陽炎
‐‐‐ 弐
何事も無く朝を迎えたのは、良い事なのか、悪い事なのか。
結局、妖怪の襲来も、邪気の気配も無く、何一つ情報を得られぬまま、新しい一日の始まりを受け止めねばならなかった。
「おはよう、弥勒さま。」
「おはようございます、かごめさま。」
まだ詳細を知らされていないかごめにとって、この程度の妖怪騒ぎは既に慣れっこになっている。姿の見えぬ敵に多少の戸惑いは感じながらも、何時もと変わらぬ挨拶を口に乗せる事が出来た。それこそが、彼女の彼女たる所以でもあるのだが。
しかし。
「…おはよう、法師さま。」
「…寝ていないのか、珊瑚。」
伏せた睫毛の奥に控える瞳が、些か赤い。眠れなかった、というのが正解だろう。
見張り番のしんがりであった筈の珊瑚だが、交代を頑なに拒み続けた犬夜叉に根負けし、再び大杉の根元へとぼとぼと戻って来た事には、幹に背を預けた弥勒も気付いていた。
「だから一緒に寝てやろうと」
「戯け者。」
皆まで言わせず、珊瑚が白い目で弥勒を睨む。その為様は平生通りで、多少の安堵を覚える、弥勒。
と、其処へ、かごめの不審がる声が上がった。
「なんなの?犬夜叉ぁー。」
顔を洗いに行くだけだってば、と続けるかごめの後をついて行く犬夜叉は、うるせぇ、などと吐いている。
「……。」
そのような二人の様子を見、珊瑚は、複雑な心境に捉われていた。
昨晩、とうとう最後まで強情な法師の口を割らせる事は出来なかったが、犬夜叉が、過剰に警戒しているのは明らかだ。確かに、正体の定かでない妖怪と遭遇したのだから、彼奴の陣地内で気を張るのは当然の事なのだが、何かが、何処かが普段とは違う。やはり、隠しているのだ三人は。あたしに言えない事を ――― 。
川岸で何事かを言い争っている二人の背中を、静かに見詰める、珊瑚。
(…わかり易過ぎだ、馬鹿犬…。)
弥勒が、珊瑚と犬夜叉の方を交互に見遣り、心の中で悪態を吐いた。
七宝が襲われて以来、五日が経過していた。
そやつに限らず、他の妖に道程を脅かされる事も無く、今日に至っている。あの川筋からも離れ、問題の山さえ疾うに越しており。
立ち寄った村里で、依頼は、向こうからやって来た。決して、弥勒が裏から手を廻したとか嘘八百を並び立てたとか、そういった罰当たりな所業ではない。名主らしき人物が、緇衣に袈裟という尤もらしい姿をした弥勒を呼び止めたのは、当然の判断であっただろう。
聞けば、屋敷内で病に倒れる者・怪我をする者が後を絶たず、物の怪か悪霊が棲み憑いているのではなかろうか、と懸念しているとの相談事。早速一行がその問題の屋敷へ出向いてみると、なるほど、取り巻く空気が異界の匂いを放っている。
「大丈夫。ただの小悪党です。」
「ただの、って…。」
「悪戯好きな浮遊霊ですよ。」
さらっと言ってのける辺りが、少々怖い。それでもこの年若い法師が言った通り、屋敷の床柱へ守護の符を一枚貼り付けると、たちまち空気が晴れて行く。無論、其処に住まう者達には感ぜられる筈もない"感覚"ではあるが。
それでも今の今まで起き上がる事も出来なかった者が「調子が良い」などと言い出したりしたものだから、その御利益は真実のものであったと名主も悟り、是非ともお礼を、と申し出ていた。
夕餉と、一夜の宿。
この旅の一行にしてみれば、願ったり叶ったりの展開ではあったのだが、まだ"人"と関わる事は躊躇われた。
しかし、あまりに遠慮していても、却って不自然で。
珊瑚には、未だ隠し通しているから。
普段であれば、"あの山に棲まう物の怪であったのだろう"という程度で済む話。それを、今以て警戒しているのを明らかにすれば、珊瑚が己を疑って掛かるのは目に見えている。
かといって、迂闊な行動を取って村人へ被害を及ぼす訳にもいかぬのだ。
犬夜叉へ、ちらり、と弥勒が視線を送る。すると、黄玉の瞳を面倒臭そうに閉じた後、眉をぐいら、と吊り上げてみせた。彼なりの肯定であろう、と受け取った弥勒は、とうとう名主の申し出に、折れた。無論、普段以上の警戒を怠る訳にはいかないが。
「ほんと?やったー!」
弥勒の後方で小さくかごめの喜びの声が上がった。
久し振りの屋根の下、である。年頃の娘が、柔らかな蒲団を恋しく思い始めていても、何ら可笑しくはない日数を重ねていたのだから、当然の反応と言えよう。
「木の上だって俺はいいぜ、別に。」
かごめのその姿を見遣り、犬夜叉が吐いた。
「あんただけよ、それは。」
かごめが、ぴしゃりと言い放つ。
その更に後方で。珊瑚は、無言を貫いていた。
夕餉を無事済ませ、皆、提供された一室で床へと就く頃合を迎えていた。
しかし、その部屋の前の縁側に足を投げ出した、一つの影。
眩しい程に降り注ぐ、煌々とした月光を無意識に見上げて。
蒲団に入る気には、更々なれなかった。それどころか…。
其処で、からり、と背中で襖が開く音を聞く。
「どうしました、珊瑚。」
