SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



花咲く頃は遠く過ぎても



‐‐‐ 参




「珊瑚ちゃん、貼り薬を替えなきゃね。」
「そうですな、どれ。」
かごめの言葉に、弥勒が朝陽に負けないくらいの清爽な口調で、身を乗り出す。
「…なんで弥勒さまが、"どれ"なワケ?」
少女の白い目が、法師を射抜いた。
「は?かごめさまが、先程私に薬草を渡して下さったのではありませんか。」
心外な、という面持ちで弥勒が答える。
「それは、貼り薬用に練っておいて、って意味に決まってるでしょ!」
「そうであったのですか!?」
すっとぼけたことを真顔で言う法師に、脱力したように肩を落とす、かごめ。
「馬鹿なこと言ってないで、楓ばあちゃんのところから、薬湯と朝ご飯貰って来て。」
いや~それは残念残念…と呟く弥勒の襟首を犬夜叉が引っ掴み、ずるずると引き摺りながら小屋の外へと連れて行く。男衆共は邪魔だ、ということだ。
「この、阿呆法師が…。」
弥勒を一瞥しつつ、犬夜叉が唸る。
「犬夜叉、おまえはやせ我慢し過ぎです。見たいものは見たいと」
「誰も見たくなんかねぇーっ!!」
しれっとして言い放った弥勒の戯言は最後まで聞かず、犬夜叉がばっさりと斬った。
「おや、面白くもない男ですなぁ。」
「て・め・え・と・一・緒・に・す・ん・な!!」
怒りを顕わにした半妖の少年が、法師の胸座を掴み凄んでみせる。
「ったく、さっき一瞬でもおまえがまともに見えたなんて、やっぱり間違いだったぜ…。」
どん、と彼を軽く突き飛ばしながらぶつくさと言った後、慌てて口を塞いだ犬夜叉だったが、
「は?」
その呟きは、幸い弥勒の耳へはっきりとは届かなかったらしい。
その時、今まで珍しく口を挟まぬままとぼとぼと歩いていた子狐が、いきなり言った。
「犬夜叉、弥勒…。昨晩は、すまんかった。」
幼い彼の意外な言葉に、年上二人はぎょっとなる。
「あ゛?」
「…どうしたのです?七宝。」
七宝が、俺達に謝った?…空耳か?
「おらは…、おらも、何時か、強く成れるのじゃろうか…。」
昨晩、勢いに任せて叩き付けた七宝の言葉。
――― 珊瑚に、頼り過ぎじゃ ―――
不甲斐無い半妖と法師を叱咤するようなその物言いは、実は己に向けられたものでもあった。
それを今、二人は理解する。
子供にも子供なりに、悩みだってある。自分の力は、小さ過ぎて。
まだ、誰かを守ったり、戦ったりするのには、あまりにも頼りない。妖怪であるのに。
「珊瑚に頼っているのは、おらの方じゃ。なんでおらは、こんなに力が無いのじゃ…。」
しょんぼりとした七宝が半べそを掻き、項垂れたまま愚痴る。
幼きその脳裏に過ぎるのは、何かをしたい、と己に出来ることを為そうとする昨晩のかごめの姿。そして、つい先日、己の頭を撫でた後に躊躇いもなく戦いの渦の中へ飛び出して行った、珊瑚の背中。
(こいつはこいつなりに、責任感じてやがったか…。)
そう思った犬夜叉は、故意に粗雑な言葉を選び、湿り気を消す。まあ、ぞんざいなのは何時ものことだが。
「馬鹿かおめえは。ガキのうちからそんなに妖力があって堪るかよっ。」
「そうですよ。犬夜叉の立場がなくなるでしょうに。」
己の科白を後押しして来た弥勒の胸座を、犬夜叉が再び掴む。
「てめえ…どういう意味だ…。」
「いえ、深い意味は。」
あっさりと弥勒が返す。
「おまえは、これからです。焦ることはない。」
攻撃的な犬夜叉はすっかり無視し、弥勒が七宝を振り返って、言った。錫杖が、しゃらん、と法師を肯定するような音を立てる。
「弥勒…そうじゃろか…。」
頼りなげな双眸で、法師を見上げる子狐。
「てめえは親父を尊敬してたのか?」
何の脈絡も無く、犬夜叉が七宝へ唐突に問う。
「当たり前じゃ!おとうは、立派な妖怪じゃった!」
彼の本意を量りかねながらも、子狐は条件反射的に答えていた。
「なら、おまえはその息子だろ。心配することねえじゃねえか。」
「!」
犬夜叉の言葉に、七宝が突かれる。何時か、自分もおとうのように成れる、と?
