SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



そして、扉は開かれた



‐‐‐ 参







なんだか上手く丸め込まれたような気がする…という思いを消せはしなかったけれど、たえは、どんどん小さくなっていく弥勒の背を瞳に宿したまま佇んでいた。
やがて、彼との会話で何処かへ飛んでしまっていた訳のわからぬ恐怖感が、再びじわりじわりと湧き上がって来ているのに気付く。それに、弥勒が居なくなってしまったことで生じた寂しさが拍車をかけた。
小柄を握り締めた両の手に、薄っすらと汗が滲む。
わかっていたことだ。彼は、あくまでも旅の途中で此処へ立ち寄っただけ、ということは。
けれど初めて得た仲間意識というものに、断ち難い未練が絡み付いているから始末に負えない。
母以外に、初めて己を普通の人間として扱ってくれた人。
同じだ、と、初めて言ってくれた人。
初めて甘えられた人。
――― その時、弥勒の背中がとうとうその視界から、消えた。
「…みろくぅ…、」
唐突に泣きたくなったたえが、思わずその背の消えた方角へ走り出そうとした、正にその矢先。
「よぅっ。」
「ひゃあっ!?」
ばしん、と不意に背中を叩かれ、たえは素っ頓狂な悲鳴を上げた。顎の高さで切り揃えられた短い髪が、さらりと揺れる。
と、同時。握っていた小柄がたえの手から滑り抜け、足元に転がっていた石の上へ落下し…
かつーん、という嫌な音と、たえの再びの悲鳴が重なった。
「な、なんだ!?」
たえを驚かせた張本人である甚太も、尋常でないたえの二度目の叫び声にたじろいだ。
見れば、たえの足元には、(つか)をぱっきりと割らせた小柄の姿。
「げ…」
「甚太の大馬鹿者ーっ!」
涙混じりに一声怒鳴ると、たえはその場へ屈み込んだ。
「わ、(わり)ぃ、これって…」
「おっかさんの形見だ馬鹿ぁーっ!」
慌てて同じように屈み込んだ甚太へ、またもたえの罵声が飛んだ。
この場に弥勒が居れば、さぁーっという甚太の血の気の引く音を聞くことが出来たであろう。
地面には、すっぽ抜けた鞘と、まるで意識的に切れ目を入れていたかのように真っ二つに縦割れした柄の部分。そして、其処から放り出された細く短い刀身。
「…?」
柄は、不自然なまでに綺麗に割れている。
それと ――― 小さく小さく折り畳まれた ――― 紙切れ。
「これ…」
甚太が拾い上げた左右に割れた柄の内側には、人の手によって()り抜かれたらしい形跡があった。となるとこの紙切れは、この柄の中に詰め込まれていたもの ――― ?
掌へ乗せた、細長く折られたその紙を凝視し、自問するたえ。
「…おっかさんの…手紙…?」
予想もしていなかった事の成り行きに、泣きたくなっていた感傷も薄れたたえの意識は、目の前のことにだけ集中していた。
震える指先で丁寧に丁寧にその手紙を開いて行くと、其処には流麗な文字がぎっしりと書き込んであった。
「…なんて?」
「…読めない…。」
地に両手を着き身を乗り出して来た甚太へ、たえは文字と睨めっこをしたままで答えた。
「母親の字も読めないのかよ!?」
無茶なことを言って寄越した甚太を、たえはぎらりと睨み遣り。
「じゃあ甚太は字ぃ読めるっての!?」
「読めるか、ばぁーか。」
「……。」
不毛な会話に終止符を打つと、二人は文字の読める大人を求め、並んで駆け出して行ったのだった。