その声に思うのは、やはり、この法師とて眠ってなどいなかったのだろう、犬夜叉も目を瞑っているだけで、殺気が消えてはいないのだ ――― という事。
「あたし、やっぱり一人でも野宿した方が…。」
振り返らずに、今胸を占めていた考えを素直に提案してみる、珊瑚。
「まだそんな事を言っているのか。」
心底呆れた風に、弥勒が言った。
「だって。」
もし、今此処で襲われでもしたら、何の関係も無い屋敷の者にまで影響が出る。珊瑚は、それを恐れていた。故に、奴の正体が知れるまでは、自分は一人で夜露を凌いだ方が良いのではないか、と。
「誰も、おまえが原因だなどと言ってはいないでしょう。」
七宝が、怪我をしたのは。
弥勒も犬夜叉も、そして七宝も、嘘を吐き通している。
「でも、もしかしたら、この間のかごめちゃんの怪我だって…。」
まさか、其処まで遡って考えていたとは。
人間、不安に捕われてしまえば、果てが無い。既に珊瑚は、疑心暗鬼に陥っている。
言霊の、威力。
骸鬼占の言葉が、こうまで負の作用を齎していようとは。
甘く見過ぎていたか。妖占の呪言を。
つ、と冷たい床を一歩進み、珊瑚の脇に屈み込んだ弥勒が、彼女の耳元で囁いた。
「兎に角、中に入って眠りなさい。深夜におなごが一人でおっては、此処で物の怪ではない者に襲われても文句は言えぬ立場だぞ。」
珊瑚には、恐らくこれが一番、効く。
彼の予想通り、ば!と直ちに弥勒から距離を取った珊瑚が、ふざけんなこの阿呆、などとぶつくさ言いながらも、渋々部屋の中へと消えて行った。
珊瑚の立ち上がり様、彼女の頬に差す朱を認めていた弥勒も胸を撫で下ろす。
そして、やれやれ、と一つ嘆息した後、ゆっくりと襖を閉めた。
蒲団へと潜り込み、一刻は過ぎただろうか。うとうととはするのだけれど、どうにも眠りの淵へ、落ちて行けない。
(何を弱気になっているのだろう。)
何を ――― その答えは出ている。全ては、あの言葉から始まった。
骸鬼占の所為だとわかっていながら、どうしようもなくもがくばかりの己が、歯痒くて堪らない。
(…情けない。)
堕ちたものだ、あたしも。
それは、消せない過去が、清算しなくてはならない怨みが、己の中に生じせしめた迷いなのだ。
そう。あの奈落の張った罠にさえ掛かっていなければ、このような弱い心根を直視する事もなかったのに。
行く道を、
違えたつもりはない。その行く先々で降り掛かる針の雨など、己で潜り抜けてみせる。けれど、不安で不安で堪らないのは、自身を焦がす火の粉が、他者を巻き込む火炎となる悪夢を想像してしまうから。
何時から、こんなにも弱くなった?
この仲間達の中で、あたしの怨みに満ちた魂は軟弱になるばかり。それを悪だと決め付けるつもりもないが、今の状況下で、何があっても揺るがぬ魂を保ち続ける事など可能なのだろうか。
(…?)
ふと、何かが其処で引っ掛かった。
何だろう。酷く曖昧で、遠い、記憶。
しかし、珊瑚の思考は、強引に割り込んで来た邪気に因って遮られる事となり。
ばち、と双眼を開ける。同時に起き上がった弥勒の向こうで、犬夜叉は既に鉄砕牙を手にしていた。
「出やがったか。」
「…これは…近過ぎる…?」
弥勒の顔が青褪めて見えるのは、夜の闇の所為ばかりではないだろう。
――― 来たのではなく、既に、居る。
三人が、同時に思い当たった刹那、
「ちっ!」
舌打ちした犬夜叉が床を蹴り飛び出そうとするが、弥勒に制された。
「待て、犬夜叉!おまえはかごめさまを」
そう言う間に、振り向いた犬夜叉の脇を疾風が追い越して行く。その風の正体は、飛来骨と刀を握った、珊瑚。
「珊瑚!」
外れそうな勢いで襖を開け放った珊瑚は、弥勒の声を後方で聞きつつ廊下へと駆け出していた。
何処に居る!?
邪気が、呼んでいる。
誘う様にたゆたう、気。触れれば雲散してしまいそうな、
標を辿る。
移動している気配はない。今度は、姿を現すつもりなのか。七宝を襲った者と同一であるとの証拠は、無論ありはしなかったのだが…。
探り当てたその場所で、珊瑚は足を止めた。する、と襖を開ける。
其処に在ったのは ――― まだ、小さな人影。
着物の帯に滑り込ませた鞘の鍔元へ左手を添え、利き手を背に負った得物へ掛ける。
「おまえか、この妖気の源は。」
低く、問う。
光源は、背後から入り込む月明と星の瞬きのみ。相手の輪郭をようやく認められる程度の微光に過ぎず。それでも、振り返ったその顔を仄白く照らし出す。
薄く
雀斑の浮かんだ、未だ幼いその面差しを。
「琥、珀…?」
瞬間、瞠目した珊瑚は思わず一歩後退る。
見紛う筈もない、弟、であった。
「な…、何故、此処、に…?」
驚愕は、隠せない。途切れがちな声を、必死に繋いで行く。
憎き奈落の
下に身を置く筈の、弟。昔に戻ったと思いながら再び己の腕を摺り抜けた、今となっては唯一人の、肉親。
「姉上。」
そう呟いた彼は、琥珀の声をしていた。高く、細い、少年の声。
(琥珀!?)
