SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



~あひ見しも まだ見ぬ恋も~



‐‐‐ 壱




何時も、あたしの隣を歩いているのは、御影(みかげ)だった。
その背を、拙い足取りで追いかけて来るのは、琥珀。
当たり前の、風景。
そして、そのあたしの前を歩いていたのは。
何時も、あたしの視線の先に在ったのは ―――







「たかあきらッ!」
まだ幼い少女特有の、甲高い声音が響いた。明らかに怒りを含んだその声に応えたのは、
「…うっせぇなぁ。声でか過ぎ、珊瑚。」
反する様に至極のったりとした、科白。ふぁ~あ、という欠伸のおまけまで付いていたのだから、珊瑚の方の語気は緩まるべくもなかった。
「何を暢気な事言ってんのさ!?そんな所で転寝(うたたね)なんかして、もう仕事終わっちゃったよ!?」
まったく。夜であらば、人が手をぴたりと合わせたかの如くその葉を閉じて眠りに落ちる合歓(ねむ)さえも、すっかりと指先を広げている昼日中だというのに、こやつは…。
見事な枝振りを晒した合歓の木を見上げ、その枝の一本に陣取っている少年へ、再び怒声を投げてやる。
貴晶、と呼ばれたその枝上の人物が面倒臭そうに地上へと視線を移すと、漆黒の戦装束を纏った少女が、ぎろり、とこちらを見上げていた。
「転寝じゃなくて、昼寝だ。」
そのようなどうでも良い事へ反駁した貴晶の身体が、突然、ぐるり、と頭から横滑りに落ちて来る。
危ない!…などという叫びは無論上がりはせずに、微動だにせぬままの珊瑚が静かに言い放った。
「誰がそんな話をしてるのさ。」
その冷たい目線の、丁度、真ん前。
ずざざざっ、という葉の摺れる音をさせながら、枝へ膝を絡ませたまま宙ぶらりんになった貴晶の、逆さになった双眸が在った。
「お役目、ご苦労さん。やっぱり、俺が居なくてもちょろかっただろう?」
にや、と楽しげに笑った直後、珊瑚の拳骨が唸りを上げていたのだが。
すい、とそれをかわしたかと思うと、折っていた膝を伸ばして枝を手放し、縦に半回転させた身体で以て、見事地上へ着地していた。それもやはり予想の範囲内だったのか、珊瑚は驚く様子も見せずに呆れた様に溜め息を吐いただけだった。
「そんなぶっさいくな顔してんじゃねぇよ、珊瑚。きっつい顔が益々(こえ)ぇぞ。」
「うるさいなっ、もう!」
ばさりと額へ掛かった前髪を払う様に、二、三度首を振るった貴晶から不躾な言葉を浴びせられた珊瑚は、怒りに頬を…そう、丁度彼の頭からふわりと落ちた合歓の花の色そっくりに紅潮させながら、怒鳴り返した。
何かと言えば、直ぐこれだ。ちょっと怒っただけで、こいつは不細工不細工、と連発する。
失礼極まりない男だ、と珊瑚は思う。
そのような珊瑚の心境などは知ってか知らずか、貴晶は今言った己が暴言も忘れたかの如く、ひゅるひゅると口笛なんぞを吹いていた。
鬱陶しい梅雨が去ろうかという頃合。頭上を覆い尽くす爽快な空の様に、しゃっきりとして欲しいのだが。
「…なんでそんなに不真面目な訳?あんたって…。」
「不真面目はねーだろ。ただ単に、あれっぱかしの小妖怪に、四人は多過ぎると思っただけだ。」
「それなら、休んでて良いのは貴晶じゃなくって曹灰(そうかい)だろう?順番的に。」
珊瑚の科白に、はた、と思い当たった表情を見せた貴晶は、
「それも、尤もだな。」
素直な返事をしてみせたものだったが。
「"尤もだ"」
彼の科白を反芻する声が、一つ。
「じゃないだろーッ、このクソガキがっ!」
