表情を突き合わせる。
「触るなーッ!お守りに触るなぁッ!」
わんわんと泣きながらも、たえは大声で言い放った。しかし男はそれを無視し、勾玉を握る手に力を込め、それを引っ張ろうとした ――― 正にその時。
彼方から届けられる、抑止の声。
「待ちなさいっ!」
こちらへ向かい、駆けて来るのは ―――
「弥勒っ!」
その姿を認め、たえは希望の顔を上げる。
「げ。ほ、法師さま…!」
逆に、男達の方は真っ青になった。
あの法師なら、たえを擁護する側に回ることは容易に知れる。だが、彼等にとっても後戻りをすることはもう出来なかった。
「は、早く勾玉を…!」
慌てふためく村人達の様子を見咎めた弥勒の背に、戦慄が走る。
「!待てっ、封印を解いてはならんっ!」
これ以上は望めぬという速さで駆けながら、それでもあの傍へ飛んで行けぬ己がもどかしい。
「外せ!」
やめろ。
「早く!」
嫌だ。
封印を、解くな ――― !
たえの叫びと、弥勒の、叫び。
それらに被さる、ぶつり、という紐の引き千切られる、音。
己の胸元から尾を引くが如く遠ざかる、細い細い紐。それを握るあの男の拳の中には、見慣れた翡翠色した勾玉があるのだろう。
その一瞬の光景が、秒刻みに止められているかのような遅速で以て、たえの両眼に映し出されていた。
あたしのお守りが、奪われた。
そう、思っただけだったのに。
「早まりやがって…っ!」
粗雑な口調で弥勒が吐き捨てた瞬間。
「きゃああぁぁぁぁぁっ!」
「!?」
たえの悲鳴と共に、かっ、と迸る、気と、光。
ぶわぁっ、と彼女の身体から直接巻き起こった風圧に、村人達があっという間に吹き飛ばされた。
一瞬間で地の果てまでも伸びた、たえの髪。それは鮮やかな緑色を纏い、四方八方へと蜘蛛の巣のように張り巡らされ、目映いばかりの閃光を放つ。
「な、ななな…!?」
腰を抜かした村人達は、想像を絶するその霊験を目の当たりにすることとなる。
森全体が、呼応していた。
その身全てを、揺るがすように。
そうして信じられぬことに、その自然のもの達はまるで意思があるかの如く、その身体をうねらせ、たえへと一斉に触手を伸ばすのだ。
その頃、身体中が熱の固まりとなり、それが内から吸い出されて行く感覚がたえを襲っていた。
その一刹那で、たえは己が何者であるかを知った。
覚醒。
細胞へ直接訴え掛ける自然の息吹が、眠っていた彼女の全てを呼び覚ます。だがそれは彼女にとり、決して共鳴になりはしなかった。
たえの裡側で目覚めたのは、激烈なる嫌悪感。
人ではない自覚と、外側から働き掛けられる、喪失感。
あまりの烈しさとおぞましさに、たえは声にならない叫びを上げ続けていた。
その間にも、たえの小さな身体は枝に葉に茎に、見る間に包まれてゆく。
激しい大気の流れの中、舞い踊る緑の髪が空の蒼さえ遮り、全てを自身の色に染め替えて。
「たえっ!」
渦巻く風に逆らうように弥勒はその中心へと駆け寄って行くのだが、たえにはどうにも近付けなかった。ようやく腰を立たせ、泡を食って逃げ出した村人達などは、疾うに彼の意識の外。
森が、生きている。
息を吹き返そうとしている。
たえの、力を得て。
それは即ち、人であるたえの ――― 消滅。
「…森よ!」
弥勒は反射的に頭上を仰ぎ見ると、それへ向かい大音声(おんじょう)を張り上げていた。
「この娘を欲する者よ!この娘は塵界(じんかい)での暮らしが長過ぎた!最早汚濁無き神聖なる者には在らざる身。それを神奈備の緑児として迎え入れるは、この地の沽券に関わる愚挙となり申そう!」
詭弁だ。
ただの命乞いだと、わかっている。たえがどれほど穢れ無き心を宿しているか、知っている。
それでも、たえを欲する森と、彼女を形成する神奈備両者へ叫ばずにはいられなかった。
「我が声が聞こえていよう!この娘を司る者よ!神奈備と称されるほどの御身なれば、既に人に堕ちたこの娘を解き放ち、再び人界へ戻す寛大なる厚情を」
其処で、びょう、と唸りを上げたのは緑の触手。
枝が、蔓が、刃と化して風圧と共に弥勒を襲い、彼の言葉は遮られた。
「っ!」
どうにかそれらを身体からは紙一重でかわしたものの、衣の端々は見事貫かれていた。左の頬からは、微かに血の匂いがする。
