SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



そして、扉は開かれた



‐‐‐ 弐







質素ではあるが小奇麗に整えられたたえの家屋で一夜を過ごすと、次の朝はすこぶる快晴であったのだが。
「あ~あ。」
その爽快な空とはなんとも不釣合いなたえの気落ちした声が、小さく響く。
朝からどうした、と弥勒が声を掛けてみると、朝餉の仕度をしようとしていたのか、たえは一本の細枝を手にして応えを寄越した。
「薪、貰いに行かなくっちゃ。」
どうやら、薪の残りがあと僅かになってしまったらしい。
たえは、あっ別に弥勒の所為じゃないからねそういう意味じゃないからね、と慌ててその握った枝をぶんぶんと左右に振って見せた。
客人が一人。
多少なりとも、その薪の減少には影響している筈である。しかし、それを重荷にさせないように努めるたえの純朴な心遣いに、弥勒は苦笑してしまう。
けれど、拾いに、ではなく、貰いに…?
「そりゃ、その辺に落ちてる枝くらいは自分で拾って来るけど、それじゃ全然足りないし。直ぐ其処に森はあるけど、入っちゃいけないって、おっかさんから言われてるし。」
弥勒の疑問の解決を図る、たえ。
「森に入ってはいけない?」
弥勒が、たえの言葉を繰り返した。
「うん。危ないから、って。」
たえは、ぱきん、と折った枝を竈へと放り込んだ。
母が健在であった頃、森へ入るのは何時も母一人で、たえは連れて行っては貰えなかったのだと言う。そんな母が病に臥してからは、幼い娘が森へ行かずとも済むように周囲の村人へ折り合いを付けておいてくれたのだと。
母娘を疎んじる村人達も、死期迫る人間の頼みは流石に断れなかったのか。暮らして行くにはなんとか足りる程度の援助をたえは村人から受けていた。
確かに、子供が一人で森へ入るのは危険であると言えよう。たった一人の娘を慈しみ大切に育てた母の願いは、村人の僅かばかりの厚意によりどうにか繋ぎ留められていた。
ただ、物乞いに行くようなその己の行動が嫌で。
貰い受ける際の、相手の迷惑そうな顔が、嫌で。
たえの憂鬱は、其処に起因していた。
今年は天候もあまり良くなくて、田畑も森も枯れ気味だから益々気が重いんだよね、と、たえは大人じみた言葉を口にし、嘆息する。
其処で少女の浮かない顔を見兼ねた法師が、ふーっ、と息を一つ吐いた後、頼もしいことを言って寄越した。
「では、今日のところは私が調達して来ましょうか。」
「え。何、みんなを騙くらかして沢山せしめて来てくれるってこと?」
…何か誤解されている、と感じ取った弥勒は、
「私が森へ行って薪になるものを拾って来るという意味です。」
と、間髪入れずに説明をしてやった。
すると、途端にぱぁっと明るくなる、たえの(おもて)
「じゃああたしも!あたしも行きたい!」
興味津々な表情を満面に浮かべたたえは、弥勒の袂を、がしり、と掴んだ。
「しかし、森へ入ってはならぬとお母上から」
「弥勒が一緒なら、危なくないでしょ!?」
紅潮させた頬と、きらきらと輝く両の瞳を向けられた弥勒は、いやはや(いた)く信用されてしまったものだ、と内心頭を掻いていたのだが、ならば先の失礼な発言はなんだったのかと思ってみたりもする訳で。
けれどまあ己が一緒なら危険な目に晒すことなどそうそうないか ――― という自負もある。薬草やら何やらをこの機会に教えてやっておいた方が今後の為には良いかもしれぬ、と思い至り、
「それでは、一緒に行きますか。」
承諾の科白をたえへと告げた。
うわーいやったー、と、掴んだ弥勒の袖をぶんぶんと振りつつはしゃぐ、たえ。
その動きが、彼の腕の数珠を小さく鳴らす。
そして彼女の胸元で、沈黙したままの勾玉がゆらりゆらりと揺れていた。







