SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



花咲く頃は遠く過ぎても



‐‐‐ 弐




楓の村に戻り、珊瑚の手当てを一通り行ったものの、二晩経っても彼女の意識は未だ戻らな い。またも廻って来た夜の闇が、珊瑚の目覚めを待つ者の不安を一層掻き立てる。
「珊瑚、このまま起きないなんてこと、ないじゃろな…。」
七宝が半べそを掻き、ぽつ、と言った。横になっている珊瑚を囲むような形で、四人は其処へ座していた。
「んなワケあるかッ!珊瑚がそう簡単に死んで堪るかよ。こいつの生命力は俺より強え!」
ぴりぴりと耳を立てた半妖の少年が、幼い狐妖へ怒鳴った。
「犬夜叉より強いかどうかは別として…確かに珊瑚の生命力は強い。必ず耐えてくれる筈です…。」
犬夜叉とは、珊瑚を挟んで向かい側に腰を下ろしている弥勒が、自分に言い聞かせるよう低く呟く。
珊瑚と初めて出逢った頃もそうだった。この娘の、生きよう、という強い意志に裏打ちされた生命力の強靭さを目の当たりにしたことが何度かある。今回だとて…。
「そうよ、珊瑚ちゃんが、こんなことで死んだりする筈ないもん…!」
珊瑚の額の汗を洗い立てのタオルで拭ってやりながら、かごめも断言する。
「わかったら、縁起でもねえこと言うんじゃねえぞ、七宝。」
まったく、とでも言いたげに腕を組んだ犬夜叉の科白に返って来たのは。
「…犬夜叉も弥勒も、珊瑚に頼り過ぎじゃ…!」
「え?」
急な七宝の物言いに、一同が聞き返す。
それまで珊瑚の青褪めた顔から視線を外そうとはしなかった弥勒が、其処で初めて顔を上げた。七宝が、堰を切ったように言葉をぶつける。
「珊瑚が強いのはわかっとる!じゃが、珊瑚はおなごじゃ!それを、危ない橋ばかり渡らせおって、誰が珊瑚を守るのじゃ!」
其処に集った誰もが言葉を失った。猶も苦言を口に乗せようとする七宝を止めたのは、弱々しい、しかし、その様子とは裏腹にしっかりとした意思の読み取れる女の声だった。
「やめろ、七宝…。」
一同の目が、床に就いた声の主へ吸い寄せられる。
「珊瑚ちゃん!」
「珊瑚!気が付いたのじゃな!!」
その彼女の枕辺で、み、と一声雲母が鳴いた。
「…自分の身くらい、自分で守れる…。」
珊瑚が、ゆっくりと瞼を開いていく。まだ苦しいのか、呼吸が幾らか早い。
「じゃが珊瑚!」
「あたしは…妖怪退治が生業だ…。なのに、頼りにされなくなったら、退治屋の長の娘としての名折れだよ…。」
薄氷をも砕けぬような小さき声は、反駁しようとする子狐を遮るのには、それでも充分な響きを保つ。
「じゃが、じゃが珊瑚…。」
七宝は、既に泣いていた。珊瑚は夜具の下から右腕を出し、七宝を自分の顔の近くに引き寄せる。
「大丈夫だ。あたしは死んだりしないから…奈落を討つまでは…だから、七宝。泣かなくていいよ…。」
苦しい息の下から、優しく珊瑚が言った。七宝は彼女の肩の辺りに取り縋り、しゃくり上げる。その子狐の頬の辺りに、それより更に小さい体をした妖猫が擦り寄って来て、ごろごろと喉を鳴らした。
「珊瑚…。」
犬夜叉が何か言おうとするが、その後が続かない。無論、かごめも同様である。弥勒は、沈黙を守ったまま珊瑚の言葉を聞いていた。
「珊瑚!」
急に、七宝が呼ぶ声。
「…心配するな。意識が休んでいるだけだ。」
弥勒がようやっと口を開く。珊瑚は、また気を失ったらしい。
「珊瑚ちゃん…約束、守るから、って。」
「あ?」
かごめの言葉に、犬夜叉が問い掛ける。かごめは、再び昏睡した珊瑚の青い顔を見つめながら、やり切れない表情で答える。
その大きな瞳が向けられた先には、傷口は塞がったものの、額に未だ色濃く残された斜めに走る裂傷が有った。
「弥勒さまと犬夜叉との約束…ちゃんとあたしを守るから心配するな、って…。」
「……。」
男二人が、無言で顔を見合わせた。
