SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



そして、扉は開かれた



‐‐‐ 壱







泣いているのだと、思った。
ひとりの背中を見れば、直ぐさま哀切へと直結させるのは、意外と己は短絡的な人間なのだという証かもしれない。
それとも、この旅路の上で、そういう姿ばかりを見て来たからか ――― 晒して来たから、か。
そんなことは、どうでも良い。
ただ、泣いているのだと、そう思ったから。

だから、法師はその小さな背へと、声を掛けた。







「どうした、泣いているのか?」
唐突に投げられて来たその問いに、子供は、びく、と肩を一震いさせた。
緩やかに流れる川へ今にも身を投げ出してしまそうな、寂しげな背中を丸めていた ――― おんな ――― だよな?
くすんだ色合いの、決して美しいとは言えぬ生地で仕立てられた着物を着込んだその人物を、背後から見咎めた法師は、胸裏で自問自答する。
抱えた膝へ突っ伏した子供の後ろ姿は、男とも女とも取れるような風情。
「泣いてなんかないっ。」
すると、意外なまでに威勢の良い応えが返って来た。法師は、それには、おや、と些か拍子抜けしてしまう。
川岸で立ち上がったその少女は、振り返った其処へ見つけた長躯の男を、きっ、と睨み上げた。
法師が抱いた、違和感。
振り向く所作に付随する、翻るであろう長髪が ――― ない。
その少女の髪は、無理矢理削ぎ落とされたかのような不揃いさで以て、肩上辺りで先端を泳がせていた。
そして、右手に握られた、華奢な小柄。
足元には、ぱらぱらと散った髪の毛。
それらを繋ぎ合わせて行き着く先は ―――
「自分で髪を切ったのか…?」
それ以外に考えられず、青年僧は静かに訊ねる。切り落とした髪の束は、眼前の川へ流し遣ったところであろうか。
「そ。」
相手の優しげな物腰に警戒心を解いたらしい娘は、素っ気ない返事を口にし、またも川岸に座り込んだ。
錫杖の環を鳴かせつつ、法師はその隣へとさも当然のように腰を下ろした。
「何故、そのようなことをする?」
「だって、こんな髪ない方が生き易いもの。」
存外素直に、少女は法師の問い掛けに答えた。
彼が、何故、と再び問うよりも先に、彼女が言を継ぐ。
「あんただって、わかるだろ。あたしの髪の色、真っ黒じゃないんだ。」
(すす)けた頬の横で靡く短い髪の先を摘むと、少女はそれを己の目先へと引っ張った。それを確認するようにまじまじと見詰めつつ、ふんっ、と小さく鼻を鳴らす。
その様子を傍目に見ていた法師も、問題の髪へと視線を移してみるのだが。
彼の慧眼を以てしても、そんなにおかしいか?というのが、第一印象で。
その時、それまで雲隠れしていたお天道様が、思い出したように顔を出した。頭上から降り注いだ光が、少女の髪を滑って行く。すると。
あ ――― ?
光に照らし出されたその髪は、確かに黒とは言い難い色彩を放ち始める。
僅かに ――― そう、僅かに、緑がかっているような…?