横殴りに飛んで来たその鉄拳を、さしもの貴晶も避ける事は能わずに、頭部へごいん、と喰らっていた。
「…いってぇよ、曹灰。」
「罰なのだから、これくらいは当然だろう。」
胸を反らして低く言うのは、その、曹灰。
つるり、と刈ってある頭頂部の下。横から廻るのは髭か髪かもわからぬ様な様子なのだが、兎に角それは、小さく後頭で結わえてあった。しかし、それよりも彼を他の者と区別させるのは、右の眉上から斜めに走った傷痕だろう。何かに切り裂かれた様なその痕は決して新しい物ではなく、消える事のない古傷であろう事が、その色合いから容易に読み取る事が出来る。それに加え、何ものをも跳ね返せるのではないかと思わせる、がっしりとした逞しい体躯。
その容貌全てが、正しく幾多の戦いを潜り抜けて来た退治屋のそれであった。
「何やってんだよ、貴晶は…。」
その曹灰の隣で眉を顰める、貴晶とは同い年に当たる十六歳の御影。
曹灰と同じく戦装束に身を包む男とは言え、すらりと伸びた手、足、共に、こちらはまだ()の歴戦の勇士に比ぶれば、些か頼りない感が否めない。
あどけない頬を緩め、ざまぁみろ、とばかりにくつくつと笑っている珊瑚はと言えば、まだ十四に過ぎぬ少女であった。
後ろで左右に取り分けた髪を、紅の紐で以て、小さな面の両脇に鎮座した耳の下辺りでそれぞれ綺麗に結わえている。前身へ流れるその二つ束は、緑の黒髪、という形容が誠相応しく、目映いばかりの艶を放っていた。
妖怪退治を生業とする里からやって来た、この四人組。化け猪を退治して欲しいとの依頼を請け、こうして遥々やって来た彼等であったのだが、前もって仕入れた情報は少々大袈裟であったらしく、実際に要する戦力は二人も在れば充分過ぎる程で。
それを見切った貴晶は、早々に姿をくらまし、眠りを貪っていたという訳だ。
お目付け役として若輩者達を引き連れやって来た曹灰も、何一つ手を出す事無く、珊瑚と御影の危なげない退治振りを見守っていたのだが…。
「全く、お頭になんと報告すれば良いのやら。」
頭を抱えたくなるこの小僧っ子の振る舞いに、何処から見ても頑強そうな男は、風体に似合わぬ溜め息を吐いた。
「言わなきゃいいんだって、曹灰。」
「曹灰が言わなくても、あたしが言う。」
からからと貴晶は笑っていたが、珊瑚が言下に言い返す。
「珊瑚の裏切り者っ。」
じろ、と彼女を恨めしげな双眼で見遣ったが、その次の瞬間には、やはり貴晶はけらけらと笑っていた。
(腕は確かなんだがなぁ…。)
曹灰は、半ば諦めた様に、心中で一人ごちる。
髪を括るのも叶わぬ程の短髪である貴晶は、この時代にしてみれば"変わり者"である事は否定出来ない事実。しかもその理由が、「長いのは邪魔だし面倒」と、いうのだから、我が道を行く、も良いところである。
そんな奔放なこの少年。退治屋として相当な腕前である事は、誰もが認めるところであった。
今此処に集う、三人の若人。この者達が、退治屋の里の中核を担って行く事になるのは、そう遠い未来の話ではないだろう。
背中で三尺程の棍を二本交差させ、携えているのが、一番年長の貴晶。戦となれば、その二つの棍を背から引き抜き繋ぎ合わせ、己が身の丈よりも長くなるその武具を、得物とする。
生まれは、その貴晶に遅れる事三ヶ月。生真面目を絵に書いた様な御影は、大太刀の扱いに長けていた。
そして、珊瑚。飛来骨と呼ばれるその巨大な飛び道具を操る少女は、小さな身体からは想像もつかぬ身体能力を内に秘めており、曹灰自身、追い抜かれるのは時間の問題だと感じている程で。
御影と、珊瑚。この二人は、性格上、退治屋としては若いながらも何の問題もありはしない。
