SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



~あひ見しも まだ見ぬ恋も~



‐‐‐ 弐




「なんだかんだ言って、自分が暴れたかっただけじゃ…?」
屈み込んだ珊瑚が、折った膝に肘を乗せ、頬杖をつきつつ目の前で展開されている戦闘を眺め遣り、一人ごちる。
確かに、殺意も露わに挑み掛かって来る相手の命を奪う事無くあしらって行く為様は、見事としか言いようがなかった。握った棍を両刀で扱う、貴晶(たかあきら)のその表情には余裕すら垣間見える。
まるで、剣舞を観賞でもしている様な安心感。
(ほんと、腕だけは達者なのに…。)
その瞬間に、いや、口もだった、と思い直した。
この状況。両手に得物を持つ事が出来る貴晶の方が向いている、との判断は、珊瑚の中にもあった。しかし、だからと言って「じゃ、お願い」などと言える程の素直さも持ち合わせてはおらず。
人間相手の戦闘に於いての経験不足を指摘され、反論の余地はなかった。滅多に人間そのものと戦う事などありはしないのだが、現在晒されているこの状況を前にして、そのような言い訳は通用しない。
罷り間違えば、今のおまえでは人を殺してしまう ――― 。
貴晶の言葉の裏に隠された真意を悟り、珊瑚は歯噛みするしかなかった。
喩え、大人達からどれ程に己が天賦の潜在能力を褒めそやされようとも。
まだ、勝てない。
まだ、敵わない。
貴晶には。
あたしには、絶対的に、経験値が不足している。
ふらふらと、気紛れに道を選び歩いている様に見えるこの貴晶は、確実にあたしの先を行っている。
それが悔しかった。
何時になったら届くのだろう。
あたしの、力は。
あたしの、 ――― 想いは。
「え?」
自分で自分の心中の呟きに驚いた珊瑚は、思わず声を上げた。
その、眼前。
「てめぇだけでも、かっ攫って…!」
しゃがみ込んだ体勢から見上げた彼女の視界に映ったのは、息も絶え絶えになった野盗の男。その手がこちらへと伸びていた…のだが。
どがぁっ、という殴打音と共に、その男の身体が横殴りに吹っ飛んで行く。
「そいつぁ、売り飛ばしたってろくな値は付かねぇよ。」
目の前から男が消え、代わりに珊瑚の双眸へ滑り込んで来たのは、些か離れた向こうから、左手で握った長物の武具をこちら側へ突き付ける様に翳している、貴晶の姿。
一瞬間の内に繋ぎ合わせた二本の棍が、六尺強の長躯に姿を変えており、男の脇腹を薙ぎ払った様だった。
それには驚きも見せぬ珊瑚が、
「どういう意味だ、それはっ。」
彼の放った科白の方に引っ掛かり、食って掛かる様な声音を投げる。
既に、立っている奴等は三人のみ。左脇へ伸ばし遣っていた腕を戻すと、前方を見据えたまま、貴晶は棍をぐるりと廻し右脇へ引き寄せ、答えた。
「そのまんまの、意味だ。」
そう言いつつ、棍を右へ左へ、一閃、二閃。両の掌中を、目にも止まらぬ速さで渡り歩く棍身が、上下の区別もなく鮮やかに旋回し、空気を薙いで行く。すると、どうっ、と倒れる人影が、三つ。
「お疲れさん。」
一体誰に言っているのか。長い棍を、ぴたり、と右脇へ挟み込む様に直立させた貴晶が、そんなすっ呆けた科白と共に、自ら()した野盗共へ、軽くぺこり、と頭を下げた。
くる、と珊瑚の方を振り返ると、
「怪我ぁねぇか?上玉のお嬢さん。」
棍を首の後ろで真横に掲げ、其処へ両腕を掛けた案山子(かかし)の様な姿で、貴晶が声を掛ける。
「ある訳ないだろ、この状況で。」
「まあそりゃそうだ。けど、一応、な。」
訊いとかなきゃマズいだろこういう場面では、と付け加えながら、貴晶は珊瑚の方へと歩み寄った。
「…御影に殺されるといけないから?」
眼前へ来た貴晶を、じろ、と睨み上げる珊瑚。
その彼女の科白には、一瞬目をきょとん、と張らせた貴晶であったが、
「…そうだな。」
不自然な沈黙の後、静かに、そう言っただけだった。
「?」