「あたし、地念児さんの所へ行って来る!」
「は!?」
唐突に立ち上がったかごめへ、またも犬夜叉が聞き返す。
「なんで地念児だ!?」
「だって、やっぱりあそこの薬草が一番効くと思うの。だから、分けて貰って来る!」
「今から?何考えてんだ、おまえは!」
「かごめさま、今時分動かれては危険です。それに、出来得る限りの薬湯も手当ても、楓さまが施して下さいましたし」
「だって、あたしだって珊瑚ちゃんを助けたい!」
「!」
一喝するような勢い(本人にその自覚は無いであろう)が、法師の言葉を少女が遮ってみせる。
「あたし、そりゃ、何時も守られてばかりだけど、こんなことしか出来ないけど…それでも珊瑚ちゃんの為に何かしたいの!」
「かごめさま…。」
必死になって訴える少女の気迫に、僧職に在る弥勒の方が気圧されていた。
頬に涙の道行きを記したままで、七宝が何事かを考えながらかごめの姿を見上げている。
「仕方ねえ。弥勒、珊瑚は任せたぜ。」
鉄砕牙を掴み、犬夜叉が腰を上げた。かごめがこうなってしまったら、利かぬ気であるのは皆知っている。しかも、珊瑚の一大事。決意に満ちたその顔は、最早誰に止められるものでもない。
「い、犬夜叉はいいわよ。弥勒さまと二人、怪我してるでしょ。あたし一人で」
慌てて言ったその声の途中へ、犬夜叉の乱暴なそれが割って入る。
「ばかやろう!おまえ一人で行って、どんだけ時間がかかると思ってんだ!第一この刻限に人間の女を一人歩きさせられるかっ。ったく、妖怪が時と場合を選んでくれると思うなよ!」
「わかりました。犬夜叉、かごめさま、薬草を頼みます。」
「犬夜叉…弥勒さま…。」
多分これは、あたしの我儘だ。珊瑚ちゃんの為に何かしたい、なんて、きっとあたしの自己満足にしか過ぎない。なのに、その我儘に二人は付き合ってくれると言うの?
「行くぞ、もたもたすんな!…ほんとに此処の女どもは、度胸が有り過ぎでいっ。却って世話がやけやがる。」
顰めっ面の犬夜叉が、ぶつらぶつらと言っている。
「それじゃ弥勒さま、直ぐ戻るわ!」
「七宝、弥勒がヘンなことしねえように見張ってんだぞ!」
「当然じゃ!」
頭を縦に、ぶん、と振ったその仕草が、黄金色の髪を揺らす。
「おまえ達…。」
お決まりの会話の後に続いた最後の法師の呟きは、犬夜叉とかごめの背中へは恐らく届かなかったであろう。







「犬夜叉、ごめんね。あんただって怪我してるのに…。」
弥勒等を残して地念児のもとへと向かうかごめは、犬夜叉の背で申し訳無さそうに呟く。
「けっ。これくらい、珊瑚に比べりゃどってこたぁねえよ。」
かごめに心配させまいと、そして何より強がりなその性格が、否定の言葉を吐かせる。しかし、傷が痛むのはまず間違いない。
「珊瑚ちゃん、無理してるのかな…?七宝ちゃんが言ったことって、ほんとのことよね。」
「……。」
それには、犬夜叉は答えなかった。珊瑚に無理をさせているのだとすれば、それは自分の所為、と思っていたから。何時も頼りにしてしまい、珊瑚を女として保護するようなことをせずに、これまで来てしまった。それだけの腕が、彼女には有る。しかし、改めて七宝に言われた先刻の言葉はあまりに図星過ぎ、肯定も否定も出来ぬまま、何も言い返せなかった。
そして、それに因りかごめが罪悪感を覚えることを何よりも恐れる己が居る。
「あたし、足手纏いで、珊瑚ちゃんの負担になってるかな…。」
予感的中。
犬夜叉は胸の内で、あの阿呆…、と七宝をほんの少しなじってみる。
そんなこたねえよ、と、犬夜叉が言おうとしたところで、かごめの方が先に続けた。
「あたし、弓の練習ちゃんとやる!まぐれなんかじゃなくて、一発で当てられるようになる。そうすれば、皆と一緒にもうちょっとは戦えるでしょ?」
前向きである。かなり、やる気満々である。その右手は拳まで握っているのだ。
(こいつは、なんでこんなに強えんだ?)