後着した弥勒は、珊瑚の背後で我が目を疑った。
単独行動か。それとも、奈落(と言っても傀儡であろう)が傍に控えているのか…?
琥珀の足元にはどろりとした深紅の海が広がっており、その水面には既に二、三人が倒れ伏している。
「…おまえが、やったのか…?」
目を見開いたまま、珊瑚が唸る様に問うた。
「姉上の所為だよ。」
――― この人達が死んだのは。
琥珀は、その科白とは不釣合いな明朗な声でそう言っていた。
(ちっ。)
内心、弥勒が舌打ちする。
追い討ちを掛ける様な言葉を、何故こうも時機宜しく浴びせ掛ける?まるで、この数日間の事を見透かした様に。
珊瑚は、返す言葉も無く蒼白な頬を晒して立ち竦む。
「姉上。」
琥珀が、呼ぶ。
「死んで。」
「珊瑚!」
珊瑚の身体へ抱き付く様に突進した弥勒は、その胸に彼女を抱え込んだまま横っ飛びに転がった。たった今まで居たその場所には、鋭い鎖鎌が一直線に薙ぎ放たれていた。
「珊瑚、しっかりしろ!」
間を置かずに身を起こした弥勒が、ぱち、と珊瑚の頬を軽く叩く。
「ほ、法師さま。あたし、」
どうすればいいの ―――
法師を見詰め返す、縋る瞳。
「今は琥珀を抑えるのが先だ!」
容赦無く、弥勒が怒鳴った。その声で我に返った珊瑚の瞳は、瞬く間に屹なる双眸へと取って代わっていた。その厳しい視線を、琥珀へ向ける。
「…琥珀。おまえ、あたしを覚えているのか?」
弥勒の腕の中から立ち上がり様、低く言った。その言葉に、弥勒も気付く。
姉上、と確かに呼んだのだ、この"琥珀"は。心を奪われ、記憶を失い、珊瑚を姉とも認識していない筈の、彼が。
"琥珀"の肩が、ぴくり、と動く。
「おまえは、誰だ?」
右手を飛来骨へ掛けた珊瑚が、答えぬ彼へ、再び問うた。
「俺は、姉上の弟だよ。」
邪気の無い笑顔を向けて言い放つその科白に一瞬逡巡するものの、珊瑚は負けはしなかった。
「言うな!」
叫びと同時、飛来骨が唸りを上げて放たれる。
間一髪でその軌道から避けた琥珀は、直ぐさま鎖鎌で応戦して来た。それを待っていたかの如く、抜刀した珊瑚は接近戦を試みる。どうしても、近くでその顔を確認したかった。
分銅の先が空気を裂き、珊瑚目掛けて投げ付けられたのを、彼女は刃で受け止めた。刀身に鎖を絡めたまま、珊瑚は一気に距離を詰める。
抜き身と交わる、鎌。がきッ、と刃物が激突する音が響いた。
「きさま、何者だ?」
顔と顔を突き合わせ、刀越しに珊瑚が問い掛ける。眼前でもやはり琥珀にしか見えぬ、彼奴へ。
選りにも選って琥珀を騙るとは、許し難き、愚行。なれど、"琥珀"はその問いに答える気配は無く。逆に、訊き返す。
「ねえ姉上。一人だけ生き残るのは、どんな気分?」
びく、と珊瑚が硬直する様が、"琥珀"にも伝わった。
「な」
何かを言い掛けたけれど。…何を言おうとしたのか、珊瑚自身にもわからなかった。
「どうしてあの時、俺を助けてくれなかったの?」
「惑わされるな!珊瑚、それは琥珀ではない!」
弟の科白の後に、法師の声が背に掛かる。
わかっている。わかっているけれど、その言葉自体は、その意味は…問い掛ける者が誰であろうと変わりはしないのでは…?
「あの時俺は、姉上に助けを求めてたのに。」
「それは…ッ」
「今も俺は、苦しいのに。」
「退けっ、珊瑚!」
叫ぶ弥勒の声に、現実へと引き戻される。目の前に居る"琥珀"は、にやり、と口端を吊り上げ、左手に取り出した何かを掴んでいた。
(毒粉!?)
珊瑚は己の刀から指を放すと、後ろへ可能な限り跳躍する。
一刹那で広がる、紫煙。視界を遮るその煙幕が、文字通り彼奴と珊瑚の間に幕を引き、追尾する事を許さなかった。掬い上げた短い袖を口許に当てたまま、がっくりと膝から床へ崩れ落ちる珊瑚。
「ちくしょう…ちくしょう…ッ!」
もうもうと立ち込める噴煙が次第に薄れ行く頃には、彼奴の姿は当然の如く消えていた。
何一つ、見極められなかった。
奴を捕えるどころか、正体さえも掴めずに。
己が心の一番弱い部分を突かれ。
琥珀。
何故奴は、琥珀を知っている?
(奴は、珊瑚が苦しむ遣り方を選んでいる…?)