珊瑚の方も何処か違和感を覚えたけれど、それを突き詰めるよりも先に、貴晶の右腕に走った裂傷を見付けてしまう。
「ちょっと!怪我してるのは貴晶の方じゃないっ。」
「あ?ああ、掠り傷だろ。流石に無傷って訳には」
貴晶の言葉が言い終わらぬうちに、首の後ろへ廻した棍へだらり、と掛けていた彼の右腕は、珊瑚に強引に奪われていた。
「何処が掠り傷よ?こんな盛大に流血しておいて!」
「盛大って、おまえ…」
大した事ねぇだろが、と、言おうとしたけれど、既に、袂から出した手拭いをぐるぐると傷口へ巻き付けている珊瑚を見、それも無駄な足掻きだと悟る。
「手本なら手本らしく、無傷で切り抜けて見せなよねっ。」
屹と珊瑚が貴晶を見上げ、苦言を呈した。
真っ直ぐに彼を射抜く、その瞳。
凛然とした輝きを宿す、切れ長の目。けれど、幼さ特有の愛くるしさは、未だ色濃く残されている。
何処までも深い阿古耶の瞳が黒琥珀ならば、珊瑚のそれは、黒曜と言えようか。
光を浴びて煌めく様は、玻璃の如く透明感に満ちていて。感情によってくるくると色を変えていくそれは、見る者を惹き付けて、放さない。
「?貴晶?」
珍しく言い返して来ない彼を不思議に思った珊瑚は、彼を窺う様にその名を呼んだ。
すると、今しがた応急処置を終えたばかりの貴晶の右腕が鷹揚に動き、その指先が彼女の頬へ、伸ばされる。
「!」
驚いて再び睨み上げたけれど、彼の双眸は何時になく真面目なもので、茶化してしまえる要素を、珊瑚は其処に見出す事が出来なかった。
一体何が起ころうとしているのか見当もつかず、頬に貴晶の体温を乗せたまま、珊瑚は、情けなくもその場で硬直してしまう。それとは裏腹、その体内にある心の臓と、血と言う血は、途轍もない激しさで稼動していたのだが。
次の瞬間。
珊瑚の頬に触れていた貴晶の指が、ぎゅうう、と彼女のそれを捻り上げた。
「いったぁーい!」
容赦無く(つね)られた頬の痛みに、思わず珊瑚が悲鳴を上げる。
「ははっ、そういう険のあるぶすっ(つら)、晒してるからだ。」
左頬を押さえた珊瑚の右の拳が飛んで来たが、それは胸を後方へ反らして難なくかわす、貴晶。
「どうせあたしは阿古耶みたいに綺麗じゃないよっ!」
涙目になりながら左頬を擦り、珊瑚が言った。
「だったらせめて、笑っとけ。その方が、まだ見れるってもんだ。」
そう応えた貴晶は、疾うに歩き始めている。珊瑚へ背を晒しながら。
その背を恨めしげに睨み、"まだ"って一体どういう意味だ、と愚痴る珊瑚の気は当分収まりそうもない。
――― この、駆け足で脈打つ鼓動の責任をどう取ってくれるのだ。
そのような怨言を思い浮かべたと同時、その自身の考えに顔周りの温度が上昇して行くのを認めた珊瑚は、慌ててその頬を隠す様に両手で覆った。先程まで感じていた貴晶の体温と己の体温が、加算されてしまったのだろうか。頬に当てた掌も指先も、その信じられぬ程の熱を全て吸収したかの如き、熱さ。
残念ながら、彼女の狼狽したその素振りには気付かぬまま。
じゃきん、と長躯の棍を二つに分かつと、貴晶はそれをすらりと背中へ収め遣る。そのまま両腕を、頭の後ろで組み。
「おまえは、笑っててくれ。」
そう低く呟いた彼の声は、無論、珊瑚へ届きはしなかった。







「ちぃっとも釣れねーなぁ。」
夕刻近付く川べりで、御影(みかげ)が長大息と共に、言った。
適当に見繕い持って来た石に腰を掛け、釣り糸を垂れる御影の脇で、
「誰も最初から期待なんかしてねーって。」
ごろり、と寝転がっている貴晶は、立てた膝へ組んだ片方の足をぶらぶらと揺らし、草笛なんぞを吹いている。
彼の方の釣り竿は、石で固定してやったきり、一度も手を触れてはいなかった。
暫しの、休息。偶には釣りにでも行くか、と連れ立ちやって来た二人であったが、退治以外には全くの素人。先程から、一度たりとも釣り糸を引かれる事はなく、今へ至っている。
出掛けに、お土産期待してるよ、などと何人かに声を掛けられたりもしたのだが、この分では土産どころか己の分も手に入れられるかどうか怪しいものだ。