これが、答か。
手荒な森の返答に、弥勒の神経は極度の緊張状態に置かれていた。否、集中力が極限まで高められている、と言った方が正解かもしれぬ。
腹は括った。
後は、何が出来る?
痩躯の内側で一箇所へ集められた気が、濃縮されてその出番を待っていた。
その己の感覚に従い、弥勒は懐へ右手を挿し入れる。
策など何もありはしない。けれど。
緑に阻まれ、未だ見えないたえの姿を求め。
(悪足掻きくらい、させてくれっ!)
二本の指に挟んだ護符を一旦顔前に掲げ瞑目すると、寸刻を置かずにそれを放った。
方角を無視して暴れ狂う大気を裂き、護符は一直線に突き進みたえを包む緑の壁へ辿り着く。
するとその護符は、たえを包む光とは全く別の一閃を見せ、絡み付く緑を弾き飛ばした。
其処で、縹渺(ひょうびょう)としたたえの姿がようやく見えた。
「たえッ!」
声を限りにその名を呼ぶと、
「…みろく…」
視界が急に開けた事実に気付いたたえは、虚ろな目をし、ぼんやりと弥勒の方を見遣る。
長い長いその髪は、風を失い、ふわり、ふわりと舞い降りて来て、その力の暴走は一瞬止められたかに見えたのだが ―――
「ッ!」
たえをこちらへ取り戻そうと伸ばした弥勒の右手は、彼女の足元から再び出現した上昇気流に跳ね除けられた。あっという間もなく又も二人の間は遮断され、空へ伸びゆく緑髪だけが、自由にその身を泳がせる。
咄嗟に右腕を眼前に翳し、その一瞬の風圧から自分の面を庇った弥勒は、そのまま後方へ吹き飛ばされていた。
一介の法師の力では、この程度が関の山か ―――
倒れた身体を直ぐさま起こし、弥勒は歯噛みする。
たえの力を、森の胎動を止めることなど、人間の己には到底出来ぬ。
けれど、その力の流出を防ぐだけなら、どうだろう。実際、たえはそうしてこれまで暮らして来た。
弥勒は其処へ一縷の望みを繋いだのだが、その時彼の視界に滑り込んで来たのは ――― 勾玉。
地面に投げ出されたそれは、粉々に砕け散っていた。
弥勒は呆然とそれを見下ろし、勾玉と同じく己の希望も砕かれたことを知る。
もう、耐えられなかったのだ。込めた念そのものではなく、封印という行為自体が限界だったのだ。たえの中で育ったその力は、最早そのような障壁をものともしないほどに大きくなっていて。
ゆっくりと、緩やかに。けれど歩みを止めることなく、扉を内側から押し開くように。
そうして知らぬ間に弥勒の中では、目の前の光景と幾度となく魘された己が悪夢が摩り替わる。
何時か、封印など意味を成さなくなる。
封ずる鎖を噛み千切り、哄笑と共に暴れ出す ――― 風。
それを止める術などない、と。
「…喰われるしかないのか…?」
役目を終えた勾玉の欠片達を見詰めたまま、弥勒はぽつりと独り言を吐いた。
「喰われるしか、ないのかよ…?」
畢竟、跡形も残らぬ終わりを待つだけ、か。
魂の抜けたような弥勒の瞳が、無惨な勾玉から前方へゆっくりと移動する。
その覇気の感じられぬ双眼が捉えたものは ――― たえが居る筈のその場から目に見える気流が立ち昇り、それを取り込んで行く木々、花々。
あの膨大なる大気の流れ。あれは、たえの生気?
ふと、弥勒は、にこりと笑う少女の朗らかさを思い出していた。
そうだ。あれは、神奈備の力などではない。あれは、虐げられる暮らしの中、それでも屈することのなかったたえが自身で培ったもの。
最初から定められていたものなどでは、決して、ない。
「…喰われる為に生まれたなんて、冗談じゃねぇ…っ!」
じゃらんっ、と錫杖を鳴かせると、弥勒は柄を両手で握り地を蹴った。
たえを捕える緑の蔓を、躊躇なく薙ぎ払う。すると森は、怒ったようにオオオーと咆哮を上げた。それが、頭上から弥勒へと降り注ぐけれど。
「今更天罰が恐いモンかよっ!」
自然の怒号などには耳を貸さず、弥勒は錫杖を振り上げる手を緩めない。錫杖が薙いだ緑の残骸を、彼は絶え間なく浴びていた。
「たえっ、聞こえてるかっ!此処から逃げるぞ!たえっ!」
取り敢えず、この腹を空かした餓鬼みてぇな森から脱出する。その後のことなんて、今この状況で頭を捻っても良案なんぞ浮かびゃしねえ。
「みろ…、無理…あた、し、」
