SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



陽炎



‐‐‐ 壱




「かごめちゃん、本当に大丈夫?」
心配げな珊瑚の声が、隣を歩くかごめの耳に届いた。
「うん。やだなあ、こんなの全然平気だって。」
そんな事は疾うに忘れていた、とでも言う様に、かごめがにっこりと微笑む。しかし、その笑顔を見て猶も表情を曇らせる、珊瑚。
「ごめんね、あたしが気付かなかった所為で…。」
「何言ってるの。ほんと、なんともないのよ。」
そう言って、かごめは左の腕をぶんぶんと振ってみせる。勿論、無理をしている訳ではない。真実、何の痛みもありはしないのだ。今だとて、こうして問題無く自転車(てつのくるま)を押しているくらいなのだから。
「あーもうさっきからうざってぇな、珊瑚。いい加減にしとけよ。」
面倒臭いったらありゃしねぇ、と最後に一言付け加え、犬夜叉が吐き捨てた。
実際、平生であればかごめの怪我に対して誰よりも過剰に反応するこの男でさえ、"怪我"とは言えぬ、と認める程の、些細な事なのである。
旅の途中、鄙びた小さな村で妖怪の駆除を依頼された、退治屋・珊瑚。
仕事自体は極小さなもので、大した労力も使わずに短時間で終えたのであるが、その物の怪が消滅する際に飛び散った残骸 ――― 親指程にも満たぬ欠片が、かごめの左の二の腕辺りを擦過していた。
その時は、流石に犬夜叉も青褪めた顔をしていたものだったが、本人よりも先にその彼女の腕を引っ掴み己の目で確認した後、はぁ、と安堵の息を洩らす事が出来た。
ほんの、かすり傷。毒も何も無く。純白のセーラー服の袖が少々裂けはしたけれど、その下にある肌からは血の一滴たりとも流れずに済んでいる。
あまり近付かぬ様に、と珊瑚から釘を刺されていたにも関わらず、火の点った見物魂を眠らせられなかったかごめにも、幾許かの非はあったと言えよう。しかし、珊瑚にしてみれば、第三者を傷付けてしまったという事実はかすり傷程度の衝撃ではなかった。退治屋としての自負が揺らぎ兼ねない失態であったのだが…。
「大事に至らなかったのですから、良しと致しましょう。」
その村を発ってから、そろそろ一刻半にもなろう。それでも未だ気落ちしている風な珊瑚を気遣った弥勒が、前方を歩く彼女へ柔らかな声音を投げ掛ける。
「…うん。そうだね。」
軽く振り返り、珊瑚も彼のその提案を受け入れた。責める事なく己へ優しい言葉を掛けてくれる皆に、これ以上気を遣わせたくはなかったから、落ち込むのは止めにしよう、と思った其処へ。
弥勒の眉がぴくり、と動き、周囲へ首を廻らせる。
「妖怪の気配ですな。」
「しかも、近い。」
腰に下げた鉄砕牙の鍔元へ左の親指を掛けた犬夜叉が、低く呟いた。
「何処じゃ!?」
自転車の籠から身を乗り出した七宝が、ぐるぐると辺りを派手に見回してみる。すると、意外な程に落ち着いた声が返って来た。その声の主は、珊瑚。
「それって、あれじゃないの?」
あっさりと言い放った彼女が指差すその先には、楡の大木の下に老人が座り込んだ光景が、在った。
「あれって…普通のお爺さんじゃないの?」
「周りに人間もおるではないか。」
かごめと七宝は、共に疑問を投げる。たっぷりとした髭を長々と蓄えた白髪の老人の周辺には、三、四人の村人風の形をした者達が集っていた。其処に広がる至って平和な雰囲気は、こちら側からでも充分に感じ取る事が出来る。
「ああ。あれは、骸鬼占(がいきせん)だからね。」
「骸鬼占だぁ?」
珊瑚の科白に、犬夜叉が怪訝そうな声を上げた。そんなの俺も聞いた事ねぇぞ、と。
「そう?まあ、そんなに数が居る訳じゃないしね。他者を占える妖力を持った奴等で、人間に害はないんだ。」
徐々にその楡の木へ近付いて行く一行の目に映る、好々爺といった風情の"骸鬼占"の横顔。その眼前に一人の男が腰を下ろしており、老人が頭上高く掲げた両腕からがらがらと落とした細白い物体 ――― 獣の骨だろうか。それをまじまじと見詰め、何事かに耳を傾けている様である。珊瑚は、その為様から骸鬼占だと判断したらしかった。
その占った換わりに受ける施しで食い繋ぐ妖怪さ、と補足する珊瑚。
「ほぉ。その様な魔物がおったのですか。」
人間と共存し得る妖怪などそう多くはないが、弥勒でさえも、知識外の種族であった。こういった造詣の深さは妖怪専門の退治屋ならではと言ったところか。
「けっ、人騒がせな。」
「まあ、いいじゃないの。別に悪さしてる訳じゃなかったんだし。」
悪態を吐く犬夜叉を宥めるかごめ、という何時もと何ら変わりのない様子の一行が、その楡の大木の前を通り過ぎようとした時だった。
「お待ちなされぃ、其処な娘御。」
骸鬼占の嗄れた低い声が掛かった。思わず足を止め、かごめと珊瑚がその老人を一度見遣った後、お互い顔を見合わせる。