二人の頭上には、今流れる時間の長閑さを表す様に、ぽっかりと浮かんだ白雲がのんびりと漂っていた。
律儀にずっと竿を握ったままの御影は、不揃いに伸びた髪を後ろで一つに結わえているが、括り切れない髪が顔周りに零れており、それは何処か、安穏と暮らして来た少年とは一線を画す様な雰囲気を宿していた。着衣は小袖に膝辺りまでの山袴という、至って一般的な少年のそれではあるが。
貴晶の方はと言えば、ぼさぼさの短髪はそのままに。御影同様、同年の者には見られぬ野性味を持ちながらも悪戯好きそうな色合いを隠せぬ双眸が、前髪の隙間から覗いていた。
身形(みなり)は、膝下辺りまでの丈の小袖一つ。更に肘の辺りで切り落とした袖を肩上まで捲り上げており、相変わらずの"変わり者"路線を崩していない。勿論、その理由は「楽だから」という一言に集約されている。そして両腕両足には、綺麗に晒しが巻き付けられていた。
「貴晶。」
「んー?」
御影から唐突に呼ばれ、ぶーぶーと鳴らす草笛の合間を縫い、貴晶が返事をすると。
「俺、貴晶の事、好きだよ。」
ごっくん。
これまた唐突な御影の科白に、貴晶は思わず口に当てていた葉を飲み下していた。
べべべっ、と唾を吐いた後。
「…有り難いが、俺にはそういう趣味はねーぞ。」
「うん、俺にもない。」
眉を顰めて答えた貴晶へ、御影は真面目腐った顔のまま、すらりと返した。
「真顔で言うな、真顔でッ。」
うんざりした様に、貴晶が半身を起こし、御影へ文句を言ってやる。
「真面目な話だ。俺は、おまえの事を好きだから、おまえの遣り方を否定するつもりはないんだけどな。」
其処で御影は一呼吸置いた。その言葉の持つ意味を理解する為に、貴晶も、黙って耳を傾けるしかない。
「貴晶。おまえ…俺に何を遠慮してるんだ?」
表情を変えぬまま、けれど、貴晶の動きが止まった。
()取られている?御影に ――― 己が心の、真実を。
――― 貴晶は変わらぬ表情…ではあるが、その一刹那に走った動揺を見逃す程、御影も散漫な男ではなかった。
「…御影、俺は…」
「なんで、他人にばかり手柄を譲ろうとする?」
「…へ?」
己の言い掛けた言葉を遮った御影の科白に、貴晶は間抜けた声を上げた。
「おまえが、場を仕切るのを嫌っている事は知っているが、必要以上に、己が出張らぬ様にしてないか?」
「……。」
そっちの話か。と、貴晶は胸中で安堵していたのだが、こっちはこっちで、図星であった。
面と向かって意見された事はこれまでなかったし、そうされぬ様、貴晶自身も振る舞って来たつもりだった。しかし、流石に御影へはそれも通用しないらしい。
「親父どのの…藍晶(らんしょう)どのの、所為なのか…?」
言い辛そうに、けれど、核心へと触れる言葉を、御影が紡ぐ。
「…っとに、嫌な野郎だな~、御影はっ。」
敏くて。
そのくせ、変なところには疎くて。
「当たってたか…?」
「…さぁな。」
再びごろり、と横になった貴晶は、御影には顔が見られぬよう、右側へ寝返った。
貴晶の父・藍晶は、珊瑚の父である里長の右腕となり活躍する、退治屋の中でも選りすぐりの精鋭であった。
なれど、その実力が、仇となる。
何処でどう魔が差したのか、藍晶は里長の座を狙う様になり、薄々周囲の者も、その変貌に気付き始めており。
長と二人、仕事で出向いた先で、彼は遂に牙を剥いた。熾烈な戦いの末に勝ち残ったのは、珊瑚の父。結果的に、里長の交代という前代未聞の事態へは及ばずに済んだのだが、その藍晶が実は妖に操られていたと判明したのは、皮肉にも彼が骸と成った後だった。
考えれば、わかる事。喩え藍晶が長を斃そうとも、あの里に住まう者達が、黙ってそれを受け入れる筈もないと、それくらい、藍晶にとて先読み出来ぬ訳がない。力ずくで愚策を成し遂げようとした彼が正気ではなかったなど、容易に想像出来る事であったのに。