「そうですな。立派に、受け継いでいると思いますよ。七宝。」
弥勒が優しい声音で続ける。
「御仏は、その時その時、必要とされる力のみを与えて下さるもの。相応でない力は、邪まなものの根源ともなる。日々精進し、少しずつ掴んで行けば、それで良い。」
「ぶあーか。俺達妖怪に、仏も何もあるけぇっ。」
くだらねえ、とばかりに、半分は人の血を宿した妖が、法師の有り難い言葉に茶茶を入れた。
「おまえ達妖怪が御仏を嫌っても、御仏は生あるもの皆全てを、平等に御覧になっていらっしゃる。」
右手を顔の前に立て目を瞑り、少しも動じずに弥勒が言う。
「妖怪を片っ端から成敗して廻ってる奴が言っても説得力ねえよな…。」
「人助けだと言うに。」
「平等なんじゃなかったのかよ。」
「おらも…強く成れるのじゃな。」
始まってしまった二人の押し問答は流し遣り、七宝が口を開いた。少し希望を見出したように、くるくるとした瞳は未来(さき)を見つめている。
「ま、そういうことですな。」
「だから最初からそう言ってんだろーが。」
掴み所の無い法衣姿の男と、仏頂面で言い放つ、犬妖の男、と。
この二人と出会って…いや、かごめと珊瑚も含め、皆と出会い、真実幸福なのだ、と七宝は改めて思う。異国の者、法師、妖怪に半妖。そしてそれを退治する者。思えば、なんと均整のとれていない一行か。それでも此処は、何故か居心地が良い。
「ところで弥勒。おぬし、珊瑚に本当に何もせんかったじゃろうな。」
七宝が、弥勒の肩に飛び乗り思い出したように問うた。
「"ほんとうに"?私はまだ何も言っていませんが?」
何やら意味ありげに答える弥勒。
「なっ、なんじゃと!?おぬし、まさかっ!」
「子供は知らなくていいのです。」
「な、なにー!!」
何をした、何をしたんじゃあ、と、弥勒の肩の上の七宝が、彼の首を掴んでぶんぶんと揺らす。
やれやれ、という面持ちで、弥勒が微笑する。幼子をからかうことに余念がない、とんでもない大人が其処には居た。
(み、弥勒の奴、そんな、言っちまってもいいのかよ!?)