半ば呆れ、半ば尊敬の念をこめ、犬夜叉は思った。
「そりゃ、有り(がて)え。けどな、かごめ。」
「ん?」
表情の見えない彼の言葉に反応し、かごめが少々前のめりに頭を廻らす。
「誰も、おまえを足手纏いなんて思っちゃいねえ。大事な玉発見器だしな。」
「なんですってぇ!?」
ぐい、と異形の耳を思わず力任せに引っ張るかごめ。しかし、その犬夜叉は、文句を言っては来なかった。あれ、と彼女が怪訝に思ったその時、代わりに紡がれたのは。
「かごめが、玉と同様俺達を結び付けたんだろ。」
「え?」
意表をつく彼の真面目なものの言い方に、かごめが些か驚きの色を見せる。
「…おまえが居たから、此処まで来れたってことだよっ。」
「犬夜叉…。」
面倒臭そうながらも確かに口にした意外なその言葉に、かごめは己の頬が熱くなっていくのを自覚した。
「珊瑚だって、俺達との約束だけでかごめを守ったんじゃねえ。あいつがおまえを失いたくないと思ってこその行動だろ。」
珊瑚が重傷を負ったことへ責任逃れをするつもりではないが。
もしも、自分だったなら、きっとそう思うだろうから。
守りたい、と思ったものを守れなかった時の、恐怖に似た絶望。それを、嫌と言うほど知っているから。そんな思いを二度としない…したくない為に、少しばかり我を忘れて戦いに身を投じてしまう。同じ轍を踏まぬ為、人は、臆病になるか、無謀になるか。その、どちらかでしかない。
そして珊瑚の選んだ方は。
「それでもまだ、おまえが珊瑚達に負担かけたくねえって思うなら…かごめ、おまえは俺が守ってやるから、心配すんな。誰の負担にもさせやしねえ。」
この、甘い言葉など吐きそうにもない筈の、半妖の科白。ぶっきらぼうではあるけれど、犬夜叉の、今の、ありったけ。
かごめはきちんとそれを受け止めた。
「…かごめ?」
自分の背中に、彼女が顔を埋めてしまったのが伝わって来る。
「なんだよ、泣いてんのか?俺、なんか変なこと言ったか?」
「泣いてなんかないよ。ただ、嬉しいの。嬉しくて…ちょっと、こうしたくなっただけ。」
本当は、少しだけ、瞳が潤んでいるのが自分でもわかる。
それでも強がって。
ほんとの気持ちを伝えるのは、半分だけにしておこう。なんだかちょっと悔しいから。
「そんなことで嬉しいのか?ワケわかんねえな。」
へん、と鼻を鳴らして言い捨てたものの、僅かに困惑している心の臓が、ただでさえ血の気の多い犬妖の血液の廻りを早くさせた。それでも、山道を駆け抜けていく速度は些かも緩まない。
人を喜ばせようと思って言っている言葉なんかじゃないから、強く、あたしの心に響く。
真っ直ぐ、真ん中に。
それは、時には残酷過ぎて傷ついたこともあったけれど、そんな犬夜叉の言葉だからこそ信じていられるし、こんなにも、嬉しく思う。
犬夜叉の体温を伝えて来る、広い背中に背負われて。
(珊瑚ちゃん、ごめんね。)
こんな時に、なんだか不謹慎だと感じ、かごめは心の中で珊瑚にこっそり謝った。







犬夜叉とかごめが出掛けて行き、どれ程の時が経っただろうか。絶対に眠らずに珊瑚の看病をする、弥勒も見張る!、と言い張っていた子狐は、先程から軽い寝息を立てている。