藍晶が、人並み外れた実力者であったから。その頂点たる長の座を狙おうとする思いを抱くのも尤もだ、と、理解出来てしまったから ――― 。
すまない、すまない、と、まだ八つになったばかりの己を抱き締め落涙する里長の姿を、貴晶は今でもまだ覚えている。
この世に生を受けると同時に母を亡くしており、その日から、貴晶は独りとなった。
そして、もう一つ、胸に深く刻まれた光景がある。
肩を落とし、父の墓の前で声も無く涙している里長の傍らに寄り添い、
「ちちうえ、どうしたの?どうしてそんなに泣いてるの?」
幼い珊瑚までもが頬を濡らしている、遠い、残照の中の風景。
少女を泣かせているのは自分である様な錯覚を抱きながら、微かに辺りを染める(だいだい)を浴びた貴晶は、二人をずっと見詰めていた。
あの日から、少年は自ずから前に出る事を、自然、拒む様になった。
そう、恐らく、御影の言う通り。
父親である藍晶が引き越こした事件は、里では禁句となっているが、忘れる事など出来る筈もなく。
無論、皆、貴晶にはそれまで通りの接し方を貫いてくれている。肩身の狭い思いなど、微塵も感じた事はなかったけれど。
自分がこういった性格になってしまったのは、父の様にはなりたくない、という思いなのか。
それとも、父の乱行に対する、罪滅ぼしの為なのか。
それは、貴晶にもわからない。
しかし、里長への忠誠を誓っている己が、その娘の許婚である御影へも、幼馴染みでありながら遠慮をしているという自覚はあった。
親子二代に渡り、長を裏切る訳にはいかぬ。
長へ反旗を翻す事ばかりが、裏切り行為ではないのだ。
それ故に ―――
それでも、日に日に想いは膨らみ続け、堰を決壊させるのを止める術は、もう見当たらぬところまで来ていた。
許婚というのが、婆さま同士が勝手に決めた、酒の上での戯言だと、里の誰もが知っている。なれどそういう事実がある以上、御影が珊瑚の許婚である事は公認の事で。
そして何より、彼女へ向けられた御影の想いを知っているから。
ならば、自分の持つこの想いは、叛逆ではないと言い切る事が出来るのだろうか。
「貴晶は、今のままで充分貴晶だけどさ。…後ろへ廻る事ばかり考えるのも、そろそろ潮時だろう?阿古耶だって…」
「…阿古耶?」
其処で何故その名が出る?とばかりに、貴晶が呟いた。
「いや、なんでもない。」
御影が、困った様な笑顔を浮かべ、言った。その顔は、背を向けている貴晶には見えないけれど。
「……。」
知っている。里の者達が、自分と阿古耶が一緒になるのではないかと噂している事を。
それが、暖かい祝福と共に語られている事も、わかっている。
はっきりと否定しない自分達にも非はあるのだが、まさか男の方から先に「それは違う」と言う事は出来なかった。
まったく、この少年はこの年齢にして厄介な男気ばかりを抱えているから始末に悪い。
そうしている内に、土手の向こうを歩いて来る小さな人影が、貴晶の視界に映し出される。
薄淡い紅撫子の色に染め抜かれたあの小袖は…珊瑚のもの。隣を手を引かれ歩いているのは、琥珀。
そう認識した途端、(おもむろ)に貴晶は立ち上がった。 固定していた釣り竿を握り、空いた方の手で魚篭(びく)を持ち上げる。
「もう帰るのか?貴晶。まだ全然釣れてないのに。」
帰り支度を始めた彼を見上げ、御影が問うた。それには、
「お姫さんが来た。」
「え。」
それだけ伝え、邪魔者は去るのみ、とばかりに御影へ背を向け歩き出す。土手を振り返った御影は、並んでこちらへ向かいやって来る、姉弟の姿を捉えていた。
「すまない、御影。」
貴晶の背が、ぽつりと、言った。
「俺も、おまえの事、好きだからな。」
そう続けながらも、御影の顔は、見られない。
「…なんだよ。俺も別に、性格変えろって無理強いしてる訳じゃないからな?」
殊勝な事を言って寄越した貴晶の背を見遣りつつ、竿を握ったまま、御影がやんわりと笑う。
「みかげーっ、たかあきらぁっ。」
遠くから琥珀の呼ぶ声が、聞こえた。