秋の香を運ぶ清爽な風を裂くような少女の叫喚、ざわめき、怒声。
錯綜する、異様な空気。
それらが、今この村全体を支配していた。
「ぃいやぁーっ!離してってば、離せーっ!」
泣きながら叫んでいるのは、たえ。
彼女の腕を無理矢理引っ張る大人に対し、腰を引いて力の限り抵抗を見せている。
まるで罪人を引っ立てるかの如きその為様(しざま)に女子供等は遠巻きに震え、男達はたえの周囲を取り囲み引き攣った眼差しで煽りを入れていた。
「大人しくしろ!」
「人間じゃねぇ、こいつは!」
「おまえが森へ行けば、全てが丸く収まるのだ!」
入り乱れるその声が、たえの甲高い叫び声へと被さっている。
「待って、ねぇ、たえに何すんだよ!」
先ほどから甚太はそう繰り返し大人達へ取り縋るのだが、誰もまともに取り合ってはくれなかった。
小柄に仕込まれていた、たえの母親の手紙。それを村医師の爺さまに見せたところ、どれどれ、と快く請けた彼の顔は瞬く間に凍って行き、内容を子供二人へ伝えもせずに慌てて村の大人達へ召集を掛けたのだ。
そして、大人達の目の色が変わった。それは、これまでたえを見て来た目など比べ物にならぬほどの嫌悪と畏怖を含んでいた。
何が何やらわからぬまま、たえは糾弾される。
繰り返されるのは ――― 「たえは、人間ではない」
「なんなんだよ、ちゃんと説明してよ!」
大人達の人垣へ甚太が突っ込んでも、怒声と共に軽々と払い除けられてしまい、たえの傍へは近付けない。けれど間断なく耳へ届けられる、たえの声。
「あたしは此処に居る!居させてよっ!何処にも行きたくないよ!」
涙混じりにそう叫ぼうとも、容赦する者は誰一人として存在しなかった。
「この村にバチが当たってからでは遅いのだ!」
「今まで置いてやった恩をその身で返せ!」
根拠も何もわからぬけれど、己へ向けられる、目、目、目 ――― 。
身体の奥底から湧き上がる、恐怖感。力も理屈も敵わぬ大人達に包囲され、たえは半ば恐慌状態に陥っていた。
自分は人間ではないと言う。それは、この髪の色がいけないのだろうか。ならばいっそこの髪を全て剃り落としたって構わない。仕事だっていくらでもする。だからどうか、この村へ置いて。
しかし、そんなたえの懇願にさえ、村人達は聞く耳を持たなかった。
うわあぁぁん、うわあぁぁん、と泣き叫ぶ少女を、強引に村の外へと連れ出そうとするその姿勢は緩まりはしない。
「やめてってば!父ちゃん、たえが何したってんだよ!」
村人達の先頭に立つ己の父へようやく辿り着いた甚太は、その腰の辺りへ縋り付いた。
「うるさいっ!おまえは黙ってろ!」
間髪入れずに飛んで来た、父の右腕。甚太はそれをまともに喰らい、思い切り後方へ吹っ飛ばされる。その時、たえの顔が視界を掠めた。
たえは、泣いていた。
自分がどんなに虐めても、涙一つ零さなかった、あのたえが。
ずざざっ、と地面を滑った後に、甚太は切れた口端を拭う。手の甲に少量の血が付いて来た。
「…なんでだよ…。」
たえの緑帯色の髪を囃し立て、一番虐めていたのは、自分。
泣かせたい訳ではなかった。そんなことをしても、たえが泣かないのはわかっていたから。
皆が気味悪がるその髪に、ただ、興味があったから。
その不思議な髪へ触れてみたいと思っても、その方法を知らなくて、虐めることしか出来なかった。
「なんで、こんな…?」
大人達だって口ではあんな風に言っていても、誰もたえに直接手を上げたりはしなかったくせに。
なのにどうして、今になって。
人間ではない、などと。
「…泣いてるじゃねーか…。」
千切れそうに悲痛な、たえの叫哭が聞こえる。
「あんなに泣いてんのに、なんで人間じゃねーんだよーッ!」
こちらを振り向きもしない大人達の背中へ、甚太は声を張り上げた。なれどやはり、それは何の効果も齎しはしなかった。
聞いてくれない。掻き消されてしまう。たえの声も、自分の声も。
甚太は、目の前が真っ暗な闇に覆われて行くのを感じていた。
このままでは止まらない ――― 止められないのだ。
この、狂った真昼の煽動夜を。
どれほど叫んでも頼んでも、聞き入れて貰えないことがあるのだと甚太は生まれて初めて知る。
小さなこの手は、こんなにも無力で。
どうすれば良いのか、もう甚太はわからなくなっていた。どうにかしなければならないことはわかっているのに、その方法が見つからない。これまで目にしたこともない大人達の荒々しい姿に、足が竦んでいるのも、事実。
でも、誰かが止めなければ、きっとたえは殺される ―――
――― 止められる、誰か。
弱気な涙を拳で一つ拭うと、甚太はすっくと立ち上がった。そして向かうは ――― 狂気めいた渦の外に立つ、老医師のもと。
「あっ!」
医師が気付いた時には、彼が握っていた手紙は足音も立てずに近寄って来た甚太に既に奪われており。
「こりゃ甚太、待たんかっ!」
その制止する言葉などは無論無視し、奪取した手紙を懐へ入れた甚太は力の限り地を蹴っていた。
――― あの人が此処を発ってから、まだ幾らも経ってはいない。
まだ、間に合う。絶対に。