眼前に広がる森林は、緑濃き ――― とは少々言い難く、先のたえの言葉通り活力の足りない風情であった。これでは、森の恵みにあやかれぬ動物達が人里へ降り、田畑へ手を出すのも道理と言えよう。
ただでさえ豊かとは言えぬこの村の状況で、益々たえが村人からの援助を受け辛いと考えるのも尤もである。
弥勒とたえが森へ足を踏み入れようかというその足元には、枯れかかった蛍袋が群生していた。生気に満ち溢れた姿であったなら、さぞかし可憐な白い釣鐘の群れを堪能出来たことであろう。
「可哀相…。」
膝を折ったたえは、白色に紫点を滲ませつつも皺々になってしまったその袋状の花を猶一層だらりと下げた彼等へ、そっと手を差し伸べる。
「たえ、行きますよ。」
其処で、合図とでも言うように、しゃらりと錫杖を鳴らした弥勒がたえへと声を掛けた。するとたえは、うん、と素直な返事と共に、直ぐに弥勒の隣へと戻って来る。
そうして改めて目の前の森の姿をその双眼へ宿すと ―――
ざわ、と心が騒いだ。が、次の瞬間には眠気を催すほどの静けさが身体の中を埋め尽くす。
狂騒と、安寧。相反するものを同時に捉え、たえの感覚は困惑する。
「どうした?たえ。」
立ち尽くしてしまった少女を、柔らかな声が揺さ振った。
その声に突かれたように、たえはぴくりと身体を震わせた。
「どうもしないよ。」
本当に、真実自然に、たえはそう答えた。
この時、己の感覚の揺れをたえ自身は感知していない。
本人さえも気付いていない己の異変は、確実に警鐘を鳴らしていたけれど。

警鐘 ――― 否や、共鳴、か。







森林へ分け入ると、薪として使えそうな枝を拾いつつ、弥勒は草木についてのあれやこれやを、たえへ丁寧に教授してやった。
肝心のたえはと言えば、弥勒のその話をちゃんと聞いているのかどうかも怪しいほどのはしゃぎっぷりで、初めて目にする植物達に心を奪われているようである。
弥勒の説明の途中で、あの鳥は何、あの花は、あの木は何、と飛び石を渡るようにたえの興味は移動するのだ。実際、弥勒が伝えておきたいと思うことよりも、矢継ぎ早に繰り出されるたえの質問に答えてやっている分量の方が多かろう。
目的である薪の方は、斧などを持参している訳でもない故、集められる枝振りなどはたかが知れていた。だが、それらを括る縄はたえが準備して来ている為、それなりの量を持ち帰ることは可能である。
そして、暫くするとたえの言葉数も次第に少なくなり、そろそろ興味も尽きたか、と弥勒が思った頃合。
「…弥勒…。」
背中へと、弱々しい少女の声が掛けられた。
その声に一顧した弥勒は、己が目を疑った。
「…なんか、変…気持ち悪い…」
其処には、蝋ほど白い顔色をしたたえが小刻みに震えながら座り込んでいるではないか。
「たえ?」
薪を放り出した弥勒は、慌ててたえの傍へ走り寄ると彼女の頬へ触れてみる。
その、子供らしいふっくらとした頬は、信じられないほどに冷たくなっていた。
「なんで…?力、入んない…気持ちわる…」
かたかたと震えるたえは、不安故か(まなじり)に涙さえ浮かべている。
「喋らなくていい。少し遊びが過ぎたのだろう。帰ろうな、たえ。」
貧血のようなそのたえの症状を一見し、彼女の不安を無駄に煽らぬよう、落ち着いた声音で弥勒が言った。
軽いたえの身体をその背に負い、器用に錫杖を両手へ渡すと、弥勒はなるべく振動を与えぬよう村への帰路を辿り始める。
「折角薪拾いに来たのにね…。」
法師の背中で、たえが残念そうに小声で呟いた。
「森は逃げぬさ。何時でも拾える。」
少しも焦りを見せぬその声は、たえの胸へ安堵の波を広げて行く。それによって些かの余裕を取り戻したたえは、身体を預けたその背の温かさにようやく気付くことが出来た。
前にも、こんなことがあったような気がする ――― 漠然と、たえはそう思った。そして次に思い出したのは、以前にも感じた ――― 温もり。
「…前にさ…おっかさんにも、こうしておぶって貰ったことがあったみたい…。」
誰に言うともない囁くようなたえの声を、弥勒は黙って聞いていた。
母が子を背負うことなど、当然のことである。けれど、たえの中では少々意味合いが違っていた。
背負われたことではなく、背負われるに至った状況が ――― 似ている。何時(いつ)か、に。
けれどそれは大した問題には感じられず、母の温かだった背を思い出せたことにたえの心は傾倒していた。
そしてそれを促したのが他ならぬこの法師であることがなんだか嬉しくて、まだ真っ青なその頬をゆるりと緩めずにはいられなかった。
「なんです、たえ。」
背中から感じたその気配に、今、笑ったか?と弥勒が問うたのだが。
代わりに返って来たのは、たえの規則正しい寝息。
その返答に、今度は弥勒が安堵と共に笑みを浮かべる番であった。
地を踏みしだくその音でたえを起こしてしまわぬよう、細心の注意を払い歩を進める、弥勒。
しかし森を出る間際、たえの見入っていた群れなす蛍袋が活き活きと息を吹き返している事実には、彼も気付いてはいなかった。