「それ、そちらの、髪を結わえた娘御じゃて。」
「あたし?」
娘二人の戸惑いを見止めた老人が、柔和な笑みを湛えて一人の方を選んで見せた。その言葉に、珊瑚が一歩前へ進み出る。
(…なんだ?こいつ…。)
出所の知れぬ胸騒ぎに襲われた弥勒が、老人 ――― 骸鬼占を、その感情は顔に載せずに、見遣る。
其処へ、前置きも何もなく、唐突に核心だけが告げられた。人を占う事が出来るという、妖の口から。
「そなた、災いを齎す凶星の(もと)に生を受けておるようじゃなぁ。」
「!」
その気の抜けた口調は紡ぐ言葉とはまるで裏腹であり、却って聞く方の意識を逆撫でさせるという事実に、本人は気付いているのだろうか。多種多様な姿をしたこの旅人達を取り巻く和やかな空気は、瞬き一つの間に消し飛んでしまったのも当然の事で。
「何を言っておるのじゃ!」
誰よりも早く反応した子狐が、自転車の籠からひらりと飛び降り老人へと詰め寄ろうとしたのだが、反論するべき本人に制止された。次に、冷静に問う珊瑚の声。
「…どういう意味だ?」
「そのままの意じゃよぅ。己が身に降りかかる災禍はもとより、周りの者までその凶運へと巻き込もうとしておるわぃ。」
ぴくり、と珊瑚の眉宇が歪められる。その表情は、険を含んだものに変わっていた。
「思い当たる節はないかのぅ?これまでの己の境涯に於いて。」
追い討ちを掛ける様、猶も浴びせられる言の葉に、
「ちょっと、何ヘンな事言ってんのよ!?」
我慢し切れず珊瑚の脇から、ずい、と前へ出たのは、かごめ。そして、その骸鬼占に食って掛かろうとした彼女を押し留めたのは、しゃん、という涼やかな錫杖の音色。
「いい加減な事を申すと、為にはならぬぞ。」
珊瑚を庇うが如く、彼女の前に立った弥勒が座したままの骸鬼占を見下ろし、低く言った。
(うわ、弥勒さま、それって脅し…。)
仏門の者としては少しどうかと思うその科白に、かごめは半ば呆れながらも、この先は彼に任せようと一歩退く。
「いい加減とは、これは心外な。その娘御と行動を共にするのは、考え直した方が良いのでは、と忠告して差し上げておるのじゃがなぁ。」
弥勒の顔は見ずに答えた骸鬼占は、己の足元にばらばらと転がっている獣の骨に視線を落とし、くくく、と笑う。
「てめえ、寝言なら寝て言えよ。なんなら俺が今直ぐ眠らせてやろうか?永遠にな。」
ばきばきばき、と爪を鳴らし、今度は犬夜叉が臨戦態勢に入る。ちょっと犬夜叉、とかごめが慌てて止めに入るが、其処へ届いたのは、感情を押し殺した弥勒の一言。
「行くぞ。」
飛来骨を負った珊瑚の背を、ぐい、と己の右側へ守る様に強引に引き寄せた弥勒は、既に歩き始めていた。
「ちょ、ちょっと待て弥勒っ!」
「弥勒さまっ。」
戦意を削がれた犬夜叉と、駐めていた自転車に七宝を積んだかごめが、あたふたと二人の後を追う。
その背中を、柔らかい表情を変えずに見送る骸鬼占と、遠巻きに成り行きを見守っていた村人達は、寸刻も置かぬうちに元の雰囲気を取り戻し、再び妖占(よううら)へと興じ始めた。







「…珊瑚。」
「法師さま。背中、痛い。」
何かを言い掛けた弥勒の言葉を遮り、前方を向いたままの珊瑚が呟いた。
「ああ、すまなかった。」
彼女の背を飛来骨毎押す様に添えていた手に、存外、力が入り過ぎていたらしい。そう言い、弥勒は珊瑚の背から右手を退いた。
隣を歩く珊瑚の横顔。それは、何事かを思案している風な、憂いを湛えた(おもて)。その指し示す意味を理解出来るからこそ、正体の定かでなかった弥勒の胸騒ぎが、次第に色を付け始める。
「あんなの、気にする事ないよ。珊瑚ちゃん。」
珊瑚の隣に追い付いたかごめが、脳裏に先程の老人の顔を浮かべつつ、憤懣やる方ない、と言った口調で声を掛けた。その手押しの車の先に付いた籠の中からは、そうじゃそうじゃ、という幼い狐妖の同意の声が上がっている。
「はっ。あんな胡散臭ぇ占い、いちいち気にしてたら、身がもたねえぜ。」
犬夜叉も、言う。
「ほんとよね。第一、どっちかって言うと、犬夜叉の方がトラブルメーカーって感じだし。」
「とらぶ…?なんだ、そりゃ。」
「知らなくていいのよ。」
「てめっ、かごめ!なんか失礼なこと言ってんだろ!?えぇ!?」
不穏な話題は、あっという間に何時もの痴話(?)喧嘩へと摩り替わってしまった。それは、かごめの計算上の事なのか、それとも全くの偶然なのか。確かめる必要もありはしないのだけれど。
珊瑚は、有り難う、と、心の中で言ってみる。
あたしと居ると、災いに巻き込まれる、と。そう、今言われたばかりなのに。この仲間達は、それを恐れる素振りも、嫌悪する表情も見せず、あたしを気遣ってくれている。気にするな、と。
それでも頭を(もた)げて来る、言霊。あたしと居ると…あたしと一緒に居ると、どうなる、と?