てくてく、しゃらん。てくてく、しゃらん。と、なんとものんびりとした歩みと錫杖の鐶の音色が似合う、青年僧がひとり。
ふあぁ、と欠伸をしながら飄々とした足取りで道を行く。
先ほど発ったばかりの村のことなどを取り止めもなく思い出しながら。
「たえと甚太、今頃仲良くやっていれば良いのだが…。」
暢気にそのような独り言を呟きつつ旅を続ける弥勒であったが、その耳が極小の音 ――― 声を捉えた。
「……?」
気の所為かと思いつつも耳を(そばだ)ててみる。
「…ほ…さ、…」
どうやら空耳ではないらしい。確かに聞こえる、人の声。
しかし、くるりと辺りを見回せども、目に映るのは人気のない真っ直ぐに伸びた道と、何処までも広がる野っ原のみ。足を止めた弥勒は、その場で暫し声の出所を探った。
すると、次第に近付いて来るその声は"法師さま"とはっきり形成されていき、そして今弥勒が歩いて来たその道の上に姿を現したのは ―――
「じ、甚太…?」
駆けて来るその小柄な姿を認め、弥勒は驚きの声を上げていた。
「法師さまーっ!」
必死の形相でこちらへ走って来る甚太へ、弥勒の方からも歩み寄る。
「どうしたのだ、甚太。私を追って来たのか?」
村からの道筋が限られていたのが幸いし、甚太は弥勒を捕まえることに成功していた。
だが、両手を膝へ置き、ぜぇーっ、ぜぇーっ、と激しく肩を揺らす甚太は中々顔を上げられない。
「ほう、し…、たえ、…止め…っ」
そんな、要領を得ない言葉の切れ端が弥勒へと届けられるばかり。
「甚太、焦らなくても良いからまず息を整えなさい。」
少年の背中を擦るように手を置いた弥勒であったが、
「そ、んな暇…じか…ないんだって…!」
ようやっと顔を上げた甚太の表情から、切羽詰った状況を読み取った。
「何があった?」
「たえ、を…助けて、法師さま!」
徐々に戻る呼吸さえも待っていられずに、甚太は無理矢理声を絞り出した。
「たえがどうかしたのか?」
努めて冷静に弥勒が問う。それでも甚太の焦りは止まるところを知らず溢れ出す。
「たえが、人間じゃないって…あのままじゃ、村を、追い出さ、れる、どころか…っ」
殺される。その最後の一言までは流石に息が続かなかった。
「どういうことだ。甚太、ちゃんと説明」
「これ…っ、これ、読んでか、ら、村のみんながっ、おかしいんだ!」
眉根を寄せる法師の言葉を遮り、少年は懐から掴み出した手紙を弥勒の胸元へと押し付ける。
「手紙?」
「たえの、かあちゃんの手紙!小柄の中から出て来た…っ」
説明するのももどかしいように続ける甚太から手紙を受け取る、弥勒。
「たえの…母御の?」
「なんて書いてあるのか、俺とたえにはわかんなくて、そしたら…!」
甚太のこの狼狽振り。それに、弥勒の内心も波立ち始める。たえの身に、重大な"何か"が起きているのだ、と。
その僅かな焦燥を隠しつつ、弥勒は問題の手紙へと目を移した。
小柄の中から、と甚太は言った。なるほど、手紙には細かく幾筋もの折り目がついており、細い柄の中へ仕込まれていたのだろうことが容易に知れた。
弥勒はそれを広げると、女性らしい筆跡で書かれた文字を追い始める。
するとその整った顔が、徐々に強張って行き ―――
その表情を見た甚太は、まさか、この法師も村の大人達と同様の反応を見せるのでは、と、不安を抱かずにはいられなかった。
「…どうしたんだよ、法師さま。何が書いて…?」
気が急いて、堪らず甚太は法師の袂を掴み、問う。
けれど、呆然と立ち尽くした弥勒の口から零れたのは、少年には理解し難い独り言。
「馬鹿な…」
「法師さま…?」
手紙を凝視したままの弥勒へ、最早甚太の声は届いていない。
代わりに、紙面に記されたその一言が彼の頭蓋の中を駆け巡り、激しく鼓動を掻き乱す。
そんな、馬鹿な。
「あのたえが… " 神奈備(かんなび)緑児(みどりご) " だと…?」