が。その相方となる貴晶はと言うと、少々難あり、であった。まあ、仕事そのものに悪影響があるという程ではなかったし、根は誠実である事を皆も承知はしている。ただ、その性格が…大らかと言おうか、大雑把と言おうか。
指南役である曹灰の悩みの種の一粒である事は否定出来まい。
兎に角その何ものにも捉われぬ心根は大層憎めぬもので、周囲の者に愛されてはいたのだが。
(あまり、羽目を外してくれるのではないぞ…。)
この、三人の輪 ――― 和、を。
今後、里の至宝と成り行く新しき力を。失う訳には行かぬのだ。
尤も、型へ嵌めてしまう育成を良しとはしない里長の下、暮らして来た者達である。その影響は、子供達のみならず、指導・補佐役である大人達へもしっかりと根付いていた。故に、この曹灰とて例外ではなかったから、一人一人が持つ財を、捨てろ失くせとは言いはしないけれど。
身勝手に生きている様に見えるこの貴晶の真実の姿を、知っているから。
心配せずには、いられなかった。
「曹灰、そんな顔するなって。わかってるよ。」
知らず、憂える瞳で彼を見ていたのだろうか。その視線に気付いた貴晶が、柔らかく口端を上げ、笑んだ。
ワカッテルヨ。
――― 何を?
曹灰の声に出さぬ問いは、あっさりと、珊瑚の言葉に摩り替えられる。
「本当にわかってんの?あんたってば、楽する事しか考えてないんじゃない?」
「ぴーぴー喚くな。益々ぶすっ面になるぞ。」
その科白が終わったか終わらぬうちに、珊瑚の蹴りが貴晶の右脛に入っていた。
「御影、なんとかしろッ、この跳ねっ返りをっ!」
痛む脛を庇いつつ、珊瑚を指差した貴晶が御影の方を見遣り、怒鳴った。
「悪い、貴晶。それは俺の手にも負えないな。」
「ちょっと、御影までそういう事、言う?」
うはははは、ざまをみろー、と笑った貴晶の左脛へ、再び珊瑚の蹴りが炸裂したのは、言わずもがな、である。
傍から見ればじゃれ合っている風にしか見えぬ、幼馴染み三人の姿。
やれやれ、とそれを見守る曹灰の思いなど、本当に、わかっているのかどうか。
"楽する事しか考えていない"と、珊瑚は言ったけれど。
そうではない。
貴晶は、直ぐに退くという…良く言えば、"物分かりの良さ"。それを、既に覚えてしまっている。
戦の最中(さなか)にあり、背中を見せる様な男ではない。だが、この年齢にありながら持ってしまった、"人を立てる"という謙虚に徹してしまう癖は、美徳と言うには語弊があった。
この少年は、手柄を取る、という欲に関しては、全く以て無縁の輩。確かに、己の力の誇示にばかり躍起になられても困りものだが、かといって、自分が前に立つ事を回避してばかりいるのも、頂けない。
果たして、その所業は、何に所以しての事なのか ――― 。
珊瑚という里長の娘の許婚である御影の、後方支援へ廻る為なのか。

――― ワカッテイル。
わかって、いるよ。
――― わかっていて猶、止められぬ想いも、あるけれど。







「お帰り、ご苦労さん。」
「疲れただろう、ゆっくりお休みね。」
四人が仕事を終え、里の砦を潜ると、あちらこちらから労いの言葉が掛けられる。それは、何時もと変わらぬ見慣れた風景ではあったけれど、その瞬間に、肩から力がふわりと退いて行くのがわかる。
丸一日も空けてはいなかったが、帰って来たな、と、退治部門を担った者が、心から安堵する瞬間であった。
「おや、今帰り?お疲れだったね、曹灰さん、御影、珊瑚。」
其処で、一際人懐こい言葉が掛かった。
「ただいま、阿古耶(あこや)。」