「珊瑚。」
犬夜叉とかごめの喧嘩は無視する態度を守った弥勒が、彼女の名を呼んだ。
一瞬、思考を遮られ、我に返った珊瑚が顔を上げる。
「おまえは、我等と共に、在る。」
全てを包み込むが如き優しさと、清廉な響きで以て。
私達は、この先も共に旅をするのだと。彼は、そう言った。慈愛に満ちた双眸は、真っ直ぐ前を見据えたまま。
「うん。あたし、大丈夫だよ。」
法師の言う意味が、痛い程わかっているから、平静を装った珊瑚が皆に聞こえる様、明るい声音で答える。
ただ、その瞳は、誰とも合わせられはしなかった。







酉の刻に掛かる頃。
人里から些か離れた山の麓。其処へ悠々と流れる川の(ほとり)で夜を越す事となった一行は、それぞれ野営の準備に入っていた。
川で魚を獲るのだと、ばしゃばしゃと水飛沫を上げていた七宝は、夕餉の為なのか、それとも半分遊んでいるのかどうにも判別し難い状態で、何時の間にやら姿が見えなくなっている。
大方、何か珍しいものでも見つけて後先考えずに後を追っているのだろう、と残された三人は思っていた。
三人 ――― 。そう、珊瑚は、其処に数えられてはいない。彼女は、何か木の実でも探して来るよ、と残し、雲母を伴い山の中へと消えていた。一人になりたいのであろう心中が察せられた為、敢えて誰も止めようとはしなかったのだが、かごめは時折り案ずる様な顔をして木々の方へと目を向けている。
(あまり、深く考えたりしなきゃいいんだけど…。)
一度軽い溜め息を吐いた後、余計な心配は却って珊瑚への無礼になる、と言い聞かせ、かごめは己の仕事へと神経を切り替えた。







「おお、やっぱりそうじゃ!」
嬉々とした幼子の声が上がる。
川遊びをしていた際に、ふと視界に飛び込んで来たのは、生い茂る緑の中にぽつん、と顔を覗かせた、黄金色。もしかして、と手にし掛けていた魚などは一瞬にして忘れ去り、その黄色い点を追っていた。
そして見つけたのは、予想通り、遅咲きの山吹の花。大人の腰高程度に広がる山吹の群生が、可愛らしいお日様色の花弁を未だ見事に繚乱させていた。
(これを珊瑚に摘んで行ったら、少しは元気になるじゃろか?)
そうに決まっとる、おなごは花を見たら元気になる筈じゃ!と一人納得した七宝は、水に濡れた手を、ぶん、と一払いした後、ぽきり、とその細い枝を手折り始める。
その様子は、摘んでいる本人が一番楽しんでいるのではなかろうか、と思わせる程うきうきとしており、鼻歌でも聴こえて来そうな雰囲気である。
珊瑚の喜ぶ顔が見たい ――― その一心で山吹を手折り続ける七宝は、どんどん山の奥へと足を踏み入れる。
すると。
「子狐か。」
唐突に、背後で低く澱んだ声がした。びくり、と肩を震わせた七宝が、瞬間、動きを止めた。
この声。何処ぞで聞いた覚えがある。そう、あれは何時だったか ―――
恐る恐る振り向いた七宝の眼前に、人型の影が立っていた。
銀髪を靡かせ、般若の様な面を持ち、背に、薄羽を携えた ―――
「み…っ、魅魔…っ!?」
喉許から込み上げた言葉は、上擦った声となり七宝の口から吐き出される。
魅魔。忘れもしない、人食の妖魔。なれど、先の戦いで、間違いなく珊瑚が斃した相手である。彼女が、身を呈して戦い抜いた、既に現世に存在し得ない者。
しかし、こやつから発せられる気が霊気でない事は、この子狐にも認識出来た。如何に幼かろうとも、生粋の妖怪なのである。これだけ近寄られて猶、違える筈はなかった。但し、知らぬ間に此処まで距離を詰められていた事に関しては、迂闊だったと言えるであろうが。
「な…、なんじゃ、おまえは!?」
精一杯虚勢を張り、七宝が怒鳴った。魅魔である訳がない。奴は、成敗した。ならば、こやつは、誰じゃ?