「やれやれ…。」
弥勒は、珊瑚の肩の辺りに張り付いている七宝を引っぺがし、隣の床に寝かせ夜具を掛けてやる。口の中で何やら唱えるような、形にならない言葉が聞こえたが、弥勒が小さな頭をふうわりと撫でてやると、その呟きも直ぐに消えた。その枕許に雲母がやって来て、主と子狐の顔を見比べ、最後に法師の方を見遣ると背中を丸め、赤眼を瞑る。
まだ子供だ…当たり前のことを弥勒は思うが、先程の的を射た七宝の言い様も、また、その"子供"の言葉であり。
「そういうつもりではなかったのだが…。」
弥勒は一人ごちて、珊瑚の頬にかかる乱れた髪を払ってやる。彼の指先が触れた頬は、先程より赤みが差しているように感ぜられる。僅かだが、温かさも伝わって来た。どうやら峠は越したらしい。
(珊瑚を女扱いしてない訳がねえだろうが…。)
本来の言葉使いに戻り、先程言えなかった科白を心の内で呟いてみる。
(誰が、珊瑚を守るのだ、か…。)
生意気なことを、言いやがる。
少々感心しつつも、参ったな、と頭の後ろで回り続ける七宝と珊瑚の言葉を聞いていた。
――― 自分の身くらい、自分で守れる。
あの状態で、迷い無く言ってのける気丈な女。
それが、珊瑚。
己の心を掴んで離さない女、なのだ。
その時、ふ、と珊瑚の口から、寝言だろうか、言の葉が洩れた。
「ち、父上…琥珀…」
現れた言葉は、亡き父と、闇に囚われた弟の名。また、辛い夢を見ているのだろうか。弥勒は、己の胸さえ締めつける、珊瑚の頼りない声を聞いていた。
「駄目だ、そっちへ行っては…琥珀…!」
彼女の額に脂汗が薄っすらと滲む。
「助けて…、誰か…たす、け…」
閉じられたままの両の目尻から、涙の筋がそれぞれ一本ずつ、こめかみの方へ流れていった。
その右手は、"誰か"を探すように、(くう)へ差し伸べられる。
躊躇いもせず、否、無意識のうちに弥勒は彼女の手を両手で掴んでいた。体温の戻らぬ、ひんやりとしたその手を。
すると、安堵したかのように、珊瑚は再び安らかな寝息を立て始める。
――― この手は、誰?温かい、大きな手…この手をあたしは知っている…。
珊瑚は、意識の底で己に問うた。暗い、深い、漆黒の闇の中から自分を引き上げてくれる、この手は…。
弥勒も、自問していた。
この娘を、どうしたら救ってやれる?いや、救うなどとは、驕った言い様だ。ただ、楽にしてやりたい。この女の涙は、己の心さえも寂しいものに変えてしまうから。
柔らかく包んだ珊瑚の手を、弥勒は自分の口許へ持って行く。そして、その白く細い指先に、そっと接吻した刹那、珊瑚の瞼がゆっくりと開いた。自分が今何処に居るのかを確認するように瞳を泳がせた後、弥勒の姿を視界に映す。
「…法師さま…。」
力無く、珊瑚が言う。
そんな声にさえ力一杯抱き締めたくなる衝動に駆られるのを抑え、平静を装う、法師。
(子供に、理解出来る筈ねえよな…。)
心の内で、苦笑いをしながら溜め息を吐く。弥勒が、このような気持ちで先程の話を聞いていようとは、誰が想像しただろう?犬夜叉のように、七宝に気取られる程この男は幼くはない。
「気が付きましたか、珊瑚。」
極自然に、相も変わらぬ声色で発する、言葉。
