SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



陽炎



‐‐‐ 参




優しい子だったんだ。
退治屋なんて荒くれた仕事、女のあたしなんかよりよっぽど似合わない程に。
目掛けた青竹を思う通りに両断出来た事を喜ぶよりも、その斬り口に止まった蜻蛉に頬を緩める様な子だった。
ほんの少し臆病なところだって、何時か、慎重さと呼ぶに相応しくなるのかもしれなかった。
そう、何時かあたしを追い越して行くだろうその背丈と共に、あの子の未来は何処までも伸びてゆく筈だった。
鍛錬に躓き泣くあの子を慰める優しい母を亡くしてからは、あたしが、あの子を守るのだと。
あの子が一人でも戦える様になるまでは、あたしがあの子の盾になるのだと思っていた、あの頃。
仕事を終え、砦を潜る度に掛けられる、里の者達の労いの言葉と、無償の愛。
何時か、二人でこの里を慈しみ統べてゆくのだと。
疑いもしなかった、あの頃。
辿り着けるだろうか、あの時誓ったあの場所へ。
あの子を守れなかったこのあたしが。
未だあの子の魂を取り戻す事を成し遂げられずにいる、この、己が。

なあ姉上、妖怪は本当に火や毒を吐くか ―――?

大丈夫だと、告げたのに。
ぬらぬらと血の滴る牙を携えた口を開け、待っていたのは、火よりも毒よりも惨い現実。



――― 本当に、優しい弟だったんだ。







「琥珀…。父、上…。」
見張られた双眸は、やがて、苦渋に歪められて行く。
肉親の、同胞(はらから)の、在りし日のその姿に。
懐かしさを抱き得る程の、常道な別れ方はしていなかった。蘇る思いは懐古ではなく、嘆きを伴った、渇仰。
そして、圧倒的な…慙愧。
救えなかった、愛しい者達。
己一人が、この現在(いま)も呼吸をしている事実。それさえも、罪に思えてならない。
己が力の無さに如何に恥じ入ろうとも、減罪などは叶わぬけれど。
目の前で、戦装束に身を包んだ誇り高き退治屋の精鋭達が、今正に里の表門を抜けて行く。
待ち受ける悪辣な罠を、知る由もなく。
行っては、ならない ――― 。
叫びそうになった珊瑚の声は、渇き切った喉許で、掠れて、消えた。
(これは…珊瑚の、過去?)
まるでそれが現実であるかの様な明瞭さを持った光景を見遣り、弥勒は、そう判断した。
里長である珊瑚の父を筆頭に、それぞれの得物を手にした退治屋は、総勢五名。その次に映し出されたのは。
(…お城?)
真闇の最中(さなか)、退治屋の向かった先と思われる建物を目に留め、犬夜叉の左腕を放さぬままにかごめが自問した。
「…やめろ。」
その城を見咎めた珊瑚が、低く、唸る。無論、彼奴の応答などある筈もない。
「ひぃあっ!?」
かごめの肩に身を置いていた七宝が、思わず悲鳴を上げた。その視線の先には、蠢く灰色の雲の中から這い(いで)し、大蜘蛛。
「やめろ!()世視(せみ)、姿を現せ!」
辺りを、ぐる、と見回しながら珊瑚が怒鳴った。揺れる黒髪は、その闇の中へ溶け込む様に先端を靡かせる。
姿を隠し、施術し続ける妖の居場所を明かそうと試みるけれど、
「くくっ。やめろなどと、無粋な事を。面白いのは、これからだろう?退治屋。」
父の…否、過ぐ世視の声が何処(いずこ)からか、わん、と響いた。珊瑚を、挑発する様に。
「退治を…?」
眼前に広がる過去の景色を見遣り、弥勒が小さく呟いた。城主らしき者の御前で始められたのは、退治屋による妖成敗。その手際も鮮やかに、大蜘蛛の動きを封じて行く。
「駄目だ…!」
其処で、珊瑚の口から言葉が洩れた。無意識なのか。日頃の凛々しさは微塵も感じられぬ力無き声。
双眼は再び見開かれ、今目の前で起こっている終わった筈の出来事から、視線を逸らす事は出来なかった。
『飛来骨!』
聴覚へ直接滑り込んで来る過日の、声。その声の主は、紛れもなく、珊瑚。
彼女の白い得物が、寸分違わず化け蜘蛛の巨大な身体を捉えていた。
だのに。
「父上!皆、逃げてっ!!」
「珊瑚ちゃん!?」
幻だとわかっていても、叫ばずにはいられなかった。直後に起こる、陰惨な未来を知っているから。
それでも無論、その現し世に在る珊瑚の声を無視し、舞台は進んで行くのだ。疾うに幕を下ろした筈の舞が、奈落の筋書き通りに。
「やめろ琥珀!」
「珊瑚!」
制止する弥勒の声を振り切り、珊瑚はその"琥珀"へと走り寄る。
――― 止めなければ、なんとしても。
その一心で。なれど、その身体は、"琥珀"を抱こうと廻した両腕は。何にも触れる事が叶わぬまま摺り抜け、空を切った。
「無駄だ、過去は変える事も止める事も出来はせん。」
また、過ぐ世視の声。ちくしょう、と一言吐いて振り返った珊瑚が、ぎくり、と全身を硬直させる。
「やめ…っ」
中途で掠れる、退治屋が娘の声。
ひゅん、とかごめの前を、風切り音と共に何かが横切って行った。えっ、と思った次の瞬間。
鎖鎌が、次々と生身の人間へ襲い掛かっていた。退治屋の男を二人、そして、里長の首を、躊躇いもなく薙ぎ捨てており。
「こ…これ、珊瑚ちゃんが、罠に掛けられた時の…?」
辺りは暗いままであるのに、はっきりと色を認識出来る違和感の中、犬夜叉の緋の袖を両手で握り締めたかごめが、膝の震えを抑えられずに、言う。
「外道が…っ!」
縋るかごめを庇いつつ、犬夜叉の爪牙が、ばきり、と鈍い音を立てた。
その金色に輝く獣眼でさえも、過ぐ世視の姿を認める事は未だ不可能で。
『おまえ、あたしがわかんないの!?』
『おもしろい余興だ。やらせておけ。』
その舞台上で始められたのは、姉弟による剣舞。
一方が相手の命を奪う事を目的とし、一方が他方を制御する為に(やいば)を翳す、救いの無い光景。
「やめろ…。」
立ち竦む珊瑚の呟きは、届かない。
何処にも。
琥珀を傀儡(=操り人形の意)に仕立て上げた蜘蛛の糸を見咎めるのが、もう少し、早かったなら。
何故、気付かなかった、あたしは。
もっと、神経を(そばだ)てて。
感覚を、研ぎ澄まさせていれば。
気付かぬ筈はなかったのに。そうすれば、父も、仲間も、琥珀の魂も、失わずに済んでいたかもしれぬのに。
知らずにいたのは、己が、罪。
知る術を持ちながら見過ごした怠慢は、己が悪。