此処にも一人、幼い思考の少年が居る。他人事ながら、鼓動が速くなるのを意識せずにはいられない。
(なんで俺が赤くなんなきゃいけねえんだ。)
と、内心苛ついたところで。
「おや。犬夜叉、どうしました。顔が赤いが?」
ぎく、ぎく、ぎくッ 。
「なっ、なんでもねーよっ!」
「…おまえ、この私に隠し事が通るとでも思っているのか?」
弥勒の鋭い目線が、、明らかに狼狽する犬夜叉を見据えた。
「う、うるせえ!早く楓ばばあの所から薬と飯を持って来ねえと、かごめがうるさいだろっ。」
どぎまぎと話を逸らしてはみるが、この法師相手に無駄な抵抗である。
「まあ良い。それは後でゆっくり聞かせて貰うことにしましょう。確かにかごめさまに怒られてしまいますからな。」
取り敢えず、ほぅっ、と、犬夜叉は胸を撫で下ろした。あんな場面を覗いていたなどと珊瑚に知れた日には、飛来骨で強かにぶん殴られかねない。弥勒に至っては、どのような卑劣な報復をされるか、わかったものではないだろう。
しかし、怪我をしている珊瑚は兎も角、弥勒法師ともあろう者が自分達の気配に気付かなかったとは。もしかして気付かれていたのではないか、と、犬夜叉は少々思っていたりもしたのだが。余程、"そちら"へ意識が向いていたと見える。
こら、弥勒、答えろ何をした、と未だに唸っている七宝をその肩に乗せたまま、弥勒は、はいはい、何もしていませんよ、と感情を込めず面倒臭そうに繰り返す。嘘じゃああぁ、と七宝が、また、騒ぐ。
昨日までの、息が詰まるように重苦しかった空気を忘れさせるが如き光の中、三人はそのまま楓の小屋へと向かって行った。







珊瑚の意識が戻ってから十日余りが経ち、ようやく立ち上がれるまでに彼女は回復していた。
「?珊瑚ちゃん?」
小屋に、居ない。かごめが薬湯を持って訪れると、其処に在る筈の珊瑚の姿が無かった。間もなく牛の刻にとどこうか、という頃合。食前に飲んでおいて欲しい薬だったのだが。
「何処行った?あいつ。」
かごめの背後から、ひょっこり顔を出した犬夜叉が、離れの中が無人なのを確かめる。外へ視線を廻らし、水を汲んでいる七宝を見つけたかごめが問うてみた。
「七宝ちゃん、珊瑚ちゃん知らない?」
手許の桶から顔を上げた七宝が、眉を顰める。
「離れにおらんのか?此処は通らんかったが…。まさか弥勒!」
先日から、この件に関して七宝は過敏である。いくら問い質してみたところで、人並み外れて嘘の得手なあの法師にはぐらかされてしまう為、納得出来ずに今に至っており。
その時、村の界隈の方へと続く道から、その噂の主が姿を現した。相変わらず飄々とした姿でこちらへ歩んで来るその男は、村の外れに在る寺で勤行(ごんぎょう)をして来る、と、今朝早く出て行った帰りである。時折、そうやって精神を清浄し、集中せねばならぬらしい。
「弥勒さま。」
「どうしました?このようなところで。」
井戸端に集っている三人へ、法師がきょとん、とした表情で声を掛けた。
嘘を言っている気配は…恐らく(と、注釈を付けねばならぬのが、この男の厄介なところだ)、無い。
「珊瑚ちゃんが居ないの。弥勒さま、見掛けなかった?」
心配そうにかごめが言う。あの体だ。妖怪絡みでなければいいのだが…。
「珊瑚が?…雲母は?」
軽く握った右手を口許に当て、思案げに弥勒が呟く。
「あ、雲母も居ない。一緒かな。」
「雲母が一緒なら、そう心配はありますまい。まだ自力では歩けぬ筈ですし、そう遠くへは行っていないと思いますが。犬夜叉、妖怪の匂いは、せんな?」
弥勒が犬夜叉に確認する。
「ああ。至って、平穏だ。」
「私にも妖怪の気配は感じられないが…念の為、捜しに行ってみますか。」
あたしも、と志願するかごめを、やんわりと弥勒が左手で制する。
「珊瑚と行き違いになるといけませんので、かごめさまは此処でお待ち下さい。犬夜叉は北の方を。七宝は東の方をお願い出来ますか。」
「やっぱり、世話が焼けるったらありゃしねえ…。」
「行ってくる!」
汲んでいた水の入った桶をかごめに渡し、七宝が駆け出して行った。
(まったく…何処へ行ったんだ。)
今、自分が発していた科白とは逆の思惑を抱えたまま、北へ消えた犬夜叉の背中を見送りつつ、弥勒も南の方角へ向き直った。







弥勒は、川沿いの土手を暫く歩いていた。己の咲き誇った姿を惜しげもなく晒す花々の競艶が繰り広げられている、春のこの時分。ほぅわりと陽も射し、かなり気分が良い。
果て無く広がる青空を仰ぎ見、左手を額の上へ翳す。
(陽の光と、花の香りにでも誘われたか…。)
もし、そうであったとしても無理もない。ずっと床に伏せ、太陽の光を長く浴びていなかった珊瑚である。春の陽気に誘われ、つい外へ出てしまったのだとしても、誰が責められよう。
その時、少し先の川岸に、人の姿が見えた。
(居たか。)
胸を撫で下ろし、弥勒が土手を降りて行く。
川岸にしゃがんでいる女は、紛れもなく、珊瑚。傍らに居る妖獣は、変化したままの姿で寄り添っており、雲母が此処まで運んで来たのは明白だった。
弥勒の方へ背を向けたままの珊瑚は、彼が近付いて来るのには気付かない。その時、丁度彼女の佇む場所から、 川下へ向かい黄色が点在する束が流れて行くのを弥勒の視界が捉えた。
(花?)