「…かごめちゃんは?」
「犬夜叉と一緒に、薬草を採りに行きました。じき戻るでしょう。それより珊瑚、今は他人(ひと)の心配をしている時ではないぞ。」
「…法師さまだったんだ…手、握ってくれてたの…。」
法師の苦言には答えずに、ゆっくりと珊瑚が言葉を紡ぐ。何時もなら、間髪入れず振り払うであろうその手を、弥勒に委ねたままで。
「ああ、すまん。許せ、勝手なことをした。」
普段と違う珊瑚の反応に、つい殊勝なことを言ってしまった弥勒だが、離そうとした手は、言葉とは裏腹に握られたままであった。離せば、珊瑚が霧の如く掻き消えてしまうのではないか、という馬鹿げた感覚に捕われる。
「有り難う…。」
法師の思いは知らず、しかし彼の掌中に利き手を預けたままで珊瑚が言う。
「珊瑚?」
天井を、遠くを見つめたまま、珊瑚は続ける。
「嫌な夢を見て、た…。暗くて、怖くて…大事なものが、皆、暗がりへ消えて行って…」
口に乗せられるのは、微弱でか細い、声。
奈落に陥れられた、父や仲間達、そして琥珀のことを言っているのだろう。弥勒は、黙して彼女の話を聞いていた。こんな風に、普段弱みは見せない筈の彼女の言葉を。
「あたしも、堕ちそうになった…引っ張られて、闇に掴まりそうになって…その時、誰かがあたしを引き戻してくれたんだ…。」
其処で珊瑚は、法師の方に首を廻らす。
薄っすらと、ようやくそれとわかる程度に、笑んで。
「…それは、法師さまの手だったんだね…。」
囁くような、小さな声。
珍しくしおらしいことを言う珊瑚の両眼は、涙は止まっているものの、潤む瞳には未だその名残が留められている。弥勒に向けられたその表情は、寂しいような、嬉しいような、なんとも判別し難い切ないものだった。
(…怪我人でなければ、押し倒してるぞ、ばかやろう…。)
心の中で、弥勒はこの娘を非難する。当然、彼女が悪い訳でもあるまいに、とんでもないことを思う、この、緇衣と袈裟を纏った法師の筈の男。
「珊瑚、」
弥勒が何か言いかけると、まるでそれを言わせないかのように珊瑚が話を逸らしてみせた。
「法師さま、さっき七宝が言ったこと…気にしないで…。あの子、ちょっと心配性なだけ、 だからさ…。」
まだ、思うように唇を動かすには力が足りないのだろう。ゆっくりと、弱々しい声で珊瑚は言った。
ふぅ、と弥勒が溜め息を吐く。もっと甘えてくれよ、こんな時くらい…そう思って。
「珊瑚…おまえは勘違いをしている。」
「え…?」
真剣な面持ちで弥勒が珊瑚を見下ろし、言う。珊瑚の手は、彼の手に包まれたまま、温かさを取り戻し始めていた。
「珊瑚の実力は認めている。頼りにしているのも事実だ。故に誰かの身をおまえに護衛させることもある。しかしな、かごめさまを…誰かを守る為に、おまえが命を落としても良いということではないのだ。」
真摯な瞳で弥勒が珊瑚に言った声は、優しくもあったが、反論を許さぬ厳しさも含まれていた。
「珊瑚の命も、皆と等しく、大事なのだよ。」
「!」
確かに、自分は命を顧みず行動する時があるけれど。それは、死んでもいいと思っている訳ではないのだが…自分の命を、軽んじている…?