今正に、あの日のあたしは飛来骨を携え城主へ襲い掛かるけれど。
何の意味もない。今更気付いたとて…何を、誰を救える?
『きさまがっ…妖怪!』
其処へ投げ込まれた槍の一本が、飛来骨を振り上げた珊瑚の右腕を擦過し…今一本が、腹部へ命中していた。
「珊瑚ちゃんっ!!」
思わず、過去の映像へかごめが叫ぶ。
そして、"珊瑚"のその背中へ。
「やめろーーーっ!」
ぐさり、と。
鎖をだらりと柄尻に泳がせた、鋭利な鎌の切っ先が。
弟の筈の琥珀が放った鎖鎌が。
無防備に背を空けた珊瑚を嘲笑うかの様に、其処へ突き刺さっていた。
「な…っ…。」
犬夜叉の口から、疑いの声が洩れる。
瞠目した弥勒も、身動(みじろ)ぎさえ叶わない。
これは、一体、なんだ?何故、このような地獄絵図が展開されねばならぬ…?
がくがくと傍目にもわかる程に震撼する身体で、防毒面を剥ぎ取る"琥珀"。頼りなく儚い声で、呼ぶは、
『姉上…。』
と。
しかし、自らが傷付けた姉へと駆け寄る弟を待っていたのは、雨の如き降り注ぐ、幾本もの矢。
「!!」
「いやああぁぁぁッ!!」
一行が目を覆いたくなるその惨劇と同時、珊瑚が絶叫した。
やめろ、やめろ、やめろ、やめろ。やめてくれ。これ以上、掻き毟らないで。
一度、己自身が立ち会った光景。夢でさえ、幾度となく繰り返した。夢とは到底思えぬ残酷な鮮やかさで。それでも猶、慣れる事など能わずに。
がっくりと膝を折り項垂れる珊瑚へ、走り寄った弥勒の耳が、微かな彼女の声を捉えた。
「見、るな…。」
「…珊瑚?」
『姉上…怖いよ…。』
断末魔の、囁き。
「見るな!これ以上…っ!」
見ないで、あたしの心を。
敗北感に埋もれた魂など、震える心など、見られたくはなかった。此処に集う、新たな同胞達には。
『だい…じょうぶ。あたしが…ついて…』
弟の血塗れの身体を庇い、姉がその身を盾にする様に覆い被さった其処へ、またも容赦無く槍が投げ込まれ。
己の知らぬところで窮鳥と化している"姉弟"を守る為にか。何時の間にか屹然と立ちはだかった、四肢に炎を纏った雲母の体躯を、しゅるり、と通り抜けたそれは。
どす、と鈍い音を立て、珊瑚の背に突き刺さった。
「やめろーっ!」
両手で己が頭を押さえ、珊瑚が再び裂帛の叫びを上げた。
「ひ…ひど、い…。」
かごめの両頬には、既に幾つもの光る道筋が引かれている。右手で傍らの半妖の少年の腕を、ぎゅう、と握り締め、左の手で口元を覆い、小さく、小さく呟いた。その肩で、七宝は声も無く震えている。
その縋られた犬夜叉も、法師も。一つの言を紡ぎ出す事も出来なかった。
このような、凄絶な、過去。
今、時折り笑顔を見せるようになった退治屋の娘は、此処を、越えて来たのか ――― ?
眼前で、愛する者達を愛する者に殺され、(あまつ)え己自身も肉親の手に因って命の危険に晒されて ―――
埋められた。
命の源を断ち切られる前に。
なれど、如何な土を以ってしても埋められはしなかった、珊瑚の命運。そして、生への執着。
己が落ち延びる為ではなく、真実を、知る為に。理由もわからず朽ち果ててゆく訳には行かなかった。
そうして這い上がった珊瑚は、奈落の意のまま、仇敵と信じた犬夜叉へと襲い掛かる。
復讐の怨の字が、彼女の胸へ極印として刻み込まれた瞬間だった。
何と滑稽な事か。
仇だと告げられ、それを鵜呑みにした愚かな退治屋の女が、何一つ里へ手出しをしていない…それどころか、横死した里人の墓まで盛ってくれた一行へ刃を向けている、その姿は。
己自身も糸の無い操り人形の如く、仇そのものに踊らされていようとは。
失笑を禁じ得ない、茶番 ――― 。
怨みに満ちた諒闇の魂は、冷静な判断力さえ欠いた、ただの復讐鬼と化しており。
純粋な魂など、何処にも存在してはいなかった。
穢れ無き魂など。
「見、ないで…。」
虚ろに見開かれた双眸は、最早、何も映してはいない。それでも頬を伝う涙は、(とど)まる事を知らぬ悠久の流れの如く。
「…珊瑚…。」
掛けてやる言葉さえ見つけられずに、珊瑚の脇で膝を折り、苦悶の表情を浮かべる、弥勒。
「法師さま…見ないで…あたしの魂は、もう…穢れてるから…!」
闇に塗れた、暗黒の魂を。
声を絞り出す珊瑚の瞳は、弥勒を見てはいなかった。彷徨う視線は、既に、あの日へ同化しているのか。
「くっくっくっ。はぁっはっはっ!」
哄笑するは、元凶 ――― 過ぐ世視。
「苦しめ苦しめ、良いザマだ、退治屋。俺が喰ろうてやるから、安心して魂をもっと深い黒に染めろ!」
彼奴の声が辺りに充満し、吐き気を催す程の嫌悪を隠さぬ弥勒が、眉尻を上げ宙を睨み返す。
「絶望、孤独、怨念…陰の感情は、こうも美味い。おまえの魂が、これ程までに俺の口に合おうとはなぁ!」
「てめぇ!珊瑚の魂、喰ってんじゃねぇ!」
右手を持ち上げ、天上へ(こうべ)を廻らす犬夜叉が、叫ぶ。しかし、標的になるべき姿は無い。
猶も映し出す事を止めぬ、妖の術。
新たな仲間を裏切った退治屋の娘が辿り着いたその先は、魔道への入り口 ――― 伏魔殿。
此処が、全ての始まりだった。その悪の巣窟へ(いざな)われ、待っていたのは、またも己へ刃を向ける、弟。
「もうやめてよ!こんな事、繰り返さないでよ、馬鹿っ!」
手を出せぬ珊瑚が琥珀に斬り付けられる様を見て、堪らずかごめが涙交じりの声を上げた。しかし、返る声は過ぐ世視のそれではなく、珊瑚の、願い。
『琥珀…思い出せ…』
「もういい…もういいよこんなの…!」
見てはいられなかった。たった一人の弟に命を奪われんとする、姉の姿を。
「ごめんね…かごめちゃん、皆…。」
あの時、一行が生死の瀬戸際まで追い詰められたのが己の所為だというのは、反論の余地もない事実。
本当は、わかっていたのに。
何もかも上手く行く筈などありはしない、と、わかっていたくせに。それでも無謀な行動へ出た己の責。
再び奴の陥穽へ自ら飛び込んだ、あたしの罪。
それを、貴方達は許してくれたのに ――― 記憶を失い現れた琥珀は、元の、弟で。そうして信じた彼は、かごめを傷付け、法師へ毒を吸わせる事態を導き出し。
もう、残されている道は一つしかないのだと、思い知らされた。
