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©2001 minato



花咲く頃は遠く過ぎても



‐‐‐ 壱




「珊瑚、かごめを頼む!」
「かごめさまを頼みましたよ、珊瑚!」
犬夜叉が、…法師さまが、そう言った。
あたしは、二人を見て頷いたんだ。
それだけで、充分な誓いになるから。
あたしは、約束を守る。
かごめちゃんを、守り切ってみせる。
失われた同胞達の、代わりにする気はないけれど。
かごめちゃんも、犬夜叉も、七宝も…法師さまも。
もう二度と失くしたくない、大切な仲間だから。
必ず、誰一人として死なせはしない。
――― 今度こそ。







斬魔(ざんま)麓魔(ろくま)魅魔(みま)の三魔を前にして、一行は不利な状況に立たされていた。
三つに連なる深く険しい山。その連山に君臨するは、前出の三妖魔。
半妖を先頭にした一行は、足を踏み入れたその中腹で、瞬く間に彼奴(きゃつ)らに周りを囲まれていた。
三魔が望むものは、人の血肉と…四魂の欠片。
平生の彼等であれば、このような魔物達を前にしようと、滅多なことで背中を見せることはない。けれど。
犬夜叉が殺生丸に負わされた怪我が完治していなければ、弥勒の方も右腕に傷を負っている。この状況で、かごめや七宝を守りながら戦うのでは分が悪過ぎる。故に、二人はかごめ達を珊瑚に託し、先に逃がす策を選択した。守りながら戦うよりは、断然負担が軽い。
しかし、魅魔が珊瑚達の後を追ってしまった。彼等の計算が狂ってしまったものの、今、斬魔と麓魔をこのままにして行く訳にも、どちらか一人に任せて行く訳にもいかない。
魅魔一匹ならば、万全な状態の珊瑚に倒せぬ相手ではない。苦戦は免れないだろうが…今は、これしか取るべき策が無かった。







安全な場所まで充分距離を取った後、珊瑚は弥勒達のもとへ戻り、戦線に参加するつもりでいた。しかし、後方から妖怪の気配。どうやら一匹が追って来てしまったらしい。
木々の隙間から漏れる、天から齎された春暖の光。その温さを汚すように追って来る冷温たる邪気が、退治屋が娘の研ぎ澄まされた感覚へ追い縋って来る。
途中に炭焼き小屋のような古い庵を認めた珊瑚は、其処へかごめと七宝を導き入れた。
「かごめちゃんと七宝は、此処に隠れていて。」
片膝をついた戦装束の娘が、外の気配を見遣って言う。ふい、と戸口を向いたその動きに、高く結い上げられた長髪が、小さく揺れた。
追って来たのは、妖気の大きさからして恐らく魅魔。奴なら、四魂の欠片を狙っているのではなく、純粋に人を喰らいたいのみ。ならば、己が身を奴の眼前に晒しておけば、かごめ達が襲われることはまずないだろう。珊瑚はそう踏んでいた。
「でも、それじゃ珊瑚ちゃんが」
「あたしは、一人の方が動き易いし。それに魅魔は人間を前にしていれば、他の所まで探しはしない。」
この方が安全だ。友の身を案ずるかごめの言葉を、そう、珊瑚が遮った。それに七宝が続ける。
「しかし珊瑚!」
「七宝、あんたは此処に居て、かごめちゃんを守るんだよ。」
「お、おらが…!?よ、よし、わかった!」
狼狽しながらもしっかりと返事を寄越した子狐の頭に手を乗せ、ゆる、と珊瑚が笑んだ。しかし、一瞬の後、彼女の眼は凛とした光を宿し再び前を向き直る。
かちゃり、と鍔鳴りがした。立ち上がった珊瑚の左手が、鞘の鍔元へ触れている。
「雲母、おまえも此処に残って二人を守れ。いいな。」
万が一のことを考え、雲母に残るよう諭す。念を入れるに越したことはない。
「珊瑚ちゃん、それじゃあ…!」
かごめが不安げな声を向ける。雲母まで置いていったら、珊瑚だけが危険なのでは?