「阿古耶。琥珀、泣かないで待ってたかな。」
曹灰と御影が返事をした後に、珊瑚が質問を投げた。その声の主 ――― 阿古耶へ。
「珊瑚が居ないってんで、相変わらず愚図って仕方なかったけどね。泣くと姉ちゃん帰って来ないよ、って脅したら泣かずに居たから健気なもんさ。」
きゃらきゃらと笑う彼女を見遣り、珊瑚も苦笑いを返す。
緩く癖の入った長髪を、左の耳元でふわりと輪を作らせ、杜若(かきつばた)の色合わせの組紐で以て上手に留めているのだが、その紐の二藍と萌葱の房が、阿古耶が笑うのに合わせてひらひらと舞っていた。
立っていれば、百合の花の如き清楚な雰囲気を醸し出す、この阿古耶。大き過ぎず、かと言って小さくもない吸い込まれそうな瞳は、深い漆黒。正に、黒琥珀の美しさ。
しかしそれは、立っているだけならば、の話。
さらりと物騒な事を言うこの阿古耶の、こういう豪快なところが珊瑚は好きであった。己の留守の時に、七つになったばかりの弟・琥珀を気に掛けてくれる阿古耶は、彼女にとって姉の様な存在で。
「おい、阿古耶。なんで俺には"お疲れさん"がねぇんだよ?」
ぶすっ、と腕組みをしつつ四人の会話を聞いていた貴晶が、我慢し切れず口を開いた。
「だってあんた、疲れてないだろ?」
「なんでわかったんだ?」
「御影!」
葡萄(えび)染めの小袖の襟元を、きゅ、と正しながら言った阿古耶の言葉へ、思わず御影が素直に反応し、貴晶に窘められたのだが、時既に遅し。
「あら、やっぱり図星?貴晶、いい加減怠け癖直しなさいな。」
ちらん、と横目で見遣る阿古耶の表情は、勝ち誇った様に嬌笑している。
「へっ。俺はてっきり、おまえはそろそろ嫁にでも行ったんじゃねーかと思ってたぜ。」
たった一日でそんな風に事態が変わっている訳もないのだが、当年とって十七歳の阿古耶へ、貴晶も負けじと厭味を言ってみる。
「あーら残念ねぇ。あたしほどの女を娶れる男にはまだお目に掛かった事がないのよねぇ。あんたが泣いて頼むなら嫁いでやってもいいけどさ。」
「誰が泣いて頼むかっ。」
「頼まれたって行く訳ないでしょ。馬鹿ね、本気にしたの?」
ぶち。
「やーめーなって、二人ともっ。」
貴晶の右手が、背に負った棍の一方へ掛かったところで、呆れた珊瑚が仲裁に入った。付き合ってられない、とばかりに、曹灰の姿は疾うに消えている。
「貴晶も落ち着きなよ、子供じゃあるまいし。」
彼が握った棍の下端を掴むと、珊瑚はそれをがちゃ、と揺らしてやった。
「…おまえには言われたくない。」
言った瞬間。棍を強引に引き抜いた珊瑚が、すこーん、と貴晶の頭を彼の得物で叩き割っていた。
「ははっ、馬っ鹿ねぇ。喧嘩売る時は相手選びなさいよ。じゃ、珊瑚。琥珀んとこ早く行ってやんなね。」
「うん、有り難う阿古耶。」
野菜の詰まった籠を抱え直した阿古耶が再び珊瑚へ笑顔を向け、珊瑚もそれに頷いた。ゆるりと背を向け、去って行く阿古耶。しかし。
珊瑚に殴られた痛みに、頭を抱え屈み込んでいた貴晶が、阿古耶てめぇ待ちやがれ、と、立ち上がった。すると、周りの者を無視したまま、彼女を追い小走りに駆けて行く。阿古耶を掴まえると、またしても二人は口喧嘩を始めた様だ。彼女の抱えた籠を、貴晶が強引に奪い取りながら。
そんな二人の姿を、珊瑚は無言で見詰めていた。
自分へは、言いたい事をぬけぬけと言い放ち、こちらを遣り込めてばかりいる貴晶も、阿古耶には敵わぬと見える。それこそ、溜飲が下がるというものの筈。
――― だけど。
喧嘩…している二人なのに。どうして仲良く囀り合っている様に見えるのだろう?