「ね。気持ち悪い色だろ?皆これを気味悪がって、」
何でもないように喋っていた筈の少女の言葉が、其処で突然途切れた。
有髪の若い僧は、小柄を握ったまま膝を抱えている少女の姿を、改めて視界へ宿す。
袖から顔を出した腕や、裾から伸びた足に、ところどころ傷跡があった。年の頃は、十一~二くらいだろうか。この年齢になって、そうそう転んでばかりいる訳もあるまい。
「皆に、虐められているのか。」
「誰が!虐められてるんじゃなくて、喧嘩してんの!」
先程と同じく、威勢の良い反論が間髪置かずに飛んで来る。法師は、その少女の態度に微笑ましさを感ぜずにはいられなかった。
「何がおかしいのさ、似非(えせ)坊主っ。」
幼い顔を、ぷぅ、と膨らませた少女は、勝手に隣へ座している法師をまたも睨み付ける。
「似非とは酷いな。」
苦笑いを浮かべた法師は、やんわりとその可愛らしい鋭視を受け止めていた。
「だってあんた、袈裟着てるくせに髪が有る。坊主は剃髪って相場が決まってるだろ。」
大真面目でそう口にした少女に、一拍置いた後、法師は笑い出していた。
何とも素直というか。短絡的な人間が、此処にも居たか ―――
「なんで笑うっ?」
不満と不安と羞恥が混在したような表情で、それでも強気に少女が言った。それには、笑いを噛み殺した法師が余裕を持った態度で答え遣る。
「いや ――― では、私達は、変わった髪を持つ似た者同士ということになりますか。」
その法師の言葉に、きょと、と少女は目を見開いた後。
あれ、そう?そっか、そうかも?などと首を傾げている。この娘、少々気は強いようだが、素直な性質をしていると見受けられた。
ようやく見せた子供らしいその仕草に、法師はやはり笑んだまま、こう言葉を繋いだ。
「その小柄を、貸しなさい。」
「何?何する気?これはやれないからねっ。」
警戒心を復活させた少女は、小柄の柄を両手で握ると、己の胸元へと隠すように引き寄せる。
「そのざんばらな頭では、同士というには私もちと納得がいかないのでな。」
揃えてやろう、と法師は言った。
今度は、疑いの眼差しは直ぐに消え、少女はその手の細い小刀を法師へと渡して寄越した。やはり女。多少はこの無惨な見た目を気にしていたらしい。
法師はその小柄を受け取ると、彼女の背後に回り、小分けに掬った髪を丁寧に削いで行く。
「…ねえ坊主。気持ち悪くないの?」
大人しく座ったままの娘が、ぽつりと呟いた。法師は、何が?と、さも不思議そうに訊き返しただけで。
「…あたしの髪、触るのが。」
「何故です?緑の黒髪とは、正にこのことでしょう。」
一片の曇りもなく、法師はさらりと言ってのけた。
その言葉に、思わず絶句してしまう、少女。
「…あんた、やっぱり妙な奴。」
「そうか?」
前を向く少女の頬が、微かに朱に染まってしまったことには気付いているのか、いないのか。
法師は、一向に気にする風もなく、ぱつり、ぱつり、と彼女の緑帯色の髪を切り揃えて行く。
「誰も、そんな風には言わないもん…。」
誰に言うともないような、至極小さな声が漏れた。法師はやはり気付いているのかどうかはわからぬけれど、それに返る言葉はなかった。
多少の差違も、異質も、受け容れられぬ、この世。
田舎になればなるほど、その傾向は強まるばかりで。
生きていく上で何の支障も及ぼさぬことであろうとも、慣例のないことを、許さぬ風潮。
髪の色が、多少人とは違うというただそれだけのことで、こうして疎んじられている者が在るのが、事実。
全くやり切れねえ世の中だ、と法師は心中で一人ごちていた。
「坊主は、旅をしてるの?」
「まあ、そんなところか。」
「今夜の宿は?」
「まだ決めておらぬが?」
そんな何気ない会話を繋いでいるうちに、少女の髪はなんとか見られる程度に毛先が揃えられていた。髪をさささっ、と無造作に掻きつつ立ち上がった少女は、礼を言うよりも先に、
「じゃあ、うちへ来れば?」
と提案して寄越した。
「良いのか?こんな似非坊主を。」
「髪を揃えてくれた、お礼だよ。」