『かごめちゃん、痛かっただろ…ごめんね!』
あたしは、殺そうとした。肉親を。操られた訳でもなく、己の意思で、その手に懸ける事を決めたのだ。
『琥珀、おまえを独りで逝かせはしない。あたしも、直ぐ傍に逝ってあげる…だから。』
死ぬ事でしか抗えぬ、憎き奈落の闇に侵され。
心の、泣哭を。
悲鳴の様に、曝け出される胸裡。
『おまえを殺して、あたしも死ぬ!』
「やめろ…やめろっ!」
心が、壊れる。
『ごめんね、琥珀…!』
その時、一粒の雫が木の葉から滑るが如き微かさで、珊瑚の声が唇から零れた。誰に言うともなき、意識外の言動。
「やめ…聞かないで、あたしの、心を…!誰も、あたしを…」
壊さないで。
お願いだから、これ以上の慙愧を突き付けるのはやめて。
振り払った筈の思いが再び圧し掛かり、その心中を他人へ暴露される屈辱 ――― 陵辱感、と言うべきか。
泥濘と化した体内を、血塗れの足裏で蹂躙される、その感覚を。
(どうすればいい。俺は、一体何をしてやれる…?)
小刻みに震える珊瑚の肩を抱いてやる事しか出来ず、弥勒は己の無力さを痛烈に自覚していた。
『ちくしょう、また…!』
何度でも繰り返されるであろう、贖罪の叶わぬ裏切りと、悔恨。
命を賭して猶、解放される事さえも許されぬ、憐れな魂魄…。
(くら)く、黒く、沈み行く先は、緇の(ほむら)渦巻く灼熱の地獄なのか。
どれ程に、足掻こうとも。
ならば…。
「…持って行け。」
「…珊瑚…?」
彼女の低い呟きを聞き、弥勒が問い返す。しかし、それさえ耳には届いてはおらぬ様に、
「魂など…っ、こんな困苦のみの魂など、くれてやる!あたしを好きにするがいい…!」
だから。
もう、この螺旋から、解放してくれ。この、果て無き闇から。
なんだか、あたしは疲れてしまった。
終わり無き懊悩の連鎖に。
だから、どうか、ほんの一瞬でかまわないから、自由にして ――― 。
「珊瑚っ、手放すな!己の魂を!」
弥勒が、彼女の背後から廻し掴んだ左肩を、激しく揺らす。
繋ぎ止める意思がなければ、容易く喰らわれてしまう。しかし、彼女の意識は既に半分無くなっていた。
「言われずとも喰らう!退治屋が娘、おまえもこれで終わりだ!」
勝ち誇った声差しで、過ぐ世視がえげつなく笑い立てる。
「駄目じゃ珊瑚!魂をやっては!」
目に涙を蓄えた七宝が、かごめの肩から叫ぶ。
弥勒の左腕に抱えられた珊瑚の胸元には、変化を解いた雲母がちょこんと控え、主の頬を懸命に舐めている。"起きて、目を開けて"とでも言う様に、みぃみぃと鳴き声を上げながら。
このままでは、彼女を待つのは、死、あるのみ。
「時既に遅し、ってな。この興趣に溢れた魂と人間の狼狽。それを楽しんだ方が勝ちってもんだ!」
「…野郎…。」
ぎり、と弥勒が歯を噛み締める。何処に居る?姿を隠す、卑怯陋劣なるこの憎き妖魔は。
否、それよりも、珊瑚の魂の確保こそが優先させるべき重大事。
法衣の男は錫杖を地へ寝かせると、珊瑚を左に抱いたまま、己の懐から利き手で守護の札を一枚取り出す。
効くかどうかは、賭けだった。
過ぐ世視の餌食の対象となる魂は、黒く塗り潰された部分のみの筈。少しでも真白き素の魂が残されれば。
時間稼ぎにしか成り得ずとも。
本来の使途からは外れているけれど、珊瑚が、過去の己の無力さを、罪だと、悪だと感じているならば…試してみる価値は有る。
札を珊瑚の右肩へ置き、低く、唱えた。
「オン バザラヤキシャ ウン。」
過現未、三世全ての悪を呑み尽くすと言われる金剛夜叉明王の功徳。
御身の力を以って、この娘の持つ罪悪を取り祓い給え ――― 。
「!?法師、きさま…?」
ぴくり、と珊瑚の肩が僅かに跳ねた。
幾らか魂の流出が収まったのか、彼女が、う、と呻き声を上げる。その表情を確かめた後、次に引き抜くは、破魔の札。それを地表へ、びたり、と置く。
弥勒でさえ、手探りでの護法の活用である。罷り間違えば、己の身も無事では済まぬ結果を齎すやも知れぬ、邪道な使い方になる危険性を孕んで。
千手千眼観世音菩薩の破地獄の力へ縋る事は、正道となるか。
この、体感する本人にとり、地獄としか形容出来ぬ過ぐ世視の術。それならば、刹那でもこの空間を切り裂く事へは、適わぬだろうか?
事態の好転を希求し、弥勒が全霊で真言を放つ。
「オン バサラ ダルマ キリク。」
「邪魔立てするか、法師!!」
すると、びし、と札の四隅が見えぬ力で引かれた様に張ったかと思うと、ぱぁ、と大地を愛でるが如き柔らかな光が辺りに満ちた。
阿鼻叫喚の暗闇を、その御手から零す千の光芒が照らし出す。
地獄を、貫き破る様に。
その光明の下、存在してはならぬ亡き者の形をした物の怪の姿をはっきりと捉えた。
長くは()たぬ、使途の違えた功徳に依って与えられし好機を。
この間隙(かんげき)を、逃しはしない。
「犬夜叉っ!斬れ!」
「言われなくてもッ!!」
既に抜刀されていた太刀をぐいら、と大上段へ振り被り、剥き出しの足裏を勢い込んで踏み出した瞬間。
「無駄だ。」
犬夜叉が、風の傷を送り込むより早く。
「!?」
ぐにゃり、と澱む光の世界。それは、始めに引き返しただけに過ぎなかった。
「また…!?」
周囲へ視線を泳がせながら、かごめが叫ぶ。
破られた地獄は、再び呼ぶ次への入り口に代わるのみ。またしても暗転した其処へ広がるのは、既に姿を暗ました過ぐ世視の施す、珊瑚の過去。
性懲りも無く、また蘇らせるとは。
これでは、いくら光を呼び込もうとも、同じ闇を繰り返すだけ ――― 。
「ちっ。」
埒が、明かない。弥勒が、目を閉じたままの珊瑚を支える左の指に力を込め、忌々しげに舌打ちした。
「…法師。邪魔をするか、きさま。足掻く様は、俺を喜ばせるだけだという事が、まだわからぬか?」
「…生憎と、女が他の男に喰らわれるのを、指を咥えて見ている趣味はないのでな。」
見えぬ相手を、ぎら、と横目で睨み上げ、冷静さを失わぬ声音で弥勒が答える。
「くっ。面白い、法師。では、次はおまえだ。おまえの闇を引き摺り出して見せようか。」
「てめぇなんぞに喰らわれる趣味は、もっとねぇな…。」
戯言めかした科白とは裏腹、(くう)を見据えるその双眸は、峻厳な色合いを隠せはしなかった。