あたしの目はおかしいのかな。
なんだかあの二人を見ているのが日に日に辛くなって来ているなんて、あたしは何処かおかしいのかな。
阿古耶は、大好き。貴晶だって、大事な、仲間。
…仲間?
それだけでは嘘がある様に思えるのは、どうしてなのだろう。
「あの二人、喧嘩するほど仲が良いって事なのかなぁ。俺らが見てる分にはわからないよな。」
唐突に、御影が言った。珊瑚は、ぐるぐると頭の中を駆け廻っていた思考から引き戻される。
「…わからないって…何が?」
どきり、と胸が波打ったが、敢えてそれを無視し珊瑚が問うた。
「最近二人、よく連れ立ってるだろ?近いうちに一緒になるんじゃないかって、皆言ってる。」
他人事の様に、御影の言葉には重みがなかったが。
つきん。
疼くのは、心の、真ん中。
「ま、そういう事になりゃ、俺達には貴晶の口からちゃんと報告してくれるだろうけどな。」
そんな風に、御影が言った気がするけれど。何処かで鳴っている風鈴の音の微かさでしかなくて。
代わりに、耳朶を震わす音を己が体内で再び聴く。
ずきん。
痛みを伴う様な、その響きと共に。
一緒に、なる。
何故か、その科白は珊瑚の胸裡へ深くはっきりと沈んで行った。







己の家の敷居を跨ぐと、里長である父は不在の様だった。多忙を極める父には良くある事であったから、屋内を探す事もなく、珊瑚は一点へと足を向ける。
「ただいま、琥」
すら、と唐紙の襖を開け、其処まで言い掛けた珊瑚であったが、慌てて口を噤んだ。
見下ろした、畳の上。すうすうと寝息を立てながら眠りに落ちている幼い弟の姿が在ったから。
「…道理で珍しく、出迎えに来ないと思った。」
背に負った飛来骨を下ろすと、ゆっくりと壁へ立て掛け、珊瑚は弟の傍らに屈み込み、雀斑(そばかす)の浮いた平和な寝顔を見詰め遣る。
平生であらば。仕事へ出た姉の帰りを今か今かと待ち受けており、彼女の姿を認めた瞬間、一目散に駆けて来るのが常だった。それは、泣きながらであったり、満面の笑顔であったり、その時々で様々な表情を晒しながら。
「なんでおまえは泣き虫になっちゃったのかなぁ。」
琥珀の頭を、そぅっと撫でてやりながら、珊瑚は独り言を言った。琥珀の枕辺で守りをする様に寄り添っていた双尾の妖獣が、ぴょん、と彼女の肩先へ飛び乗って来る。珊瑚は、その白い背中も、琥珀と同じ様に優しく撫でてやった。
どうして、同じ姉弟でこうも性格が違うのか。
――― あたしは、泣いたりしないのに。
そう。滅多な事で、泣いたりはしない。
確かに琥珀は他の同年の男児よりも、涙を見せる事が多い。それは、弱いから。
確かに珊瑚は、他の少女の様に容易に落涙する事はない。それは、強いから。
ただ単純に、そう思っていた。珊瑚自身も、周りの者も。
なれど。
それは、まだ泣かずにはおられぬ程の状況へ追い詰められていないだけ。
そして、泣かない事が、強い事と何時も同一であるとは成り得ない。
――― それを、珊瑚はまだ、知らない。







「んで、出るのはなんだって?」
「…あんた、ちゃんとお頭の話聞いてたの?」
軽蔑した様な(まなじり)を向けた珊瑚が、低く言う。尤も、低く言おうが全く迫力に欠ける声音ではあるのだが。
その視線を受け止めた貴晶が、おー聞いてた聞いてたでも忘れた、と、まるで悪びれる様子もなく返した。
とある山の峠。
此処を通る者達が、最近物の怪に襲われ命を落としているという。老若男女、身分を問わず。喰い残しの残骸以外、何一つ残さずに消えているとの事だった。