「あたしは大丈夫。法師さまと犬夜叉と、約束だってしてんだから。必ず守るから、心配しないで。」
曇るかごめの表情を笑顔で見返し、少しおどけたように珊瑚はあっさりと言う。
違う、そうじゃないのに。そんなことを心配して言ってるんじゃないのに。珊瑚ちゃんは、何時も…。
そのようなかごめの思いは知る由もなく、珊瑚は躊躇もせずに木戸の向こうへ消えて行く。
「珊瑚ちゃん!!」
魅魔が、其処まで迫っていた。
「来やがったな。おまえの相手はあたしだ!」
珊瑚は、妖怪を小屋から引き離す為、木立ちの奥へと走り出した。







嫌な、邪気。
喰わせろ、喰わせろ、と絡み付いてくる、餓鬼のような邪念。
先程の庵から少し離れた頃合に、魅魔が珊瑚へ追いついた。彼女の背後から、ざざ、と音を立てて中空へ舞い上がる。
退治屋は、それを待っていたかの如く背に負った得物に手を掛けた。
丁度、魔の影が娘の頭上へと昇り詰めたところ。体を半回転させ、真上へ白い使いを投げ払った。
「飛来骨!」
珊瑚の声と同時、その武具が風切り音を響かせ上空へと駆ける。
「制空権は、我に在ると言うに!」
しゃがれた老婆のような魅魔の声が、珊瑚を見下ろし嘲笑うように飛来骨をかわす。しかし、行く先の頂点から主の手へ還る為に翻って来た飛来骨の切っ先が、彼奴の羽の左端を切り裂いた。
「なに!?」
羽先の異変に気が付き、妖怪は一瞬驚きの声を洩らす。
寸分違わず己の掌中に戻って来た飛来骨を難なく受け止め、珊瑚が表情も変えずに吐き捨てる。
「もとより、制空権などは要らん。」
その瞳は、真っ直ぐに魅魔を貫く。その視線の先の、魅魔、とは。
般若の(おもて)の如き表情を携え、白銀の長髪。人型を取ってはいるものの、その背中からは蜻蛉のような薄羽が二枚、伸びていた。
はらり、と先程切り取られた羽の残骸が、珊瑚の足元に舞い落ちる。悔しいことに、妖魔の飛行能力には然程影響は無いようだった。
「…後悔するな、その言葉!」
「するかっ!」
切られた羽を庇う素振りも見せず、魅魔が腰の刀を抜き、上空から一気に珊瑚への距離を詰めた。
がきっ、と、鋼のぶつかり合う音。飛来骨で彼奴の刀を受け止めた珊瑚は、左手で己の刀を抜いた。そのまま魅魔の腹部へ斬りつけようとするが。
「遅いわ!」
ぶわ、と魅魔がまたしても空へ舞い上がる。左手での抜刀が、珊瑚の動きを多少なりとも鈍らせていた。
「ちぃっ。」
間を置かず、右腕が薙ぎ払われる。その指先から一気に飛来骨が放たれた。しかし、魅魔はそれをかわす。先程の教訓からか、横にではなく、真上へと。見下ろした白い塊が、放物線を描いて退治屋が娘のもとへ戻って行くのを余裕で視界へ宿していた。
苦々しく思いながら、己の使いを受け止めた、其処へ。ごおっ、と唸りを上げて魅魔が突っ込んで来る。飛来骨を投げ出し、刀を右手へと持ち替えた珊瑚が、顔の前でその刃先と真っ向から組んだ。
「おまえの血肉、威勢が良くて、なかなかに美味そうじゃ。」
「そう簡単に、喰らえると思うな、妖怪!」
がっ、と妖刀を払い、直ぐに次の斬撃へ移行するのだが、またも、宙へ逃れる魅魔。
間髪入れずに左手を背後へ廻し、帯の間から抜き取った苦無を二本、上空へ走らせた。
「ぬるいわ!」
(やいば)で苦無を払い落とした魅魔だったが、ぐさり、と左腕に痛みが走る。
「!?」
叩き落した筈の苦無が一本、しっかりと己の上腕を捉えていた。
二本、同時に放たれたと思った、退治屋の苦無。しかし、それは魅魔の読み違え。珊瑚は一本を囮にし、ほんの僅かに時機をずらしてもう一本を放ったのである。
先程飛来骨をかわした奴の反射神経を逆手に取った、珊瑚の策。恐らく、魅魔は苦無を刀で(はた)くと予想し、その一瞬の間を狙い第二波を差し向けたのだ。
片手のみで、同時に別軌道を描くのは無理。かといって、あからさまに連続した投擲では奴へ回避策を与えてしまう。故に、目視では判別出来ぬ程の、その刹那の "間"を狙った。