女は、俗世で言えば嫁期に当たろうかという若い巫女であった。
古い神社に仕えるその女を、姉とも母とも慕って来る村の子供達。
裕福な家の子も孤児(みなしご)も、女は分け隔てなく慈しんでいた。それで、幸せだった。
女は、空女(からおんな)であったから。
この先、子を授かることはない己が身を神とこの幼子達の為に捧げることに、何の迷いもありはしなかった。
けれどその平穏で幸せな日々は、一瞬にして打ち砕かれる。
戦の累及により村を焼け出され、皆散り散りとなった。一人一人の存否や行方を追うことなどは無論能わず、女も独り彷徨う身の上となる。
そんな中、迷い込んだ静謐なる森の奥深く。
眼前に広がる山躑躅(つつじ)という自然の垣、其処へ溢れんばかりに咲き誇る真白の花々。
その枝と花に抱かれるように ――― 赤子が眠っていたのである。
女は仰天した。
このような場所に、乳呑児が居ようとは。親らしき姿も見えず、その素性を示すものも皆無。であらば、何らかの理由により捨てられた子であろうと思うのは、当然の判断で。
土や煤に(まみ)れてしまったその細腕で、女はその赤子を抱き上げる。すると、眠っている筈のその子は、微かに笑ったように見えた。
この子を、育てよう。
これは、子を産めぬ己に舞い降りた神の思し召しに相違ない。
女はそう思うと、風を増しざわめき始めた木々の葉音に追われるように、赤子を抱え、その森を後にしたのであった。


再び手にした幸せ。
流れ着いた村で巫女としての務めを果たしながら暮らす女の傍には、あの日拾った ――― 我が子。あの日から、二年の月日が流れていた。
子供は女に良く懐き、傍から見ても本当の親子かと見紛うばかりの様子で、其処には幸福な未来が約束されているかのように思えた。
そのようなある日、女は薬草を摘みに子を伴い森へ入る。
はしゃぐ我が子を目を細めて眺める女は、其処で信じられぬ光景に遭遇した。
長引く日照りで枯れ始めていた、蛍袋の群れ。それを慰めるように、子供はその花を小さな手で撫でてやっている。そうしたら、突然火が点いたように泣き始めたのだ。
女は驚き、急いで子を抱き寄せると、桃色の筈のその頬からは血の気が失われていた。そして冷たくなってしまっている娘の手足を認識した。身体は力が抜けたようにぐったりしている。泣く力さえ次第に失われていき、子はとうとう意識をなくしてしまった。
唐突なその出来事に狼狽する女の目に映ったのは、蛍袋。今しがたまで枯れていた筈のその花が、むくり、むくりとその身を膨らませ、鮮やかな色彩を取り戻していく様は…夢か幻か?
すっかり萎れていた葉もぴんと張り、まるで今咲いたかのような瑞々しさ。それが、群れ全体へと伝播していっているのである。
これは、なんだろう ――― ?
まるで、何か特別な養分を得たように生き返ってゆく植物達。
瞠目した女は、恐れを感じながらもその光景から目を離すことが出来なかった。
まさか。
まさか ――― と、我が子へと視線を移した女は、ぎくり、と身を硬くする。
益々青白くなっていくその頬はもとより。女の目を奪ったのは…娘の髪の色。
ふさふさとしたその髪は先ほどまで真っ黒であった筈なのに、何時の間にか緑色を帯びているではないか。
この子を拾った時と、現在の状況。それらを加味し、女の中で導き出された、答。
女は、娘を背に負うと全速力で駆け出した。
逃げるように。
喰われる。喰われてしまう。
空へ向かって張り巡らされた枝葉達が追って来ているように感じられるのは、錯覚ではないだろう。
――― なんということ。
この子は、この、己の大切な娘は ――― 神奈備の緑児だったのだ。
…それが、女の辿り着いた結論であった。