恐らくは、みやこぐさ。蝶の羽の如き花弁をつけるその可憐な姿の群生を、此処へ来る途中、弥勒も目にしていた。
川上の方からそれが流れて来るところは見受けられなかった。故に、今、珊瑚が川に放ったということになるだろう。
彼女は暫く動かなかった。いや、正確に言えば、両の(かいな)が前に運ばれ、その後、動かなくなった。背中から見ている為確認することは出来ないが、両手を、合わせている…?
珊瑚の背後の極近くまで辿り着いた弥勒の気配に、ようやく気付いた彼女が後ろを振り返った。
「法師さま。」
また、悲しい顔をしている。
春の陽気に誘われた、などという安易な理由ではないことを、瞬時に悟る。己の胸がひりついて疼くのを、弥勒は認めねばならなかった。
「皆が心配しています。その体で、黙って居なくなるものではない。」
("皆"っていうのは、都合の良い言葉だな…。)
皆がどうということではない。俺自身が、心配していたのだろうが。
「ごめん。言ったら、止められるかと思って。」
珊瑚は、また川面の方へ向き直り、表情を隠す。
「……。」
弥勒は何も聞かなかった。何故、勝手に出歩いたのか。何故それが、"今"でなければいけなかったのか。無論、初めは問うつもりであった。しかし、彼女の憂いを見てしまった今、問える筈もなく。無理を押して猶、彼女を突き動かさせたその理由を知りたいけれど、優先させるべきなのは、己の欲求ではなく、珊瑚の心。
その彼の優しさが、珊瑚に充分染み渡る。
故に。自分から、訳を切り出す。身を切るような、言葉を。
「…今日、父上の…、里の皆の月命日なんだ。だから、どうしても弔ってやりたくて。」
先程弥勒が目にしたものは、手向けの花であったらしい。
「流石にお墓までは戻ってやれないけど、せめて、さ。」
見られたくは、なかったのかもしれない。こうやって、あの出来事を思い出すことは珊瑚にとって何よりも辛い。はっきりと向き合わねばならぬ、この時が。勿論、忘れている時など有りはしないだろうけれど。そして、そんな彼女の姿を見た仲間達まで胸を痛めてしまうのが、目に見えているから。
「すまない、珊瑚。邪魔をしてしまったな…。」
珊瑚が一行に加わってから、幾月かが過ぎている。月命日を迎えるその度に、自分達に気付かれぬよう弔いをしていたと言うのか?