「遅いのは、どちらだ。」
上空からぽたり、と落ちて来る血を一瞥し、珊瑚が呟く。
「おのれ…ッ!」
そして、またも突進して来る、妖魔。迫り来る、血走った魅魔の目を睨み据えた珊瑚が刀を構えたところへ、先刻と同じように奴の刀が降って来た。火花が飛ぶような音の後、珊瑚の体へずしり、と重心が圧し掛かる。
勢い、珊瑚の左膝が地へ着いた。均衡を崩した彼女の上半身へ加えられる、魅魔の足蹴り。
「ぐ…っ!」
鳩尾辺りへ入ったその蹴りに、顔を歪めた珊瑚の体が後方へ吹っ飛んだ。しかし、それでも奴から視線は外さない。咄嗟に受身を取ったその双眼には、ふわり、と舞って己を見下ろす妖怪が映る。
(埒が、あかない。)
どうする。奴を、己の間合いに引き止めておくには。
素早く息を整えた珊瑚の思考が、回転を始める。其処へ、いきなり降って来たのは。
(毒か!?)
見上げた魅魔の面。牙を露わにさせたその口が大きく開かれ、紫煙を吐き出している姿を珊瑚の目が捉えた。直ぐさま首に下げた防毒面を被る。しかし、その動きと、一瞬覆われた視界によって生じた珊瑚の隙を、魅魔が見逃す筈もなかった。
「!?」
左の肩先に、激痛。
横目で珊瑚が見たのは、己の肩先に喰らいつき、にいぃぃ、と破顔する、妖魔。
「こ、の…っ!」
ばりばり、と牙が肉へと食い込む音を聞きながらも、珊瑚は右手の刀を振りかざした。それでもやはり、魅魔は空へ、逃げる。
「のらりくらりと…!」
痛む左肩を思い遣る暇もなく、右肘の甲から、竜の髭を鎖状に編んだ捕縛の為の縄を引き出し、彼奴の足目掛けて投げつけた。
「!」
見事魅魔の左足に絡んだそれを、珊瑚は思い切りこちら側へ、ぐい、と引っ張る。
「小癪な…!」
魅魔は、地上へ引き摺り込まれる体を止めようともがいてはみたが、如何せん、珊瑚の初動の方が早かった。地面へ落下した魅魔の体へ覆い被さるようにし、珊瑚が左の手刀で奴の刀を叩き落す。肩先が悲鳴を上げ、どくり、と流れる血幅を広くさせたが、銀光一閃、彼奴の体を斬り裂こうとした時。
魅魔がその上半身を力任せに半回転させた。
「!」
珊瑚の目先に、薄い羽が(やいば)の如く掠め飛んで来る。思わず後ろへ体を逸らし、その羽を避けたつもりだったが、眉間の辺りに鈍い熱さを感じる。と、思うと、眼下に血飛沫が舞い散ったのが見えた。
がば、と魅魔が半身を起こし、珊瑚の身体を勢い良く振り落とす。其処へ空かさず今度は己が馬乗りになった。体勢を立て直した妖怪が己を縛る縄を断つ為に、その源を ――― 退治屋の、腕毎切り落とそうと、拾った刀を振り上げる。
妖怪の動きを察知した珊瑚は、右腕を庇うように背中を左へ捩り、その刃を回避した。
しゅっ、と音を立てて掠った先は。
退治屋の俊敏さについて行けず、魅魔は腕を切り落とすことには失敗したものの、その縄を仕込んだ肘甲を繋ぎ留める布を断ち切ることには成功していた。
「ちっ。」
舌打ちする珊瑚目掛け、再び彼奴が得物を振り下ろす。無論、珊瑚も刀でそれを受け止めた。切れた額から、するすると生温かいものが流れ落ちてくるのが、わかる。
「諦めろ、おまえに勝ち目は無い。」
「誰が決めたのさ、そんなことを!」
例え劣勢に立たされようとも、この娘が弱音を吐こう筈もなかった。仰向けになったままでありながらも、ぎらり、と敵を睨み返し、猶も強気な言葉を口に乗せる。
「我が、決めた!」
魅魔が叫んだかと思うと、がき、と珊瑚の刀を払い、先程己が噛み付いたその肩先へ、一気に刃先を突き立てた。
「あぅ…っ…!」
まだ血が止まっている筈も無いその傷へ、新たな痛みが刻まれる。
「受け入れろ。これが、現実だ。」
「誰が…っ!」
右手に掴んだ刀を強く握り、己の体を圧迫する妖魔の体を刺し貫こうと、閃光が弧を描く。しかし、そう思った時には、既に奴の羽がはためいているのだ。
(どうする…?)