神奈備(かんなび)の、緑児(みどりご)
それは、古くからある伝承。
その存在を神より授けられし森や山林は、永遠に枯れることない豊かな緑を保ち続けるのだという。
故に、何時如何なる時も緑を絶やさぬ場所があれば、それは神奈備の緑児の齎す恩恵であると考えられていた。
けれどまさか、その天眷の使いが真実嬰児(みどりご)の姿で現れようとは。
突如現出した髪の色以外は、何処からどう見ても、娘は人間の姿である。
出逢ったあの日も、今も。
あの日、恐らく緑児は使わされたばかりであったのだろう。そしてあのまま緑の為に、その身を、甚大なる力を捧げる ――― 有り体に言えば、"己と言う養分を森へ喰わせる"筈だったのだ。
それを、一人の女が連れ去ってしまった。そして、今に至っている。
巫女である己でさえ考え及ばなかった、青天の霹靂。
引き離されていた緑児とそれを求める植物の群れがある日再び出会い、子は本来の姿に立ち戻ったのだ。人界に紛れていた神秘の血が、目覚めてしまった ――― 神奈備の、子。
けれど、今日の今日まで人として、我が子として育てて来たのだ。本当の母のつもりで。それを今になり、緑豊かなる為の礎にするなどと何処の親に出来るだろう。
我が子が緑に喰らわれて行く姿を、大人しく受け容れられる母親など。
今更緑の元へと帰すことが…還すことが、出来ようか。
そう。答は否、だ。
見た目の異形、そして人外の力の流出を少しでも防ぐ為、女は全身全霊で以て一粒の勾玉へ封じの念を閉じ込めた。それを、娘の首へと掛けてやる。
そしてその後、女は巫女である己を捨てた。
神に背くことになろうとも、この子を人として育て守って行こうと決めたのだ。
それでも、どれほど強く封じても成長を続ける娘の髪は日毎夜毎に本来の色を滲ませて行く。
周囲からは奇異の目で見られ、そして煙たがられ、長く留まれる場所など在りはしなかった。
結果、目立たぬように気を遣い、転々と住処を替えるという流浪の人生が待っていたけれど、それでも親子は幸せだった。
二人が共に居られるだけで。
なれど、女は病に倒れる。
娘を遺して逝くことに、膨大な不安が圧し掛かるのは当然のこと。娘には、まだその背負った境涯について一言も伝えてはいなかったのだ。
なんと伝えたら良いかと考えあぐね、十年の歳月が疾うに過ぎている。
全てを封じている勾玉も、そう何時までも()ちはしない。何時かきっと、封印の力を凌駕した神奈備の霊力が現ずるのは自明の理だ。
例え緑から遠ざけようとも、他人に真実を見咎められればどんな処遇を受けるかは想像に難くない。
それは、娘の人としての命が失われるのと同じこと。
神奈備の天恵が、なんだと言うのだ。
そんなものよりも、もっと間近で。肌の触れ合う近さで。
この子は、何もかも失った自分へ人としての喜びをこの上ないほどに与えてくれた。
自分は先に逝くけれど、恵み多き人生であったと躊躇なく言える。
それは全て、この子のお蔭。
逃げ隠れする人生であったとしても、きっとこの子は強く優しく生きてゆける。
生きて、欲しい。


――― この子は、人です。
心優しき、人間の娘です。
だからどうか、この子を心底思ってくれる、誰か。
この子が、真実信頼出来る、誰か。
娘をお守り下さい。
人として生きる道を、閉ざさないでやって下さい。
残念ながら、私にはもう、再び封印を施してやれるほどの力が残ってはおりません。
今こうしている間にも、封印の解かれる日が刻一刻と迫っているのです。
この手紙を読んでいる、誰か。
愚かな母の我儘とお思いでしょうか。けれどそれでも構いません。
私の代わりに、どうか、力になってやって下さい。