この山を通り抜ける為には、もう一つ道筋があったらしいのだが、そちらが崖崩れに遭い、暫くは通れぬ始末。故に、是が非でも、こちらの安全の確保が必要だった。
依頼人の村人の話では、山犬や熊でも化けて人肉を求めているのだろう、との見解。普段であらばこの程度のものなら、一人で充分な仕事であったのだが、里長は用心の為に二人を配した。
それが、珊瑚と、貴晶。
「大体、普通なら此処は御影だろうが。」
許婚なんだからよ、と暗に含んだ言い方をしてみせる、貴晶。
「御影は別の仕事が入ってんだから、仕方ないだろ。貴晶が暇そうだったから、少しは働けって事じゃない?」
彼の物言いが気に入らなかったのか、珊瑚は何処かつんけんとした口調で冷たく言った。
(まるで、あたしと来るのが嫌みたいな言い方じゃないか。)
貴晶ならば、面と向かってそう言い兼ねない性格である…と、珊瑚は思い込んでいる。
実際、其処まで言う程腐った男ではないのだが、珊瑚にそれをわかれと言うのもまだ無理な話であった。
「…俺は、御影に殺されるのは御免なんだが。」
誰に言うともなく、至極小さな声で貴晶が呟く。茂みの中に身を潜ませている彼は戦装束を纏っていたが、山道に佇む珊瑚は、淡い紅撫子色に染め抜かれた小袖のままであった。
「?なんで貴晶が御影に殺されんのさ?」
腕組みをした珊瑚が、聞き逃さずに小首を傾げて問うた。背で一つに結んだ黒髪が、さら、と揺れる。幼いながらもその可憐な仕草に、貴晶は嘆息するしかない。
「珊瑚に何かあったら、やっぱ殺されるだろ、俺が。」
「何かって、何?あたしの腕を疑ってんの?」
妖怪に、あたしが傷付けられでもしたら、って事?
それは、己の腕前を見縊られているのと同じである。珊瑚の今の思考では、この理由のみしか弾き出す事が出来ない。
「わからなくて、良し。」
まるで、年少である己を馬鹿にした様な、貴晶の言い様。
かちん、と珊瑚の癇に障ったのも無理もなく。
やはり、自分と二人で仕事をするのは面倒だという事か。御影へ気兼ねして。
そう、珊瑚の考えが行き着いた瞬間。胸に渦巻く、(もや)が掛かった様に不確かな、感情。
得体の知れぬものだけれど、どう転んでも正のものではないであろう、この負の想い。
そんなにも、あたしと居るという事は、貴晶にとってお荷物なのか ――― 。
我慢してあたしに付き合っていると、そういう事か。
そう思うと、どんどんと胸の奥が、真っ暗闇に侵されて行く様な気がした。
だったら、はっきり言われる前に、こちらから言ってやる。
――― 先に言われるのが、怖いから。
「あたしだって、貴晶みたいな道楽者と仕事なんて、手間が掛かって仕様がないよッ。こんなの、あたし一人で充分なんだから!」
幼くして、言葉を知らず。
言の葉が、如何な凶器と成り得るか。そしてそれ以前に、己が言葉の拙さに気付きもせずに。
一瞬眉宇を顰めた貴晶であったが、直ぐに平生の表情を取り戻した彼は、売り言葉に買い言葉…否。彼女の言葉に乗ってやった、と言うべきか。
「だったら、珊瑚一人で頼むわ。俺は高見の見物でもさせて貰う。」
「結構!」
珊瑚が、ふんっ、とそっぽを向いたのを確かめた後、貴晶は苦笑しつつ、傍に聳え立った楢の大木へと跳び上がった。両手で枝を掴むと、くるり、と勢いに乗せ回転させた身体は、見事枝上へと着地する。
「じゃ、後は宜しく。」
後頭部で両手を組んだ貴晶は、上半身を幹へと預け、地上へ声を落とした。