法師から小柄を受け取ると、少女はそれを大事そうに鞘へ戻し、懐へと仕舞いこんだ。
「坊主を邪険にした所為で、あたしにバチが当たったら、堪んないもん。」
「では、お言葉に甘えるとしましょうか。」
地へ寝かせていた錫杖を拾い上げると、男は少女の申し出を有り難く頂戴する。
「そういやさ、坊主はなんて名前なの?」
私は法師なんですが、という彼の前置きには興味も示さぬ少女が、先を急かすような瞳で彼を見上げていた。
「あたしはね、た・え。たえっていうの。だから坊主、あんたは?」
先に名を告げた少女が、再び緇衣を纏った法師へと、問う。
「私の名は、弥勒です。」
へぇー、と、たえが、笑った。







夕陽を浴び、きらきらと光を乱反射させている川面を眺めながら土手を並び行く、二つの影。それは旅の法師と短髪の少女のもので、面白いほどに長く、長く伸びている。
たえの帰路を一緒に辿る弥勒は、その道程で彼女の話へと静かに耳を傾けていた。
今己が身を寄せる村には、母と共に一年ほど前にやって来たばかりだということ。
父の顔は、知らぬこと。
そして母も、半年前に病で亡くなってしまったこと。
さっきの小柄は、その母の形見であること ――― 。
信じられないほど淡々と…と言うよりは、あっけらかんと、たえは語った。
「この小柄はね、おっかさんが死ぬ間際にくれたんだ。何時か、あたしが本当に信頼出来る人と出逢ったら、その人に渡しなさい、って。」
なるほど、心の契りを表すものか。
「だから先程、私には渡せない、と?」
「そういうことっ。」
えへへ、と悪戯っぽく笑うたえに、弥勒も笑みを誘われた。
たえは、粗末な(なり)をしてはいるが、中々に愛らしい顔をしている。怒ったり笑ったり忙しいその瞳は決して大きくないけれど、利発そうな色を湛えていた。
「その勾玉も、お母上のもので?」
其処で、弥勒がもう一つ訊ねた。
見るからに古惚けた、翡翠色の勾玉が、一粒。
紐を通されたそのたった一つの勾玉が、たえの首から下げられているのだが、弥勒にはなんとなく ――― ただ、なんとなく、不自然に思えた。故に、母の遺品か、と彼は見当をつけていたのだが。
「ううん、これは、あたしの。気付いた時には、もう身に着けてた。」
弥勒の予想に反した答を、たえは返して寄越した。
「お守りだから、肌身離さず持ってなさい、って、おっかさんから言われてる。」
その胸から勾玉を右手に取ると、たえはそれを掌中で弄ぶ。あまり有り難さも何も感じていないような彼女の為様に、弥勒は苦笑を浮かべていた。まあ、子供はそれくらいで丁度良いかもしれないな、などと思っているのも事実なのだが。
「そうか。お母上からの言いつけならば、しっかり守らねばな。」
ありがちと言えばありがちな事の真相に、弥勒も至って普通の応答をした。けれど、たえからは
またしても予想外の言葉が放たれる。
「そういえば、弥勒こそなんで数珠なんか腕に巻いてるの?」
右肩へ担いだ錫杖に添えられた、右腕。袖口から覗くその腕に、ぐるりと数珠が巻き付けてあるのが、たえの興味を誘ったらしい。
その少女の質問には、些かも動じる風なく、弥勒は綽然と言った。
「これも、お守りですよ。」
ふぅーん、と、たえはその数珠を凝視した後、
「じゃあ、それもあたしとおんなじだね。」
弥勒を見上げ、屈託のない笑顔を見せた。
「ああ、同じだ。」
目を細めた弥勒も、笑った。







この、利き腕に巣食う禍々しき呪いの連鎖。
お守りとは、空々しいことを言う。
守るのは、己の命か。
それとも、呪いを生かしておく為の、媒体(いれもの)か。
今はまだこの数珠の下でその牙を眠らせている風が、何時かそれを喰い千切り暴走する日は、確実に、来る。
この"お守り"の、効力の届かなくなる日が。
だから、早く。
早く、呪いの根源を砕かなければ。
怒り狂った龍神の如き烈風が、湧出する前に。
早く、彼奴を討たねばならぬ。

…そう思い続け、一体俺は、幾年(いくとせ)重ねて来たのだろう ――― ?