「おまえとて、覚えているであろう?この我の姿も、我が誰に辛酸を舐めさせられたのかも。」
にぃぃぃ、と破顔し答える様も、その声も、紛れも無く、魅魔なのだ。
まさか、まさか、と七宝の頭の中で、己の声が鳴り響く。
かちゃり、と妖刀の柄に右手が乗り、彼奴の腰元で小さく鍔が鳴った。
「恨むなら、退治屋の娘を恨め。」
「な…!」
快楽(けらく)に満ちた顔を晒した"魅魔"により、鞘から抜き放たれた刃の銀光が、ぎらり、と七宝の両目に映し出されていた。







「!」
「妖気ッ!」
突然、予告無く感覚の先端に触れて来た、禍々しい気。川岸に陣取っていた二人の男が同時に目線を上げた。
「犬夜叉、かごめさまを!」
そう告げ、錫杖を右手に掴んだ弥勒が走り出す。
(あの方角は、確か七宝が向かった方か!)
何も気に留める風もなく、営を張った其処へ佇んでいた弥勒であったが、幼い連れがどちらの方角へ遊びに消えてしまったかの確認は、無論、抜かりなく行っていた。
絡み付いて来た思念を辿る彼の脳裏に、嫌な予感が過ぎる。
其処へ、ざざざぁっ、という、激しく枝葉の揺れる音。その木々の間から飛び出して来たのは、雲母を肩に乗せた珊瑚。
「法師さま!」
目が合った刹那で、互いに目指すものが同じだと悟る。
「向こうだ、珊瑚!」
合流した二人は、己が確かに感じた邪気の方角へと、一気に駆けて行く。すると、前方から転がる様に走り込んで来る、七宝の姿。
「七宝!?」
その名を呼んだ珊瑚の声に、丁度どたん、と本当に転んでしまった七宝が、がば、と顔を上げた。
「珊瑚!?弥勒ーっ!」
文字通り跳ね起きた七宝は再び地面を蹴り、差し伸べられた珊瑚の両腕へ、半べそ状態で見事に縋り付いていた。
「珊瑚、七宝を頼んだ!」
子狐が無事だった事に安堵するのも束の間、彼を抱きかかえた珊瑚をその場へ残し、弥勒はそのまま山の奥深くへと分け入って行く。
しかし。
(邪気が、消えている?)
走れども走れども、先程まで感じられた禍々しい気は、跡形も無く消えていた。どれ程目を凝らし感覚を研ぎ澄ませようとも、その存在を確認する事は、最早不可能であろう。
(ちっ。逃げられたか。)
内心舌打ちする、弥勒。これでは、この付近でおちおち眠ってもいられぬではないか。
ったく、逃げるくらいなら最初から出て来んなよな、などと悪態を吐きながら、法師の筈の男はくるり、と方向を転換し、たった今己が疾走して来た道を、何時もの歩調で戻り始めた。







「痛くない?七宝。」
「平気じゃ!」
弥勒が二人の元へ戻ると、珊瑚が七宝の怪我へ応急処置を施しているところであった。右腕に血痕が残っているものの、幸い大した怪我ではない様で、胸を撫で下ろす。
「法師さま、妖怪は?」
まだ頼りない細い腕へ手拭いを優しく巻いてやりながら、珊瑚が目線を弥勒へ向け、問うた。
「いや、逃げられた様です。」
ふう、と溜め息を吐き、珊瑚の傍へと膝を折る。彼女からは、そう、という一言が返って来ただけだった。
「七宝、大丈夫か?帰りが遅いと思ったら…。」
弥勒が声を掛けると、七宝は、手当てを終えたばかりの右腕を己の懐へと差し入れ、言った。
「おら、山吹を見つけて…それで、珊瑚へ一杯土産に持って帰ろうと思うとったんじゃが…」
其処で一度言葉を切ると、おずおずと懐から枝を一本取り出し、珊瑚へ差し出す。
「これ一本きりしか、守れんかった…。」
花弁も大分散ってしまっているが、確かにそれは山吹の枝で。
「あたしに?」
予想もしていなかった七宝の説明に、珊瑚は驚きながらも彼からその贈り物を受け取った。
「珊瑚。元気を出すのじゃ。」
しょぼん、とした表情で、下から珊瑚を見上げる、七宝。どちらかと言うと、今元気を出さねばならないのは七宝の方だろう、と思わずにはいられない子供然とした仕草である。
「綺麗だね…。有り難う、七宝。」
残る黄色い花弁を見詰めた後に、七宝の瞳を覗き込んだ珊瑚が言った。
「凄く、嬉しい。」
枝を右手に持ったまま、己の肩先辺りに七宝を抱き締める、珊瑚。其処でようやく彼の顔にも笑顔が戻ったのだが、ついでに頬の色まで上昇している。
「で、一体何があったのです?」
不意に、弥勒が珊瑚の体に顔を埋める七宝の頭を鷲掴みにし、ぐい、とこちら側へ無理やり引っ張った。
「ちょ、ちょっと法師さま。」
痛い、痛い、首がもげる~、と叫ぶ七宝を庇う珊瑚が、弥勒を制止する。
「何を妬いておるのじゃ、弥勒~。」
