SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



~あひ見しも まだ見ぬ恋も~



‐‐‐ 参




ざざざざざっ、と地を這う音と邪気を伴い迫り来るのは…
「!」
どがっ、という激しい激突音と共に己が今居た場所へ突き刺さっているのは、樹木の根がうねっている様な、異形の(やいば)。 余裕を持ってそれを避けた貴晶(たかあきら)の視界へ、薄闇の中に浮かび上がる白が、ちらちらと映る。
『ほぅ…餌が退治屋に化けたか…。』
直接脳へ話し掛けるが如き悪感触を及ぼす、その声。
一日の中で最も視界を狂わせるこの刻限の曖昧な闇と、数多の大木に邪魔をされ、その白い影の正体をはっきりと認める事は出来ないまでも、その身体から幾筋もの"根"が生え、それを彼奴が自在に操っているのであろう事は、貴晶にも読み取る事が出来た。
(なんだ、ありゃぁ…。)
身体の、一部なのか。ざわりと蠢く蛇の様なあの触手は。
それにしたって、身体を圧迫する様なこの妖気のでかさは、なんだ?これ程の大物には、終ぞ出逢った事がない。
それでも。敵おうが敵うまいが、今背を見せて逃げる事だけは出来なかった。
あの童女が逃げ(おお)せるまで、何としても時間稼ぎをせねばならない。
「てめぇ…何者だ?」
貴晶が、駆け引きも何もない、素直な問いを投げた。
『小僧如きに名乗る名など持ち合わせてはおらぬ…。』
くくく、と、笑み交じりに彼奴は答えたが、何かを窺う様な幾らかの沈黙の後に、ゆっくりと呟いた。
『…おまえの匂い…以前にも、何処かで似た様な…?』
「!?」
その妖の言葉に、貴晶がぴくり、と片眉を上げた。
俺と、同じ匂いを持つ者 ――― それは。
…血の、為せる業?
『…そうか、小僧。きさま…藍晶(らんしょう)(せがれ)か?』
その彼奴の科白と同時、点と線の繋がった貴晶の予想は現実へと形を変えた。
やはり。
「てめぇが親父を…?」
操られていた、父親。父ほどの腕利きが、そう容易く乗っ取られる訳がない。ならばそれは、その父の力をも凌駕し得る程の強大な力を持った妖が関わっていたという事に他ならない。
『…くっくっ。そうか、あの役立たずの、倅か…。』
「きさま…っ」
炙り出される様に、じわり、と湧き上がるのは屈辱感と、憤怒。
貴晶の激昂した様子が、見えるのか。妖は、嘲笑する様に猶も続ける。
『どうする、小僧。きさまが今一度このわしの手足となり働くか?さすれば、この場での落命は免れよう…。』
その科白が言い終わらぬうちに。
背に負った二本の棍を目にも止まらぬ所作で引き抜いた貴晶は、両の腕を真っ直ぐ前方へ突き出し、構えの体勢に入っていた。
「誰がてめぇの薄気味悪い手足になんぞ化けるかよ…。」
がちゃり、と。己の目の高さで、ゆっくりと棍の凹凸を合わせ遣る、貴晶。
最早、時間稼ぎなどは頭から消えていた。どうあってもこやつとの対峙は免れぬものだと、悟る。
父を尊敬していたとか憎んでいたとか、そういった感情さえも涌かず、ましてや「父の仇」「父に代わり」などと、血の(あがな)いを唱えるつもりも更々ありはしなかったが。
今、此処で退く訳にはいかぬ。
此処で逃げ帰ったならば、お頭にも、里の皆にも、会わせる顔はないと思った。
(尤も、逃がしてはくれねぇだろうが…。)
『このわしと戦うを選ぶか、天晴れな事よ。まあ良い。きさまの力など借りずとも、妖怪退治屋の里などという愚の骨頂の権化は、何れ必ずや消し去ってくれよう…。』
「ぬかせっ!」
叫ぶ貴晶の声と同時。奴の哄笑が響き渡る山奥で、生き物の如き尖鋭が、其処彼処で唸りを上げる。
つぅ、と、こめかみを流れ行く一筋の冷たい汗を拭いもせずに。
たった一つ、浮かんだ後悔。
すまない、珊瑚。 どうやら…約束は、守れそうにもないらしい ―――