「あっ、戻って来た!」
「戻って来た!」
ほどなく村へ到着したたえを待っていたのは、頑是無い子供達の心ない歓迎。
「なんだよ、たえ、もう帰って来ないと思ったのによ!」
「見ろよこいつ、髪短くなってやがる!」
たえと同じ年頃の少年達は、意地の悪い言葉と笑みを口に乗せており、少女達はと言うと、遠巻きにひそひそと何かを囁き合っていた。
「髪なんか切ったって、気味悪いのは同じだってぇのっ。」
囃し立てる彼等の内、一人の少年の伸ばした手が、無言を貫いていたたえの短い髪の毛を掴み、引き倒そうとした。
「こら。」
其処で、事態を見守っていた弥勒の腕が、たえの背後から現れる。そして、彼女の髪を握っていた少年の頼りない手首を、やんわりと掴み取った。
「男がおなごに手を上げてなんとする。この手は弱いものを守る為に付いているのですよ。」
動作と同じく、柔らかな声差しで述べられた諫言に、少年は一瞬たじろいでしまったようである。
「たえの奴、お坊さまを味方に連れて来やがった。」
「ど、どうしよう、俺達バチが当たるかな…。」
周りの子供達にも、悪さをしている、という自覚は意外にもあったらしく、彼等はおたおたとし始めるのだが。
それでもこのたえに直接手を出した少年だけは、負けじと青年僧へ食って掛かった。
「なっ、なんだよ、お坊さまっ。こいつの髪は、変な色してて気味が悪いから俺が」
「虐めてやろうと?」
少年の科白が終わらぬうちに、弥勒がその続きを口にした。少年は、口篭もるしかない。
「そんなことを言って、普通にたえの髪に触れているではないか。」
のほほん、とした表情のままの法師が紡いだ言の葉に、途端、少年は顔を真っ赤に染め上げる。
ははぁ、これは…と弥勒の胸裏に悪戯心が涌いて来たところへ。
「何を騒いでおるのじゃ。」
「そろそろ夕餉よ、中へお入り。」
ざわめく子供達の声を聞き付けた村の大人達が、ぽつぽつと顔を出し始める。
「じっちゃん、聞いてよ!たえの奴、髪を切ったんだぜ!」
「変な髪だよね、かあちゃん。」
たえへ雑言を浴びせていた子供達は、慌てて大人達の背中へ隠れるように駆け出していた。
その大人達からは、あからさまな奇異の目がたえの方へと浴びせられており、厄介なのはこちらの方か、と弥勒は心中で溜め息混じりに呟いてみる。
「たえや…自分で髪を落としたか?」
年老いた一人が、たえをじろじろと見遣りながら、低く言った。それには、たえは何も答えない。
「そんなにまでして、この村がいいのかい?」
「何処ぞへ行ってくれても、構わないものを…」
聞くに堪えないその大人達の声にも、たえは黙して語らぬまま、であったのだけれども。
「…行こう、弥勒。」
ようやっと唇に乗せた言葉は反駁ではなく。
隣に立つ法師の袂を、つい、と引っ張りながら告げられた。こっちだよ、と。
「もし、お坊さま。」
たえに袖を引かれるままに歩を進めようとした弥勒へ、村人の一人が声を掛けた。壮年のこの男、どうやら子供達の内の誰かの親らしい。
「たえに何か御用で?」
「いいえ。私は旅の法師でして。今夜の宿を提供してくれると言うたえの厚意に甘え、こちらへ参りました。」
ゆっくりと、静かに弥勒は答えた。すると、あちらこちらで発せられている密やかな声が弥勒の耳へも届いた。
「あのような娘の世話になるとは、なんと物好きな…」
「あんな色の髪をして、普通の人間ではないかもしれぬと言うのに…」
どうせ言うならはっきり警告して来るか、聞こえないように言うか、どっちかにしろ ――― とは、口に出せる訳もなかったが、代わりに箴諫(しんかん)の言を吐いてしまうのは ――― 生業故か。