頭を押さえ、七宝が睨む。無論、珊瑚の胸の中から。それを更に睨み返し(こちらの方が、数倍恐い)ながらも、口端にだけは笑みを形作った弥勒が再び問うた。
「妬いてなどおらんわ。だから、何があったと訊いている。」
その問いには、到底答えられぬ七宝であった。







「だから、なんなんだよ、それは!」
腕組みをした犬夜叉が、苛々とした怒声を七宝へ投げた。
「おらだって、訳がわからんのじゃ!」
「訳がわからねーのは、おめぇの言ってる事だッ!」
背後に山を負い、川原に生えた大杉の下へと集った面々の間に、蛮声が飛び交っている。
山中で何があったのかを七宝へと問い質してみても、彼の返事は"妖怪に斬り掛かられた"とこれだけなのである。
だからどんな妖怪に、と訊いても"べろーんとした髪でにたぁ~っとした顔でぶわ~っとした奴"とまるで要領を得ない擬態語ばかりが出て来る始末。
「七宝ちゃんて、こんなに語彙が少なかったかしら?」
「うーん…。」
こそ、と隣の珊瑚へかごめが耳打ちしてみるのだが、珊瑚は珊瑚で何か考えを廻らしている様で。
「妙だ。」
其処で、弥勒が静かに呟いた。
「っつーか、どっちかってぇと"ヘン"だろ、こいつは。」
弥勒の言葉へ茶茶を入れた犬夜叉に対し、何をぅ、と七宝も負けじと食って掛かろうとするのだが、
「妙なのは、妖怪の方です。」
二人の遣り取りは歯牙にも掛けず、冷静な口調のまま弥勒が言を繋ぐ。
「何が。」
今度は、面倒臭そうに犬夜叉が弥勒へ問う。
「殺す気であったのなら、諦めが早過ぎはしませんか?」
「…あたしも、そう思う。」
弥勒から提起された違和感へ、珊瑚も同意してみせる。
「七宝は、これだけの攻撃しか受けておらず、そして我々が到着する頃には既に奴は跡形も無く消えていた。これは即ち、最初から殺すのが目的ではなかった、と考える方が自然ではありませんか?」
これまでの状況をおさらいする様に、弥勒が続ける。そう、逃げるなら、相手に応援が駆け付けた後ではないのか?
故に、これは"逃げた"と言うよりは。
「まるで、脅しか、存在を知らせる為だけに襲ったかの様な…。」
その法師の科白を聞いた子狐は、思わず俯いてしまう。
「おい。」
其処へ掛けられる、犬夜叉の声。明らかに、ぎくり、とした様子の、七宝。
「てめぇ、何か隠してんな?」
胡座を掻いたまま、七宝へ睨みを利かせた犬夜叉が、迫る。
「べべべ、別に、おら、何もっ。」
千切れそうに、ぶんぶんと首を横に振る七宝を見遣り、
「隠してるのね。」
「隠してますな。」
かごめと弥勒が、下手な七宝の嘘へするりと追い討ちを掛けた。
いきなり犬夜叉の右手が伸びたかと思うと、七宝の左の足首を、ぐい、と引っ掴み、軽々と七宝毎腕を上方へ掲げる。当然、子狐の天地は逆転した。
「言え!隠してると、タダじゃ済まねぇぞ!」
己の眼前へ吊るし上げた七宝へ、鋭い形相の犬夜叉が猶も問う。
「ひぃぃぃぃっ。」
打ち明けられぬ事よりも、この半分犬妖の血を宿す物の怪の顔の方が、恐ろしい。
「…あたし達には言えない何かがあったって事?」
珊瑚が、静かに言った。
「う。」
不覚にも、その言葉へ反応してしまう七宝。途端、彼の足を掴んでいた指を犬夜叉が、ぱ、と開き、宙に浮かんでいた七宝の体は地上へ、どしゃり、と落下した。
「なんでぇ?俺らに言えない事って。」
顔を顰める犬夜叉の胡座の前で、子狐は頭を擦りながらも、ちら、と珊瑚の方を盗み見てしまう。
刹那の出来事ではあったのだが。その視線を見逃す法師ではなかった。
「まずは、これくらいにしておきましょうか。珊瑚、済まないが、滞った夕餉の仕度をお願い出来ますか。」
「ああ、うん。そうだね。」
珊瑚が弥勒の提案に腰を上げ、川岸の方へ移動する。先程、犬夜叉と弥勒とで組んだ石は、即席の竈として既に出来上がっていた。大きく膨れたリュックを背負ったかごめも、珊瑚の後に続き、その"炊事場"へと向かう。
二人が、今、輪を描いて座っていた其処から大分遠退いた頃合を見計らい、
「七宝。」
弥勒が、子狐を呼ぶ。
「これで、話せるか?」
ぴく、と頬を引き攣らせた七宝が、落ち着き払った法師の方を見遣る。
お見通しか、こやつには…。
「…実はじゃな。」
告白する決心をした七宝は、其処でごくり、と唾を飲み込み直ぐに続けた。
「襲って来た妖怪は…魅魔だったのじゃ。」
「はぁ?」
「…なんですと?」
頓狂な声と、訝しがる声が、交錯する。
「夢でも見てたのかよ?七宝。」
「夢で怪我なぞするものかっ。」