たった、独りで。
弥勒が清廉な声音で珊瑚へ謝罪するものの、彼女は前を向いたままだったから、どのような表情でいるのかがわからない。こちらに背を向けたその細い肩を掴み、自分の方を向かせたいのが、彼の本音であった。
「そんなことないよ。法師さま、迎えに来てくれたんだろ?さ、帰ろうか。」
努めて珊瑚が明るく言い、立ち上がる。が。
「!?」
まだ、自分の力で思うように動けるまでには至っていない。それは、充分承知していた筈だった。しかし、法師へ心配をかけまいとする思いが、存外、彼女に無茶をさせていたらしい。
ぐらり、と目の前が歪む。つきり、と痛みが、走る。自分で体を支えられない、と理解するのに、そう時間はかからなかった。
やばい、と重傷から立ち直ったばかりの娘が思った時。
倒れかけた珊瑚の体を、弥勒の左腕が素早く抱え込む。
「大丈夫か?」
「…、う・ん…、ごめん。」
傷が痛んで、少しだけ、呼吸が速い。横から抱きかかえるような形になった弥勒の目にも、ようやく珊瑚の顔が映った。
少し眉間に皺を寄せ、憂いを含んだ、瞳。小さく開かれた口許から、苦しい肺へ空気を取り込もうとしている。大勢には影響がないようで、男はほんの少しばかり安堵してみるのだが、
「私の肝を潰してくれるな、と、先日言ったばかりでしょうに。」
辛そうな珊瑚の顔を前にし、居たたまれなくなった弥勒は柔らかな口調で、しかし苦言を呈していた。
先日。あの晩の出来事を思い出した珊瑚は、体中が赤く染まったような感覚に襲われ、その朱の差した頬をこの法師に見られぬよう、彼の胸とは反対の方へ背ける。心臓の脈打ち加減が、とてつもなく、速い。
そして。
「そ、そんなこと、言われたっけ?」
羞恥心から、つい、そんなことを言ってしまう。しかし、彼女の想像以上に弥勒がその言葉に反応を示した。
「…憶えていないのですか?」
嘘だろ、おい。冗談じゃない、という嵐を抑え、平生と変わらぬ言葉使いながらも、遊びを含まぬ声で珊瑚へ問う。
「え。あ、いや、夢だったのか現だったのか、あんまり…。ほら、あたし、あんなだったし…。」
弥勒の意外な真剣さに、しどろもどろになってしまう珊瑚。憶えている、と言ってしまえばそれで収まったのだろうが、そうそう素直になれるものでもない。これまでの癖が、染み付いてしまっている。
「そうか。」
珊瑚の言い様に、彼女の真意を汲み取った弥勒ではあったが、此処は一つ、珊瑚の言葉に乗ってしまうことに決めた。
悪戯心を秘めた胸には、珊瑚の右肩が寄り添い、弥勒の左腕だけが彼女の体を支えている。
珊瑚の白い利き手は、錫杖を握る彼の右肘辺りに掴まっており、左手は己の胸元へと添えられていた。そして、その顔は、川面の方へそっぽを向いたまま。
錫杖が、いきなり弥勒の手から放たれ、がらん、と音を立てて地へ投げ出される。その自由になった右手は、 珊瑚の細い顎を捉え、こちらへ向き直させていた。
「え」
錫杖を捨てるとは何事よ、と珊瑚が思うより早く、彼女の唇は弥勒に塞がれていた。
時間にすれば、ほんの一瞬。
「思い出したか?」
唖然としている珊瑚を、背丈の分上から見下ろし、にや、と弥勒が口端を上げた。彼の指が触れている其処から色を注ぎ込まれたかの如く、瞬く間に彼女は耳まで真っ赤に染まる。と、同時に、勢い良く眉が跳ね上がった。
「な…っ、なにすんのさ、このくされ法師っ!!」
弥勒の腕から逃げようと試みるものの、彼の左腕の力は一向に緩まない。それどころか、猶も、強く。
「おや、まだ足りませんか。」
やれやれ、といった風情で一度溜め息を吐いた後、珊瑚に再び己の唇を重ねる。彼女はと言えば、弥勒の胸を押し戻そうとしているのだが、背中から廻された彼の腕は、頑として解けない。
これまでのような、一瞬の、刹那の為様ではなかった。弥勒の右手は珊瑚の後頭部の辺りを抱え込み、彼女の自由を奪っているものだから、如何な烈女とて、そうそう逃れられる訳もなく。