ゆらり、と起き上がった珊瑚の左肩からは、止め処なく流れ行く、深紅の血流。
振り仰いだ魅魔の右手に握られるは、人間の血を充分に吸った刀。それが、太陽光を鈍く反射していた。毒ではなく、目眩ましだった先程の紫煙は()うに消えている。
防毒面を剥ぎ取りながら、活路を切り開こうと思いを廻らす、珊瑚。
(奴を、あたしの間合いに引き止めておかねば、勝機は無い…。)
易々と、あの羽を斬り落とさせてくれそうにはない。
頼みの綱の縄さえ、奴の足を止めることは出来ない。
――― かごめを、頼む ―――
犬夜叉と法師の声が、珊瑚の脳裏を掠める。
その言葉を頭から引き摺り出すように、額から落ちる血を無造作に拭い取った。
そうだ、あたしは約束した。
彼等と。そして、あたし自身と。
もう、誰も死なせはしない、と。
此処で奴を倒さなければ、次に襲われるのは、あの少女と、幼い狐妖。
(やってみるか…。)
一つ思いついていた策へ、決心を促す。
(どの道、此処でこいつを倒さぬ限り、あたしの命だとて繋がりはしないのだから。)
ならば。
懸けてみる。
己の、命運に。
「これで、終いだ!」
魅魔が、無防備な状態で立ち竦む珊瑚へと、上空から真っ逆さまに突っ込む。
珊瑚は、動かない。
その瞳には、奴の刀の先だけを宿していた。一寸たりとも見逃さぬ、獲物を狙うしなやかな獣のように。
ぐさり。
魅魔の手に、肉を突き刺す感触が伝わる。その瞬間、もしも餓鬼道における亡者が餌にありつくことがあるのなら、このような顔をするのだろう、と思わせる喜色な笑みを浮かべて。
しかし。
「嬉しいか、妖怪。」
そう、低く珊瑚が呟いたのと同時。
魅魔の首は、珊瑚の刀で左から右へと見事に串刺しにされていた。
笑みを張り付かせたままの魅魔の顔から、血の気が退いていく。
「き、さま…わざ、と…?」
ばしゅ、と音をさせ、珊瑚が刀身を魅魔から引き抜くと、勢いよく噴出する妖の血。それが、遠慮も無しに珊瑚の右腕を真っ赤に染めた。すると、妖魔は銀髪を靡かせ、仰向けに倒れて行く。
それを見送る珊瑚の左脇腹 ――― 其処に、妖刀が突き刺さっていた。
「お、愚かな…!」
珊瑚は、何も答えない。
「そうまでして…何を、守る…?(せい)、短き…人間、の、分際で…!」
其処で、魅魔の息は途絶えた。己の体を餌にしてまで戦ったこの娘を、信じ難いとでも言うように、か、と見開かれた目は珊瑚を捉えたままだった。
「…急所を避けて刺される芸当くらいは、出来るさ…。」
静かに言いながら、目を瞑り、腹部に突き立った刀を自分で抜いて見せた。
「…っ…!」
ば、と血が溢れ出る。いくら急所を外させたとは言え、浅い傷ではない。自分でも、それくらい、わかっている。
(愚か、か…。)
自嘲するように、彼奴の断末魔を繰り返す。
何を、守る。
何を、だと?知れたこと。失いたくないものを、に決まっている。
愚かでもなんでも、かまわない。
あたしは、あたしの遣り方で守りたいものを守る。
己の足元が、どす黒く染まって行くのを敢えて無視し、珊瑚はもと来た道を戻り始めた。







「急げ!弥勒!!」
「わかっている!!」
かごめ達と離れてから、一刻程は過ぎてしまっただろうか。思った以上に苦戦した二人だったが、ようやく斬魔と麓魔を倒し、かごめ達を逃がした方へ向かっていた。