「喋る気力があるなら、意識をしっかり保っとけ!」
切れ切れながらも返事を寄越したたえに、弥勒は安堵し、けれど語気を強めて言い付けた。
払っても断ち切っても、次々と伸びて来る ――― 魔手。
無論それは魔でも何でもなく、抗う己が罪人に等しいのであろうが…今、行く手を遮るものは全て邪魔者でしかありはしない。
「う…うう、う…」
苦しげな、たえの呻き声が聞こえるのだ。その苦痛を与える主が魔手でなくて何であろう?
一刻も早くこの緑の鎖を取っ払い、たえを此処から連れ出さねば。
「!?」
しかし、其処で突如として弥勒の感覚に触れて来る、正真正銘の ――― 邪気。
強大なる人外の力にありつこうと、種族不相応にも、森に巣食う物の怪どもが押し寄せて来たのである。激しいうねりの中にも清冽なる空気を保っていた辺りは、瞬く間に妖の気配に侵蝕されて行く。
「嗅ぎ付けたか…!」
こんな時に邪魔するんじゃねぇ、と胸裏で悪態を吐きつつも、その有象無象と立ち合う覚悟は瞬時に固まっていた。
「今在るは神奈備の(しるし)也。怪しの者が合一適う相手ではない!命惜しくば、この場より立ち去れ!」
法師は威喝し、右に握った錫杖を前方へ斜に構える。出来れば、これで退却して頂きたい、というのが本音。雑魚妖怪なんぞにかかずらっている暇はない。こうしている間にも、たえの命は緑の手により汲み出されて行くのだから。
「…って、聞く訳ねぇかっ!」
法師の忠告などは無論無視した妖怪達が、空から人間目掛けて一斉に降って来るのを、彼は両手で掲げた錫杖で受け止めていた。
ばちぃっ、と、妖気と戒杖がぶつかり合った音が響く。多勢に無勢、その勢いに押された弥勒は一歩後退るけれど、不気味な妖怪達の顔をぎらりと一睨みした後に、錫杖を力任せに振り薙いだ。
途端、湯気の如く浄化され消え行く妖怪ども。しかし、その弥勒の間隙を突き、後方のたえへ迫る一団があった。
(南無三…っ!)
直ぐさま振り返った弥勒は、同時に懐から護符を引き抜いていた。
そして、半円を描くように前方へ撓る右腕。その指先から鮮やかに放たれる、たった一枚の護り手。
ひゅっ、と風を切ったそれは、たえへ襲い掛からんとする妖の一団を見事捉えると、彼奴等を一瞬間で消し去った。
ほぅ、と安堵したのも束の間。空中へ何処までも張られたたえの緑髪が、徐々に、徐々に、その勢いを失い、迷うように落下を始めている様を弥勒は目にした。
見れば、あれほどはっきりと走っていた生気の道筋が、少しずつ薄弱になって来ているではないか。
時間がない。
弥勒はその事実に震撼した直後、ずさり、とその場で錫杖を地へ突き立てた。次に、空になった右腕へと左手を掛け。
「邪魔立てするなら…っ!」
こちらの焦燥などお構いなしに未だ向かい来る物の怪どもを一顧したかと思うと、束縛の数珠を取り除いた。
同時。前へ翳した右の掌中から、人とは思えぬ力が産声を上げる。
解放された風は容赦なき暴徒と化し、久々に得た自由を貪るように辺り一帯を駆け巡った。
法師の右手へ飲まれて行く妖怪達を嗤うのか、それとも、忌み嫌っている筈の力を駆使する法師を嘲笑(わら)うのか。唸りを上げる風は、そのどちらともつかぬ轟音を響き渡らせたまま ―――
屈辱的なその風の声を聞きながら、弥勒は掲げた右腕を支える左手へ力を込めた。
早く、早く。
消えてくれ。
たえの命が、喰い尽くされる前に。
そうしている間にも背後で森の猛りが沈下して行くのを確かに感じ、弥勒の胸はいよいよ焦眉の急に追い立てられる。
それでもようやく怒涛の妖成敗が終わりを迎えようか、という、それと時を同じくし。
弥勒の後方で、これまでよりも猶一層の強い光の爆発が引き起こされた。
背を貫くが如き強靭な光芒が、森一帯を覆う。
「たえっ!?」
しゅんっ、と最後の一匹を飲み込んだ風穴を再び数珠で黙らせた弥勒が背後を振り返った時には、これまでで最大だったその光の渦は、一片の名残もなく消えていた。
残されていたのは、先端の探せぬ長髪を空へ泳がせ、立ち尽くした、たえ。
何事かを叫ぶ弥勒の声を聞きながら、半ば自失したたえは、ぱたり、と、うつ伏せに倒れ込む。
それはまるで、乾き切った卒塔婆が倒れるような、容易さだった。







