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©2001 minato



幸知 -さち-



‐‐‐ 後




命運を告げる弥勒から逃れるように、犬夜叉は出鱈目に地を駆けていた。
出鱈目に、地を駆けていた ――― つもりだった。
しかし、辿り着いたのは、彼の井戸端で。
無意識のうちに足が向いていた自分に、幾らかの腹立たしさを禁じ得ない。
風穴の限界を聞かされた直後だってーのに、俺は"かごめ"か。
それでも、あの井戸から想う少女が現れる瞬間を、こんなにも待ち望んでいる。
「大切、ってったって、一体どうすりゃ…」
そう、いつもの仏頂面で言い掛けた時だった。
「はぁーっ、重っ。」
井戸の中から、少々くぐもった声が聞こえた。そして次に、よいしょ、という掛け声と共に井戸の口に細い指が掛かった。そうして現れたのは、奇妙な着物を纏った少女。その背中には大きな荷物が載っていた。
「…犬夜叉?」
予想外の姿を其処に見つけたかごめは、井戸から降りることも忘れ、その名を呼んだ。
何と言おうか、と思案していた犬夜叉であったが、その声を聞いた途端に全てのことが消し飛んでしまい、けれどそれに代わってある思考が胸を占領していく。
もしも、かごめが突然居なくなってしまったら?
もしも、かごめを残して己一人何処かへ旅立たねばならぬ日が来たら ――― ?
気の利いた言葉など、紡げる筈もなかった。
無言でこちらへ近付いて来る犬夜叉を見返しつつ、かごめは背から荷物を降ろした。
「何よ、これでも補習が終わったその足で井戸に飛び込んだんだからね。これ以上早く帰って来るなんて」
無理、と口にするよりも、犬夜叉が彼女を抱き締める方が早かった。
「……。」
抱き締める、と言うよりは、抱き付くと言った方が正しいような、雰囲気も何もない彼の為様であったけれど、それでもかごめが面食らうのには十分な行動であった。
「犬夜叉?ちょっと、どうしたの?」
「どうもしねぇっ。」
女の機嫌をとるには取り敢えず抱き締めておけばいい、なんて方法をどっかの馬鹿に教えられたのではあるまいかと一瞬思ったかごめであったけれど、どうやらそういう雰囲気ではなさそうである。いつものぶっきらぼうな声には、冗談では済ませることの出来ない切迫感が滲んでいた。
そうなると、かごめの胸裏に過ぎる不安。どきり、と波打つ心臓。
最悪な感情だとわかっていても、生まれて来る疑問を無視は出来ない。
まさか。
もしかして。
自分の居ない間に、桔梗と何かあったのだろうか ――― ?
けれど、その選択肢もかごめは半ば強引に打ち消した。
桔梗と何かあったなら、この半妖は自分にこんな風には触れられない…きっと。
ならば、何故彼は今このような行動に及んでいるのか。
かごめには、皆目見当がつかなかった。
「犬夜叉、」
「なんでもねーって言ってんだろ。」
それでも頑として解こうとはしない、彼の両腕。
「うん。なんでもないのね。」
「おう。なんでもねー。」
短い会話を交わし、かごめは追及を諦める。こういう時は、激しく突っ込んでも良いことはないと学習した。悪気も後ろめたさもなさそうなこの犬夜叉を、信じようと思った。
勿論、なんでもない訳などないのだろう。
そして、信じようとすればするほど湧き上がって来る厄介な猜疑心も、知っているけれど。
今は、女の勘、あたしの勘、ってやつを信じる。
犬夜叉の行動パターンなら、他の誰よりもあたしがわかってる。だから「これ」は、黙って抱き締め返しても大丈夫。きっと、そうするべきの筈。
早く帰る帰れないの喧嘩が曖昧になってしまっても、今回はそれでいいや。
我ながら甘いなぁと認めながらも、ふう、と軽く息を吐いた後、かごめは赤い衣の胸元へことり、と頭を預けた。そうすると、きつく寄せられていた犬夜叉の眉間が、少しずつ緩んでいく。
共に居る時に生まれるこの感情に、名があるのなら。
脈打つ鼓動が重なる今を、幸福と言うのなら。
傍に居て、守ると決めた。
会えなくなることなど、想像もしたくない。
ならば、一緒に居られなければ ――― それを不幸と、呼ぶのだろうか。