「かごめ!」
「珊瑚!七宝!」
二人が仲間の名を呼びながら、行方を捜す。
三魔の実力を、少し侮っていた。珊瑚が一人で苦戦を強いられている筈である。一刻も早く、彼女達を見つけ出して加勢せねば。
己が傷などかまわずに全力で走る男達が、庵の辺りまで到達しようという時。
ふわ、と、かごめの匂い。
「かごめ!!」
庵の中に居たかごめ達にも、犬夜叉の声が届いた。
「犬夜叉!」
名を呼ばれた少女が、外へと飛び出す。
「かごめ、無事か!?」
「かごめさま!」
犬夜叉が彼女の両肩を掴み、その無事を確認する。
すると、犬夜叉と弥勒が到着したのを見届けた雲母が、疾風の如き速さで庵を飛び出し、木立ちの奥へ駆けて行った。足元に光焔を纏った姿で。
「き、雲母?」
自分の顔を掠め飛んで行った妖獣を見返る弥勒。
「!?珊瑚は!?」
弥勒が言うのと、ほぼ同時、
「珊瑚ちゃんが!犬夜叉、弥勒さま、珊瑚ちゃんを捜して!!」
かごめが、切羽詰った表情で二人へと叫ぶ。
「珊瑚がどうした!?」
「珊瑚はおら達を庇って、一人で魅魔を誘き寄せて…帰って来んのじゃ!」
七宝の言葉が終わらぬうちに、事態を悟った弥勒は既に走り出していた。
「く…っ!」
(雲母まで置いて行ったのか?空を飛ぶ魅魔相手に!)
雲母の消えた方向を追いながら、後悔の念が法師の胸を占める。これでは、苦戦どころの話ではない。まさか…。
「あの馬鹿珊瑚…!」
そう吐き捨てるように言いながら、犬夜叉も、かごめと七宝を背負い飛ぶが如く、走る。
「珊瑚!何処だ!返事をしなさい!!」
「珊瑚ちゃん!!」
しん、と静まり返った梢から降り注がれるのは、光、のみ。
鼓膜を震わせる源は、葉の擦れるざわめきと、己の足音、そして心音ばかり。
呼べども彼の人からの声は返らない。
しばらく走った彼等の目に、雲母がこちらへと飛来する姿が見えた。
「雲母!?」
妖獣が、雪白の体躯を彼等の前に着地させる。その背中には…
「珊瑚!!」
瞼を固く閉じた、血塗れの、珊瑚が居た。
弥勒が彼女の体を抱きかかえ、雲母から下ろす。
法師の濃紫に染められた袈裟が、彼女の血を吸い、みるみる赤黒く変色していく。
「しっかりしなさい!珊瑚!」
「珊瑚ちゃん!」
「珊瑚!!」
口々に、その名を呼ぶ。
あまりにも、出血が多い。その時、珊瑚がゆっくりと瞼を開いた。
「法、師…さま…?」
「珊瑚!気がつきましたか、無茶をして…!」
「かごめ、ちゃん、は…?」
弱々しい声で、かごめを捜す。
「あたしは無事よ!珊瑚ちゃん、此処に居るよ!」
下瞼に、ふるふると涙を溜めたかごめが、弥勒の腕に抱かれた珊瑚の顔を覗き込む。
「よか…っ…」
なんとか開かれていた双眸が、揺らめきながら再び閉じられて行く。
「犬夜叉、法師さま…あたし…ちゃんと、約束、守っ…」
其処まで言うと、珊瑚の首が、がくん、と弥勒の腕から滑り落ちた。仰け反った白い筈の喉元も、自らの血か、返り血なのか。肌を隠すように深紅に染められている。
「珊瑚!」
「珊瑚ちゃん!」
「早く手当てをせねば…!」
手遅れになる…自分の考えに背筋が冷たくなり、弥勒は其処までは声に出さなかった。否、出せなかったというのが正解か。
弥勒の…主・珊瑚の直ぐ傍で、忠実なる妖猫が『みぃ~』と、案ずるように鳴き声を上げていた。