何言ってんだ、とでも言いたげな犬夜叉の科白に、七宝は彼を見上げて答えた。その真剣な眼差しに、犬夜叉の方も頭ごなしに否定するのはやめとくか、と心中で思う。
先程の、妖怪の容姿についての訳のわからぬ遠回しな説明も、それならまあ納得出来ない事もない。
べろーんと長い白銀の髪・にたぁ~と破顔する面・ぶわ~っと飛び上がる為の羽が生えた背中…といったところか。
「しかし、魅魔は確かに珊瑚が斃した筈ですが。」
「わかっとる。じゃが、あれは魅魔じゃった。幽霊なんぞではなく、生きた邪気じゃった!」
霊気ではなく、邪念に満ちた生気であった事は、犬夜叉も弥勒も感知している。
「おらの事も知っておったし…珊瑚の事も…。」
其処で、七宝は言い澱む。
「…どうした?」
「今更隠しても意味ねぇぞ。」
二人に促され、七宝は再び口を開いた。
「実は…その"魅魔"が言っておったのじゃ。」
「なんて。」
「…恨むなら、退治屋の娘を恨め、と…。」
言い辛そうに目線を地へと落とした七宝が、ぽつぽつと、吐いた。
「あぁ?」
「…何?」
犬夜叉と弥勒は、互いに顔を見合わせる。
「…どういう事でい。」
「珊瑚に恨みを持つ者、か…?」
魅魔の姿をしている以上、珊瑚に関わりがあるのだという事は、充分考え得る事で。しかし、どう考えても奴が生きていたとは思い難い。そして、奴が化けて出て来たという説は全く零に等しかった。
今現在生命を持つ者の気配である事は、此処に居る誰もが身を以て体感している。
どうにも()せないのは、当の珊瑚が出張って行ったというのに、その姿を現す素振りも見せず、消え失せた事。
七宝にだとて、とどめは刺せた筈であるのにそうはしなかった。何かを、伝えさせようとしているのか。
何処かが、まだ繋がってはいない。
「珊瑚に、何をするつもりなのか…。」
「…珊瑚自身には敵わねぇと見て、周りの弱者から崩すって寸法か?」
弥勒と犬夜叉が、敵の奸計を暴こうとそれぞれ模索してみるのだが、如何せん、まだ情報が足りぬ状態で。
確かに、退治屋という生業が妖怪共から恨みを買うのは至極当然の事。しかし、それにしても時機が合い過ぎる。昼間、あのような不吉な占いを突き付けられたばかりなのだ。其処へもって来て、七宝が"魅魔"に襲われ「珊瑚を恨め」と言われるなど。
(偶然か?それとも…。)
必然、か。無論、答は出ない。
「…兎に角、犬夜叉はかごめさまの護りを堅めてくれ。」
「わかってる。」
弥勒の低い声音に、神妙な面持ちで犬夜叉も応える。険しい二人の表情を交互に見遣り、七宝も何やら不安げに眉根を寄せていた。其処へ。
「ご飯の準備、出来たよぉ~。」
重苦しい空気を一息に切り払うが如き、清明な響きが届けられる。
こちらへ近付いて来ながら声を上げるかごめへ、
「ああ、有り難うございます。かごめさま。」
振り向いた弥勒の表情は、瞬時のうちに笑顔へと取って代わっていた。
さぁ七宝それでは行きますか、などとにこやかに言いつつ、錫杖を握り、立ち上がる。一瞬ぽかん、とした後に、慌てて七宝は彼の肩へと跳び乗った。
(すげぇよ、おめぇは…。)
げんなりとした顔をした犬夜叉は、飄々としたその背中を眺め遣る。そして、犬夜叉早く、と催促して来るかごめの声に、わぁってるよ、と不機嫌そうに返事をした後、ゆっくりと腰を上げた。







普段、夜の帳が降りれば、皆それぞれが眠りに就く。それでも、必ず丁度良い具合に安眠を貪る事の出来ぬ者が一人や二人は居る為、自然、見張りを立てようなどとは誰も言い出しはしなかったのであるが。
今夜は、別である。交代で番をしよう、と提案したのは珊瑚であった。しかし、その順序は弥勒が勝手に決定してしまい、結果は弥勒、犬夜叉、珊瑚、の順。誰も起こさず己の番だけで済ませよう、という魂胆(と言うか心遣い)が見え見えである。
けっ、ふざけんなてめえばっかにイイカッコさせて堪るか俺は絶対許さねぇ何が何でも交代してやる覚悟しとけよ偽善坊主 ――― と固く決心したかどうか定かではないが、不本意ながらも先鋒を弥勒へ預けた犬夜叉は、針葉を見事に掻い潜り、大杉の枝へと己の寝床を確保していた。
その下方、杉の根元辺りには、寝袋に包まったかごめと七宝が、既に浅い寝息を立てている。
其処からほんの少しばかり離れたところへ、見張り番の座席があった。朽ちた大木が横たわった其処へ腰を下ろし、眼前で燃える薪を見詰めながら、その一番手の男は思案に暮れていた。
(標的は、珊瑚。しかし、目的は…。)
ただの恨みか。それとも、何か巨大な罠を仕掛けて待っているのか…?