一体、どれ程の刻が過ぎたのだろうか。
陽の名残は欠片も残ってはおらず、煌々と、暗闇をも照らし出す明度の高い満月だけが頭上に浮かんでいる。
退治屋が男は、疾うに、満身創痍であった。それでも致命的な怪我を負っておらぬのは、己の実力か、はたまた彼奴の人間に対する愚弄であるか。
貴晶の、ぜいぜいと上がる息を無視するかの如く、彼奴の長大な触手は次から次へと襲い来る。
「ちっ!」
盛大に地を蹴り跳び上がった貴晶は、落下して行く身体の全体重を己が得物へ預け、触手の上へ着地すると同時、それを垂直に刺し貫いた。それがぼろぼろと砕け散るよりも早く。
別の"根"が背後に迫っているのを感じ取り、突き立てたままの棍を握る右手へ力を込める。次の瞬間には、長躯は中心から二つに分かたれており、その右の一本で以て、妖の体躯を振り返り様に薙ぎ払った。
ばさばさと土塊が零れる様に、眼前で崩れて行く彼奴の一部。それは、どれほどに繰り返そうとも氷山の一角でしかなく、視界の届く限りに蔓延(はびこ)った妖の刃は一向に衰えを見せない。しかし、それとは逆に消耗されて行くだけの己が体力。
このまま、嬲り殺しにされるのか。
粉砕した先から再生して行く、この、妖に。
確かに、手前の実力と敵の強力を量り兼ねる程愚かではない。戻れはしないと、覚悟を決めて臨んだ戦い。それでも猶、心は(はや)る。
帰りたい、と。
皆の待つ、あの、故郷(ふるさと)へ。
終われはしない、このままでは。
憎き彼奴の顔さえ未だ見てはおらぬではないか。
まだ一つ、生きて帰る術が残されているとするならば。
この彼奴の触手を潜り抜け、本体と思しきあの白い身体へ迫る事さえ出来れば。
万に一つでも、可能性は、あるやも知れぬ。
只中へ飛び込む事が、如何な危険を孕むものか承知しているけれど、逡巡する猶予などは最早ない。
体力と気力が、尽きる前に。
――― もとより、覚悟は決まっているのだから。
決心を秘めた退治屋の少年は、一つ、息吹いた後。無理やりに整えた呼吸と共に、戻れぬ一歩を踏み出した。
『なかなかに楽しませてくれるものよ…。』
低く発せられる、彼奴の声の中。
幾重にも重なり邪魔立てする尖鋭なる幕を薙ぎ払い、貴晶は、韋駄天の如く駆ける速度を上げた。
『!?小僧…』
視界を遮る触手の嵐の中を、両手に握った得物を駆使し、右へ左へ身体を旋回させながら突っ切って行く、貴晶。腕の、足の肉を削ぐ刃は雨の様に降り注ぐけれど、敢然と疾走する足は緩まない。
誰にも止める事など叶わぬ、畏れも迷いも含まぬ屹然としたその双眸は、唯一つ、貴き願いの高みの元に存在する帰結を目指すのみ。
体中から流れ出る鮮血を、庇いもせずに。
「!」
目指す先へ今少しで辿り着こうかという刹那。
上空から、一際巨大な先端が、迫る。
それが振り下ろされたと同時。紙一重で避けた貴晶は、その"根"へ右足を掛けると、たたっ、と二、三歩駆け上がった。そして次に着いた足へ力を込めると、思い切り、その足場を蹴った。後方へ、しなやかに一回転する身体。ぐるり、と廻ったその身体の足先が宙で捉えたのは、大木の幹。再びその幹を足場に、たんっ、と跳躍した貴晶の身体が、間を置かず前方へと飛んだ。
『!』
白い物の怪の至近まで一気に距離が狭められる中、中空で再び棍を繋ぎ合わせると、貴晶はそれを大上段へと振り被った。
「てめぇっ!」
渾身の力を込めた己の使いを、一息に振り下ろす。
「顔を見せやがれッ!」
彼奴の頭頂を、寸分違わずに捉え。
どがががッ、と、激しい潰乱音が鳴り響く。
白く見えたのは、皮を被って…?
そう、貴晶が思った刹那。
一瞬の、間隙を突いて。
彼奴の背後から、がばと現れ出でし、先端鋭き蛇流の触手。
(しま…ッ)
其は、裁きの御手か。
帰属するは、神か仏か、地獄の ――― 魔、か。
目前に迫ったその妖の刃へ重なる様に。
一人の娘の、笑顔が見えた。
跳び退く(いとま)も与えられぬまま。
貴晶は、その笑顔の主の名を、呼んだ。