「弥勒は犬夜叉をちゃんと宥めておるだろうか?」
「さあ、どうだろうね。犬夜叉も強情だから。」
肩に雲母を乗せた珊瑚が、七宝の問い掛けに小首を傾げて答えた。しかし、その言葉とは裏腹、弥勒ならば抜かりはない、という信頼がその瞳に詰まっていることを七宝は知っていた。
晴れ渡った空の下、散歩がてら法師と犬妖を迎えに行く道すがら。
からからに渇いた畦道で、時たま出くわす大きな石ころを上手に避けながら、七宝は珊瑚の顔を見上げつつ歩いていた。
「…のぅ、珊瑚。珊瑚は弥勒が相手で幸せか?」
「え!?」
唐突な七宝の質問に、珊瑚は思わず素っ頓狂な声を上げた。驚いた雲母が、その細い肩から落っこちそうになったけれど、すんでのところで踏ん張った。
「七宝、いきなり何言ってんの?」
彼を見下ろして、平生通りそう言う珊瑚の頬は、幾らか色付いている。
「珊瑚は何れ弥勒と夫婦になるのじゃろ。あのような男で本当に良いのか?」
「良いのか、って言われても…」
あのような、ってどのような?とは訊き返さずともわかっている。こんな幼子からまで心配されるのは些か情けないが、あの法師に限っては自業自得であるから仕方あるまい。
腕組みをしながら、まるで大人のような顔付きで子狐は続けて呟いた。
「珊瑚の幸せは、弥勒次第じゃな…。」
「うーん。そうかなぁ?」
答を濁す珊瑚に物足りなさを感じつつも、真っ直ぐ前を見ている彼女の横顔を、七宝は美しいと思った。少し前まではなかった柔和さのようなものが加わった退治屋の面差しは、明らかに以前とは違って来ている。
其処で、みぃ、と雲母が一声鳴いた。見れば、いくつか畑を挟んだ向こう側に法師の姿が在った。土や緑といった自然の中に、ぽつんと浮かび上がる黒と濃紫の尊い色。
「あ、弥勒じゃ。犬夜叉は一緒ではないな。」
「ほんとだ…ん?」
珊瑚の左の眉が、ぴくりと上がったその訳は。
丁度、法師と擦れ違おうとする若い娘が居た。背中に籠を担いだその娘は、野良仕事へでも行くのか、帰りか。法師へ軽く会釈をし、その場を通り過ぎようかというところ ―――
弥勒はその村娘の手をしっかりと握って何事か話し掛けているではないか。
「やっぱり、早まったかも…。」
その場に立ち尽くし、こめかみに怒りを滲ませた珊瑚の声は、地の底から響いて来るかの如き重低音。
「こりゃ弥勒ーっ!」
すぱこーん、と法師の後頭部に改心の一撃を喰らわせたのは、目にも止まらぬ速さで駆けて来た七宝だった。
「おや七宝。痛いではありま」
振り返り、そう言い掛けた弥勒の表情が凍りつく。ふんっ、と胸を反らした子狐の背後には、愛しい未来の妻の姿が在ったから。
い、いつの間に、と驚愕しつつも、まずは弁解が先である。気を取り直し、弥勒は言った。
「珊瑚、誤解をするでない。この方の手が、畑仕事で」
「もうおらんぞ。」
「え。」
七宝のその言葉に、弥勒は辺りを見回してみる。
証人とも言うべきその娘は、ただならぬ雰囲気を察知してか、既にその場から煙のように消えていた。
「弥勒っ。おまえという男は、珊瑚という者が在りながら何をしておるっ。」
ぴょんぴょんと跳ねながら、右手を振り上げ七宝が抗議の声を上げる。
「私の言うことを信じないのですか。」
「信じんっ。」
即座に七宝が切り捨てた。後ろに立つ珊瑚にも異論はないらしい。
「まだ最後まで言ってもいないのに…。」
その独り言のような法師の呟きには、今度は珊瑚が返した。
「どーっせ、おや折角の美しい手が荒れてますなぁ薬草でも差し上げましょう、とかなんとか言って、握ってたんだろ。」
図星。
「珊瑚、本当にこやつに自分の人生の幸不幸を握られても良いのかっ。」
「…考えとくよ。」
さーっと風が一つ吹いた後、ひんやりとした空気が弥勒の周囲に纏わりつくけれど。
「ほう、珊瑚の幸不幸は私が握っているのですか。」
「当たり前じゃっ。」
「そのような重大事を左右出来るとは、私はなんとも光栄な男だ。」
満足そうな微笑を湛え、法師がゆっくりと言った。
「な、何言ってんのさ。」
余裕を取り戻した錫杖が、いつの間にやら珊瑚の隣で微かに音を奏でている。
…下がった筈の気温が少々上昇したように感じるのは、七宝の気の所為だろうか。
「で、犬夜叉は?」
「さぁて、な。」