「ならば、お訊ねします。この娘は、何か皆さま方に災いでも齎しましたか。」
「そ、それは…」
自分達の呟きを仏門の者に聞き咎められ、村人達の間に小さな緊張が走った。
「何かこの娘に落ち度があると言うならば、遠慮なく拙僧にご相談頂けませんでしょうか。」
弥勒の方は、あくまで優しく、柔らかに。
「いや、その…」
「災い、ってことは、別に…」
その年若い法師の低姿勢ながらも毅然とした様子に、村人達は言葉尻を濁して答えるしかなかった。実際、たえが原因で被った害など、ありはしないのだから。
「そうでありましたら、このような幼子にあまり無体なことは仰られますな。大人達の口にする讒言(よこしごと)は、子供達の無垢な心へ悪しき螺旋の種を蒔くこととなりましょう。」
やはり柔和な口調でそう言った弥勒は、それでは、と大人達へ一つ頭を下げた後、たえの方へと向き直った。
たえは、法師の墨染めの袂を握ったまま彼の顔を、ぽかん、と見上げていたものだから、下りて来たその視線と、見事に目が合う。
それではたえ、ゆきましょう、と笑んだ弥勒の袖を嬉しそうに再び引くと、今度こそ己の家へと足を向けたのであった。







「凄いね、弥勒。皆を黙らせちゃうなんて。腐っても法師なんだね。」
嬉々としてそう言うたえの表情は、自分のことを庇って貰えたことよりも、法師然とした弥勒の態度を面白がっているように見えなくもない。
たえの前で腐った部分を披露した覚えはなかったので、弥勒は本日何度目かの苦笑を浮かべ、それに応えた。
いきなり法師を呼び捨てにしちまうガキ、って方が結構凄いぞ…などとは、決して、言わない。
気負ったところがないと言うか。物怖じしないと言うか。
弥勒、という呼び方は、そのたえ独特の気概に加え、彼女の中で芽生えた仲間意識がそうさせているのだとも考えられる。
(たえに取っては)共通点を持った人間として ――― ならばそれも良いだろう、と弥勒は思う。
「たえこそ、よくあそこで我慢しましたな。取っ組み合いになるのではないかと、こちらははらはらさせられましたよ。」
さくさくと畦道を進み、田畑の脇や家屋の前を通り過ぎながら、弥勒は先程たえが少年に掴みかかられた場面を思い出していた。
虐められているのではなく、喧嘩をしているのだと言っていたたえは、雑言を浴びせられるままだった。弥勒が知る限りのたえの気性ならば、彼女の前言もまんざら嘘ではないだろう、と思っていたのだけれど ――― 実際は、そうではなかった。
「だって、"たえ"は"耐える"の"たえ"だもん。」
嘘が露見してしまったことに、少々のバツの悪さを感じているのか、たえは弥勒の方は見ずに冗談めかして呟いた。
耐える
そうやって、今日まで暮らして来たのか ――― と、弥勒はこの娘の境涯を再認していた。
転々と母子で住まいを替えて来たのは、恐らく、村人達の目に追い立てられてのことであろう。耐えて、耐えて、それでも耐え切れなくなったら、居住を替える他にない。
「出て行けって言われても、実際追い出されるまであたしは出て行かないよ。この村だって、置いて貰えるだけで有り難いんだ。だって…」
此処は、おっかさんと暮らした最後の場所だから。
だから、何を言われたって耐えられる。
そう、たえが皆まで言わずとも、弥勒の胸には彼女の思いがちゃんと届けられていた。
「何事にも感謝の気持ちを忘れない、たえは、良い娘ですな。」
腐らずに、曲がらずに、真っ直ぐ明るく伸びゆく、新芽のような。
本当に穢れのない心を持っているのだと、はっきりと、わかる。