「どうした?珊瑚。疲れたか?」
前を歩く御影(みかげ)が、立ち止まった気配を感じ取り、後方の珊瑚を振り返る。
ようやく一つ山を越えたばかり。退治の依頼を請けた村は、未だ遠い。
「いや、なんでもない。」
顔を上げた珊瑚は、御影へ首を振って見せながら小さく笑んだ。
誰かに呼ばれた様な気がしたなんて、どうかしてる。こんな陽も落ち切った刻限に、しかも里の外で、誰があたしを呼ぶと言うのか?
「そうか?なら、今夜の内にもう少し先へ進んでおきたいんだが、平気か?」
「うん、大丈夫。」
御影の言葉に、こくり、と頷いてみせる、珊瑚。真実は、少しでも先送りにしたいところであった。足取りの重さの理由は、己が一番良くわかっている。
進めば進む程、里へ帰る日が、近付いて来る。
貴晶と交わした、約束の日に。
このあたしに、何を話すと言うのだろう。改まって、あの、貴晶が。
(予想なんか、ついてるのに…。)
そう。なればこそ、その時が来るのを恐れているのだ。
面と向かって突き放される事を、この心が、恐れ(おのの)いている。
自分の許婚は、御影ではあるけれど、それを意識した事などなかった。御影も貴晶も、己の中では同じ退治屋仲間で、兄妹のようで。
それ以上でも以下でもなかったから。
婆さま同士の酔った上での戯言に、いちいち反応するほど将来の事に興味もありはしなかった。だのに、何時からだったか、貴晶を視線で追ってしまう自分に気付いていた。
そう、その意味もわからずに。
そして今、彼は阿古耶と一緒になるのだと、あの憎らしい事ばかりを言う口で、あたしに告げるのだろう。この疎い心が目覚めるきっかけがそれとは、皮肉なものだ。
どう、祝福してやれば良いのだろう。あたしは、笑っていられるだろうか。
ようやっと認識したこの想いを、眠らせたままに。







五日振りに戻った里は、何やら様子が違っていた。
「御影…何か、変じゃない…?」
「俺も、そう思う…。」
砦を潜った後、皆、一様に口を噤んでしまっている様な。
何時もの笑顔も冗談も、其処には皆無であった。お疲れさん、お帰り、と、遠巻きに声が掛かるだけ。
並び歩く珊瑚と御影は、顔を見合わせ首を傾げるばかり。
「お帰り、珊瑚、御影。」
ようやく正面から声を掛けてくれたのは。
真っ赤に目を腫らし、やつれた頬へ薄く笑顔を浮かべた、阿古耶(あこや)であった。