「これと言って、原因は見当たりませんのぅ。悪い病という訳でもなさそうで…。」
たえを診た、村にたった一人だけの年老いた医師の所見はこうだった。
「そうですか。」
床へ臥すたえの横に座した弥勒は、彼女の顔を見下ろしつつ低い声で頷く。
まるきり元通り、とは言えぬまでも、多少赤味を取り戻したたえの頬からして、そう深刻なものではなかろうと弥勒も感じていた。
「母親を亡くしてから、一人で気を張って来た娘ですからの。法師さまという保護者が現れて、緊張の糸が切れたのやもしれませんなぁ。」
顎に生やした短い髭を撫で擦りながら、村医者は己の見解を述べる。
「……。」
それは、弥勒も考えていたことではあった。
もしくは、初めての体験に知恵熱を出してしまう類のものか、と。
後者であるなら、それは何の問題もない。けれど、前者が正解であったなら、これ以上のたえとの関わり合いは考え直さなければならないだろう。
己と出逢ったことで、たえが必死に築いて来た生活基盤を壊してしまってはならぬのだ。
自分は、ずっと此処へ一緒に居てやれる人間ではないから。
甘えも苦労も受け止めてやりたいが、それが出来る訳もなく。
今日まで強く生きて来たたえを弱くしてしまうことは、弥勒の本意ではない。
幸せになって欲しいと願えども、それを与えてやれるのは己では、ない。
たえに必要なのは、何時も共に居てやれる家族、仲間 ――― そのどれにも、自分はなれぬ。
そして己も、それを欲してはいない。
欲せはしない。
偽りの同士を気取ることは可能でも、それ以上は、有り得ない。
「…みろくー…。」
目覚めたたえが、うっすらと瞼を開けた両の瞳で弥勒を捉えると、ふぅっ、と笑んだ。
"それ以上は、有り得ない"
なのにどうして、その額にそっと手を伸ばしてしまうのだろう。
たえの為にはならぬ、と、言いながら。
家族など ――― 妹など要らぬと、思いながら。
「何も考えず、ゆっくり休みなさい。」
微笑み返し、弥勒は言う。
もとより、如何に理屈を捏ねようと今この状態にあるたえを置き、旅へ戻れるような男ではないのだけれど。