混乱から引き起こされる、恐慌状態と紙一重とも言える訳のわからぬ目眩に勝てず、珊瑚の膝の力が抜け、がく、と崩折れそうになる。熱を持った互いの唇が離れたかと思うと、その滑り抜け落ちて行かんとする痩躯を、弥勒がその胸に軽々と抱き上げた。
「……。」
珊瑚が、口を利けずに弥勒の胸に掴まっている。
心の臓は疾うに壊れ、本来為すべきことなど忘れたかのように、めちゃくちゃな音階を奏でていた。
なんだか、泣きたい。何故かはわからないけれど、泣きたくて、仕方ない。
自分で自分の今の気持ちを表す言葉を、あたしは知らない。なのに、どうして泣きたいなどと思うのだろう。整理のつかぬ、この呆れるような感情を呼び起こしたのは、紛れもなく、この、法師。
「馬鹿法師…。」
ようやく非難めいた言葉を紡いだ珊瑚の黒い艶髪を、弥勒の左手が、ゆっくりと撫でる。
「俺は、こういう男なのだ…。」
自嘲するように、珊瑚の頭の上で弥勒が呟いた。
(…初めてだ。法師さま、あたしに向かって"俺"って使うの。)
本題とは違う所に引っ掛かった自分が、些か可笑しかった。
たった今、恨み言のように名を呼んでおきながら、素を曝け出してくれていることを嬉しくも思う、乙女のような己が居る。
尤も、この男のことである。この程度の言葉使いで全てを見せてくれていると思うのは尚早だと、珊瑚自身も承知している。
三代続いた呪いを一身に背負い、その運命に抗うように…否、準ずるように歩んで来た境涯で積み重ねられた鎧を、容易には脱いでくれぬだろう、と、わかっているから。
それでも。
この人を、守りたい。あたしを守ってくれると言ってくれたけれど、あたしだって、貴方のことを守りたいのに。
救い手を拒む強き背へ手を差し伸べたいと思うのは、あたしの無礼だろうか?
この人が恐怖と共に越える闇夜を照らしてあげたいと願うのは、あたしの傲慢だろうか?
…そんなことを、この男に直接言えはしないのだけれど。一体あとどれ程の時が経てば、あたしにも口にすることが出来るようになるのだろう。
炎を灯されたままの唇を、袈裟で覆われた彼の胸へ微かに押し当て、珊瑚は思う。
(今言っちゃえば、楽なんだろうな…。)
しかし、全てを曝け出すことが出来ないのは、自分も同じことで。ただそれは、彼女の場合、意地っ張りという理由からではあるが。
あの晩の彼の言葉と、今此処で抱える戸惑いを、恐らく、生涯忘れることはないのだろう。
繚乱する花の全てが散り、緑溢れる夏が来て、枯葉を踏みしめ、行くべき道を白い雪が覆い隠そうとも。
何時でも、色鮮やかに思い起こすことが出来るに違いない。
取り戻したいあの忌まわしき日を、忘れることが出来ぬように。
例えその日が遠く過ぎ去ってしまっても、心に(しるし)が刻まれている限り、その日へ立ち戻る道は閉ざされはしないのだ。
穏やかな空気と、甘い花の香を乗せた柔らかな風が、取り巻いて行く。こんな風にゆったりとした時間を過ごすのは何時以来だったか、二人がぼんやりと考えていた、その一つになった影の向こう。
川面で、ぱしゃん、と魚が跳ねた。
それを合図にするかのように、弥勒がゆるりと口を開く。
「…そろそろ帰るとしましょうか。傷に障るといけない。」
(傷に障るようなことをしているのは、俺か…。)
そのような法師の苦笑は知らず、おずおずと体を離した珊瑚が答える。
「うん。手当てしてくれてる皆に悪いね。」
「まったく。早く全快してくれねば、おあずけを喰っている私の身が持ちませんよ。」
ごき。
間髪入れず、珊瑚の鉄拳が飛んだ。少々傷が痛みはしたが、そんなことを言っている場合ではない。
「まったく…。」
ぶつぶつと腐りつつ、左頬をさする弥勒が錫杖を拾う。
「では、行きますか。」
そう言うと、珊瑚の目の前に背中を晒し、何でもないように膝を折ってしゃがみ込んでいた。