ほうし、オマエノやみヲひキずリだシテ、みセヨウカ ――― ?
無機質な音として、その過ぐ世視の声は意識を失い掛けた珊瑚の耳にも届いていた。
法師の、闇を ―――
(法師、さま…。)
そう、心の内で呟いた彼女の脳裏を掠めたのは、懐かしい声。
過ぐ世視の効力などではなく、自然に湧き上がる、眠っていた記憶。
『珊瑚。』
ああ。これは、本当の、父上の声。
厳しく、そして優しく、山の息吹の様に逞しい、大好きだった父の声。
怒られても、叱られても、あたしは、あの声が大好きだった。何もかも包み込む、大地の様なその声で告げられる叱咤は、全てを納得させる威厳を保ち。
だからあたしは、来る日も来る日も、血の滲む様な修錬を越えられる事が出来た。
何時か、あんな退治屋に成るのだと ――― 。
『あたし、父上みたいに強く成る!』
まだ、掌に肉刺(まめ)さえ出来ていない、幼い己の声。
『そうか、珊瑚は、わしの様に成るのか。』
自分を軽々と抱き上げ、首の後ろへ座らせてくれた父が嬉しそうに応える。肩車をされたあたしは、普段と違う目線の高さに…高みから望む、何処までも続く広大な景色に、心を奪われっ放しだった。その目線の高さの真実の意味を知るのは、もっと、ずっと後の事だったけれど。
『しかしな、珊瑚。腕っ節ばかりが強いのでは駄目だぞ。』
琥珀が生まれる、少し前だったと思う。あたしはまだ、小さな木太刀を与えられたばかりで、それが嬉しくて仕方なかった頃。
やっと、父に母に、近付けるのだと幼心にも退治屋としての自覚を小さく芽吹かせた、あの頃 ――― 。
『他にも何か要るの?』
父の耳の上辺りに両手を添え、あたしは不思議そうに首を傾げる。
『魂を、強く、保て。』
『タマシイ?』
益々以ってわからずに、訊き返す、あたし。
『そうだ。何ものにも冒されぬ、強き心を。』
『ふぅん?』
幼いあたしに、理解出来る筈もなく。
『例え負の感情を抱こうとも、それに染まらぬ、己が信念の部分を持て。』
『どうやったら、持てるの?』
『ははっ、珊瑚には、まだ少し難し過ぎたか。』
父は、大好きな声で大らかに笑った。眼前に広がる夕焼けよりも温かく、広い心で。
『"まだ"?なら、何時になったらわかるの?』
子供特有の質問を、あたしは投げ掛けていた。
『そうだな…。おまえにも、何時か守るべきものが現れたなら、その時わかる…。』
守るべきもの。
在りし日の父の言葉を、今、一言一句違わずに思い出す。
幼い娘へ伝えようとした、その意味を。
それは、爪先立ちの危うさを伴いながらも、あの目線の高さへ、あたしが少しだけ近付けたという事なのだろうか。
時間にすればほんの一刹那に過ぎぬ筈の、過去との邂逅。永遠の様な長い一瞬の中で、ゆったりと、ゆっくりと思いを馳せながら、反芻する。
守るべき、――― 者。