話題をすり替えるような珊瑚の問いに、弥勒の方は普段の飄々とした表情で答える。
"そのつもり"で犬夜叉へ胸襟を開いた訳ではなかったが、それが良い方へ転んでくれればこの場は御の字だ。幾らかは仲直りの手助けが出来た筈との確信もあった。
その顔だと上手くいったんだね、とは珊瑚も口に出しはしなかった。その珊瑚と目を合わせ、ふ、と法師が再び微笑んだ。
「……。」
一人息巻いていた自分がなんだか阿呆らしく思えて来た七宝は、この二人を今どうにかするのは諦めることにした。そして、雲母ゆくぞ、と妖猫に声を掛けると、二人を置き去りにして、ぴょこぴょこと歩き出した。
法師と小袖の娘も、ゆっくりとそれに続く。
いい加減拗ねてはいない風ではあるものの、会話は途切れたまま。
弥勒は、それが当たり前とでも言うような極自然な動きで、隣を歩く珊瑚の右手をやんわりと掴まえた。
「珊瑚の手は、荒れておらぬか。」
「荒れてないよっ。」
「ならば良い。」
少し強い口調で返した珊瑚だったが、弥勒の手を払い除ける仕草は見せなかった。
持ち上げもせず、引き寄せもせず、ただ其処に重ねただけの互いの手を、離す理由は最早存在していない。
一人と一人の間に横たわる、近くて遠い僅かな空白という距離は、繋がることで埋められると、知ったから。
いいや、もしかしたら ――― 一時だけでも、誤魔化せると、気付いたから。
緇衣に包まれた左腕と小袖を纏った右腕が、合わせた歩調の波に揺れていた。
「珊瑚の幸不幸は、私が握っているのだな。」
「え?ああ、さっき七宝が言ったこと?」
「…光栄なことだ。」
「何回も言わなくていいよ。」
先程と同じ科白を繰り返す法師を、珊瑚が何処か恥ずかしそうに諌め遣る。
その様子を眺める弥勒は、己の胸裏に飛来する言の葉を、思わず口にしてしまいそうになり、慌ててその感情を振り払った。
珊瑚の焦燥を見たいのか?
彼女の苦悩する様子を確かめたいのか?
それとも、自分を哀れんで同情して欲しいのか?
けれど、そのどれも正解ではないのだと思った。
ただ、明るい顔をして嘘を吐くことに疲れてしまったのか ―――
ああ、それも違う。告げることが珊瑚にとって最良の方法だと自分自身が思えぬ限り、嘘などいくらでもいつまででも、吐き続けられよう。
偽りしか口にせぬ、道化師の如く。
おまえは理性派だから、と犬夜叉は言ったけれど。
ではその"理性"とは?俺の中の何処を指す?
こうして珊瑚と共に居る時、一人消えてゆかねばならぬ日を、彼女を遺してゆかねばならぬその日を、思い浮かべては…身も、心さえも、震えているのに。
珊瑚を幸せにすることも不幸せにすることも、弥勒次第と他人は言う。人ひとりの人生をその手に握り、幸も不幸も意のままだ、と。
それは何処か甘美な響きを持ち、男の体の中に充満していった。そのつもりはなくとも、見えぬ場所に確かに巣食う支配欲が、快感を伴い刺激されるのだ。
だが、それとは相反して襲って来る、ある種の精神的圧迫感。
何故なら、自分に未来はない。
将来を誓いながら、添い遂げることが出来ぬことへの煩悶。
確実に珊瑚へ与えてしまう、愛別離苦。
己の消滅の恐怖と、愛する者に降り注ぐであろう哀絶を思うと、発狂してしまった方が楽だとさえ感じる。なれど、今以てその兆しは見受けられぬまま。
それは、犬夜叉の言う所の理性というやつが、ぎりぎりのところで生きている所為なのか。
それでも俗人のように心は乱れる。
耐え難い別れが来るのなら、いっそこのまま珊瑚を連れて、自ら心の臓を止めてしまおうか?
そんな愚策さえこの頭を掠め行く。
置いて行くくらいなら、二人で ―――
そして結局は、そのような己の二乗根性にほとほとうんざりしてしまうのだ。
決して珊瑚を巻き添えにはしない、という気概こそが己の中で一番上等だった筈なのに。
改めて思うのは、誰かと共に生きることの難しさ。
他人の人生に関わってしまうような、出逢い。それはいとも容易くて、けれどその先はあまりに困難だ。
こんなちっぽけな自分が、意図するところではないにせよ、愛しき者を不幸せへと導こうとしている。
そう、こんな風に手を引いて…
「法師さま、そんなに気張らなくていいよ。」
不意に、珊瑚の声が発せられた。
「え?」