「…う、そ。」
至極小さな珊瑚の呟きは、誰ぞの耳へ届いただろうか。
案内された其処には、真新しい土が盛られており、その上に石を乗せた簡素な墓が在った。
「おまえ達が戻るまで待つべきだったのかも知れぬが…この、暑さだ。勘弁して欲しい。」
里長である父が、言った。
死んだ?貴晶が?
この盛られた土が、彼だと言うのか?
「可哀想に…傷だらけになって、余程抵抗したのだろう…。」
涙混じりに誰かが呟く。
「嘘だっ!」
珊瑚が堪らず、叫んだ。
「傷だらけ?貴晶が?そんな訳ないじゃないか!そんな風に言うなっ!」
体中を負傷し、為す術もなく死んでいく貴晶の姿など、想像するのもおぞましかった。
「…誰が…?」
珊瑚が怒鳴った後、片膝を着き、墓の前で黙していた御影が、低い低い声音で、誰へともなく問う。
「誰がやった、貴晶を…!」
一般の刀の二振り分は悠に超えていようかという、幅広の大太刀の鞘の鍔元をがちゃりと握り締める、御影。
「わからぬ。白い妖だったとしか…。」
あの日駆け込んで来た童女の語りでは、明瞭な手がかりを掴む事は出来なかった。
報せを聞き、急ぎ駆け付けた曹灰(そうかい)等数人の退治屋達の目の前に現れたのは、疾うに冷たくなった年少の仲間の姿のみで、妖怪の気配は毛の先程も残されてはいなかったのだ。
そう答を寄越した曹灰の言葉も、御影の耳へは届いているのかいないのか定かではなかった。
俺も、御影の事、好きだからな ―――
何時の日だったか、そう呟いた貴晶の声を思い出す。
ずっと、ずっと、共に在るのだと思っていた、誰よりも気の置けぬ仲であった、あの同胞(とも)が。
今はもう、この世には居ないと言うのか。
別れの言葉さえ、交わせぬままに。
途端、見えぬ何かを睨む様な(おもて)を晒した御影が、大太刀を掴んだまま立ち上がった。
「何処へ行く、御影。」
そのただならぬ雰囲気に、曹灰が少年の肩を掴む。しかし、御影はその掴まれた肩の方を振り返りもせずに、
「決まっている。その白い妖を探し出してぶっ殺す!」
普段の彼からは考えられぬ、激情のままに生まれた言葉を吐いた。
「勝手な振る舞いは許さんぞ。」
「じゃあなんでその妖をほっぽったままなんだよ!?冗談じゃねえッ!」
「我等がこの四日の間、ただ手を(こまね)いていたと思うか!探し当てられたならば疾うに退治しておるわ!!」
止める曹灰の声に、激しく糾弾の言葉を浴びせ掛けた御影であったが、それを上回る怒声が返る。しかし、かけがえのない友を失った少年は、それでも怯む姿を見せなかった。
「けど…ッ!このままそいつをのさばらせてなんかおけるかよ!?俺一人ででもそいつを見つけ出して」
「貴晶が単独で敵わなかったものを、喩えおまえ一人で仇敵を探し当てようとも同じ結果しか出ぬ。」
曹灰の方へ向き直り、猶も反駁する御影へ発せられたのは、凛冽なる、声音。
静かな空気を纏ったまま、里長が、真っ直ぐに御影を射抜いていた。
御影と貴晶の戦闘力は、五分と五分。故に、先に発せられた科白は、己が実力を過信した愚言とも取れる、幼き驕慢。それを容赦なく指摘した里長の言葉は、心情が高ぶり見境を失った御影でさえも口を噤んでしまう威厳を保っており。
けれど、次に口にしたのは、慈愛と哀絶が混交されたものだった。
「…わしに、これ以上同じ思いをさせてくれるな、御影…。」
辛いのはおまえだけではないのだと、これ以上若き命を散らしてくれるなと、里を統べる長は言外に告げていた。
己が手に懸けた、同志と。その一粒種を、今また失い。
その悲しみと悔恨は如何ばかりかと、曹灰は、(かしら)を差し置き先に声を荒げてしまった己の短絡さを恥じた。
御影とて、静まり返った周囲の意思を汲めぬ程、愚昧ではない。どう足掻こうとも、散じた命を取り戻す事の能わぬ現実を悟り、貴晶の墓の前へ再びがっくりと膝を折った。
兄弟同然の貴晶の死に際し、誰よりも傍に居た筈の己が、弔う以外に何もしてやれぬ口惜しさ。
俺達は、こんなにも無力だっただろうか…?
握り締めた拳を力の限り、どがっ、と地へ叩き付ける。その御影の拳にじんわりと血が滲み、その血と…ぽたりと上から落ちて来た透明な水滴が、地表から奥へと吸い込まれて行った。
その、まだ幾分大人のそれには成り切ってはいない肩が、小刻みに震えているのを呆然と見詰めているのは、珊瑚。
御影は、泣いているのか?
どうして?どうして信じられるというの。貴晶が死んだなど。
涙なんか、出ない。
嘘に、決まってる。でなければ、これは悪い夢なんだ。
「珊瑚、おまえも手を合わせてやっ」
里の者が促す言葉を最後まで聞かず、
「貴晶は死んでなんかないっ!」
重く沈んだ空気を引き裂く様に、珊瑚は、再び大声を張り上げていた。
「死ぬ訳ないだろ!?貴晶が!あいつに敵う妖が、何処に居るっていうのさ!?」
ゆっくりと、一歩、後退る。二つに結んだ艶髪が、頭を振る珊瑚の動きに呼応し、その前身で緩く揺れる。
「貴晶は死んでない!死んだりしないッ!」
「珊瑚。」
阿古耶が、優しい声音でその名を呼んだ。
「…だって…あたしは貴晶の亡骸なんて見てないもの!それで信じられる訳がないだろうっ!?」
其処まで一気に捲くし立てたところで、阿古耶の両腕が珊瑚の背中へ回された。
きゅう、と、母の如く、優しく彼女を抱き締める。
「…阿古耶は…見た、の…?貴晶を…?」
その抱擁に鎮められたかの如く、珊瑚が声音を落とし阿古耶へと問うた。
「…綺麗な、顔、してたよ…。」
何時もと変わらずに。ただ、眠っているだけかの様な。
阿古耶の答えは、珊瑚の耳の奥へと溶けて、消えた。
「だって…あいつ、あたしと約束したの。貴晶…約束破ったり、しないもの。」
消え入る様な声差しで珊瑚はそう言うと、阿古耶の腕から摺り抜け、貴晶の墓に背を向けた。