少なくとも、弥勒にはそう感ぜられた。
これまでの事は、珊瑚を亡き者にする為ではなく、"苦しめる為"だけに費やされているのだ、と。
頭を垂れたまま肩を小刻みに震わせ、声も上げずに泣いている珊瑚の涙は、弥勒でさえも止めてやる事は出来なかった。
屋敷の一室で繰り広げられた事の一部始終を犬夜叉達へも伝え、こうなった以上、七宝の件も珊瑚へ告げざるを得ない状況となっていた。現れたのは魅魔で、珊瑚の事を口にしていた、と。
その"魅魔"と"琥珀"が同一犯であろうという事は、皆の一致した意見であった。
火を見るより明らかな、珊瑚への宣戦布告。
七宝が魅魔の件を隠そうとしたのは、彼奴にとっても予想外の展開ではあったかもしれないが。
「ごめん、あたしの所為で…。」
虚ろな目をしたまま、子狐の柔らかな髪を、撫でる。その幼子は、健気にも首を何度も横に振るばかり。
「やっぱり、あたしは」
「なんべんも同じ事ばっか言ってんじゃねぇぞ、珊瑚。」
遮るのは、怒気を孕んだ犬夜叉の声。
「それも奴の狙いなのでは?」
ずっと心に留めていた推察を、弥勒が吐き出した。
「骸鬼占そのものが、既に奴の放った罠の中だったとは考えられませんか?」
姿を変えられる妖であるのならば、有り得ない事ではない。
「そうよね。なんだか
時機が良過ぎるわ。」
弥勒の意見に、かごめも同意してみせる。
「だから、あんな占いなんぞはインチキなんだって、
最初っから言ってんだろ。」
「そうよ。だから、珊瑚ちゃんもあんなの真に受けて、一緒に居られないなんて言わないで。それって、きっと奴の思う壺よ。」
犬夜叉の後を受け、かごめが、珊瑚の目を覗き込みつつ、言う。
「屋敷の人達だって、なんとか命は取り留めたんだし…。」
あの時。"琥珀"の足元に倒れていた者達は、その場に居合わせた弥勒の応急処置が功を奏し、皆無事に命を繋いでいた。今は、薬師やら何やらを呼びつけ、屋敷中がごった返している状態で。
「…でも、あたしの所為だっていうのは、変わらないから…。」
静かな声でそう言うと、珊瑚は俯いた目をとうとう一度も上げぬまま、一人で部屋を出て行った。
「珊瑚ちゃん…。」
「今は一人にしておきましょう。」
両の袂に腕を挿し入れた弥勒が、彼女の背中を見遣り、言う。
「雲母、ついていてやってくれ。何かあれば、直ぐに知らせろ。」
その白い体毛を纏った妖猫は、彼の言葉に、み、と一声鳴いた後足音もさせずに珊瑚の後を追って、消えた。
「…今回の輩は、随分と用意周到ですな。」
床へ落とした弥勒の表情は、抑揚の感じ取れぬものではあったのだが。
「琥珀くんまで知ってるなんて…非道い遣り方…。」
愛くるしいその顔を苦しげに歪め、かごめが呟く。その隣では、犬夜叉も怒りを隠さぬ目を湛えている。
「早めに決着をつけねばな。」
低く、しかしはっきりと、弥勒が言った。
これ以上長引かせれば、珊瑚の精神が
保たない。
瓦解してしまう、強さの裏にぴたりと寄り添った、脆い心。
それだけは、なんとしても避けねばならない。
何を置こうとも。
彼奴を、ぎらり、と脳裏で見据え、無表情の弥勒が錫杖を右手に握り締めた。
明くる朝。
悪霊を祓ったのにも関わらず、常ではない事態を招いたという事もあり、信用を失墜させた一行は、屋敷から早々に追い出されてしまっていた。
「法師さまの評価、下げちゃったね…。」
「私への評価など、もとから要らぬ。」
「っつーか、こいつの評価なんて高が知れてんだろ。」
あっさりと言い放った犬夜叉の後頭部は、次の瞬間斜め後ろ上空から降って来た錫杖の切っ先の餌食となっていた。
「いってーな、てめぇはっ!」
「黙って歩け。」
突っ掛かって来る犬夜叉はそれ以上相手にせず、先を促す弥勒。その視線の先には、半妖とじゃれている間に己を追い越して行った、珊瑚。
「珊瑚ちゃん。」
自転車を押しながら、かごめが案ずる様に珊瑚に並び掛ける。
「大丈夫だよ、あたしは。あんな奴、とっとと退治してやるさ。」
普段と変わらぬ口調で、かごめの顔を見詰め返した珊瑚が言った。その、小さく笑顔を載せた表情に、何も読み取る事は出来はしないが。
(無理しやがって。)
その顔を見なくとも。声がどんなに気を張っていようとも。
どれ程の嵐を胸に抱えてしまっているか、想像に難くない。それでも、俯いてばかりいられないのも事実なのだが。
「こちらから仕掛けられないというのが、少々厄介ではありますが。」
弥勒の言葉に、一同が頷く。
そう。奴の出方を待つしか今は術が無い。何処に潜んでいるのかもわからぬ、奴を。
「…悪い、皆。余計な神経、使わせちゃって。」
「あぁ?別に、使ってねーぞ。何時もと変わんねぇ。」
遠慮がちに言った珊瑚へ、犬夜叉がけろり、と答えて寄越した。己も、妖怪共に恨まれる要因など、両の指では足りぬ程列挙する事が可能だ。ましてや今は、奈落という存在もあり。
危険は、同じ。
「兎に角、私達から離れぬように。良いですね、珊瑚。」
珊瑚の背に掛けられる、弥勒の穏やかな声。それには振り返らずに、珊瑚は無言で頷いた。
「なんかさ、珊瑚ちゃん、ずっと眠れてない様な気がするの…。」
かごめが、犬夜叉と弥勒へこっそり相談して来たのは、屋敷を出てから既に六日が過ぎた頃。
何ら変化の無い、旅の途中。
一度楓の元へ帰村する事も考えたのだが、結局は同じ事、である。他者と、関わる以上。
故に、人里からは出来る限り遠去かり、山だの森だのへ重点を置き四魂の欠片を捜索していた。そのような中、またも奴は日を置いて機会を窺っている。