弥勒が己の左を見ると、珊瑚の切れ長の双眼がこちらの方を見上げていたが、直ぐに視線を前方へ返して彼女は言った。
「あたし、誰かに幸せにして貰おうなんて思ってないから。」
女の科白は、少々男の自負心を傷つけ、幾許かの落胆を植え付けるものだった。
「珊瑚、それは」
「二人で、幸せになればいい。」
単純な言葉で、珊瑚はそう告げた。
「幸せにするとかしないとか、そういうんじゃなくてさ。二人で作ろう。」
前を向いた珊瑚の通った鼻筋を見詰めたままの弥勒が返事を返せずにいると、
「ね?」
彼女は再び法師へ向き直り同意を求めた。
珊瑚を凝視し動きの止まった己の顔は、さぞかし阿呆面だっただろうと弥勒は思う。
「…おまえには、敵わんな。」
「なんで。」
想像していたのとはまるで違った返事を受け、珊瑚は眉間に一、二本の皺を寄せた。
「…いや。そうだな。珊瑚の言う通り、私はおまえに幸せにして貰おうか。」
「ちょっと。あたしの話聞いてた!?」
しれっと言い放った弥勒の左手をぶんぶんと上下に揺らし、珊瑚は柳眉を吊り上げる。
それには、はっはっはっと笑うばかりの弥勒に、己の発言はそんなに可笑しいものだったかと、急に恥ずかしさが込み上げて来る、珊瑚。
僅かに赤く染めた頬を法師から背け、彼女は唇を尖らせた。
「すまんすまん。馬鹿にした訳ではないのだ。」
「どーだかっ。」
法師の繕い事には取り合わず、珊瑚は機嫌を直さない。それでも、繋いだ手を離してはいなかった。
「相手のおなごが珊瑚でなければ不可能な良案だと思ったのだ。」
「…それって、褒めてるつもり?」
「褒めてるつもり。」
疑惑に満ちた表情で質す娘に、男はにっこり笑ってそう答えた。
それには、あっそう、と気のない返事を投げると、珊瑚は桃色の頬のままで前を向いた。
童の足にも追い越されそうな速度で並び歩く二人に、再び沈黙が生まれた時、珊瑚は弥勒の手を握る己の指先に、きゅ、と力を込めた。
彼は、何も言わなかった。
未来の話をしていても、常に付き纏う朧雲。いや、未来へ思いを馳せる分だけその灰色の雲は層を厚くして行くようにさえ思える。
そんな弱気は口には出せぬから、言葉にするのが怖いから、代わりにこの手が話し掛けてしまうのだ。
あたしの前から、消えたりしないで。絶対に ――― と。
そしてそれは、指の間から擦り抜けんとする法師の明日を、繋ぎ止めようとする行為にも似ていた。
「おまえと私の二人ならば、世一の幸福も作れよう。」
「…すっごい自信。」
「まぁ、な。」
珊瑚の心内の呼び掛けを受け取って、弥勒がすらりと軽口をたたいた。呆れたように返す珊瑚も、その手を握り返す弥勒も、今この時を噛み締めるように己の足元を見ながら歩き続ける。
何をどうしてでも彼を"此処"へ引き留める覚悟の珊瑚。
己の来日の行く末を知って猶、嘘となるであろう未来を語る、弥勒。
気付いてはいるのだ。お互いの抱える不安に。
だからそれを打ち消すように、繋がりを求め、安らぎを探す。
不毛な問答は必要なくて、この足の踏みしめる帰り道が少しでも長く続けばいいと、ただそれだけが望みだった。
歩を進めれば土煙が微かに上る、でこぼこの帰路。
この時期、空から次々と注がれた恵みの水も、口を大きく開けた大地が全て喰らい尽くした。雨など降ったのかと疑いたくなるほどに、水滴の影など微塵も見られない。それどころか、まだ足りぬと喉を鳴らしているかのように、硬い地表を晒している。
けれど果てなく広がる晴天は、もう終いとばかりに降雨の予兆など少しも空に匂わせてはいなかった。
「もう、雨も終わりかな。」
眩しそうに空を仰いだ珊瑚が呟いた。さらと吹いた風が珊瑚の頬を撫でる。
「ああ、そのようだ。」
降り注いだ雨という雨を大地が吸い尽くした後は、灼けるような夏の到来を待つばかりである。
辺りに散りばめられた光景は、今度こそ弥勒の読みも当たるだろう、と思わせるには十分なほど煌めいていて。
相変わらず、錫杖の鐶は一片の濁りもない清らかな声で歌っている。
いつの間にか、前を行く七宝と雲母とは随分と距離が開いてしまっていた。
その子狐と妖猫の尻尾が可愛らしく並んで揺れているのを視界に捉えながら、一つに結ばれた二つの掌は、それぞれの瞼の裏に映る明日の行方を握り締めていた。