帰村してから、三日が経っていた。
仕事もなく穏やかな筈のその時間を、どうやって過ごしたのか覚えていない。
昨日は、どうしていたっけ。一昨日は?ううん、それよりも、今朝起きてから今まで、何をしていたっけ…?
御影も、訪ねては来なかった。恐らく、彼も自分と同じ様に時を遣り過ごしているのだろうと、珊瑚は思う。
たった一つ違うのは、珊瑚は未だ貴晶の死を受け入れる事が叶わずに、涙一つ零してはいない事。里の者達は、なんと健気な、などと噂しているが、それが珊瑚の耳へ入れば彼女の逆鱗に触れてしまうのはまず間違いない。
琥珀は、姉の尋常ではない放心振りを懸念し、雲母と共に、彼女の傍を離れようとはしなかった。
子供じみている、と、自分でも思う。
亡骸が揚がらない事などは、戦ともなれば退治屋に限らず往々にある事で。ましてや此度の事は、己が確認していないというだけで、確かに、其処に、在るのだから。
それでもやはり、信じられぬのだ。突然に消えてしまった、彼の死を。
貴晶は、一体何を自分へ伝えようとしていたのだろう。予想通り、阿古耶との事だったのだろうか?
あの、約束は。
――― 約束。
次の仕事から、帰って来たら ―――
珊瑚は、ふらり、と立ち上がった。
「あねうえ…?」
心配そうな顔を隠しもせずに、幼い弟が見上げている。
「大丈夫だ、琥珀。ちょっとだけ、出掛けて来るから、留守番していて?」
微かに笑んだ姉の顔を、それでもまだ不安そうに見詰めている琥珀への頭へふんわりと左の掌を添えると、
「…大丈夫。」
珊瑚は、再び、そう言った。