「みろく…」
弱々しい声で、たえが呟いた。
抱き起こした彼女の身体が紙切れのように軽かった事実に締め付けられていた弥勒の胸は、その消え入りそうな声により、引き裂かれることが決定的となった。
「あたし…やっぱり、みんなとは違ってたねぇ…?」
ようやく耳へ届くかどうかという音量でそう言うと、たえは己を覗き込んでいる弥勒を見詰め返し、えへへ、と力なく笑う。
「…右も左も皆同じ人間では、つまらぬさ。」
白皙の頬に掛かる緑の髪の何本かを弥勒がそっと払ってやると、たえはまた笑顔を見せた。
「弥勒って、やっぱり変わってるよねぇ…。」
「何と言っても、おまえの同士ですからな。」
弥勒も、胸の内の痛みは押し隠し、微笑む。
血の気を失った肌は、青を含まぬ正真正銘の、白。
その色が、少女が人間ではないことを言葉もなく物語っていた。
そしてもう一つ、彼女が特異であることを示す、緑髪。それはこの地全てを埋め尽くすように、何処までも果てなく広がっている。
もう宙を舞うことはないけれど、新緑を敷き詰めたようにも見えるこの地表は、この上もなく美しく思えた。
弥勒の腕に抱かれたたえの身体はぼんやりとした霞みが掛かっており、その輪郭から、光の粒子が一つ、また一つと空へ消えて行く。
それは、鼓草の綿毛がふわふわと旅立って行く様子にも似ていた。
「…あたしさぁ…弥勒の、…」
「…なんだ?」
少しずつ大気へ溶けて行くその光の一粒一粒が、何であるのかわかっている弥勒は、その粒子を引き止められない現実をも知っている。
「…お嫁さんになってあげても…いいよ…?」
笑みを絶やさぬまま、たえは小さくそう言った。
出逢ったあの日、弥勒が口にした戯言をたえは忘れてはいなかった。
「それは、有り難い。」
ふわりふわりと空へ消え行く光の粒が、後から後から溢れ出る。きらきらと綺麗なその現象は、なんと残酷な光景だろう。
「…でしょ。…だから、あたし、」
たえをかたどる輪郭から離れてゆく、光。たえの存在そのものが、次第に儚くなって行く、その中で。
「早く、大人になるから…」
あの日と同じように、頼りないその手を法師へと伸ばし。
「待…っ…」
けれど、弥勒がその小さな手を握り返すことは叶わなかった。
「…たえ…?」
弥勒の腕の中で、最後の粒子が、ぷつん、と弾ける。
大地へ突き刺したままの錫杖が、何かを奪い去るように吹いた一陣の風に煽られ、ちり、と鳴いた。
涙は、出なかった。