どんなに頭を回転させても詮無い事だと理解しているのだが。
思考を止めるべくもがこうとも、それは能わぬ事だった。
その所以は、"珊瑚"の身に降りかかる火の粉であるから。
拭っても拭っても湧いて来る、不安。彼奴は、何を仕掛けた?あの、娘に。
かごめから渡された小さな置時計に目をやると、既に、一時は経っている計算になろうか。
その間、心を占めていたのはその事ばかり。
(くっそ。情けねぇな。)
(つぶて)を打たれた湖水が波紋を広げるが如く、ゆらゆらとざわめく、心。
それこそ奴の思う壺の様な気がして、益々以て胸糞悪い。大体、あたふたしたって始まらねぇじゃねぇか。
そう、思うのだが。
その時、じゃり、と小石を踏む音が耳に入った。
「…どうしました、珊瑚。」
気配がした方を振り向き、弥勒が先に声を掛ける。
「……。」
「おまえの方から夜這って来てくれるとは、嬉しい限りですな。」
無言のままの珊瑚へ、何時もの如く戯言を投げてみるが、彼女は一向に反応を示さない。
普段であれば、罵詈雑言か拳骨か、どちらか(両方の事もよくある)が飛んで来るところであろうに。
「法師さま。」
「はい?」
それまでの弥勒の科白はまるで無視し、倒れた大木の手前で立ち止まった珊瑚が、言った。
「七宝が隠しているのは、あたしに言えなかったからなんだろう?」
未だ炎の届かぬ、真闇の最中(さなか)で。
本題から、切り込む。やれやれ、気付いていたのか、と弥勒は心中で一人ごちていた。
薪から昇る炎のその根元を、火掻き棒の代わりの枝で突付きつつ、弥勒は自分の隣へ腰を下ろすよう、珊瑚へと手招きしてみせる。
珊瑚がゆっくりと弥勒の方へ近付くと、炎明の陣地内へと滑り込んだ彼女の姿が鮮明に照らし出された。珊瑚が己の左脇に腰を落ち着かせたのを確認した弥勒は、逆に、問う。
「何故、そう思う。」
「だって、わかるもの。」
根拠の無い答を、それでも確信めいて口に乗せる珊瑚の肩は、とても、小さい。本当に、妖怪から恨みを買う程の凄絶な戦を繰り返して来たのだとは、思い難い程に。
「…七宝は、他には何も知らぬ様でしたよ。」
「嘘。」
「嘘ではない。」
押し問答が、続く。
「ちゃんと言ってくれなきゃ、何も手立てを講じられないじゃないか。」
冷静さは猶失わず、珊瑚が真の答を求める。掴み所の無い、平生と変わらぬ表情のまま薪を見詰める弥勒の横顔を、切れ長の瞳に宿しながら。
「言うべき事が何もなかったのですから、仕方がないでしょう。」
弥勒も譲らない。
今、七宝が狙われたのはおまえの所為だと言ってしまったら、どれだけ彼女が傷付くか、わかっているから。故に、七宝は隠し通そうとしていたのだし、犬夜叉も珊瑚へ何も言おうとはしない。
弥勒とて、それが最善の策だと思っている訳ではなかった。珊瑚本人へ伝えなければ、一番危険なのは彼女なのだと承知しているつもりだ。なれど、まだ、今は ―――
告げずに全てを解決する方法は、無いのだろうか。
傷を広げて塩を塗り込む様な真似だけは、絶対に、避けたかった。
「…強情っぱり。」
諦めを帯びた声音で、珊瑚が言った。
「おまえに言われては、私も肩身がないな。」
焔へ視線を向けたまま、弥勒が、くすり、と微笑する。その穏やかな笑みを見て、胸が、きゅう、と縮こまる感覚に捉われる、珊瑚。
「…あたし…一緒に、居たら…」
知らず、昼間から心に巣食っていた感情が顔を覗かせていた。
消してしまうかもしれない。その、笑顔さえも。
けれど、其処までは声にならない。
怖くて。
言葉にすれば現実になってしまいそうで、それが恐ろしくて、続きを紡ぐ勇気は今の珊瑚にはなかった。
大丈夫だと、気丈に言ってのけた娘。しかしそれは本音である筈もなく。
己が存在と関わる者を、想像の及ばぬ災禍へ巻き込む ――― などと決め付けられた日には、大の男であっても凪いだ海の如き心を保つのは難しいであろう。
自分は、構わない。どうなろうとも。
その覚悟があるからこそ、こうして膨大なる妖力を携えた奈落へと戦いを挑む事が出来る。
それが御仏への背信になろうとも五逆の ――― 父殺しの罪を負った弟を救う、と決めた自分が、何の災いも無く生きて行けるとは到底思ってはいない。そのような甘い考えなど、疾うの昔に闇の涯てへと葬り去った。
しかしそれこそが、今こうして共に旅をしている同胞達への災いの源になるのではないか。
現に、二度、己の私闘に因る戦渦へ一行は巻き込まれている。
あたしの、所為。あたしは、真実此処へ居ても許されるに値する存在なのだろうか…?