「生き残ってこその勝利だと、肝に銘じておけ。」
歯に衣着せぬ言い方で、弥勒はするりと核心に触れた。
無論それは、珊瑚にのみ遵守させるべき道なのではないが。
「あ、あたしは」
「あまり、私の肝を潰すようなことをしてくれるな、という意味です。」
最後に、にっこりと顔を綻ばせ、何時もの口調で付け足した。
「…法師さま…。」
法師の言わんとすることが、珊瑚の胸に突き刺さる。
命を賭して戦うことと、その果てにある生と。切り離して考えることも出来はしないが、この人は、言うのだ。
生きろ、と。
その指し示す意味が、今の珊瑚には、きりりと心の臓を締め付ける鎖となる。しかし、その痛みは幾らかの甘さを伴っており、それを決定付けるかのような言葉が弥勒の口から告げられた。
「まあ、これからも珊瑚を頼りにするのは変わらんでしょうな。しかし、一人で全部背負うのではないぞ。おまえが危険な時は…」
「え?」
「珊瑚は、私が守ります。」
彼女の細い指先を握る手に、少しだけ力を込めた弥勒の言葉は極、端的だった。
「…法師、さま…今、なんて…?」
何か、自分の心を突き動かすような、言葉を聞いた。ずっと避けていたくせに、本当は、欲しくて欲しくて堪らなかった言葉を。
誰かに守られて生きる人生など、まっぴらだと思っていた。なれど、止まぬ憧れを抱く少女の(さが)を捨て去ることも出来ずに。
その言葉の持つ本当の意味を、知り始めている。この法師(ひと)に、出逢ってから。
「このようなこと、何度も言わせるものではない。」
弥勒の拒否する言葉とは裏腹に、その左手が、珊瑚のこめかみの辺りに優しく触れる。
「だから、もうこんな風に泣いてくれるな…。」
珊瑚は、自分でも知らぬうちに、また落涙していた。その涙を拭うために伸ばされた弥勒の長い指が、真珠の如き粒を払う。
この涙を一人で流させたくはない。珊瑚が泣く姿は、自分の身さえ引き裂かれるような感覚に捕らわれる…。
「法師さま…。」
この人が、あたしを守ってくれる、と…?一人で泣かずとも良い、と?そう言ってくれたのか。
「あたし…あたし、は…」
なんと答えれば、いいの。
このように、自分を女として見てくれているこの男性(ひと)に、なんと返せばいいのだろう。
「嫌か…?」
弥勒は、珊瑚の涙を拭ったその指を、彼女の頬にかかる黒く艶やかな長い髪に絡ませる。
「ちが…」
「嫌だと言っても、無駄だけどな…。」
口端を少し上げ、柔らかな表情を頬に乗せる法師。
例え、この娘が自分に守られることを拒絶したとしても、弥勒に然したる影響はない。守るのは、この自分の勝手。そうしたいのだから、仕様がないのだ。
「あたし…こんな時、なんて言ったらいいか知らないんだ…。」
正直に、目を伏せた珊瑚が答える。僅かに桃色が差した頬は、顔色さえも良く見せた。
(あまり、可愛いことを言うなよな。)
想像外の彼女の言葉が、弥勒の苦笑を誘う。
怪我人を前にして、我ながら不謹慎だな、と思いつつも、この娘が愛しくて堪らない。普段は見せない、無防備な表情を見せられてしまったら、猶のことだ。
「何も言わなくていい…。」
横になったままの珊瑚の頬を弥勒の指先が包み、ゆっくりと彼の顔が、彼女の方へ近付いていく。抵抗する力も、今の珊瑚にはありはしなかったが、無論、彼女にも拒絶する意思はなかった。
瞼を閉じた珊瑚の、未だ赤みの戻らぬ唇に、弥勒の温かい唇が重なる。
ほんの一瞬だったけれど、二人は浅い接吻を交わした。
(まだ、唇が冷たい…。)
ようやっと初めて触れた想い人の唇は、彼女の気性とは裏腹、湖水に口づけたような冷ややかさであった。
こんな大怪我をしている女に手を出してしまった自責の念と、体温のない唇を温めてやりたい思いとが、弥勒の中で交錯する。
「法師さま…あったかいね…。」
そのような弥勒の心を見透かした訳でもないだろうが、珊瑚が小さく呟いた。
(…だから、女は魔物なんだ…。)
そうとは意識せずに、男の心を容易く煽ってしまうのだから。