それには聞こえぬ振りを貫いて。貴晶は、御影へ再び謝罪を述べた。
当の本人へは聞こえる筈もない極々小さな声差しで、それは、放たれる。
「…ごめんな。」







小走りに駆けて行くのは、珊瑚。二つに分けて結んだ黒髪が、同じ闇色の装束の上で、弾んでいた。
辿り着いた家屋の正面を無視し、勝手知ったる他人の家の、裏へと廻る。
「阿古耶!」
阿古耶はやはり、縁側へ出て薬草を選り分けているところであった。それは、珊瑚の予想通りの光景だったのだが…返って来たのは、男の声。
「よぉ、珊瑚。」
何故か、貴晶が、居た。
「…何してんの、貴晶。」
「何って、薪割り。」
そんな事は見りゃわかる、と出掛かった言葉を、珊瑚は何とか呑み込んだ。
「珊瑚、これから仕事かい?」
阿古耶から優しい声が掛かり、珊瑚は、うん、と頷いてみせる。
「手隙の時でいいからさ、琥珀、見てやってくれる?」
「ああ、勿論そのつもりだよ。」
たおやかに笑う阿古耶には、女の自分でさえ見惚れそうになるのだから、男の貴晶がふらふらこの家へ出入りするのも当然か、と一人で納得していたものだった。それはそれで、癪に障ったけれど。
「ちょっとおいで、珊瑚。ついでだから、怪我に効く薬草少し持って行きな。」
まぁ怪我なんかしないで帰って来るのが一番だけどね、と言いながら、縁側一杯に広げた薬草の中から、適当に種類を見繕い、拾い上げて行く、阿古耶。
「…あれ、阿古耶、左手どうしたの?」
彼女の左の中指に、真新しい晒しがぐるりと巻かれているのを珊瑚が見つけ、問うてみる。
「ああ、薬草摘んでる時に、葉ですっぱり切っちゃって。」
痛がる様子も見せず、あっさり阿古耶が答えて寄越した。
じゃあ、もしかして貴晶が他人(ひと)の家で薪割りなんかをしているのは。
「おまえ今、貴晶ってば結構優しい、とか見直しただろう?」
ちら、と彼を振り返った珊瑚の視線と貴晶の視線がぶつかり、ぬけぬけと奴は言う。
「誰がっ。」
急いでその視線を外し、珊瑚は言下に否定していた。
本当は、確かに、思った。ほんの少しだけ。でも、もう一つ。
それを誰よりも早く察知し手を貸しているのが、何故貴晶なのか、という思いが浮かんだなんて、絶対に、言えない ――― 。
「馬鹿言ってないで、とっとと割っちゃってよね。昼餉なんか出さないよ。」
「おめーはなんでそういう…」
顔も上げずにぴしゃりと言い放った阿古耶の科白にうんざりとして見せながらも、貴晶は再び斧を振り上げる。
顔を見合わせ、くすくすと笑う娘二人。その二つの笑顔を見遣り、口許を緩めて嘆息した貴晶には気付かぬまま、珊瑚は、やはり阿古耶は綺麗だな、と改めて思っていた。葡萄染めの小袖が似合う、女らしい雰囲気。緩く波打つ癖を湛えた髪も、嫌いではなかった。
直毛が美髪の条件となっているこの時代。美しく賢く、豪快ながらも心根の悪くない阿古耶に嫁の貰い手がないのは、その髪の所為だと、大人達が言っているのを聞いた事がある。
けれど、何時だったか。解いた阿古耶の髪が風に乗せられ、ふぅわりと舞い泳ぐ様を見た。それが喩えようもなく美しかったのを、珊瑚は覚えている。
「今日の仕事は、一人か?珊瑚。」
目の前でちらちらと揺れる、阿古耶の組紐の房を見詰めていた珊瑚は、貴晶の声で我に返った。
「ううん、御影と一緒。」
「あっそ。なら、怪我の心配なんか要らねーだろ、阿古耶。」
薪割りの斧を肩に担いだ貴晶の声は、素っ気ない。
「何それ。あたし一人だったら怪我もするだろうけど、って意味?」
「御影が一緒なら、珊瑚に怪我なんかさせねぇだろ、って意味。」
ふざけ混じりな答え方をする貴晶の方を見遣り、阿古耶が溜め息を吐いた。
「どうせあたしは未熟者ですよっ!」
阿古耶が差し出した薬草の束を奪い取る様に引っ掴むと、珊瑚は元来た道を駆けて行く。が、はた、と立ち止まると振り返り、
「阿古耶、ありがとっ。」
と、忘れ掛けた礼を言った後、貴晶には思いっ切り、いーっ、と顔を顰めて見せた。そして、今度こそ本気で次なる仕事へと向かい走り出す。