(生殺しだな、こんなんじゃ…。)
弥勒とて、わかっていた。これが奴の遣り方だ、と。わかってはいるが、その影響を止められる筈もなく。これ程効果的な責め苦は、そうありはしないだろう。
精神的苦痛。
態度こそ何時もと変わらぬ珊瑚ではあったが、その焦燥と憔悴は、想像して余りある。
「交代して見張ってる意味がねーじゃねぇか、あのやろう…。」
あのやろう、というのは勿論、珊瑚。何時もながらのぞんざいな話し振りではあるが、犬夜叉なりに心配しているらしい。
けっ、と最後に付け足すのも忘れてはいなかったが。
「ですなぁ…。」
思案げに、弥勒が握った左の指を顎へ持って行く。今、珊瑚は七宝と共に水を汲みに行っていた。当然、飛来骨と刀を身に着けて。
あの屋敷での一件以来、珊瑚は昼夜を問わず戦装束に身を固めている。張り続ける気概にも、限界はあるであろうに。
「今夜にでも、少し話してみるか…。」
誰に言うともなく呟いた弥勒の言葉に、
「あぁ?」
犬夜叉の、声。それに続けるのは、かごめ。
「別に夜じゃなくてもいいんじゃない?」
「え。」
聞き漏らさなかった二人の反応に、弥勒の方が、一瞬素の声を上げていた。
不安を煽るだけの眠れぬ夜が、また廻り来る。
何時までこうしているつもりだ?奴は。うざったくて、仕様がない。
(くそっ。)
堪らず、身を起こす珊瑚。
こうして、山の中で営を張るのも連続して何夜目になるだろう。辺りを見回せば、何の文句もなく土の上で眠るかごめ、その脇にごろごろと転がりながら幸せそうな顔をしている、七宝。そして、腕組みをしたその胸に錫杖を抱え込み、楢の幹へ背を預ける、法師。くるり、と頭を廻らせば、番をしている犬夜叉の背中が見える。
(ごめん、犬夜叉…。)
その背中へ心中で謝ると、刀を掴んだ珊瑚は彼の座すのとは反対の方へと歩き出した。
主人の後をついて行こうとした雲母には、鳴き声を上げぬよう顔の前に人差し指を立て、来・る・な、と、唇を動かしてみせた。
そう。誰も起こさぬよう、細心の注意を払いつつ。
この忌々しい苦境へ晒されてからこちら、
抱く思いとは裏腹、疎ましいばかりに清けき月と星が、連夜頭上で煌めいていた。
木々の途切れたその場所へ、珊瑚は正座をし、両手を腿の上へ添える。
閉じられる、双眸。すう、と息を吸い、そして、ゆっくりと、吐く。様々な感情が綯い交ぜになった乱れる心を、諌める様に。其処で、か、と両目が開かれた。
鍔元を握る、左手。柄に掛かった、利き手。
立ち上がる頃には、大気を斬り裂くが如き素早さで抜かれている、刃。
鞘から抜いた刀身は、今宵も、鮮やかな銀光を放つ。
抜き身を、己が体の前に翳す。曇りの無い一文字の刃を、置くは、正眼。
再び呼吸をし、右手のみで斜め上空へ刀を薙いだ。其処から、ばっさりと斬り捨てる様に切っ先を引き返し、柄を握る手を、置き去りにしたままの左の掌中へ戻す。
眼前にある空気が、ひやり、と揺れて、割れた。
――― この程度で、鎮まりはしない。
(気休めだな。)
自嘲的に呟いたところで、珊瑚は、背後の気配へ自ら声を掛けた。
「何見てんのさ、法師さま。」
「いや、見事な太刀捌きだと思って。」
(そうじゃなくてさ。)
ふん、と珊瑚が流し、抜き身を鞘へ戻すと、きん、という冷たく通った音がした。そして、腰を下ろす。
「起こしちゃったんだね。」
「その御陰で、なかなか良いものが見られました。」
にっこりと笑んだ弥勒は、何時の間にか珊瑚の隣へ座っている。そして続けられた言葉は。
「少しは眠ったらどうです。」
「……。」
やっぱり、それか。予想通りの法師の科白に、はぁ、と嘆息する、珊瑚。
「…早く、ケリをつけたいのに…。」
うんざりとした声音で、膝を抱えた珊瑚が吐き捨てた。
「何れ、向こうからやって来る。」
「…嫌なんだ。もう、こんな気持ちを抱えっ放しなのは…。」
不覚にも、愚痴が口を吐いて出ていた。苦しめば苦しむ程、敵を喜ばせる事になるのは、百も承知。それでも消せぬ、恐れと焦り。そして、感傷。
「…それが奴の狙いでしょう。」
「わかってるよ!」
弥勒の落ち着き払った態度に、珊瑚は、思わず声を荒げずにはいられなかった。
「わかってるけど!…どうしようもないんだ。あたしは、法師さまみたいに強くない…!」
言ってしまってから、後悔するのだ。何時も。言霊が、良くも悪くもどんなに強い力を持つのか、知っているのに。
この人だって、辛い心を…恐怖を抱えて、生きている。それを他人に見せようとしない強き心を、妬んでいるのだろうか?己ばかりが苦しい様な、狭量な人間に成り果てて。
「ごめん。失言、だった…。」
何も言わない弥勒へ、珊瑚が素直に謝罪の言を紡ぎ、抱えた膝へ己の頭を沈めてみせた。
「八つ当たりだ、これじゃ…。」
心底自身に幻滅した風に、気の抜けた声を寄越す、珊瑚。その様子を見、先程から表情を崩さずにいた弥勒に、優しい微笑が宿る。
「珊瑚の感情ならば、何をぶつけられてもかまわぬが。」
本気で言っているのかどうかも怪しい、あまりに自然な口調。それこそ「腹減った。」と言っているのと変わらぬ程に。
珊瑚が膝から顔を起こし、弥勒の顔を見詰め返した。
「…甘やかし過ぎだよ、法師さま…。」
「そうか?普段甘えて来ないのだから、これくらいで丁度良かろう。」
「…馬鹿法師。」
少し困った様に、珊瑚が一言吐いた。
何時の間にやら珊瑚の左手は弥勒の右手に捕まっている。
其処で、指を絡めて来たのは ――― 珊瑚。
(…は?)