生い茂る葉の陰になり、その姿は珊瑚の方からは見えなかったけれど。
その時だった。
左から、妖の気配。
「!」
珊瑚と貴晶の視線が、同時にそちらへ走る。乱立する樹木の陰から現れ出でしは、その牙剥き出しの口許から締まりなく唾液を滴らせた、大熊。そして次に届きしは、くぐもった、声。
「喰ろうてくれる、娘…!」
至って普通の村娘の姿で囮になっていた人間の匂いにまんまと乗せられ、御登場と相成った。
「芸の無い…!」
素早く地を蹴った珊瑚は、茂みに隠しておいた飛来骨の傍らへと移動する。
怪我すんなよ、と、上から声が聞こえた様な気がしたのは、きっと、気の所為。
咆哮と共に襲い来る化け熊を眼前に見据え、一瞬の怯みも見せず、珊瑚の右手が後方へ振り被られた。
一際大きな熊の雄叫びが轟いた、刹那。
横殴りに薙いだ指先から放たれるは、これまで幾度となく数多の魑魅魍魎を粉砕せしめて来た、飛来骨。その、美しいまでの軌道上。横回転を規則正しく繰り返し、辿り着く先は、闇より黒き、獣の胴体。両腕を振り上げた状態で、その化け熊の体躯は真っ二つに切り裂かれ、再び吼える事もなく、地鳴りの如き音と共にその場に崩れ去っていた。
何事もなかった様に弧を描き主の元へと帰って来た白き武具は、彼女の細い指先に触れると同時、背後へ切っ先を一度翻すと、ぴたり、とその動きを沈黙させた。
珊瑚の両足が、その勢いに幾分後退るけれど、ただそれだけの事。
ひゅ~う、と、貴晶が小さく口笛を鳴らしてみせる。
お見事。
だが、そう称賛しようとした彼の言葉は、がらがらとした男の声に遮られ。
「こりゃあ、驚いた。」
先程化け熊が現れたのと同じ辺りから、人間が八名程、唐突に這い出して来た。
「まさか子供一人にあいつがやられちまうとはなぁ。」
「女、妖怪退治屋か?」
無言のまま、身構える珊瑚。
野盗、と言ったところか。
見れば皆、ぼろぼろに廃れた簡素な鎧を纏い、錆刀を腰に挿している。せいぜい、戦から落ち延びて来た雑兵が山に棲み付き、荒くれた盗人と化した類であろう。
(そういう事か。)
頭の後ろで組んだ両腕を解きつつ、貴晶がようやく納得した様に一人ごちる。
人肉を喰らう妖というのは、わかる。しかし、"残骸以外は何も残さぬ"程、というのが気に掛かっていた。身に付けていた、着物や、金品。そんなものまで残らず喰う程雑食な奴には、正直、出くわした事がない。
と、なれば。
金目の物を喰らうのは、人間、と相場が決まっている。
化け熊と手を結び、日毎人間を襲っていたのは、こいつらか。強奪目当てに、"襲わせていた"と言った方が、正しいのかもしれないが。
「もう一つの街道を塞いだのは、あんた達だね?」
野盗達を、珊瑚がぎらりと睨み付ける。
妖が、何の利も無く人間と手を組むとは考え難い。恐らく、こやつらが彼奴の領土内へ餌を供給する事が交換条件であったのだろう、と珊瑚は読んだ。そうすれば、互いに何の苦労も無く欲しい物だけを手に入れる事が出来る。
化け熊は、人肉を。人間は、残された付帯品を。
珊瑚の問いに返事をせぬまでも、にやにやと笑うばかりの野盗共の顔は、肯定しているのと同じであった。
「此度ばかりは予想外だったが、まぁ、退治屋が嬢ちゃんだったのがせめてもの救いか。」
「ガキと言えど、結構な上玉だ。一体いくらの値が付くか。」
顎を擦りつつ外道極まりない科白を連ねる男達に、反吐が出そうになる気分の悪さを、珊瑚は必死に押さえ込む。己を値踏みする様な低劣な目を、潰してやりたいと思うたが。