あの日の様な、空だった。
清爽な風が吹いていた、貴晶と、最後に会った…あの日。
ようやく梅雨が終わろうかという、初夏を思わせるあの日。
無言で土手の斜面へ腰を下ろした珊瑚は、彼の日と同じく、一面に広がる蒼を見詰めていた。
此処に、居たのに。確かに、此処に。あれから幾らも日は経っていないではないか。
隣に座った貴晶を、今でもこんなにはっきりと思い出す事が出来るのに。
もう、会えない。もう、声は聞こえない。
そんな事を考えても、全く現実感を伴わない。
喪失感は、訪れない。
ちょっと遠方へ仕事に出ているだけで、ひょっこりと帰って来るのではないかと、思えてしまうのだ。
『よぅ、なーにまたぶっさいくな(つら)晒してんだ?』
そんな失礼な科白を吐きながら。
「…阿古耶。」
人の気配を感じ取った珊瑚がゆっくりと振り返ると、其処には、阿古耶が佇んでいた。
漆黒の瞳は未だ平生を取り戻してはおらず、柘榴の如き色合いを隠さない。この数日の間に痩せてしまったと思える頬は、艶を失ってしまっている。それでも阿古耶はふぅわりと笑み、珊瑚の隣へ腰を落ち着けた。
「珊瑚んとこへ行ったら、出掛けたって言うからさ。多分、此処だと思って。」
「…貴晶が…」
膝を抱え込み、其処へ顎先を乗せた珊瑚が口を開いた。
「話があるって、言ってたんだ…あたしが帰って来たら…あいつ、忘れてるのかなぁ…。」
遠くを見詰める様な珊瑚の目は、その実、何処も見てはいない事を阿古耶は承知している。
「いっくらいい加減でも、自分から言い出した約束、破る様な奴じゃないのに…。」
そんな珊瑚の横顔を暫し眺め遣った後、阿古耶は己の左の袂から白い包みを取り出した。
「はい。」
自分の方へ差し出された阿古耶の手へ、珊瑚は興味もなさそうに目を落とす。
「…なに?」
「貴晶から。」
阿古耶の答えに、瞠目する、珊瑚。
「どうしようか迷ったけど…やっぱりあんたに伝えなきゃいけないと思って。だから、貴晶んとこの箪笥(たんす)からかっぱらって来ちゃった。」
阿古耶から渡されたその真っ白に漉かれた紙で包装された細長い包みは、桜色の紐が巻かれ、可愛らしい蝶結びが鎮座していた。その紐をするりと解き、かさりかさりと包装を開いて行くと。
「…なんで…?」
現れたのは、深く艶のある黒足に、まぁるい桃珊瑚が一粒乗った、玉(かんざし)
どうしてこんなものを、貴晶が、あたしに?
「貴晶、珊瑚に惚れてたのよ。」
簪を見ただけで驚いた珊瑚であったが、阿古耶の思いもかけぬ科白に、その数倍も動揺していた。
阿古耶が一体何を言っているのかわからずに、珊瑚は言葉を紡げない。
口を利けずにいる珊瑚を微笑ましく見遣り、阿古耶は一人で話を繋ぐ。
「あんたに話があるって言ってたのは、つまり、そういう事さ。」
阿古耶の言葉を聞きながら、珊瑚は玉簪から目を逸らせずに押し黙っていた。けれど、直ぐに何事かに思い当たった様に。
「だって…貴晶は、阿古耶と…」
「やっぱり珊瑚も誤解してた?」
縋る様な瞳で問うて来た年少の少女へ、苦笑を浮かべた阿古耶が、事の真相を語り出す。
貴晶が珊瑚へ懸想していると気付いたのは、阿古耶であった。そして、彼を焚き付けたのも、自分であった、と。その所為で共に居る事が徐々に増えていき、あらぬ噂を立てられるまでに至ってしまった。
「あいつってば、なんだか遠慮してるみたいだったからさ、御影に。あたしは御影も貴晶も好きだけど、あの馬鹿は何時まで経っても過去に捉われて年不相応な事やってるから、どうしても同じ土俵に上げてやりたかったんだよね。それで、珊瑚がどちらかを選べばいいんだと思って。」
けれど、その頃既に貴晶の想いは溢れそうになっていたから。
貴晶にとり、阿古耶の言動は口実に過ぎなかったのかもしれない。
丁度、時期が合っただけ。彼女に、ほんの少し背中を押して貰っただけで、決めたのは、彼自身。
御影と珊瑚、同時に失う事になるやもしれぬ不安よりも、伝えずにはいられなくなった強い想いが、何時の間にか(まさ)っていた。
「あの日、あたしと一緒にこれを買いに行った時の貴晶、珊瑚にも見せてあげたかったなぁ。」
あいつ、修錬の時も見せた事ないみたいな真剣な顔して、どれがいいどれがいい阿古耶、って馬鹿みたいに一所懸命探して歩いてさぁ ――― そう話す阿古耶の表情が、一瞬、歪んだ。泣くのを堪えているのだと、一目でわかった。
「ごめんね、珊瑚。あたしが、皆の噂をちゃんと否定してれば、あんたも誤解なんかしないで済んだのに…。」
細い指を湛えた阿古耶の掌が、珊瑚の頭へ軽く、乗せられる。
「だって…なんか、悔しいじゃない…?」
え、と珊瑚が阿古耶の顔を見返すと、彼女はにっこりと笑っていた。
「阿古耶…もしかして」
「ほーんと、馬っ鹿ねぇ、あいつは。こんないい女二人も残して死んじまうなんて。」
二藍と萌葱の房を揺らし、阿古耶が立ち上がる。
「…ねぇ珊瑚、知ってる?珊瑚って、喩え傷が付いても、磨き直す事が出来るんだって。」
見上げた阿古耶の顔は、やつれていても、どんなに目が赤くても、やはり、最上の美しさで。
「いいかい、珊瑚。泣くべき時に泣かないと、いい女にはなれないよ。」
背を向け、歩き出そうとしたところ。ゆるりと見返った阿古耶が、もう一度、笑んだ。