自分の避け難い運命を変えてはくれぬからといって、
信ずる者全てが救われる世ではないからといって、
この袈裟を否定し脱ぎさるような直結思考には、疾うに別れを告げている。
そんな子供じみた逃避論には、いい加減飽き飽きだ。
けれど、もし。
もしも、()の人の腕の中で最期を迎えることが許されるのならば。
他には何も要らぬから、
死化粧は、体温の名残を留めたこの頬に落ちる、彼の人の涙。
そうして、これまでに味わった辛酸も懊悩も、
望んだ未来を成し得ぬことで自身の無力さを思い知り、
粉々に砕け散った金剛石の自尊心も、
誰にも知られぬよう、この身体に閉じ込めて、
彼の人の手で、土に還して貰えたら ―――
たったそれだけの、簡単なこと。
己は、何か特別なことを望んでいるだろうか?
この右手が在る限り、そのような平凡な眠りさえ儚い夢でしか在り得ぬとは ―――
それこそが、あの地獄という名の妖の最大の狙いなのではないかと思えて来る。

ああ。
どうか、聞き届けてはくれますまいか?
叶えられなかった数々の祈りに怨みを唱えること無く此処まで来た、我が声を。

あの女性(ひと)の、腕の中で目を瞑り、
還る場所は、風吹き渡り、瑞々しき緑溢るる、この大地 ―――

ああ。
本当は、貴方の答などわかっている。
ささやかな願いを叶える術は、もう、ないのだと。










B.G.M. <ピアス> TAKUI


傍目から見れば結構幸せそうな二人で、実際幸せな時もあったりして、でも持ってる荷物はまだあって…という微妙なほわほわじめじめ感を出したかった第一章。動的シーンが殆どない為、状況説明があまり要らず、書き易かったと言えば書き易かった、そんな話でした。
内容は、この話を書き始めるきっかけの一つとなったB.G.M.におんぶに抱っこ。残り二章もそんな感じですごめんなさい。
では、第一章、最後までお読み下さって有り難うございました。

2004.10.23