嘘のような、静けさだった。
正確には、小鳥達が囀り、柔らかな風に木の葉を揺らす音が子守唄のように響いているのだが、それは心地良い平穏な静けさを醸し出す。
あれほど激しく鳴り渡っていた森の胎動は静寂を取り戻し、さっきまでの出来事には知らぬ顔を決め込んでいる。
辺りを見渡せば、零れんばかりの、緑。
枯れた植物など一つ足りともないのだろうと思わせるほどに、森は嬉々とした生気を放射していた。
この森は、永劫枯れることはないだろう。
永遠に、豊かな緑を育むだろう。
――― これで、満足か。
図らずも手にした神奈備の恵を食らい尽くし、これで、満足か。
満たされた腹は、永遠に空くことはない。
この森を取り巻く村里も、その恩恵に与るだろう。
たえが、ただ平凡に暮らしたいと願った、あの村も。







「法師さま…?」
背中から掛けられたその幼い声は、甚太のもの。
静謐な森の中に佇んでいた弥勒が振り返ると、息を弾ませた少年がこちらを凝視していた。
村へ戻っていろと言付けた筈の甚太は、やはり気になったのか、あの後法師を追って来て、今ようやく到着したらしかった。
「甚太…。」
弥勒の口からは、それしか出ない。
「…たえは?」
そろり、と辺りを見回しつつ、甚太は少女の安否を法師へと訊ねた。
「……。」
弥勒は、無言を返す。
「あいつ、何処に行ったんだ?」
恐い村の大人達が居ないことを確認した甚太は、きょろきょろと木の蔭やらを捜すのだが、一向に目指す少女の姿は現れない。
加えて、頼りの法師は押し黙ったまま。それが、甚太の心を不安にさせた。
「…なんだよ、法師さま。なんで黙ってるのさ…?」
僅かに眉根を寄せた法師は、何処か苦しげな表情を見せている。
「…たえはっ!?」
一気に青くなった甚太は、激しく法師の袈裟を掴んで問い質した。
「たえはどうしたんだよ!法師さまっ!」
焦りに駆られて縋って来る甚太の顔を見下ろし、弥勒は再び言葉を失った。
なんと説明すれば良い?神奈備の件を伝え遣れば、それでこの少年は納得するのだろうか?
「たえ…死んだのか?」
甚太は、己で核心へ切り込んだ。法師の顔を見て、きっとそうに違いない、という思いが何故だか湧き上がって来たから。
「…死んだのではない。」
頭の整理がつかぬまま、弥勒はそう絞り出した。
「たえは…この森そのものになった。」
遠回しなその言い方に、甚太は混乱する。
「なんだよ?それ…たえが人間じゃないって、そういうこと…?」
「…今も、おまえを此処から見ているだろう。」
自分の科白に吐き気がした。それは、甚太も同じだったらしい。
「ふざけんなよっ!あいつ、もう居ないんだろ?たえとはもう、会えないんだろ!?だったら死んだのと同じじゃねーかっ!」
勝気そうな甚太の両目に、見る見るうちに涙が溢れ出す。
「助けてくれるんじゃなかったのかよ!法師さま…っ、この手は何の為に付いてるかって、あんたが教えてくれたんじゃなかったのかよっ!」
ぼろぼろと涙を零した甚太は、容赦無く弥勒を責め続ける。弥勒に、反論の余地はなかった。
ただ黙ってその激情を受け止めるしかなくて。
「なんで…っ、なんで助けてくれなかったんだよーッ!」
法師の袈裟を掴んだまま、甚太は号泣しながらずるずるとその場へ崩れ落ちた。
小さなその肩を視界に宿し、苦悶の面を晒した法師は甚太の背へと手を伸ばし。
「…甚太…済まな」
その法師の謝罪と腕を、甚太は勢いよく振り払った。弥勒にとっては、屹と睨み返して来たその視線が、何より痛い。
「大ッ嫌いだ!法師さまなんか…っ!」
涙に濡れた頬を紅潮させ、甚太はそう大声で言い放つと弥勒の前から走り去って行った。
「大嫌い、か…。」
たえ、も。
いっそ、嫌ってくれた方が楽だったかもしれない。
結局、彼女を救えなかったこの自分を。
なのにどうしてあの娘は笑顔のままで消えることが出来たのだろう。
人として何かが欠落しているような喪失感を認めつつ、弥勒は甚太の背を声もなく見送っていた。