らしからぬその行動に、寧ろ、弥勒の方が驚いて。
「…この間、法師さまがこうしてくれたら、凄く、安心した…。」
法師からは視線を逸らすと、右手で抱いた両膝へと再び突っ伏した剛毅な筈の娘が、ぽつ、と言った。弥勒は、絡めた指先に無言で力を込めると、しっかりと珊瑚の手の甲を包み込む。
お互いの指の付け根が、痛む程に。
珊瑚の方からこういった行動に出てくれるのは、この男にとって嬉しい以外の何ものでもないのだが、それは、それだけ彼女が追い詰められているという事を暗に示しているのと同じであった。
心の拠り処を求めて。精神の休まる場所を探して。
ならば、己にしてやれる事は?
この数日の間、絶えず心を蝕み続ける置き処のない魂の震え。例え
一時でも、それを振り払ってやる事が出来るなら ―――
「…珊瑚。」
「何?」
静かに呼んだ弥勒の声に、珊瑚も、落とした声音で返事をする。
「その"こんな気持ちを抱えっ放し"の状況から逃れる策が、一つあるのだが。」
「え?」
思わず、珊瑚が顔を上げて再び弥勒の方を見遣る。すると、彼もこちら側を向いていた。
「何、それ?」
きょとん、とした眼差しを湛えた珊瑚が、何の意識も無く問うた。熱を持った指先は、未だ、鎮まる事を知らず。
「教えて欲しいか?」
「!」
に、と笑った弥勒の顔を捉え、珊瑚がしまった、とばかりに手を解こうとするのだが、それよりも早く、彼の指が強く絡み付いていた。おまけに、もう片方の空いた腕もあっという間に攫われており、正面から向き合う様な状態に晒されている。
「ちょっ」
「要するに、他の事で頭を一色に染めてしまえばいい。」
「な」
に言ってるんだ馬鹿法師 ――― と罵声を上げ掛けた珊瑚の鋭い眼が、弥勒のそれと、真っ向からぶつかった。
言っている内容は、普段と違わぬ不埒な事と、珊瑚にだとてわかる。けれど、その目が。
何故だか、その戯言とは不釣合いな程真摯な色を宿していて。
言の葉は、中途で失われていた。
その珊瑚の形の良い額に、こつり、と頭蓋の裏にのみ聞こえるが如き小さな音と共に、弥勒の額が重なる。
びくり、と一瞬肩を震わせた後、珊瑚の頬が見る間に上気して行くのは、最早、この法師の術中に堕ちている、という事か。
互いの吐息が掛かる程の距離の近さに、珊瑚が思わず呼吸を止めそうになった。彼の顔に己の息が届くと考えただけで、酸素を取り込む行為さえ羞恥の対象となってしまう。
なんと、不甲斐無い ――― 。
そう、自分自身を情けなく思っても、瞬く間に胸の内に満ちた感情を、隠す事は不可能だった。たった今まで、あんなにも心をささくれ立たせていたのに。
悔しさと戸惑いが鬩ぎ合う中、ぎゅう、と瞼を強く閉じた珊瑚は、己の首にその先が触れる程、顎を引いていた。
突然俯いた彼女に、額を離した弥勒は小首を傾げる様に珊瑚の顔を覗き込むと、声には出さず、ふ、と笑む。
そして、そのまま近付けた唇は。
珊瑚の鼻先へ、至って軽く、歯を立てた。
「ぃたっ。」
ばち、と両目を開いた珊瑚が、勢い込んで顔を上げる。そして次に来るのは、無論、恨み言であったのだが、
「ちょっと何すんのさ!あんたってば鼠じゃあるま」
顔を上げた事が、命取り。まんまと罠にかかった鼠は一体どちらだったのかを、思い知る、瞬間。
重ねられた柔らかな感触に、一息に侵食される精神。最後まで紡ぐ事を許されなかった言葉は、珊瑚の中へ戻ったのか、それとも、弥勒の中へ飲み込まれたのか。
――― 先程までとは、まるで相反する、心。
心の臓は高まるばかりだけれど、これを、幸福だと呼んでも誰も異を唱えはしないのだろう。
こんな風に、誰かを求め、求めた相手に求められる事の、充足感。
駄目なのに。こんなんじゃ、いけないのに。
今考えなきゃならないのは、こんな事じゃ ―――