そして。
蝶が羽を広げる様に、珊瑚の双眸が、ふわり、と開いた。







「てめぇなんぞに喰らわれる趣味は、もっとねぇな…。」
そう低く呟いた法師の顔が、珊瑚の瞳に映し出されていた。
左に珊瑚の身体を庇う様に抱え、右手に持った錫杖を斜めに翳し屹とした両眼で宙を見据える、険しい顔。
…ああ、あたしはまた、この人にこんな顔をさせてしまった。
己の、闇の為に。
何時も、笑っていて欲しいと思うのだ。それが真実を押し隠す為の仮面だとしても、この人がそれを望むのならば。
思うままの表情を晒していて欲しいのに。
そんな顔を、させたくはないのに。
否、させたくはない"から" ――― 。
「…法師さ、ま。」
残る力を声帯へ注ぎ込み、その名を、呼んだ。
「珊瑚!?」
こちらを見返った法師の瞳に、己の疲弊した顔が映る。
退治屋が、妖怪相手にそんな情けない顔をするんじゃない ――― そう、己を叱咤して言を繋いだ。
「…あたしを、起こして。」
珊瑚の言葉通りに、弥勒が彼女の身体を支えながら、二人はふらりと立ち上がった。
珊瑚のその双眼へ、瞬く間に宿る、凛然とした輝き。
この人を、苦しめさせはしない。
この人が、誰にも見せる事を望まぬ、心の深淵に沈めた闇を…見世物になど、させはしない。
「ほぅお。まだ動けるのか?」
何処かからか様子を窺っているのだろう。これは驚いた、と付け足した過ぐ世視が、半ば馬鹿にした様な感嘆の声を上げた。
「ほとんどの魂は、喰らっておるというのに。」
それが、おまえを見つけ出す道標となる ――― 。
声には出さず、珊瑚が呟く。彼女の右手には、抜き身が握られており、其処へ無言で左手を添えた。右方へ左手毎刀を引き寄せ、つい、と己の目の高さまで持ち上げる。
かちり、と手首を返し、(やいば)を眼前で真横に掲げてみせた。
次に、ゆるりと両の瞼を瞑り、意識の全てを集中させる。
瞼を突き破る様な、刀身の霊光を感じる事が出来た。何処までも濁りの無い、冴え冴えとした光を。
脳裏を白く塗り替える様に。
過ぐ世視は、たった今、己の魂を喰らったばかり。これまで、自身の中に在った血肉の一部。それを、今彼奴は抱えている。ならば、その居所を己に感じ取れぬ筈はない。
何処に在る…?あたしの、闇。
額に、脂汗がじわりと滲み、昏倒しそうな目眩を覚えたが、法師の腕が、己を支えてくれている。
あの夜から、ずっと、ずっと、あたしと共に在った"おまえ"。おまえを疎ましく思う事もあったけれど、それこそが、あたしを突き動かす源だとも、知っている。
無くしてしまいたい陰の気であろうとも、紛れもない、あたしの一部。あたしがあたしの道を行く為に、今、おまえを初めて認めた様な気がした。
あたしの、道。それは ―――
ぴく、と珊瑚の鋭敏な感覚の先端に、何かが触れた。
ゆっくりと、双眼を開ける。目の前に翳した刃の向こう。其処に在ったのは、ぼんやりと揺らめく様な、深紅の影。
(見えた!)
そう思った瞬間には、珊瑚の左手は背後へ廻され己の帯へ挿し入れられていた。引き抜くは、限りなく黒に近い鈍色の苦無。
びゅ!
目にも止まらぬ早業で投げ放たれた苦無が、真っ二つに空気を薙いで突き進む。その先で、
「ぎゃぁっ!?」
妖魔の、叫び。
その刹那、辺りを埋め尽くしていた違和感極まりない真闇が消し飛び、ぐるり、と世界が回転した様に、月光と星明かりが帰って来る。
あるべき、夜闇の姿を取り戻す。
「戻った!」
天上へ鼻先を向けたかごめが声を上げる。
術が、解けた。
「おのれ、何故(なにゆえ)…!?」
大鎌を右手に携えた退治屋…否や。過ぐ世視は、左手で己が左目を抑えていた。その指間から覗く、苦無の柄。其処から流下する、青黒い体液。最早、過去を"視る"事は不可能。
「こうなりゃこっちのもんだっ!」
しかし、再び鉄砕牙の柄へ両手を掛けた犬夜叉へ、珊瑚が制止に入った。
「…待って、犬夜叉。こいつは、あたしがやる。」
「ああ!?何言ってやがる珊瑚!」
「珊瑚、無理は」
「手出しは…無用。」
犬夜叉と七宝の声を静かに遮り、珊瑚が言った。
既に、その両目は過ぐ世視を真っ直ぐに睨み据え、逸らさない。
(こいつがこの目をしたら、誰も、止めらんねぇ。)
けっ、と吐き捨てた後、がしゃ、と鉄砕牙を右肩へ負う。
「おぅ、珊瑚。不様な真似してみやがれ。そんときゃおめぇの言う事なんざ、すっぱり斬り捨ててやっからな!」
「…恩に着る。」
ふ、と珊瑚が口許を緩めた。
「犬夜叉!」
七宝が、怒気を孕んだ声を犬夜叉へ向けるが。
「七宝ちゃん、今のは、"危なそうになったら、遠慮なく助けちゃうからな"って意味よ。」
「おいっ。」
かごめの通訳に、おお、そうかそうか、と七宝も納得していた。
よろり、と覚束無い足取りで、弥勒の腕から離れた珊瑚が、一歩前へ出る。
「…おまえの気が済むように、しろ。」
後ろには俺が控えているから、と、言外に、告げる声。
「…ありがと。」
背後からの、己にしか聞き取れぬ程度の弥勒の言葉に、珊瑚も小声で応えた。
それだけで。
その声だけで、あたしの足は、強く、大地を踏み締める事が出来る。
「何故、そんな力が残っている…?魂は、喰ろうた筈…!」
死神でも見る様な驚愕した隻眼を見開き、過ぐ世視が、大鎌を構えた。
「…闇色の魂など、くれてやる、と言ったろう。」
珊瑚の方も刀を構えるが、その様子は、右腕をだらり、と下方へ泳がせる、脇構えを殊更崩した様な姿。
「なれど、あたしの魂は、それだけで形成されているのではない。」
「な!?」
「…それこそが、きさまの誤算だ。」
あたしの全てを、魂魄の全貌を、黒に染め切ったと思い込んだ、浅はかさ。
人間の心は、弱くて脆い。
けれど。
何ものにも冒されぬ強い信念が、欠片でも、残っていれば。
こんな風に、再び立ち上がる事が出来るのも、また、人間。
あたしは、あたしの罪を、為すべき事を、心得ている。
未だ遠い道行きではあるけれど、必ずや、弟の魂を取り返す。譲れはしない、あたしの使命。
そして、血の繋がりも、生業も怨みも介在しない、使命とは違う誓いがあるから。
守る、と決めた。
あたしを、守ると言ってくれた、この男性(ひと)を。
誰にも、邪魔などさせはしない ――― 。
「あのまま居れば、それ以上苦しまずに済んだものを。」
ずるり、と眼球に刺さる苦無を自ら引っこ抜き、過ぐ世視が唸る。
「やはり、人間は愚かな生き物よ!」
大鎌を持った妖魔が、木偶(でく)の様に立つばかりの珊瑚を目掛け、地を蹴った。
「珊瑚!」
「珊瑚ちゃんっ!」
幼い声と、笑えば鈴の様であろうと思われる声が、聞こえた。
珊瑚は、ぴくりとも動かない。
「死に損ないに、何が出来る!」
その退治屋が娘の姿を見、過ぐ世視が嘲る声差しで、吼える。
「死ねっ、退治屋ぁっ!!」
動かぬ標的へ、翳した大鎌を渾身の力を込めて振り下ろした ――― その、刹那。
未だ其処へ残像を残す、流水の為様。
紙一重の"余裕"で、珊瑚の身体は右へ…彼奴の左へ流れ、刃をかわしていた。
「!?」
瞠目した過ぐ世視のその目の前で、
「何が出来るか、その身で確かめてみるか?」
低い珊瑚の呟きが終わったと時を同じくし。
地面にざっくりと突き刺さった大鎌の切っ先を引き抜く(いとま)も与えずに、振り上げられた玲瓏たる刃が、一分の隙も無い軌道を描き、父の姿をとった妖の身体を躊躇いもせず袈裟掛けに斬り裂いた。
怨言の一つも発せられぬまま、噴水の如く妖の血を迸らせた彼奴の体躯は二つの肉塊へ分かたれ、ずしゃ、とその場に崩れ落ち。
「やった…!」
(まなじり)に一杯の涙を溜めた七宝が、小さく叫ぶ。
「珊瑚っ!」
最後に、法師が己の名を呼んだ様な気がしたところで、珊瑚の意識はぷつりと切れた。