言葉を途切れさせた珊瑚の左肩を、不意に弥勒の左腕が掴んだかと思うと、そのまま彼女を強引に引き寄せた。
「きゃ…っ。」
体の均衡を崩しそうになり、珊瑚が思わず無防備な声を上げる。
こんな風に、力任せに触れられる事など、滅多にあるものではなかった。何時も、その行動は優しくて。
「此処に居ろ。」
まるで彼女の思いを見透かしたかの如き科白を、弥勒が呟く。
彼の左手が珊瑚の頭を抱え込む様にし、己の左の肩先へ押し付けた。その彼女の黒髪の上へ、己の頬を、落とす。
「何処にも、行かせねぇ。」
低く囁く様に、再び弥勒が言った。
その嬉しい筈の科白に、珊瑚は眉根を苦しげに寄せつつも、瞬間、瞠目した。見張られた双眼は、その後ゆっくりと伏せられて行く。
「…法師さま、でも、あたしは…。」
あの骸鬼占の言葉が、頭から離れない。
奈落に陥れられる前の自分なら、あの程度の戯言に、耳を貸す事もなかったであろう。
でも、今は ――― 。
奴の言葉を否定出来るだけの自信が、無い。
あの占いを肯定出来得る事実なら、枚挙に暇はないけれど。
――― だから、あたしは一緒に居てはいけないのかも ―――
珊瑚が言い掛けたところで、弥勒の右の指から、からり、と火掻き棒が投げ出された。その空になった利き手で、彼女の右手を包み込み、互いの指を絡ませる。指の一本一本から、相手の体温が柔らかく伝わって来るのと時を同じくし、封印の数珠が極々小さな声で、鳴いた。
「共に在る、と言っただろうが…。」
ようやく珊瑚の耳に届く程度の、弥勒の声音。
つい先日の出来事を、逆の立場で繰り返している、と彼は悟る。あの時の己と同じ様に、今度は珊瑚が迷いを抱えている。
否、珊瑚や己ばかりではない。
この一行、それぞれの面々。
誰もが抱える、満たされる事の叶わぬ飢渇なのかもしれなかった。
自分の居場所は、此処で良いのか、と。
誰かがそれを認めてくれて、今度は、その認めた者が同じ深淵へ堕ちて行く。そして、また差し伸べられる、温かい腕。
結局は、その繰り返しなのだ。
安堵した次の瞬間には、また、不安に捕われる心。
他人へは躊躇いもなく居場所を提供する事が出来ても、その与えられた場所へ安住する事は途轍もなく難しかった。
わかっているから、こうして立場を入れ替えながら旅を続けている。この連綿たる闇の螺旋を、断ち切る為に。
共に、在る。
その言葉を、受け入れても良いのだろうか、と思うのは、珊瑚。
取り返しのつかぬ大事に至ってからでは遅いのだ。
珊瑚は、頭上に広がる暗い空と同じ色をした弥勒の緇衣へ、額を押し付ける。
泣きはしない。けれど。
離れたくない、と思ってしまうのは、何たる我儘なのであろう。巻き込みたくないと思いつつ、正反対の思惑が胸を占領している現実に、抗う術はない。
傍に居たい。
傍に居て欲しい。
その想いのみが、此処へこうして足を留めさせる。
互いの存在が揺るぎなく隣に在る事を確認するかの様に、暫し二人は身を寄せ合っていた。
其処へ。
「…おい。」
突然、背後で犬夜叉の地を這うが如き、低い、声。
がばっ、と身を起こした珊瑚の心臓は、瞬時に九尺六寸程の彼方へ吹っ飛んでいた。
「…交代なんだが…やめとくか?」
頬を幾らか紅くして、それでも何時もの仏頂面は極力崩さぬ努力を忘れずに、半妖の少年が佇んでいる。
「まったく、無粋な…。」
はあぁぁぁ、と、大仰な、深い深い溜め息を吐いてみせる、弥勒。
「いっ、犬夜叉、あのっ、これは…ッ…」
砕け散った心臓をわらわらと拾い集めた珊瑚が、彼の衣の色以上に染まった顔で、弁解を試みようとしているのだが、現行犯、である。無駄な足掻きであった。
「けっ。そっちの生臭坊主は気付いてたクセによっ。」
「坊主ではなく法師と呼べと何度言ったら覚えるのですか、おまえは。」
腕組みをしたままそっぽを向き、悪態を吐いた犬夜叉へ、弥勒がぬけぬけと苦言を呈しているその脇で、珊瑚は猶も混乱している。
その狼狽著しい彼女の手首を引き、法師が立ち上がり様に、言った。
「それでは珊瑚。一緒に眠りましょうか。」
どげしっ。
普段と寸分違わぬ、見惚れる程に鮮やかな珊瑚の拳打が彼の頭上に炸裂していた。