人と、深く関わるな。
そう、言い聞かせ続けて来たではないか。
それを無視するから、見ろ。ろくなことはない。
余計な感情に縛られて、また、逃れられぬ現実を改めて知ることとなり。
――― もしも、俺に逢わなければ、たえはもう少しの間元気に笑っていただろうか。
俺と出逢ったが為に、人としての寿命を縮めてしまったのではなかろうか。
…考えても、詮無いことだとわかっている。
けれど。
…封印が効かなくなれば、喰われて行くしかない未来。
その時俺は、たえのように笑って逝けるだろうか?
甚太のように誰か泣く者など居るのだろうか ――― ?
…馬鹿馬鹿しい。大体、己が風に飲まれれば、跡形もなくこの身は消え去るのだ。
それを死と言えるのかどうかもわからぬような方法で。
そうなれば、恐らく転生などは叶わぬ我が身。
そんな死に様に、一体誰が気付くだろう?
何も残せずに消えた男の存在などに。
せいぜい、育ててくれた呑んだくれのあの夢心くらいのものだろう。しかし、あの師とて己の旅路を逐一把握している訳ではない。夢心の預かり知らぬところで果てる可能性の方が、ずっと高い。
…ああ、だから嫌なのだ。
家族とか、仲間とか。
こうして考えたくないことを考えてしまうから。それを呼び起こさせる感情が、邪魔なのだ。
彼奴(きゃつ)は、倒す。
この腕に呪いを穿ちし妖怪は。
それで全ては済むのだから、それで良いではないか。
気を付けねば全身を支配してしまうその情を払拭するように、弥勒は二、三度(かぶり)を振った。