「お、ぶすっ面。」
そう呟いた貴晶の言葉を聞き逃したのは、言った本人にも言われた珊瑚にも、幸いだっただろう。
「可愛いわねぇ、珊瑚は。」
くすり、と笑い、
「…それに比べて、あんたって…馬鹿?」
白い視線を貴晶へ投げる、阿古耶。
「…やっぱり、そうか。」
「わかってんなら、尚更馬鹿ね。」
「うぅーるせいっ。」
貴晶は斧を放り出すと、ごろっ、と縁側へ仰向けに寝転がった。此処で、阿古耶が再び、溜め息。
「決心、ついたんじゃなかったの?」
「…大体。」
瞬間、ぺしんっ、と阿古耶の平手が貴晶の額へ飛んだ。
「たっ。」
「"大体。"…なんてそんなのは、決心とは呼ばないのよ?」
「わかってるよっ。」
貴晶の言い様を真似た阿古耶の言葉が、貴晶の胸をぐさりと射抜く。
――― ワカッテルヨ。
わかってないわよ、あんたは、という阿古耶の科白を、貴晶は珊瑚が消えた方角を見遣りながら、頭の何処かでぼんやりと聞いていた。







真っ青な、空だった。
何処までも何処までも果てなく広がる天上の、蒼。その壮大な自然が描き出す映像に魅せられ、穏やかな川面を一望出来る土手腹に仰向けになっているのは、珊瑚。その川べりでは、琥珀と雲母が水飛沫を上げてじゃれ合っている。
そのような平和な光景を見遣りながら、何時の間にか珊瑚は睡魔に襲われ、瞼を深く閉じていた。


夢を、見た。
御影と、貴晶と、阿古耶。それに、自分。四人で、囲炉裏を囲んで談笑していた。何をそんなに楽しそうに笑っているのだろう、と思うくらい、幸福感に満ち溢れた、光景。
けれど、其処で阿古耶が立ち上がり、貴晶がそれを追って外へと出て行こうとする。
二人で何処へ行くの?と訊ねても、二人は曖昧に笑うだけで、答えてはくれなかった。
ねえ、もう少し、四人で居ようよ。まだ、行かないで。
そう言ったけれど、誰も頷いてはくれなかった。
行かないで、待ってよ、貴晶 ―――


「お、目が覚めたか?」
その聞き覚えのある声に、珊瑚は、がばっ、と半身を起こした。
「た、貴晶!?」
「おはよう。」
にっ、と笑った貴晶は、珊瑚の右脇に腰を下ろしている。立てた膝の上でゆるりと組まれた両手は、雑草を弄んでいた。
「い、何時から…?」
どぎまぎと脈打つ心臓を隠しつつ、彼へと問うてみる。
「さっき。」
珊瑚の予想通り、大雑把な答しか返って来なかったけれど、
「…あたし、何か言ってた…?」
(はや)る心を抑え、恐る恐る、再び問うた。
「?いや、別に?」
嘘を言っている風には見えない、貴晶の応答。それに、珊瑚は胸を撫で下ろした。あんな事を実際に口走っていて、しかもそれを聞かれていたとしたら、どうすれば良いのか皆目見当がつかない。
「散歩してたら、大口開けた上に(よだれ)垂らして寝てる乙女が居たから誰だと思ったらおまえだった。」
澱み無くすらすらと失礼な事を言う貴晶の顔は、真顔だから余計に頭に来るのだ。
「ちょっと、涎なんか垂らしてないだろ、あたしは!」
「っつーか、こんなところで寝てる女なんておまえくらいだ。」
憤慨する珊瑚を余所(よそ)に、貴晶は、千切れんばかりにぶんぶんと腕を振って来る琥珀へ向かい、ひらひらと手を振り返している。そして、
「珊瑚、次の仕事は?」
いきなり、今度は貴晶が問うて来た。一瞬、その展開の早さについて行けずに面食らった珊瑚だったが、ええと、と、答える。
「明日から、二つ山向こうの村まで。四日くらいはかかりそうかな。」
「連れは御影か?」
「うん。」
それきり、何故か無言になってしまった貴晶を訝しんだ珊瑚が、その居心地の悪さに終止符を打つべく、逆に、問い返す。
「貴晶は?仕事。」
「俺も、明日だけど。半日で終わるだろうな。その後は、暫く入ってない。」
草をぽいっ、と投げ捨てると、立てた膝へ腕を掛け、少々前のめりになった貴晶があっさりと言った。何時もと何一つ変わらぬ受け答え。
一体、先程の沈黙は、なんだったのだろう…?