それでも、久方振りに訪れた安息にこの娘が身を委ねても、誰が責められようか。しかし、それとは全く別の場所に位置する"意固地"が顔を出してしまうのも、この娘らしいと言うべきか。
「いつまでやってんのっ。」
弥勒が唇を離した刹那、間髪入れずに珊瑚が文句を言ってみせる。しかし、それには動じる風もなく、
「おまえが、頭の中を全て染め替えるまでに決まっている。」
するりと答を吐き出した弥勒は、そのまま珊瑚の背中を地面へと倒した。がしゃり、と、珊瑚の腰で刀が音を立てる。
「なッ!」
益々顔から湯気を立ち上らせた珊瑚は、真上に迫った弥勒の顔をまともに見る事は適わず、またもや双眸をきつく閉じ、
「もういいって言ってんの!あんたの御陰で肝心
要な事が吹っ飛んじゃったじゃないか!」
と、唾が飛び出す勢いで捲くし立てた。ここいらで一発横っ面でも張ってやれば、其処で終わるのだが、両腕の自由を法師に奪われている為、それも出来ぬ状況で。
「いや、私がまだ足りぬので。」
「ば…ッ」
馬鹿者、と叫びたかったのか。珊瑚の声は、どんな単語を並べるつもりだったのかさえ判断し難い短さで途絶えた。
人の体温が、こんなにも安心出来るものだと知ったのは、この人に出会ってから。
父や母の温もりとは違う、微かな疼きを伴うそれは、居心地が悪いくせに何時の間にか己の心の真ん中に位置する様になっていて。
――― 一人だけ生き残るのは、どんな気分? ―――
――― 今も俺は、苦しいのに。 ―――
ごめんなさい。
父上、琥珀、里の皆。
あたしは、今、ぬけぬけと幸せだと感じてしまっている。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
あたしだけが、再び手に入れた幸福だと思える時。
あたしが
存えたのは、きっと、こんな時を感じる為ではないと、知っています。
己が天に生かされた意味を、為すべき事を。
忘れはしないから。
この人と居られる時間を、どうか、今だけ、許して下さい。
止める事の出来ないこの感情を、なんと呼ぶかは、知らないけれど。
どうか、許して ―――
抗うのを止めた、珊瑚。二人を支配するのは、沈黙。
彼女の左の指から、己の指を解く、弥勒。
その空になった手は、珊瑚の腰へと下りて行き ―――
辿り着いたのは、紅く塗り込められた、鞘の鍔元。
それを、手首を左へ廻して掴むと、珊瑚の帯から鞘毎抜き取り、身を翻す。
がきッ!
鋼のぶつかり合う鋭い音が、響いた。
鞘を帯びたままの刀で、振り返り様に受け止めたのは、鎖鎌の
刃。
その頃には、ぐる、と地を二回転程した珊瑚が、横倒しになった錫杖をその手に掴んでいた。
ぶん、と両手で回転させ持ち直した杖の柄尻を、寸刻も置かず、法師と組み合っている影へと槍の如く突き刺す。
すると、影は鎖鎌を持ち上げ後方へ跳び退った。
「…ったく、どいつもこいつも、良いところで邪魔しやがって。」
がしゃ、と鞘を鳴らして右腕を下ろした弥勒が、忌々しげに、呟く。
「何か言った!?」
ぎろ、と睨んで寄越した珊瑚へは、瞬時に笑顔を作り、
「いや、この私に刀を持たせるとは外道な奴だ、と言いました。」
などと並べている。それでも、抜刀せずに鞘毎盾にした辺りが、この法師なりの意地の通し方であったと言えようか。
「おまえこそ、随分と息が上がっている様だが?」
「うるさいッ!」
皮肉たっぷりに言い放った弥勒目掛け、珊瑚が錫杖を力任せに投げ付けた。
誰の所為だっ、とまでは、恥ずかし過ぎて、口には出せない。
大体、抵抗を止めたのは、奴の気配を読み取ったからで。当然、法師も気付いていた。故に、奴の動きに意識を集中させていたのに…。だのに、この不良法師は珊瑚が動かない(動けない、と言うべきか)のを良い事に。
(止めるだろうが、普通はッッ!!)