「俺らと張るか?嬢ちゃん。妖怪退治屋が、人間を殺せるか?」
「!」
すらり、と奴等が抜刀した。
叩き伏せるだけなら、人間を相手にしても負けるつもりは微塵も無かった。だが、奴等は獲物(あたし)を捕縛する事が叶わぬと悟れば、殺す気で向かって来るだろう。それでも猶、こちらは相手を殺める訳にはいかぬのだ。
手加減をしてなど、切り抜けられるだろうか?八人の兵士を相手に、今のこの動き辛い姿のままで。
――― 飛来骨を握る指先に、力を込める。
「大人しく」
珊瑚の方へ一歩を踏み出した雑兵の一人が、そう言い掛けた時だった。
山道を照らしていた陽光が、一瞬翳る。光を遮るその違和感に、一同が空を振り仰ぐと。
上空から、影。
ばさばさばさっ、と、葉と葉、枝と枝の、激しくぶつかり合う音。
「なっ」
珊瑚と、怯んだ野盗達が後退った、その中間。
楢の枝を蹴って舞い降りた貴晶が、片膝を着いていた体勢からゆっくりと立ち上がる。
「選手交代。」
珊瑚の方を振り返りもせずに、彼は軽々しくも言ってのけた。
「じょっ、冗談じゃないっ!あたしに任せるって言っただろう!?」
「ありゃぁ物の怪相手の話だ。敵さんが交代したんだから、こっちもそれに合わせてやるのが筋ってもんだろう。」
またも見縊られた様な気がし、珊瑚は大声を張り上げたが、貴晶の方はまるで緊張感の無い声差しで受け流す。そして、次に発せられた彼の言葉に珊瑚は黙りこくるしかなかった。
「大体おまえ、殺す気で向かって来る人間を相手にした事あんのか?」
眼前の敵を睨む事もなく、首をこきこきと鳴らしながら貴晶は言う。
妖よりも何よりも、一番厄介な、相手。それこそが、こちらには手を懸ける事を許されておらぬ ――― 殺気に満ち溢れた生身の、人。
貴晶の背に掲げられた、交わった二振りの棍をただ悔しそうに見詰める事しか出来ない、珊瑚。
「そういう事だ。此処は演習だと思って黙って見とけ。」
「ごちゃごちゃ何言ってやがる!小僧が一人増えただけで何が変わる!?」
其処で、待ち草臥れたとでも言う様に、下卑た笑いと共に、野盗の一人が声を上げた。
漆黒の装束の襟元を縁取る、鮮やかな、菫青(きんせい)。その首元を指先でぐい、と緩めると、ようやく貴晶は彼奴等をまともに見た。
その(おもて)には、これまでの柔和な瞳とは打って変わり、峻烈な双眸が居座っている。
「…その小僧に何が変えられるか、試してみろよ、おっさん。」
口許は、にやり、と笑っているけれど。
どうやら、"小僧"と言われた事に対し、腹を立てているらしい。
「無駄に煽るの、やめなって…。」
貴晶の威嚇する様なその言葉には、口を噤んでいた珊瑚も、自然、嘆息交じりに呟いていた。
その溜め息を合図とするかの如く。
刀を構えた野盗共が、貴晶を目掛け、斬り掛かって来る。
それを視界へ認めたのと時を同じくし。
貴晶の両の(かいな)が、背に乗った愛用の武具へと掛かる。
その、刹那。
手首を返し掴んだそれを、すら、と背から左右同時に引き抜いていた。







いつも、隣を歩いているのは御影。
背を追って来るのは、琥珀。
そして何時からだったか覚えている訳もないけれど、
あたしの視線が探しているのは ――― 貴晶。
その姿を見つけては安堵し、次の瞬間には高鳴る鼓動。
自分では制御の叶わぬ、この、想い。
なれどその貴晶の視線の先に在るのは ――― 阿古耶?
つきり、と胸指すこの棘を。
この戸惑いを、なんと呼べば、良いのでしょう…?