珊瑚が、そう思ったところへ。
「あのなぁ、珊瑚。」
貴晶の声に、珊瑚が何?とそちらの方を見遣ると、彼はこちらを向いてはいなかった。
「…その仕事が終わったら、話がある。」
貴晶らしからぬ真面目な物言いに、珊瑚は一瞬肩をぴくり、と震わせた。
頭を(もた)げて来たのは、何時ぞやに御影が言っていた、「そういう事になれば、きっと貴晶自ら報告してくれる」という科白。
そういう事 ――― 阿古耶と一緒になるのが、決まったら…?
心の臓を直に掴み出されたが如き衝撃が、瞬時に走る。指先が冷たくなって行くのを、己でも感じていた。
「なんで…?」
「は?」
小さく呟いた珊瑚の声を聞き逃し、貴晶が、彼女の方へ面を向けた。
「なんで今じゃ駄目なのさ?今話せば良いじゃない…。」
そんな、勿体ぶった前置きをされたまま、あたしに四日も五日も平然としていろ、と言うのか、貴晶は。
そんなのは、堪らない。ならば、今、言って。
苦しくてやり切れなくて、そして訳のわからぬこの想いに、早くケリをつけてしまいたいから。
「今は…駄目なんだ。俺、この後野暮用があって…」
言い掛けた貴晶のずぅっと、後方。向こうから、阿古耶がやって来るのが、見えた。
「これから阿古耶と何処かへ行くの?」
そう問い掛けると、珍しく、瞠目する貴晶の姿を珊瑚は見てしまう。こんな風に、うろたえる事など滅多に見せぬ、貴晶。それは、図星と言う事だ。
「まあ、な。」
そんな曖昧な返事を寄越すのが、何故か憎らしくて仕方がなかった。
「…わかった。仕事から戻って来たら、ね。」
此処で駄々をこねてしまったら、己の幼さと惨めさを強調するばかり。震える唇を悟られぬよう、精一杯の虚勢を張り、珊瑚は物分かりの良い振りをする。
「じゃ、俺、行くけど」
そう言い腰を上げ掛けた貴晶は、前を向いたままこちらを見ようとしない珊瑚に気付き、彼女の頭に手を伸ばし。
「どうした?またそんなぶすっ面して。」
くしゃり、と珊瑚の頭を乱暴に撫でた。彼にしてみれば、幼馴染みとしては当たり前なのであろうその仕草さえ煩わしく感じ、その手を反射的に払い除けてしまう、珊瑚。
「どうせあたしは…っ」
途中まで言葉にして、やめた。皆まで言ってしまったら、貴晶が言うところの"ぶすっ面"よりも酷い、醜悪な顔になってしまう様な気がして。
沈黙してしまった珊瑚を不思議そうに覗き込んでいた貴晶だったが、近くに人の気配が迫っているのを感じ、そのまま立ち上がった。
「何を(ふく)れてるのか知らねーけど。」
ぱんぱん、と尻の土草を払いつつ。
「笑ってりゃ、そう悪くねぇよ、おまえは。」
え、と珊瑚が振り返ると、ふ、と微かに笑んだ貴晶の顔が其処には在ったけれど、背を晒し、平生と同じく軽い足取りの貴晶が向かう先には。
佇んで待っているのは ――― 阿古耶。
あたしは、泣かない。こんな事で、泣いたりしない。
貴晶も阿古耶も、大切な幼馴染み。それで、良いではないか。何の不満がある?彼があたしを妹の様にしか見ていないという事が、何故こんなにも気に食わない?
何度も何度も、呪文の様に繰り返す。
何故? ――― それは。
思い当たる言葉は、一つ。それを胸裏で呟くと、その言葉は刃物となって体内を貫いた。
痛い、痛い、痛い ――― 血も流れぬ刺し傷は、どうすれば塞ぐ事が出来るのだろう。そんな事、誰も教えてはくれなかった。厳しい鍛錬の中、父も、曹灰(そうかい)も。
あんなに必死で覚えたあらゆる場面に対応する薬草の知識も、骨を折った時の添え木の当て方も、今は何の役にも立ちはしないなんて。
痛むのは、怪我も心も一緒なのに、心に効くものは何一つ無いなんて ――― 。
珊瑚は、泣きたい思いを懸命に堪え、遠くで並び歩いて行く二人の姿を見送っていた。
――― 去って行く、その姿を。







真っ赤に燃え盛った夕陽も(なり)を潜め、薄い宵闇が迫る頃。
鬱蒼とした山中を、これまた鬱々とした重苦しい想いを抱いて歩いている者が居た。黒い戦装束を着込み、その背からは二つの細い影が顔を出している。
陽の光の下で見れば鮮やかであろう、濃い菫青の縁取りは、間も無く周りの闇と装束の黒に、溶け込んでしまうに違いない。
(はぁ~あ。)
深い深い溜め息は、一体何度目であろうか?