「あたしがーぁ?よいむすめ?弥勒って口上手過ぎだよー。」
弥勒の前で振り返ったたえは、そのまま後ろ向きに歩きつつ、あははと笑った。
「いやいや、本気で言っているのだ。」
ちら、と弥勒は背後へ意識をやってから、前を歩くたえの両手をいきなり握ると、
「たえ。ものは相談だが、私の子を産んではくれぬか。」
大真面目で、そう言ったのだ。
へ?と一瞬口を開けて足を止めたたえの次の反応より早く、其処で別の声が割り込んで来る。
「ほっ、法師さまーっ!」
後方から掛かったその声は、弥勒の予想通り。
「法師さまっ、何言ってんだよ。こんな女、やめといた方がいいよ!」
息せき切って法師の背の袈裟を引っ張ったのは、先程たえの髪を引っ掴んだ、あの少年である。
あれからずっと彼が後を()けて来ていたことに、無論、弥勒は気付いていた。
「ちょっと甚太(じんた)。こんな女、って、何。」
先刻とは打って変わり、たえが少年を睨む。
「こんな女だから、こんな女なんだよっ!」
「だからどんな女なんだって、訊いてんでしょっ!?」
「やめなさい。」
弥勒は、今にも掴みかからんばかりの勢いで舌戦を繰り広げ始めた二人の襟首を捉え、右と左へ引き剥がした。
それでもまだ、少年と少女は毛を逆立てた猫のようにいがみ合ったまま。
どうやらたえは、髪の件以外では男に一歩も引かぬつもりであるようだ。
異質な髪に対する村人達の嫌悪については、甘受せざるを得ない環境にあるのだと己を納得させ耐えるけれど、一度其処から離れてしまえば先の彼女の発言通り ――― 喧嘩も辞さない、ということである。
「大体なんで甚太が此処に居んのっ。」
「うるせぇっ。法師さま、たえんちなんてやめて、うちに来なよ。なっ。」
左にぶら下げた、じんた、と呼ばれる少年が、己の方を見上げながら唐突にそう言って来たので、弥勒は、はあ、と曖昧な返事だけを口にした。
すると今度は、
「弥勒はうちに来るって決まってんの!」
と、右のたえ。
「たえんちみたいなボロ小屋より、うちの方が綺麗で広いよ、法師さまっ。」
「ほほぅ、それはそれは。」
猶も食い下がる甚太の誘い文句に、弥勒が初めて興味を示すような声を上げる。これには、流石のたえの顔へも不安が広がった。その窺うような表情を乗せた(おもて)を真っ向からぶつけられた弥勒は、彼女を安心させるに充分足りる笑顔を浮かべ、言った。
「しかしな、甚太。たえは私に借りを返してくれるそうなので、そうもいかんのだ。」
落ち着いたその返答にすっかり気を取り直したたえは、弥勒の右側にぺたりと張り付き、ほらねっ、との一言の後に、甚太へと思い切りあかんべえをくれてやる。
「弥勒とあたしは、同士なんだからねっ。」
「な、なんだよ、借りとか同士とか、なんのことだよ。」
今度は甚太がうろたえ気味な目線を法師へと向けた。それにはやはりにっこり笑った弥勒であったけれど。
「それは、たえと私の秘密です。」
甚太にとっては却って気掛かりとなる言葉をすらりと告げたのだから、悪魔の笑みであったかもしれない。
しかも、弥勒の袈裟に張り付いたままのたえが、
「秘密だもーん。」
などと、とどめを刺したものだから、可哀相に、その少年は蒼白な頬を晒すしかなかった。







「おっかしー。甚太のあの顔。よっぽど弥勒に来て欲しかったんだね。」
再び家路を辿る中、たえはよく笑っていた。
最初に目にした背中からは想像も出来なかったその様子に、弥勒の頬も、自然、緩んだ。
(けだ)し、こちらが本当のたえの姿なのであろう、と。
なれど。
「たえ、本当にそう思っているのか?」