たえの症状は、過労に良く似ていた。
良く眠り、食し、また眠る。それを繰り返すことで、目に見えて体調を快復させて行く。
たえが目を覚ますと、表から、かこーん、かこーん、という小気味良い音が聞こえて来た。あれは、薪を割る音だ。
辺りへ目を配れば、弥勒の姿がない。何時の間にやら、それほど立派な材を調達して来たということだろうか。けれど、あの動き難そうな格好で斧を振り上げているのだとすると …持ち慣れぬものを持ち、ふらふらと覚束ない動作で薪を割っているのではないかと想像し、たえは布団の中でくすくすと笑った。
しかし、音は相変わらず規則的な間を崩さずに耳へ響いて来る。それには今度は嬉しくなり、たえは穏やかな気持ちで眠りへ落ちることが出来た。
たえが眠っている間、薪や食料の調達に余念のなかった弥勒は、それ以外はたえの傍へとついていてやっていた。其処でたえが目覚めると、彼女は何時も同じ表情をした。
瞼を開いた時に法師の姿が傍に在るのを認めると、必ずと言って良いほどたえは笑顔を見せるのだ。
その笑みがまた愛らしく、見舞い(と言うと本人は否定するが)に来ていた甚太など、頬を染めぽかんと見惚れていたものだった。
勿論、其処で「何しに来たの」「うるせぇ鬼の霍乱(かくらん)がっ」などと言い合いが始まってしまうのは相変わらずなのだが。
今日も今日とてそのような、床から半身を起こしたたえと甚太の口喧嘩を胡座を掻いた弥勒がはぁー、と溜め息混じりに見物していた少し後。
今は、たえも再び眠りに就いている。
「大人しいのは寝てる時だけかよっ。」
ふんっ、と悪態を吐いた甚太も用が済んだのか、つと腰を上げた。尤も、用という用など存在しないのだけれども。
「甚太、おまえにたえのことを頼んで良いか。」
小屋の出入り口、簾を潜ったところで弥勒が前触れもなく甚太へそう言った。
「は?なんで俺がっ!」
「私が居なくなれば、たえの力になってやれるのはおまえしかおらん。」
唐突に告げられた青年僧の言葉には、少年は過剰に反応してしまい"嫌だ"とばかりに眉を吊り上げたけれども、直ぐに繋げられた弥勒の科白に冷静さを取り戻した。
「…法師さま、居なくなっちゃうのか?」
「甚太には、居ない方が好都合であろう?」
見上げて来る甚太の視線を受け止めた弥勒は、意味ありげな笑みを返す。すると、その意味を即座に理解した甚太は面を思い切り朱に染めた。
「な…っ、なっ、べっ、別に、おお俺は…っ」
慌てふためきどもる甚太を見て、法師はくつくつと笑っている。
「だっ、だから…っ、法師さま、もう出てっちゃうのか?って、そういう話!」
「何時までも留まっていられる身の上ではないのでな。」
懸命に話を戻そうとする少年の言葉に、弥勒も今度は素直に乗ってやった。
「今直ぐ?」
「たえが元気になったら、直ぐにでも。」
「…たえ、きっとがっかりするよ…。」
「だと、嬉しいがな。」
自分ががっかりしているような顔で呟いた甚太へ、弥勒はやはり笑って言った。
「で、最初に言った件だが。」
「だからなんで俺がたえを…っ、俺とあいつは犬猿の仲だしあいつは俺を嫌ってるし」
思い出したように再びごちゃごちゃと言い連ね始めた甚太の言葉を遮ったのは、弥勒の声。
「たえを頼んで良いのか悪いのか、それだけを訊いている。」
真顔でそう問われたものだから、少年は思わず硬直してしまう。そして、ほんの少しの間を置いて、
「…いいよ。」
神妙な顔で頷きながら、そう返答した。
「では、頼んだ。」
「しょーがねーなっ。」
弥勒に、ぽん、と頭を一撫でされた甚太は、力強い笑顔を見せた。日に焼けた真っ黒な肌に白い歯が覗き、正に健康そのもの。
たえが"意地の悪そうな顔"と言って憚らない甚太のそれは、年長の弥勒にしてみれば愛嬌溢れるものとしか映らない。たえの髪についても、甚太はもう酷い態度は取らないであろうと弥勒は確信していた。
甚太と、たえ。気の合わないような絶妙なようなこの二人が、いがみ合うことなく接することが出来るようになる日の訪れはきっと遠くない、と弥勒は心から思っていた。