――― まだ望みがあるだけ、俺は幾らかましかもしれん、たえ。
けれどもし俺が風に屈しても、おまえと同じ場所へは行けぬだろう。それだけが、残念だ。
そう思ったところで、弥勒は気付く。
結局、斃れた時のことばかりを考えている自分自身に。何故、光射す未来を考えることがこの胸には出来ぬのだろう?
それが運命を受け容れている故なのか、受け容れられずにいる故なのかさえ、わからずに。
弥勒は、くっ、と薄く自嘲気味に笑んだ。
たえ。
おまえのような妹が居れば、俺ももう少しまともに生きられたかもしれないな ―――
は、と一つ息を吐くと、法師は旅の供である錫杖を握り直した。
懐かしいのか、元から知らぬのか。判断し難いその感情を射し込ませた娘の顔を、最後にもう一度、思い返して。


他人とは深く関わるな。
再び、強く心へ刻む。
閉ざした筈のその扉の向こうから、顔を覗かせた ――― 多恵。
なれど今は、まだ早い。
まだ、必要ではない ――― きっと。


開き掛けたその扉は、再びきつくきつく、閉じられた。







「神奈備の、緑児…。」
村へ戻った甚太は、大人達からようやく事の発端と成り行きを説明されていた。
たえが、何者であったかということ。村人達が何故たえを森へ連れて行ったのかということ。
そして、其処であの法師が邪魔に入ったこと。
神奈備の霊験を目の当たりにした幾人かが、その様子を村の者達へと告げていた。
大人達は皆、興奮した面持ちで己等の正当性を主張している。
けれど、甚太はいくら説明されようとも何が正しいのかがわからなかった。
だって自分は、言い伝えなんて、初めて聞いたから。
人間の、喧嘩ばかりをし合ったたえという娘しか知らない。それだけでは、いけなかったのか。
唯一わかっていることは、この輪の中で違和感を覚えざるを得ない、自分の心。
(…法師さま、ほっぺたに血がついてた…。)
そう言えば、掴んで非難を浴びせた衣も、ぼろぼろになって土や葉っぱに塗れていたような気がする。
「……。」
嬉々として神奈備のご利益について語り合っている大人達の顔は、自分のそれとは絶対的に違うのだ。
()の法師が、何処か辛そうな顔をしていたのを思い出した。
大嫌い、と言った自分の言葉が蘇った。
そうしたら、居ても立ってもいられなくなっていて。
気付くと、甚太は再びあの森へとやって来ていた。
麗らかな日差しと小鳥の囀りがくすぐったい。
先程は気にも止めなかった緑の瑞々しさが、目に飛び込んで来る。
この森は、こんな風だったろうか ――― ?
「…居るのかよ?たえ…。」
返事は、ない。
この森にたえが居るのかどうかなんて、きっとわからない。わかりたくもない。
それでも悔しいことに、明らかにこれまでとは違う森の息吹を感じることだけは、出来る。
益々胸の中が混迷を極め、甚太は、己と同じ思いを抱いているかもしれないたった一人の男の名を口にしていた。
「…法師さま。」
何故だか今、あの法師と話がしたくて堪らない。
「法師さま…、」
辺りを見回し、あの濃紫の袈裟を捜すけれど。
「法師さまっ!」
もう、其処にその法師の姿を見付けることは出来なかった。















「きさまが犬夜叉か!退治する!!」
突如として出現した巨大な武具の帰る先に佇んでいたのは ――― 女。
また、厄介なのが現れたらしい ―――
呪いの元凶を追う旅の途中、弥勒には連れが出来ていた。
敵を同じくする者同士が手を組むのは、そう珍しいことではない。
ただ、それだけの話。
それでも彼等と出逢ったお蔭で、これまでその影も、気配さえも掴めずにいた奴の姿を明確に捉えられるようになった。それには感謝せねばなるまい。
そして今、この見たこともない戦装束を纏う女の背後には ――― 宿敵・奈落。
今度こそ、逃しはしない。決着をつけるのだ。
この呪縛から、解き放たれる為に。
「おまえはこの場で退治する!」
「いいかげんにしやがれ!」
背中で聞く、女と犬夜叉の声。けれどそれは奈落を追う弥勒の足を止めることはなかった。
此処で逃したら、次は何時(まみ)えることが出来よう?
戦いは犬夜叉へ預け、弥勒は逃げる奈落を追ってひた走る。
終わりにしたい。
こんなことは。
こんな、思いは。
未来を己で掴み取る、道が在るなら ――― その選択が、今ならば。
けれど、途絶えそうになった彼奴へと続く道。それを繋いでくれたのは、退治屋の里で巡り会った、あの妖猫。
「ありがたい、乗せてくれるのか。」
まだ、運は尽きていないらしい。

空を駆け、風を切り、迫り来る我が先途。
立ちし岐路の彼方に在るは、底無しの如法暗夜か、光彩陸離たる天明か ―――
どちらでも、良い。もう、終わりにしたいのだ。

皮肉にも、終わりを願う此処から始まる、真実の旅。

「奈落 ――― っ!!」




――― そして、扉は開かれる。











200000ゲッター・はづみ陵さんご依頼の「法師一人旅・過去編」でございました。
お題を頂戴した時点で、珍しく内容が頭からラストまで一気に降って来たものだったのですが、無駄に長くなってしまいました。しかも後味悪くて更に申し訳なく。
随分好き勝手やっていて、護符も法師の言葉使いもはちゃめちゃです。どうか雰囲気で読んで下さいませ。
「扉」という言葉には、色々な意味を込めました。それを全部表現出来たかというとそうでもなくて、中途半端だったりするのですが。あくまで自分の中での話です。
そして、法師ってそんなに頑なか?という疑問には目を瞑ってみました。11巻の、まるで「俺を心配して命懸けで助けに来てくれるなんて、想像もしていなかった(水都ビジョン)」とでもいうような法師の顔から膨らませた感じです。こんな暴走しまくりなお話ですが、はづみさん、どうかどうかお納め下さいませ。
では、最後までお読み下さいまして有り難うございました。

2003.01.25
■しばさん・画■