(珊瑚、先刻の毒粉は、些か量が足りなかったぞ。)
父の、厳しい声が聞こえた。
(姉上、今日の獲物は何?)
琥珀の、声も。
わかっている。これは、夢なんだ。
父は、もう居ない。
琥珀も、あんな風にあたしへ語り掛けはしない。
ついこの間まで当たり前にあった幸福は、疾うに喪くしてしまった。
背骨を舐める様に訪れて、何もかも奪っていく ――― 奈落。
自らを地獄と名乗る、妖の仕業。
苦しい記憶は、今も、消える事無くこの胸に在る。
引き剥がす事も叶わぬ、自身の(はだ)の様にぴたりと寄り添って。
このまま、一生涯抱えてゆくのだろう。
戦いが、終わりを迎えても。
薄まる事はあっても、決して消えぬ傷痕として、この胸に在り続けるのだろう。
それでも、この現実から目を逸らしてはならぬのだ。
過ぎし日の名残を、忘れてはならぬのだ。
未だ成し得ぬ、決意があるから。
あたしが、この現実と向き合う事を決めた様に、琥珀も、結局は認めなければ永遠に終わりなど来はしない。
己の、罪を。
…きっと、あの子は泣きじゃくるのだろう。操られていた間の、己の所業を思い出せば。
もしかしたら、あたしはあの子に恨まれてしまうかもしれない。どうしてそっとしておいてくれなかったのか、と。
思い出したくはなかったのに、と。
それが、あの子にとって死よりも辛い現実だと、却って琥珀を苦しめる事になると、痛い程承知しているが…
――― あの子を奈落の底へ置いたままにはしておけない。
その時が来たら、耐えられる自信などはあたしにも無いけれど、なんとしても、魂を、取り戻さなければならない。
それが、文字通り弟の命の終焉を意味するのだとしても。
例え奈落を討ち果たしたところで、失われた筈の命を呼び戻すなど能わぬ事だとわかっていても、解放、してやらなければ。
あの子の魂を自由にして、父と母のもとへ、還してやらなければ。
あの子を慈しんでくれた皆のもとへ、あの子が愛して止まなかった父母のもとへ、必ず、辿り着ける様に。
それが、正真正銘、この身が独りぼっちになる事を意味していても ――― 。

珊瑚。

また、呼ぶ声。

珊瑚ちゃん。

誰だろう。聞き慣れた、声。
まるで、独りの感傷を、払拭する様に。
あたしの手を握り締め、温もりの輪の中へ(いざな)う引力で。
あたしを呼ぶのは、誰だろう ――― ?