一人残された珊瑚は、阿古耶から…否、貴晶から貰った玉簪を、ただ、じぃっと見詰めていた。
だって、そんな素振り、今までこれっぽっちも見せなかったじゃないか。
人の顔を見れば失礼な雑言ばかりを浴びせ掛け。
それを、突然姿を消して。
こんな簪一つを、遺して。
…あたしを、好きだったと?
瞬きをしたら、ぱたり、と一粒、雫が落ちた。
涙なんか、出ない。あたしは、泣かない。
そう、思い込んでいただけだったのだろうか。いとも容易く零れた水滴に、己の方が驚いていた。
泣き顔なんか、晒したくないのに。泣いてしまったら、貴晶の言う"ぶすっ面"よりももっと酷い、ぐちゃぐちゃな顔になってしまうのに。
「…ふ…ッ、う…」
笑ってれば、悪くないって言ったよね、貴晶。
だから、泣きたくない。
しかし、その思いと反比例するかの如く、胸を突き上げて来る感情は、激しさを増して行く。
「く…ッ、ふ、う…っ…!」
堪えようと、我慢しようとすればする程、歯を食いしばった珊瑚の唇と細い顎は、がくがくと震え、止める事などは不可能であった。
急激に襲って来た喪失感は、恐怖にさえ似ていた。
二度と会えないという事実は、どうすれば良いのかわからぬ程に不安と不満を掻き立てて胸を押し潰すのだ。
線を引く事もない玉のままの涙が、睫毛が揺れる度にぽたぽたと零れ、わななく唇からは、途切れがちな声が洩れる。
「止ま、…い、たか…き…」
止まらないよ、貴晶。今だけ、どうか許して欲しい。こんな時に笑顔でいられる訳などないのだ。大体、この泣き顔の原因は、誰あろうあんたなんだから。
そう。こんな風にあたしを泣かせっ放しで、自分は何処へ消えたというの ――― 。
ほんの少し顔の傾ぎをずらすと、瞬く間に頬が己の涙で濡れて行くのがわかった。
その頬を、何気なく震える指先で触れてみると、瞬時に湧き上がったのは貴晶の体温。
何時だったか、予告無しに頬へ触れられ、抓られた日の事を思い出していた。
覚束ぬ指で己の頬を辿ると、涙さえ温かい様な気がして。けれどかたかたと震える指は止まる事を知らず、堪らず珊瑚は無理やり力を込めたその手を簪へと戻した。
唯一つ、確かに在った彼の想いを伝えて寄越す、華奢な簪を両手で握り、ぎゅう、と懐深くへ抱き締める。
狡いじゃないか。自分だけこんな決心を秘めていたなんて。
あたしが足踏みをしている間にも、貴晶は次への一歩を既に選んでいたなんて。
最後まで、あたしが追い付く事を許さずに、置いて行ってしまうつもり?
そんな苦言を呈そうとも、彼はもう返事をしてはくれぬのだ。
会いたくても声を聞きたくても触れたくても、永訣の前には叶わぬ願いでしかない。
「なん、で…っ…」
もっと早く。
言ってくれなかったのか。気付いてやれなかったのか。
「う…っく、ふ…」
背を丸め、小さく小さくなった珊瑚は、声を上げ、泣いた。