妖怪退治の仕事を終え、里への帰路を辿る貴晶は先程からこの調子で、全く以て、覇気がない。
(どう言やいいんだ…。)
本日…否、此処最近己の心をずっと占めている問い掛けを、またも繰り返した。
阿古耶は、ありのままに言えばそれでいいのよ、などとあっけらかんと言いやがるが。
(だから、どうやったらそう言えるのかって事だろうがよぅ。)
悶々と悩む起因は、交わしてしまった、珊瑚との約束。無論、覚悟を決めて己の方から言い出した事ではあったのだが、情けない事に、今以て頭の中がごちゃ混ぜに乱れているのだから、仕様がない。
あの日、何故か膨れてしまった珊瑚の表情も、気に掛かるけれど。
拒絶されるのも、疎まれるのも、覚悟の上。
どう悩んでも、もう約束してしまったその日は必ず来てしまうのだから、いい加減考え過ぎるのは止めよう、と貴晶は思う。
そう、その日は、必ず来るのだから、と ―――
瞬間。
「!?」
ぞくり、と背筋を走った激烈な悪寒を認め、その場で瞬時に身構えていた。
(なんだ…?これは…。)
身動(みじろ)ぎもせずに、研ぎ澄まされた感覚だけを四方へ走らせる。
今までに感じた事もない程の、強大な、妖気。振り上げた右腕で握った背の棍が、じっとりとした汗で湿って行くのが、わかる。
「!」
人の気配を感じ、貴晶はそちらへ首を廻らした。すると、大木の合間を縫い泣きながら駆けて来る、十前後の少女が目に入った。うわぁぁぁん、と闇雲に突き進んで来るその童女を、貴晶は左腕で受け止めていた。
「どうした?何があった?」
極力語気を弱め、膝を着いた貴晶が童女へと問う。
「と、父ちゃんと、母ちゃんが…っ!」
人の姿に安心したのか、童女は貴晶の腕へと強く縋り付き、しゃくり上げながらも事態を説明しようとする。
「し、白い、妖怪に喰われ…ッ」
其処で再び、童女はわんわんと鳴き声を上げた。
やはり、物の怪か。
邪気の発せられている方角を見遣りながら、貴晶は舌打ちする。
移動、している。こちらへ、向かって来る。
ざわざわと纏わり付く様な肌触りの悪いその邪気が、逃げた餌を求め這って来るのが如実に感じ取れた。
「逃げろっ!」
立ち上がった貴晶が、怒鳴る。
「ど、何処へ…っ」
涙と土くれでぐしゃぐしゃになった面を上げ、童が問うた。親を喰われてしまったこのような幼子には、何処へどう逃げれば良いのかさえわからなくなっていても、不思議はなかった。
再度膝を折った貴晶は、その少女の両肩を掴むと、
「いいか、このまま辰巳の方角へ走れ。すれば、大きな砦に囲まれた里が在る。其処へ行けば、必ずおまえの力になってくれる者が居る。」
諭す様に、己が帰る場所である里の在り処を童へと伝え遣る。
「に、兄ちゃん、は…」
「いいから走れっ!」
不安げに言い掛けた少女を叱咤し、貴晶は彼女を突き放した。決心した様に、童は背を向けて走り出す。
その小さな背中を見詰め、安堵したのも束の間。ぎらり、と峻厳たる双眸を湛えた貴晶は、迫る妖気の方へと向き直った。







己には、名乗り出る勇気も、前に立つ権利も、ないのだと思っていた。
幼かったあの日から抱えて来た恋情も、永久(とこしえ)に陽の目を見る事はないのだと。
なれどそれが、どんなに甘い考えだったかを、彼女の成長と共に思い知っていた。
何が、永久か。
終焉の時が訪れるまで隠し(おお)すなど、どれ程の覚悟が必要か。
己はまだ、知らなかったから。
故に今、願ってしまった。
報われずとも…言葉にしたい、と。
それはやはり裏切りであって、罰を下されるべき悪行でしかないのだろうか…?