「珊瑚ちゃん!」
呼ばれるままに瞼を開いたら、其処にはかごめの顔があった。
「…かごめちゃん…?」
彼女がどうしてそんな風に顔を歪めているのかわからずに、珊瑚はゆっくりと上半身を起こす。横になった身体には、夜具代わりの薄衣が掛けられていた。
此処は、営を張っていた、楢の傍?
(…ああ、そうか…。)
ようやく回転し始めた頭が、過ぐ世視を斬り払ったところで己は失神したのだ、という記憶を弾き出した。
倒した頭の邪魔にならぬよう、かごめが解いてくれたのだろうか。結い上げていた筈の長髪が肩先から滑り落ちて来たのを、極自然な動作で珊瑚の指が後方へ静かに払う。
「ごめん、心配掛け」
謝罪の言の途中で、かごめが唐突に珊瑚の首の辺りへと抱き付いた。そして、廻した両腕で、珊瑚を強く、抱き締める。
「…か、かごめちゃん?」
一瞬呆気に取られた後、珊瑚はかごめへと問い掛けるが、彼女は無言のままで嗚咽を洩らしていた。
その意味を悟り。
「…有り難う。」
何と言ったら良いのかわからずに、珊瑚は礼の言葉を述べ、かごめの背中を抱き返す。
「すげぇな、おめえ。」
そのかごめの傍らに座していた犬夜叉が、普段と変わらぬ仏頂面で、それでも彼の声では滅多に聞けぬ称賛の科白を吐き出した。
「…何が?」
訳がわからぬ上に犬夜叉から言われるなんて…と裏を勘繰る様な怪訝な顔付きで珊瑚が問う。
「…全部が。」
「はぁ?」
益々合点が行かぬ、といった珊瑚の声の後、まぁいいけどよ、と彼が呟いたのが聞こえた。
ならなんで不機嫌そうな顔をする?と珊瑚は思ったけれど、よく考えてみれば、それが彼の地顔なのだから仕方がないかと諦めた。
そして、己の体を挟んで反対側。其処で、涙を溜めた七宝がふるふると震えている。どうやら、珊瑚が覚醒したと同時に彼女へ飛び付こうとしたところ、かごめに先を越されてしまい、引っ込みのつかぬ体勢のまま立ち尽くしているらしかった ――― 法師の膝の上で。
子狐の頭へ、右の掌を二つ三つ柔らかく置いてやったその法師と、珊瑚の目が合った。
弥勒は、無上の微笑を返す。
無言のまま。
血を流す魂魄へ、土足で踏み込む事を良しとはしない、この仲間達。
憐憫や同情など、そんなものは初めから欲しくなかった。
己が一番哀れだなどと蔑むつもりもないし、可哀想だと思われるのも、自尊心が許さなかった。
あたしは、可哀想でもなければ、慰められたい訳でもない。
けれど、かごめの涙は、そんな捻くれた心さえも癒す様に。
どうして、こんなにも染みるのだろう。
この人達の、想いは。
「…醜態を晒しちゃったね。気分の悪いもの見せて、ごめん。」
視線を落とし、珊瑚が言った。
「そんな風に言わないで、珊瑚ちゃん。」
珊瑚から身体を離したかごめが、真っ赤に染めた目を隠さずに、彼女の瞳を見詰めている。そのかごめの潤んだ両目に捕えられ、珊瑚は少し頬を緩ませた様に見えた。そして言ったのは。
「…あれが、あたしだから。琥珀を、取り戻すまでは、穢れてようが黒かろうが、この思いを捨てられない。だから」
穢れた、などと口にする者とは思えぬ、真摯な眼差し。
「嫌ってくれて、かまわない。」
自虐ではなく、高邁な信念の許で。
一抹の迷いも宿さず、はっきりと言った。
おぞましき、肉親殺しの場面。そして、自身でさえ、たった一人の弟へ向けた…殺意。
それが、こうして旅を続ける最たる根源である事は、既に隠しようがない。
しかし、決して正義とは言えぬ陰の気を抱えているのを表へ晒された以上、それを嫌悪する者が此処に居たとて、無理のない話であった。その自然(じねん)の理を、珊瑚は承知している。
「嫌いになんか、なる訳ないでしょ!?」
そして返って来たのは、こちらも、迷う間も見せずに発せられた怒気を含んだ声。
「珊瑚ちゃん、大切な人を、当たり前に大切だって言ってるだけじゃない。それがどうして穢れなの?」
納得出来ない、とでも言う様に、かごめが一気に言葉を繋いだ。
「魂とか穢れとか、あたしには良くわからないけど。だけど、珊瑚ちゃんはどんな目に遭っても琥珀くんを救うって、絶対救うって、言い続けてる。それを、キレイな魂だって呼んじゃいけないの?」
「…かごめちゃん…。」
ぼろぼろと涙を零しながら眉間に皺を寄せるかごめに気圧され、珊瑚はその名を呼ぶので精一杯。
「ねえ、どうなの弥勒さま!」
と、かごめはいきなり矛先を専門家へと向けた。
「は。」
唐突な御指名に、一瞬目が点になり掛けたが、其処はこの法師、である。
「…この地上に、罪無き者など一人も存在致しません。」
かごめの問いに対しての回答ではなかったけれど、それでも一寸聞いただけでは有り難そうな印象を受ける婉曲な言い方をしてみせた。しかし。
「まぁた説法かよ。」
「私見です。」
横柄に言った犬夜叉へ、悪びれもせずにタネを明かす。
「…独断論で説くなっ、坊主が!」
「経験論です。」
「どちらでも一緒じゃ…。」
掻いた胡座へ左の肘を突き、その掌中へ頬を預けた犬夜叉が法師へ白い目を向けたところへ、その弥勒が一言で遣り返し、今度はそれを見つつお手上げ、とでも言う風に(かぶり)を振る七宝。
見慣れた、光景。
…なんかちょっと違う方向へ行ってるわね、とかごめも思ったけれど、今更それを止める気にもなれなかった。
それについては内心苦笑する彼女にも、珊瑚の抱える奈落への不倶戴天の気概が純粋だとは、言い切れはしない。けれど、琥珀を思うその姉弟愛までも闇に帰属すると決め付ける事を、理性ではなく心情が拒んでしまう。
あたしは、珊瑚ちゃんの本当の苦しみなんてわからずに、勝手な事を言っているだけなのかもしれない。
――― でも。
「だから、珊瑚ちゃん。一緒に、行こう?」
何処から来る"だから"なのか、かごめ自身にも説明出来なかったけれど、何時の間にか、そう言っていた。自然に湧き上がった、春の日差しの様な笑顔を浮かべながら。
この異国から来た友は、浄化する光を、その指先にだけではなく全身に携えているのだと、珊瑚は思う。
彼女の言葉を額面通り受け取って、己の魂の色への認識を替えてしまえる程、珊瑚の心は易いものではない。己の闇の深さは、自身が一番良く理解している。しかし、それでもかごめの言動は珊瑚の胸を少しだけ軽くしていた。己の思いを知って猶、支えてくれようとしているそのかごめの心が、ただ、嬉しかった。
(かごめさまの言葉は、何時も端的でありながら効果覿面だな…。)
やれやれ、先に良いところを持って行かれてしまったなぁ、などと内心苦笑いを浮かべている法師の心を知る由もなく、
「…有り難う、かごめちゃん。」
珊瑚が、小さく微笑む。
その笑顔に安堵したかごめは、
「珊瑚ちゃん、もう少し眠ったら?ずっと寝てなかったでしょ?」
思い出した様に提案した。朝陽は昇ってしまっているが、今の珊瑚に休息と睡眠が必要なのは明らかだ。何せ魂を半ば喰らわれてしまったのだから、体力の回復には相当の時間を要するだろう。
「ん。そうさせて貰おうかな。」
お言葉に甘えて、と、かごめの言葉へ素直に従ってみせた。
「じゃ、あたし達、食料とか薪とか調達して来るから。ご飯出来上がったら起こしてあげるね。」
ほら、行くわよ犬夜叉、と露骨に嫌そうな顔をした半妖の少年を促しながら、かごめが立ち上がる。
ちっ面倒くせぇ弥勒にやらせとけ、いいからてきぱき歩きなさいっ、などと言い争う声を上げつつ連れ立って行く二人の背を見送った後。
「肝心の珊瑚よりも先に眠ってしまっている輩が居るな。」
優しげに目を細めた弥勒の視線の先には、掛けられた薄衣の上から珊瑚の腿の辺りに頭を乗せ、眠りに落ちている七宝の姿があった。
「夜中に起こしちゃったからな…。」
幼子の黄金色の髪をゆっくりと撫でてやりながら、囁く様に珊瑚が言う。
「法師さま。」
「はい?」
不意に、彼女が法師を呼んだ。
「…ごめんね。また、あたし、迷惑掛けて…。」
七宝を見詰めたまま、そう呟いた珊瑚へ、弥勒が、ふう、と一つ溜め息を返す。
「迷惑というのは、相手がそう感じてこそ初めて迷惑と呼ぶのですがね。」
この法師らしい切り返しをされ、珊瑚も苦笑するしかなかった。
七宝を起こさぬ様に気遣いつつ、背に流れる髪を右前身へ掻き集めてから、かごめの言うところの"たおる"の上へ頭を倒す、珊瑚。
その半身へ夜具を掛け直してやりながら、弥勒が静かに言った。
「…あそこで半ば魂を奪われながらも、己の力で再び立ち上がるとは…まこと、おまえは私の想像の上を行くおなごらしい。」
尊敬の念を込め、何気なく。
「あれは、あたしだけの力じゃないから。」
あっさりと返事を寄越す、珊瑚。
「?」
「父上の…父の言葉を、思い出してた。何ものにも冒されぬ、信念の部分を失くすな、って。」
仰向けになった珊瑚の双眸は、遥か遠い空を見上げている。
「何ものにも冒されぬ、信念…。」
弥勒が、珊瑚の ――― 一里を率いた長の言葉を繰り返した。
「うん。あたしにも、守るべきものが出来た時、それがわかる、って…。」
「そうか。」
珊瑚の、守るべき者。それは、弟・琥珀。
彼を救わねばならぬ、という信念こそが、あの時彼女を蘇らせたのだと、弥勒はそう理解した。
「…珊瑚らしいな。」
弟思いの。
両の袂へ腕を差し入れた弥勒が、目を瞑り柔和な笑みを頬に乗せる。
「……。」
傍目でその微笑を見上げつつ、自然に珊瑚の口を吐いて出た言葉は。
「だってあたし、見世物になんかしたくなかっ」
「え?」
「っ!?」
己が何を言い掛けたのかを瞬時に悟った珊瑚の顔色が、瞬く間に紅潮していく。辺りには、しいぃぃん、という"静寂の音"まで聞こえる様で。
「…見世物って」
弥勒が言い掛けたところで、がばっ、と夜具を頭まで引き上げた珊瑚が慌てて向こうを向いた。拍子に、ごろん、と転がってしまった七宝に、起きる気配は微塵もない。
「誰のを?」
「……。」
弥勒が、自分が今納得していた理由とは全く違う事を口にした珊瑚へ、問うた。
あの時、次に妖術へと晒されそうになったのは…俺?
「珊瑚。」
「…眠いんだってば。」
答えぬ珊瑚へ再び問えば、ぶっきらぼうな返事が返るのみ。
「……。」
守るべき者は、俺だった、と言うのか。
俺を、俺の魂を守る為に、あの絶望の淵から立ち戻った、と。
おまえは、そう、言ったのか。
――― まったく、本当に俺の想像をひらりと越えやがる。
この自分が、まさか守られる対象になろうとは。
参ったな、と思う。この己に、初めての事ばかりを突き付けて来るのだから。
無論、負けっ放しに甘んじる程の人の好さもありはしないが。
向こうを向いて狸寝入りを決め込む珊瑚の眼前の地表に、ばた、といきなり背後から何かが着地した。
薄目を開けた珊瑚の視界に入ったのは、綺麗に右腕を絡め取った数珠。恐る恐る目線を上げれば、逆さになった法師の顔が、こちらを上から覗き込んでいる。
「…な。」
「で、何を見世物にしたくなかったって?」
にや、と悪戯小僧宜しく笑った顔が、見えた。
(この男…っ!)
蹴り倒したろか、と思ったけれど、それさえ無理な衰弱っぷりだと自覚していた。おまけに、眠いのだとて、嘘ではないのだ。力なんか、入らない。
「うるさいなぁ、邪魔するなっ。」
それでも右腕をぐい、と引き上げ肘の裏で奴の顔を退けてやった。自然、仰向けの状態に戻る。
「言えば、静かにしてやっても良い。」
「だからぁっ!」
「だから?」
「……。」
何がそんなに楽しいんだ、と睨んでみるけれど、彼の微笑を見ているとそれさえ馬鹿らしくなって来る。
珊瑚は観念した様に、両手で掴んだ薄衣を首の辺りまで、する、と下ろした。
「…あたしを、」
ころり、と脇で七宝が寝返りを打つ。彼の規則正しい呼吸音が聞こえ ――― 暫しの、沈黙。
「…あたしを、呼び戻したのは…」
そう小さく呟くと、信じ難い事に、珊瑚は自らゆっくりと瞼を閉じて見せた。
微かな笑みを乗せたままの弥勒の(おもて)が、ほんの少し朱の差した彼女の頬へ近付いて行き、唇が触れる、その刹那。
すー、すー、という安らかな寝息が彼の耳へ届いた。
(…寝てやがる。)
がっくりと肩を落とした弥勒は、僅かに後ろ髪を引かれながらも、そのまま頭を持ち上げる。
このように安心し切った態度を取られては、却って手が出せぬというものだ。
つるりとした珊瑚の両の瞼を見詰めつつ、思う。
初めは半妖に邪魔され、次は彼の妖魔。そして今度水を差すのが睡魔とは。
――― 俺も、よほど魔物には恨みを買っているらしい。
はぁ~あ、と一際大きな溜め息を吐いた後。
その態度に反し、この上なく柔らかな表情を浮かべた事実は、赤目の妖猫だけが、知っていた。