我が娘 ――― 多恵(たえ)、の。







手紙は、母の切なる願いで結ばれていた。
文字の端々から溢れ零れる、娘を思う母の情。多恵と出逢い、どれほど幸せだったのかという、その背景と共に。
「…神奈備の緑児を、人として、守れと…?」
紙面からは一向に目を離さぬまま、弥勒は一人ごつ。
俄かには信じ難いたえの真実の生い立ちも、よくよく考えれば全てに思い当たる節があった。
村人達にしてみても、驚愕の事実だった筈である。
知らなかったとは言え、結果、神奈備の緑児を何処ぞの森から奪い、隠していたことになってしまっているのだ。大それた己等の無意識の行いに動転し、手紙の中の心情を慮る余裕など失われているに違いない。結局、娘へ全てを告げられぬまま死んだ母の無念など。
そして読後に彼等の胸に残るのは、絶対的な畏れのみ。無論それはたえに対してではなく、神奈備に対してのもの。そうなればたえが(うやうや)しく扱われる訳はなく、それどころか逆に ―――
「法師さま…?」
其処で再び甚太に袂を引かれ、弥勒はようやく我に返る。
「ねぇ、たえを助けてくれるだろ?たえは人間だろ?」
縋るように見上げて来る、甚太の瞳。
しっかりと袂を捕えて離さぬ、幼い手。
…己は先刻、この手を振り払ったのだ。
怖いと言って縋るたえを、ただの甘えと侮って。
あの時たえは、本能で察知した恐れを訴えていたのだ。
なんという浅はかな真似をしてしまったのか。もっと真剣にたえの言い分を聞いていれば、今の逼迫した状況は避けられたかもしれぬのに。
――― あの子は、人です。
――― たえは人間だろ?
――― 緑に喰われぬように、どうか、守って。
何故、気付かなかった。彼女の纏う、あの清浄な気配に。
迂闊であったと悔いようとも、何もかもが、もう遅いのか。
ぐしゃ、と甚太の頭を乱暴に一撫ですると、弥勒は己が今通って来た道を顧みた。
「…大人達は、たえを森へ連れて行こうとしていたのだな?」
幾分落とした声音で弥勒が問うと、甚太は、うん、と頷いてみせる。
弥勒は錫杖を、ぐ、と握り直した。
時間の経過を考えれば、直接森へ向かった方が早そうだ ――― だが、間に合うか?
弥勒は自問しつつも、それしか方法はあるまい、と結論付ける。
「ほ、法師さま…っ!?」
「おまえは村へ戻りなさい!」
呼び掛けて来る少年へそれだけ返した法師は、既に疾風の如く走り出していた。
たえを救えるかどうかなど、弥勒にもわかりはしない。
例え、封印と言う名でその芽を幾度枯らせども、たえの中の神奈備の種子(たね)は育つだろう。
…なれど。
今、喰らわれんとしているあの少女をみすみす見殺しになど出来ようか。
それが天道で、本来あるべき姿だったのだとしても ――― 自分は、人間であるあの少女を知ってしまったから。







――― 私達は、変わった髪を持つ似た者同士ということになりますか。
――― それもあたしとおんなじだね。
それは、その場を凌ぐ急ごしらえの連帯感だった筈。
たえの孤独の慰めになるのなら、と。
けれど、意図せぬところでそれは真実となった。
封印がその効力を失えば、喰われるこの身。
緑に ――― 風、に。
多恵というあの少女は、喰われる為に生まれ出でた存在である、と。
喰われる為に?
喰われる為だけに、生まれて来ただと?
自身の意識も意思も無きものとされ、何時か全身を支配する忌避不能の力を内に秘め。
たえは、緑に喰われる為に、生まれた。
俺は、魔の風を継ぐ為に、生まれた?
そうだ ――― 俺達は、似ているのだ。
我が身は…我等は、不可避なる宿命(さだめ)を背負いて此処に在る。
たえよ。
多恵、よ。
おまえも今、喰われるのは嫌だと嘆きの声を上げているのか ――― ?