それにしても、こんな風に何処かへ我を置き忘れて来たような、子供の恋の如き不器用さはなんなのだろう。自分はこれでも一端の大人であり、女とだとて何度褥を共にして来たことか。それなのに、この体たらく…。
「珊瑚、その唇、あっためてもいいか…?」
おいおい、そんなことを聞くなよおまえ、と自分でも心の内で失笑を禁じ得ない。
これではまるで、そんじょ其処らの子供(ガキ)ではないか。犬夜叉や、七宝のことは言えねえな…と、弥勒は自分自身に落胆する。が、まだ己にもこんな部分が残っていたことに、何故かほんの少し、くすぐったく思ったりもするのだが。
そんな彼の思惑を一蹴してしまうように、珊瑚が少し笑顔になって、小さく、こくりと頷いた。その可憐な態度に、弥勒も微笑を返す。
再び二人の唇が触れた時だった。
「はッ!いかん、寝てしもうた!!」
幼い狐妖が、珊瑚の隣の床から飛び起きた。
「弥勒っ!」
と、七宝が珊瑚の床の在る方を振り向く。
其処には、彼女の脇に胡座を掻き、座っている弥勒が居た。七宝が、眠りに落ちる前に見た光景と、寸分違わない。
「おはよう、七宝。」
ほんの少しの厭味を込めて、弥勒がにっこり笑って言った。
「おぬし、珊瑚に何もせんかったじゃろうな!」
「おまえも、起き抜けにお役目ご苦労、と言ったところですなぁ。」
「ええい、はぐらかすな!あ!珊瑚!!気が付いたんじゃな!?」
珊瑚が目を開けているのを認め、子狐が彼女の胸に取り縋る。その時既に、雲母が珊瑚の頬へごろごろと己の頭を摺り寄せていた。
「…ごめんね、七宝。心配かけて…」
まだ力の入らぬ声で、珊瑚が答える。
「良かったのぅ、珊瑚。もう安心じゃ!気分は悪うないか?顔色は随分良くなったようじゃぞ!」
彼女の朱の差した頬を見て、七宝が嬉しそうに言う。
「……。」
益々赤くなった珊瑚が、弥勒の方をちら、と見遣る。
(はは…。)
七宝にはわからぬように、弥勒も珊瑚へ苦笑いを返した。別段知られたからといって、不都合はないのだが、子供に見せるものでもない。ましてや、怪我人に手を出すなんて鬼畜、などと言い出しかねない輩が揃っている。
(危なかった…。)
一人呟く、弥勒であった。







「良かったのかよ、かごめ。止めなくて…。」
弥勒達の居る離れの前で、しゃがんだ犬夜叉が、小さく呟く。
「いいのよ、こういう時は…。」
なんとなく、珊瑚の気持ちには気付いていた。だから、薬草を貰って此処へ帰り着いた時、弥勒の行動を止めなかった。しかし、珊瑚が意識を取り戻した辺りから覗いていたと知ったら、二人はどんな顔をするだろう?
かごめが戸口の簾を勢いよく捲り、
「お待たせー!」
これまた勢いのいい声で中へ入る。
「お帰りなさい、かごめさま。犬夜叉。」
平然とした顔で、弥勒が迎えた。
「珊瑚ちゃん、気が付いた!?今、すんごく良く効く薬草、楓ばあちゃんに煎じて貰って来るから、待ってて!あ、こっちは傷口に貼るやつ。弥勒さま、はい!」
「え?ああ、はい。」
妙に元気のいい彼女から、薬草を手渡される弥勒。
(犬夜叉も、弥勒さまくらい甲斐性が…いやいや、積極的なら、ちょっと、嬉しいかな…。)
先程犬夜叉の背中で聞いた言葉は嬉しかったが、それだけでは何やらちょっと寂しくなった。
この二人を見てしまったから。
(贅沢だ、あたし。)
誰にも見咎められることなく、かごめは己の頬をぱち、と叩く。
あれほどの言葉を貰っておきながら、何不満言ってんだろ。あたしは、あたし達の恋をすればいい。他人と比べるなんて。あんな風に、気持ちを言葉にしてくれるだけで犬夜叉にとっては、大進歩なのだ。
二人きりで育んで行ける想いではなくなっているけれど。
今は、これでいい。犬夜叉が、自分を大事に思ってくれていることは、痛い程わかっている。
だから。
奈落を倒した後のことなんて、考えない。
この恋の、辿り着く先も。
今は、大好きな人と、大切な仲間に囲まれて、それだけで幸せだと思えるから。
かごめがそう心の内で呟いた時、朝陽が昇って来たのか、明かり取りの木格子の隙間を縫い、射し込んで来た光の筋が柔らかく小屋の中を照らした。
三日振りに、五人共が優しく感じられる朝陽であった。