それは、たえが倒れてから四日目の夜の、夕餉の最中。
たえはほぼ全快と言って良い状態にあり、その夜もせっせと箸を口へ運んでいたのだが、次第にその動きが緩慢になり、とうとうぴたりと止んでしまった。そのまま、たえは押し黙る。
「どうした?たえ。」
囲炉裏を挟んだ向こう側に正座をしていた弥勒も箸を止め、たえの顔を見詰めて問うた。
たえは、俯かせていた顔を(おもむろ)に上げると、言い辛そうに口を開いた。
「…弥勒さ、ずっと此処へは居られないの?」
弥勒が予想していた通りの言葉を、たえは紡いだ。
「私の旅は、まだ続いているのです。」
柔らかなその口調も、"居られない"という答には変わりなく。
「旅って、何時まで続けるの?」
「…さあ、何時まででしょうな…。」
たえの問いに、曖昧な笑みを浮かべつつも弥勒は本心を吐いた。
何時まで?
それは、彼奴(きゃつ)を成敗するその日まで。
では、それは何時訪れる?
誰にもわからぬ、旅の終結の日。
先の見えぬ、この旅路。何時まで続くのかなど、俺が訊きたい。
「わかんない、ってことは、今終わりにしてもいいってことじゃないの?」
小首を傾げつつ、たえはあまりに無邪気な提案をして寄越した。
「…たえは本当に面白いことばかりを言う。」
一瞬言葉を失った後、苦笑しつつ弥勒はそう口にした。その"面白い"という彼の言葉は肯定的なものから来ているのだと判断したたえは、俄然勢い付く。
「此処で暮らしたら、絶対もっと面白いことばかりだよ!ね!?此処で暮らそうよ!弥勒だったらきっとこの村で上手くやっていけるって!法師だし!口上手いし!」
最後の一言には、ははは、と乾いた笑いを漏らすしかない弥勒であったが。
「たえ。」
彼のその一声は、たえの長舌を優しく断った。その声音に、思わずたえは乗り出していた身を退き口を噤む。
「…私は、この旅を終わらせる為に、旅を続けなければならんのだ。」
「……。」
弥勒は、普段通りの静かな笑顔をしていた。どういう意味なのか、まだたえには量り兼ねる科白であったけれど、何故だかそれを訊ねるのは躊躇われた。
自分が酷く駄々を捏ねているような感覚に陥り、軽々しかった己の誘いを後悔する。
「…ごめん。」
「たえが謝るようなことではない。」
弥勒の方こそ、後悔していた。
このような子供相手に、何を語っているのだろう。もっと上手い口上が幾らでもあるだろうに。
普段ならすらすらと出て来る筈のそれが鳴りを潜めているということは、やはり調子を狂わされているというのと同義だろうか。
――― この、少女に。
たえの方は、心を切り換えるべく明るく振る舞う。
「じゃあ、何時発つの?」
「たえの具合はどうなのだ?」
逆に弥勒からそう質問を切り返されたたえは、反射的に、
「もう、全然平気。」
と、笑顔で答えた。
「では、明日。」
直ぐにそう続けた弥勒の言っている意味が一瞬わからなかったたえだったが、それが己の問いへの返事だと知り、笑顔は其処で固まった。
だが、迷いなくそう告げた弥勒を引き留める術は、恐らく、ない。
優しいくせに容赦のない彼のその姿を、たえはこの時初めて知った。
随分と馴れ馴れしく同士扱いしてしまっていたけれど、実はこの法師はずっと大人で、自分はちっぽけな子供だったのだと思い知る。
途端、直ぐ目の前に居る筈の法師が、遠い場所へ在るように思われてならなかった。
心を鬼にし、顔色一つ変えずに別れを決めた法師の深慮など、たえは一生知らぬだろう。
そしてたえは、子供ついでにもう一つ。駄目を覚悟で言ってみる。
「その旅、あたしもついてっちゃ駄目…?」
上目で弥勒を伺うように、恐る恐る。
「お母上の眠るこの土地を離れられるのか?」
またも問うた相手に訊き返された少女は、(まなこ)を一度見開いた後、左右へ首を振ってみせた。
「…無理。」
「たえらしい。」
諦め色で簡潔に答えた彼女を見遣った弥勒の顔は、満足そうである。
二人は立ち上る湯気を挟んで視線を交わすと、互い、くすり、と苦笑した。