握った拳で、口許をぐい、と拭う。
怒りで呼吸が乱れていても、この男に文句を言われる筋合いは、ない。
苦笑しつつ錫杖を左手に受け止めた弥勒は、珊瑚の刀を彼女へと軽く放って寄越した。がしゃり、とそれを掴んだ直ぐ後に鞘を帯へと差し入れ、ぐい、と首を廻らし、影を睨む。
高く結い上げた黒髪の先が、弧を描き、揺れた。
「随分と勿体ぶったお出ましじゃないか。」
珊瑚は、ゆっくりそう言うと、左の親指を刀の鍔に掛ける。ちゃり、と金属音。
その睨む先に在るのは、またも、琥珀の姿。
「珊瑚!弥勒!」
「珊瑚ちゃん!」
妖気に気付いたのか、犬夜叉達がこちらへと駆け寄って来る様が、珊瑚の
眦に映った。
「新しい仲間の中は、楽しい?姉上。」
「…何者だ、きさま。今更琥珀の姿で現れたところで、効きはしない事くらいわかっているだろう。」
挑発に乗る様子も見せず、珊瑚があくまで冷静な口調で問う。正体を突き止めねば、例え此処で倒したところで晴れる心ではない。
「くくく…。」
低く笑ったかと思うと、彼奴の身体の輪郭が、急激に崩れて行った。
「!」
揺らめきぼやけた色彩が、再び凝固して行くその果てに現れたのは、
「…今度は父上か。馬鹿の一つ覚えだな。おまえの正体は見せられぬ程に醜いか。」
ぎり、と歯噛みしながら珊瑚が低く言った。
漆黒の戦装束を纏いしその姿は、紛れも無く、父 ――― 気高き、唯一無二の退治屋が里長。たった一つの相違点は、その手に握る得物が、地に届きそうな程大振りの鎌に摩り替わっている事。
「正体?これこそが、俺そのものだ。」
「何?」
聞き覚えのある逞しい声音が、父の口から零れて、落ちた。
「…きさま、実体が無いのか…?」
低く、珊瑚が問い返す。それには、"父"は口端を上げて笑うばかり。
「ならば問う。あの骸鬼占も、おまえの所業か。」
しゃらり、と錫杖を構え、弥勒が言った。
「思ったより、察しが良いようだ。」
「てめぇ!」
答えた妖魔へ、犬夜叉が罵声を投げる。
「あながち、嘘偽りでもなかったであろう?え?」
また、くくく、と破顔する、魔。
標的の過去から姿形を模倣する事が出来、実体が無い…ならば。
「きさま…
過ぐ
世視か?」
神経を逆撫でする奴の計略には乗らず、平静を保った珊瑚の声が響いた。
「ほぉう。覚えていたか。おまえ達退治屋にとり、虫けら同然であろう俺達の事を。これは、有り難き幸せ。」
ほとほと感心した様に、"過ぐ世視"がわざとらしい謝辞を述べてみせた。
――― 過ぐ世視。"過ぐ世"と名に冠しているものの、その手で操るのは前世ではなく、人の過去。人間に与えられた一つの才である、"忘却"。それを、許さぬ妖。忘れたいと願い、知られたくないと秘匿する、辛き過日の光景を眼前に蘇らせ、闇に囚われたその魂を喰らう妖怪。
あれは、一年程前だろうか。父と共に退治した妖怪を、思い出す。
「あの時退治した、
番いの過ぐ世視の…所縁の者か?」
「如何にも。おまえ達が殺したあれは、俺の、親だ。」
子が、居たのか。過ぐ世視の声を聞く珊瑚の右手は、既に刀の柄に乗せられていた。
「復讐という訳か。」
弥勒が低く呟く。それにしても、念の入った事だ、と。
「目の前で殺されたのだからな。親を。」
ふん、と鼻で笑った妖怪の言葉に、ぴく、と珊瑚の柳眉が上がった。
「必ずやおまえ達親子に報復してやろうと、己が力を蓄えていた。」
近くに子供が居たとは、父も自分も気付いてはいなかったあの時から、疾うに始まっていたのか…。
「幸福の
最中にある時にそれを奪ってやろうと、来る日も来る日も、おまえ達を見ていたのだ。存外、骨の折れる事であったがな。」
「悪趣味が…。」
過ぐ世視の科白に、犬夜叉が嫌悪の表情を顕わにする。
「父親があんなところで死んでしまったのは、俺としては予想外だったが…まあ、その御陰でおまえの心に闇が生じたのだから、怪我の功名とでも言うべきか。」
愉快そうに続ける過ぐ世視の言葉に、
「きさま…。」
地の底で唸る様に、珊瑚が一言吐き出した。
「それまで、おまえの魂には影らしい影が生まれてはいなかったのでな。ようやっと顔を見せたおまえの闇はなかなかに強大で、随分と俺を喜ばせてくれたものだ。」
この世には無い父の姿で、娘の悲運を嬉々として語る、異様な光景。
「機は熟した。魂に影を孕んだおまえは、再び見つけた仲間の中で幸福を感じる様になったのだからな。其処へ植え付けた闇の根が充分に染み渡った頃合だろう。今こそが、おまえを"視る"に最良なる時なのだ。」
過ぐ世視が其処まで言ったところで、珊瑚が、すら、と抜刀した。彼奴の怨念に、諌止など能わぬ事だと悟った上は、退治する以外にないのだから。
「退治屋という仕事が、命を奪う生業だとは承知している。今更、おまえに同情などしない。」
真っ直ぐに言い放つ、珊瑚。それでも、その胸裡に多少の揺らぎはあった。
目の前で、親を、殺された ――― 。
それは、己の言葉でもあったから。なれど、どんな言葉であろうとも、人へ邪なる影響を及ぼす妖に対峙する者としての覚悟までは、動かせはしなかった。
「同情など要らぬ!どろどろにくぐもり廃れたおまえの魂を喰らうのが、俺の望み!」
彼奴のその叫喚に、一同が身構えたその刹那。
暗転。
水の中に落とした墨が広がる様に、空気がぐにゃり、と澱み、月光さえも届かぬ黒へと塗り替えられて行く。
ちっ、と舌打ちする、珊瑚。
――― なんてこと。過ぐ世視の
陥穽へ嵌まるとは…。
予断を許さぬ、暗闇の中。
「な、何?これ…。」
今まで己が居た世界とは隔てられた事を確信し、かごめは、不安げに犬夜叉の左腕に縋る。
その犬夜叉も、彼女の肩に乗った七宝も、周辺へと獣の目を、凝らす。
そして、その一行の眼前に、ゆらゆらと現れたのは、退治屋の里 ――― 。
(!?)
珊瑚と、琥珀が。其処で、人の心に棲まう真の闇を未だ知らぬ二人が、笑っていた。
楽しそうに。
幸せそうに。
――― それは、それぞれの命運を別った、琥珀初陣の日であった。
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