何時か、心の底から笑い合える日がくればいい。
それが、永き旅路に就く前の、ほんの一瞬でもいいから。
涙のまま逝くのも、感情を喪失したまま()くのも、あまりに辛過ぎる。
其処へ辿り着くまでに、何度地べたを這い蹲る事になっても怯えはしない。
その度に、どんな不様を晒そうと、立ち上がる術をあたしは手に入れた。
その父の遺した信念(おもい)を、おまえにも伝えたいから。
必ず、魂を取り返す。
有らん限りの力をもってして。
それが、姉としておまえにしてやれる最期の仕事になろうとも。

必ずや、魂を、取り戻す。









B.G.M. <Love&Truth> REPLICA


一編一編が長過ぎて、大変読み辛かったかと思います、申し訳ございません。
誤解を招きそうですが、珊瑚は別に、琥珀より法師が大事、と言っている訳ではありません。
この話は、珊瑚嬢の旅の始まりを犬一行に見せてやりたくて、それだけの為に無理やり作ったものでした。なので珊瑚嬢は悲劇のヒロインまっしぐら。勿論自分の尻拭いは自分でやってますけど。
刀用語(?)は相変わらずエセ丸出しです。"鍔元"というのは抜き身に対して言うのであって、鞘の鯉口下辺りを何と呼ぶのかは知りませんー。そしてやっぱり法力もエセです。
では、最後までお付き合い下さいまして、有り難うございました。

2001.10.28