昨晩は、たえは納得した様子であった。だのに、一夜明けてみるとどうしたことか。
しゃん、と鐶を鳴らした弥勒がたえの小屋を出た矢先、その袂をがしと掴むのだ。
「ね、弥勒、やっぱりもう一日。今日一日だけ此処に居て。」
怯えたような顔をして、たえは弥勒へ取り縋った。
「どうしたのだ、たえ。」
あまりのその変貌振りに、弥勒の方も些か面食らう。
「昨日、話をしたばかりであろう。」
袖口を掴んで離さぬたえの手の甲を、ぽんぽん、と優しく叩く、弥勒。
「わかってる、わかってるけどさ。」
「さては、鬼の夢でも見たな?」
仕方なく膝を折った弥勒は、たえの不安げな顔を下から覗き込み、言った。
するとたえは、子ども扱いされたことに少々口を尖らせる。
「そんなんじゃないよ。ないけど…なんか、怖い。」
「怖い?」
たえの言葉を繰り返した弥勒に、たえはこくりと頷いた。
「なんか、わかんないけど…なんでかわかんないけど、怖いよ、弥勒。お願いだから、発つのは明日にして。」
理由なんて、わからない。けれど、何かが追って来る。身体の中からも、外からも。
それをどう説明すれば良いのかも、わからない。
当然だ。こんな感覚は初めてなのだから。
――― 初めて?本当にそうだろうか。
ほら、また。考えるとどうしようもなく不安になる。でもやっぱり、言葉に出来ない。
故にたえは、もう一日居て、と繰り返すばかり。
出所の知れぬ不安を言い募るたえに、弥勒も(ほだ)されそうになった。けれど、こうして出発を先延ばしにすればするほど、たえの"一人に戻る怖さ"を煽ってしまうことになるだろう。
これ以上たえの人生に影響を及ぼせば、取り返しのつかぬことになってしまう。
だから、此処でたえの甘えを認めてやる訳にはいかなかった。
――― それが己に対する、言い訳だったとしても。
「たえ、私はもう行かねばならん。そう無茶を言ってくれるな。」
困ったように笑む弥勒を見て、たえは、ようやくその手を彼の緇衣(しえ)から離した。名残惜しそうに。
「そ、だよね…ごめん。あたし、こんな弱虫じゃないのに。」
ほんの少し残念そうに、そして照れ臭そうに、たえは呟いた。泣き言を吐いてしまった己が堪らなく恥ずかしかった。
「怖いことなどない。此処には、甚太も居る。」
「あんな奴、頼りになんてなるもんか。」
弥勒の言った科白に、思わず強気な反応を見せるたえ。それは何時も通りのたえだったけれど、それさえも弥勒の策略であったとは、無論、気付く由もない。
「じゃあ、さ。」
たえは胸の勾玉を揺らし、懐をごそごそやったかと思うと、護身用には些か頼りない細身の小柄を取り出した。
「これ。」
膝を着いたままの弥勒の両眼を見詰め、たえは小柄を握った右手を差し出す。
「弥勒が持ってて。」
出逢ったあの日、心から信用出来る人間に渡すのだと言っていた ――― 母の形見の小柄。
たえに其処まで惚れ込まれたこと自体は名誉であったけれど、弥勒にはそれを受け取ることは出来なかった。
彼はやんわり首を振ると、右に掴んでいた錫杖を己が肩へしゃらりと預ける。そして空いた両の手で以て、たえの右手をふわりと包んだ。
「たえ。それを手放すには、まだ早い。」
「でも、」
「まだ、たえの知らないことがこの世には山ほどあるのだよ。」
「…何それ。」
脈絡のないことを言われたような気がしたたえは、怪訝そうな顔を弥勒へ向けた。弥勒の方はと言えば、甚太がこの小柄を受け取れるようになってくれることを、祈るばかり。
「兎に角、まだこの小柄は大切に持っていなさい。」
そう言うと、弥勒は両の手の中に包んだたえの右手を、優しく胸元へ戻してやった。
「…なんだか良くわかんないけど…わかっ、た。」
腑に落ちないような表情をしながらも、たえは弥勒の言い分を渋々承知する。
「では、行きます。」
錫杖を鳴らしつつ弥勒が立ち上がった。そうすると、その姿を見上げ、また眉根を寄せてしまうたえ。
「最後は、鄙には稀なる美女の笑顔で見送って頂きましょうか。」
どちらが美形かわからぬような婉然たる笑みを湛えて言った弥勒に、一瞬呆けて口を開けてしまったたえは、次に、大人びた溜め息を吐いた。
「全く、弥勒ってほんと仕様がない坊主。」
「正しくは法師、ですけどね。」
「知ってるよ。」
其処でたえは、弥勒ご所望の笑顔を見せた。
(お、極上。)
邪心のない、その愛くるしい笑顔を餞別に頂戴した法師は、たった少しだけ長居をしてしまったその村を、ようやく後にしたのだった。







本当は、逃げたのかもしれない。
家族だとか仲間だとか、今の自分には必要のないものを思い起こさせる、少女から。
留まる時が長くなればなるほど、未来を手繰る糸が細って行くようで。
家族など、忘れた。
仲間など、もとより知らぬ。
だからどうか、それを呼び覚まさないでくれ。
俺にそれを求めないでくれ。
今は独りで構わない。背負うものなど欲しくない。

…真実は、逃げたのかもしれない。
暗く覆い隠した筈のこちら側へ射し込んで来る ――― 光。
それを齎す、あの幼い子供から。