どうして。どうしてこんなにも突然に逝ってしまったの。
何もかもが、もう遅いけれど。
あたしは、まだ ―――
あたしはまだ、あなたに好きと、告げてない ―――







「珊瑚。」
聞き慣れたその良く通る声に名を呼ばれ、珊瑚は目を覚ました。
「そろそろ出立せねば、犬夜叉がうるさくてかなわないのだが。」
弥勒の声に、もうそんな刻限か、と、珊瑚は大きく伸びをした。
随分と樹齢を重ねていそうな、合歓(ねむ)の枝の上。
「悪い。今行く。」
そう短く答え、枝を軽く蹴ると、葉も散らさずにすとん、と地面へ着地する。すると、其処には右肩へ錫杖を掛け、左肩へ雲母を乗せた弥勒が、女神の降臨を待っていた。
「…おまえ、その格好のままで木登りをするのもどうかと」
「うるさい。」
小袖をぱんぱん、と払う珊瑚が、弥勒の言葉を中途でばっさりと切ってみせる。
「まさか、下から覗いてたんじゃないだろうね?」
日頃の所業宜しくない生臭坊主へ、ぎら、と一瞥を投げる、珊瑚。
「だったらどうなる?」
「冥土の土産になってる。」
「……。」
殺される引き替えが覗きだけでは割に合わない、などとは口が裂けても言えないが。
「そういう時は、にっこり笑って粋な言葉の一つも返してくれると嬉しいのだが。」
飛んで来るであろう鉄拳を予想しつつ、内心身構えた弥勒が言った。しかし、珊瑚はと言えば、其処で何故か沈黙してしまっており、戯言を投げた弥勒の方が何やら不安になって、
「…珊瑚?」
恐る恐る、呼んでみる。
「…考えておく。」
「…はい?」
信じられぬ彼女の返事に、弥勒は間の抜けた声を発していた。
弥勒っ珊瑚っいい加減にしねぇと置いてくぞッ、との犬夜叉の怒声が遠くから届き、
「ほら行くよ、法師さま。」
「はあ。」
緇衣の袖を力任せに引っ張った珊瑚が、弥勒の先を促す。
その代わり勝手に突然あたしの前から消えたりしたら許さないんだから、との科白は飲み込んでいた。
笑っとけ ―――
懐かしい貴晶の声と。
笑顔でいなさい ―――
先日掛けられた法師の言葉を、思い出す。
今此処に居るこの男性(ひと)も、笑っていろ、と言うならば。
あたしは、笑顔でいても、許されるだろうか。
夏の始まりを感じるこの時季になると、必ず思い出す、過ぎし日の淡き想い。
それは、今でも振り返る度に微かな痛みを伴うけれど。
その時、すう、と静かに弥勒の左手が珊瑚の肩先へと伸びた。
「合歓の簪、というのも良いですが。」
珊瑚の髪に、絡まっていたのだろう。ふわふわと舞う様な薄紅の合歓の花が、弥勒の指に収まっており。
「ありがと。」
素直に、笑顔を乗せる事が出来た。
その彼女の柔らかな表情に、法師も目を細め微笑を返し遣り、(つま)み上げた花をふんわりと(くう)へ解き放つ。


この人が、己をどう想っているのか、まだ、知らない。
あたしも、自身の想いを、まだ伝えていない。

あの日、始まる事もないままに、終わった、恋。

阿古耶は、二年後、里の外へと嫁いで行った。
琥珀は今猶敵の手の内に在り、
御影も、去った。
里は消え、壊滅した跡から、あの桃珊瑚の玉簪を探し出す事はとうとう叶わなかったけれど。

――― それでも。
ゆっくりと確かに、今度の恋は、始まっている。

伝わるのか、伝えられるのか、それはまだわからないとしても。
今抱えている、この、想いを。
走り始めたこの、恋を。
――― この恋を、 最後の恋に、したいと、思う。









B.G.M. <Tears&Velvet> Junko Ohtsuka


まず名前。
「貴晶」=水晶から。「晶」だけだと現代的なので貴石の「貴」をくっつけたら、今度は平安ちっくになってしまいました。
「阿古耶」=阿古耶(屋)貝から。珊瑚とは海繋がりで。
「曹灰」=曹灰針石から。実はこの人、原作9巻で「珊瑚は里一番の手練だからな」と言っている彼です。勝手に命名&配役御免なすって。
「藍晶」=藍晶石。貴晶の父なんで水晶繋がり。
珊瑚嬢虐めたがり症候群の管理人による、珊瑚がまだ「一番」になる前の未熟だった頃のお話です。貴晶を今法師と三角関係にするにはちょっとツライので、過去話。ウチの珊瑚嬢が自分の超絶美しく可愛らしい容貌に気付いてないのは、貴晶の刷り込みの所為です。
いつか、更に過去に遡ってこの幼馴染み四人衆の単純な冒険譚を書いてみたいとも思っていたり。
副題は、「思いを遂げられた恋も、まだの恋も」ってな感じに訳して頂けると有り難いです。
では、最後までお付き合い下さいまして、有り難うございました。

2002.01.11