「い、いいよ。雲母に乗せて貰うから…っ。」
自分を背負おうとする弥勒に、慌てた珊瑚が手を振って遮る。
「雲母に余計な妖力を使わせるものではありません。」
「でも。」
法師さまだって、怪我をしていた筈だ。なのに。
「恥を掻かせないでくれ、珊瑚。」
やはり、この人の方が、一枚上手だ。こんな風に言われれば、従わないわけにはいかないから。こちらの体裁も気遣え、などというような科白を吐いているように聞こえるが、その実他人(ひと)の為で。
当たり前のことだが、この法師は自分よりも大人なのだと思い知る。
(敵わないのかな。)
それでも、嬉しいと感じる。もう少し一緒に居たいと思った二人の気持ちを、あと僅か、繋いでいられる。
「ありがと。」
そう礼を言い、珊瑚は素直に弥勒の背中に体を委ねた。
「さて、すっかり遅くなってしまったな。」
後ろに回した錫杖に腰を掛けた珊瑚を背負い、弥勒が立ち上がる。雲母が、変化を解いて後に続く。
「半分は、法師さまの所為だからね。」
背後から、なかなかに冷ややかな科白が浴びせられた。
「ははは、それを言われると。」
大分、何時もの珊瑚に戻って来たな、と弥勒は内心ほっとする。儚げで、弱々しい珊瑚も良いが、やはりこうでなくては。
「かごめさま達が待っています。」
「うん。」
大切な、大切な、あたしの、仲間達。ごめんね、余計な心配をかけてしまった。
(しかし、此処んとこのよーには、いかなくなるなあ。)
それでもやはり、弥勒は不埒なことを考えるのを、止めなかった。







「行きますよ、珊瑚!」
法具・錫杖の鐶が、しゃらん、と鳴き、邪念なる妖気を薙いで行く。
「ああ!」
真白き使い・飛来骨が、風を両断するように宙を駆ける。
妖魔との戦いは、今日も続く。
非日常である日常が、一日ずつ重ねられる。
奈落を討ち果たす、その日まで。
勝利したその時、真実この闇から解き放たれるのであるのか否か、今此処に集う者達の誰一人としてわかりはしない。
それでも、解き放たれる日の訪れを、砂粒ほどの希望がある限り、信じて。
その向こうにある生を、必ずや掴み取る。


何かを、誰かを守りたい。心を、自由にしたい。
犬夜叉、かごめ、七宝。そして、弥勒も、珊瑚も。
それぞれの、己が魂との譲れ得ぬ誓いを、胸に秘めて。










B.G.M. <花咲く頃は遠く過ぎても> HEAVEN


長いです。お覚悟を。
大変申し訳ございません。先に謝っておきます。これが、全ての始まり。この話(妄想)が頭の中でぐるらぐるらと回りまくり、文章にしてしまったのが、そもそもで。初めて書いた創作文。しかも、原作逸脱もいいとこ…。接吻しちゃいました勝手に。御免なさい。きっと、絶対駄目!と言われる方もいらっしゃるかと思います。でも、私の煩悩は百八つの鐘くらいじゃ飛んで行きそうにもありません。
第一作、というだけあり、目も当てられない下手くそさで、推敲に多大なる時間を費やしました(あんまり代わり映えしてないというハナシも)。それでもやっぱり、犬夜叉とかごめの会話はどうにもこうにも甘くするのが難しいです。絶対言わねーだろ、犬っころは。と、私でも思う科白を吐いてます。で、今気付いた事。春って…かごめ、受験は?卒業は?という事で、忘れましょう綺麗さっぱり。
珊瑚嬢また泣いてるし。何を隠そう、私は気が強いくせに泣き虫、というおなごが好きです。(実際問題とは別。あくまで、夢の世界のキャラ設定。)そして兎に角、弥勒法師さまに格好よくきめて欲しかった。彼なら、キザっちくてもおっけーだろう、と。いや、格好よくてキザかどうかは疑問が残るところではありますが。(どっちかってぇと、外道?)
お叱りはごもっとも。ですが、最後まで読んで下さって有り難うございました~(おじぎ)。

2001.08.05