「? 他に弥勒を引き留める理由なんてあるの。」
弥勒の放った問いに対し、たえは小首を傾げて答え遣る。
旅の法師を自分のとこに泊めてやって(はく)をつけたかったんでしょ、などとその理由についての補足を忘れないたえの顔には、何の感慨も、ない。
「…甚太も手段を変えた方が利口だな。」
苦笑混じりにそう小さく呟いた弥勒の言葉の真意を解せずに、たえは少々不機嫌な色に染まった。
「何、弥勒。もっと良い条件を並べられてたら、甚太の方へ行っちゃう気だったってこと?」
弥勒の右隣を歩くたえが、彼を横目で睨み上げて来る。
「まさか。」
その視線にはびくともせずに、弥勒は臆面もなく言い慣れた風の言葉を継いだ。
「このように可憐なおなごの誘いを断って、わざわざ男の方へ行く訳がないでしょう。」
眉根を寄せていたたえの面に、みるみる朱が滲んで行くのがなんとも可愛らしい。
まあ、甚太に姉がいないかどうかを確認するのを忘れてしまったが ――― という部分は、無論、伏せておく。
「…弥勒って、やっぱり、へぇーんな坊主っ。」
たえのこの言い様には、もう慣れた。
慣れた、が。それでも女性(にょしょう)に"変"を強調されるのは些か悲しい。
「大体さ、今日逢った人間に子供作れなんて、言うの?普通。坊主が。」
「大人には色々事情があるのです。」
胡散臭げに問うたえに、前方を見たままの法師がしれっとそんな答を返した。
それを聞いた後、なんと話を繋ごうかと暫し無言になったたえであったが、思ったことを口にしようと、決めた。
「だったら順番てもんがあるでしょ。」
思っても見なかったたえの大人ぶった科白に、弥勒は少々目を丸くする。
これはこれは、目測を誤ったか?
しかし、次に見せたたえの行動は。
「はい。」
まだ成長し切っていないその左手を、無造作に己の胸の高さ辺りまで掲げてみせた。
右脇を見下ろす弥勒の視界へ、たえの開いた掌が映し出される。
手 ――― ?
彼女の意図を直ぐに酌んだ弥勒は、偽りなき笑みを浮かべ、右に抱えていた錫杖を左へ持ち替えると、
「はい。」
そう返事をし、たえの手を取った。
繋がれたその手を確認すると、たえは弥勒を見上げ、安心したように、また、笑った。
この、光を一杯に浴びた鼓草のような笑顔を見ると、何とも言えぬ柔らかな気持ちが喚起されて来るのが、わかる。      (鼓草=たんぽぽ)
どんなに踏み付けられようとも、必ず空を向いて咲く、お日様色の()の花の如く健気な、たえ。
――― もしも。
もしも、自分に家族が、妹が在ったなら、こんな感じなのだろうか ――― 。
らしからぬ思いに、一瞬、絡め取られそうになった時。
たえの手と繋がれた法師の右腕で、数珠が、滅びの呪文を唱え始める。
しゃり、と極小の音で紡がれたそれは、それでも弥勒の耳へは充分過ぎるほどの音量で以て届けられていた。







他人とは、深く関わらぬように、生きろ。
それは、誰に命じられたことでもなかった。
そうやって生きることが、己にも他者にも最善の方法であると導き出したのは、他ならぬ自分自身。
一つ所に留まるには、あまりに時が足りなくて。
それでも見て見ぬ振りなど出来ぬ状況が、この現し世には多過ぎて。
その二つを共存させられる妙法など、そうありはしないから。
必要以上の交わりを避け、この緇衣で出来得ることの表面だけを繕って来た。
心の裏に押し込めた感情が、どんなものであったかさえ、近頃ではよく思い出せなくなっている。
――― それで、良い。
閉められた頑強な扉など、今は開けずとも生きてゆける。
…今は、まだ。