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©2001 minato



幸知 -さち-



‐‐‐ 前




欲しいものが手に入らぬからといって、八つ当たりをするような柄ではなかった。
我慢することを覚えたのも、その方が楽だったからだ。
手に入れて受け容れて、その先に何がある?
その先に、何が待つ?
その答を知っていたから、何も要らぬ顔をした。
決してやけっぱちになった訳ではない、と自分では思っている。
欲しい何かが手に入らずとも死ぬものではないし、生きていく上で何ら支障などありはしない。
それでは何故、此度は自らの思いに蓋をすることが出来なかったのか ――― ?


本当は、知っている。急いでしまった、その、理由(わけ)を。







外は、雨が降っていた。
夜明け近い刻限でありながら未だ暗く淀んだ雲が空一面を覆い尽くし、幼子がしくしくと泣いているような儚い水滴を落としている。
「止まぬものだな…。」
誰に言うともなく、窓際に佇んだ男が呟いた。
古惚けた粗末な、しかし安宿にしては上出来な明かり障子を細く開け、天と地へ交互にゆっくりと目を配る。この程度の雨ならば直ぐに上がるだろう、という彼の予想は外れたらしい。
「法師さまが天気を読み違えるなんて、珍しいね。」
「…起きていたのか。」
緇衣の袷も整えぬ、何処か気の抜けた風情の弥勒が、腕組みをしたまま静かに振り返った。
その視線の先には、珊瑚。
仰向けの状態から、丁度寝返りを打つように身体を動かし、腹這いになったところであった。
珊瑚の動きに引かれ、解かれた黒髪がさらさらと極小の音を零す。
「今、起きた。」
床にぺたりと右の頬を付け、目だけで弥勒を見上げながら珊瑚が言った。背中に掛けられた薄い寝具から、ほんの少しだけ白い肩先がのぞいている。
「雨、まだ止まないんだね。」
腹這いに寝そべり、小首を傾げるような姿勢のままの珊瑚が声を掛けた。その姿が、まるで母親に寝床からお伽噺をせがむ童のような仕草に見えたものだから、弥勒の頬は思わず緩んだ。しかし、故におまえは可愛らしい、などと告げればたちまち機嫌を損ねてしまうことがわかっているので、子供扱いへと繋がる科白は無論、伏せておく。
「だからあのまま、雲母に乗って帰れば良かったんだ。」
文句ではない、一つの選択肢としての言葉を珊瑚が口にした。今話題になった妖猫はと言えば、部屋の隅で小さな身体を丸め、くぁー、と時々欠伸をしては優雅にまどろんでいる。
「そうは言っても、それでは結構な時間雨に濡れていることになったであろう?」
「この程度の降りなら、別に全然平気だろ?」
何をそんな弱気な、とでも言いたげに、きょとんとした珊瑚の瞳が弥勒を見上げ続けていた。
「……。」
「なに?」
「…いや。」
無言で己を見詰め返して来た弥勒の視線を受け止めた珊瑚は、その視線の意味を素直な疑問として呈したのであったが、彼はまともな応えを寄越しはしなかった。
珊瑚も、そのことに関して深追いするつもりはない。彼女にとっては、よくある会話の流れの一つに過ぎなかったから。
内心呆れ顔だったのは、弥勒の方である。
(おまえを雨の下に晒しっぱなしにしておける訳がないだろう…。)
両の目を障子の向こうの雨へと移し、珊瑚には知れぬようこっそりと嘆息した。
女扱いをしなければそれなりに傷付き拗ねるくせに、いざそのような扱いをしてみれば、本人はまるで気付いておらぬ有り様なのだから、全く、男は報われないというものだ。
「そろそろ戻らないと。楓さまと七宝がきっと心配してるよ。」
ゆっくりと上半身を起こした珊瑚の肩口から、さらりと髪が零れ落ちる。明かりの射さぬ薄暗い部屋の中故に、その長髪に普段の艶を見て取ることは出来ないが、漆黒の流線はいつもとはまた違った趣を醸し出していた。
黒衣の男は緩慢な動作でその場へ胡座を掻くと、頼りない障子戸は避け板壁へと背を預けた。
「妖怪退治の後だ。これくらいの骨休めならば許されるであろう。」
髪を気にしつつ、蒲団の中から襦袢へと腕を伸ばす珊瑚の姿に見惚れながら、弥勒が容易く言ってのける。それはまぁそうだけどさ、と、珊瑚の背中が応答した。
他愛のない会話と、何気ない所作と。
たったそれだけの小さな出来事が、胸全てを満たす幸福となったのは、いつの頃からか。
なんでもない筈の日常を、愛おしいと感じるようになったのは、どの時からだったか。
それはもう覚えてはいないけれど、其処にいつもこの娘が居たことだけは、明白な事実として記憶に刻まれている。
この身がそんな感情に包まれる日が来ようとは、夢にも思っていなかったのだが。
無論、与えられた使命 ――― 否、課せられた宿命を忘れた訳ではない。奈落という魔の者を倒さねばならぬという思いは、日々深まるばかりだ。薄まることなど、決して有り得はしない。
ただ、その中で生まれた互いを求める確かな芽を、摘み取ることが出来なかった。
それは、己等の弱さ故なのか、それとも想いの強さ故なのか ――― それを決めるのさえも愚かしいと思えるほど、ただ単純に、他人を欲することがあるのだと知った。
穏やかな笑みを湛えた弥勒が、組んでいた腕を何気なく解くと、其処で聞き飽きた数珠の擦れる音が耳へと届いた。
「……。」
その腕をそっと下ろし、胡座の間で両の手指を組んだ。その上へ、黙ったまま視線を落とす。
吐き出したい溜息は、慣れた仕草で押し戻した。けれど、其処で予想外の行動が加えられる。
弥勒の視界に滑り込んで来た、夜目にも白いとわかる指先。
彼が気付いた時には、既に数珠の巻かれたその右腕は珊瑚の両の手に収まっていた。
自分のすぐ傍で膝を着いている娘に、全く気付いていなかった法師は、それでも驚いた様子もなく彼女の顔を見遣る。
「珊」
弥勒の呼び掛けを遮るように、珊瑚は両手で包んだ彼の右手をゆっくりと己の口許へと引き寄せた。手甲から伸びた指先に、柔らかな唇が触れる。
「きっと、大丈夫。」
幾許かの間を置いた後、弥勒の右手に唇を乗せたまま、珊瑚がぽつりと言った。
それは正に、清澄な祈りを捧げる聖母の姿。
「……。」
その華奢な左右の手で自分よりも大きな弥勒の右手を包んだまま、次に彼女はそれを己の頬へと持って行った。手甲の布地越しにも、珊瑚の頬の温度が弥勒へ伝わって来る。
「きっと、大丈夫。」
両の瞼を閉じ、再び呪文を唱える珊瑚。彼女から視線を外せぬ弥勒の両眼には、珊瑚の長い睫毛が映し出されていた。その睫毛の些細な揺れさえ、一寸たりとも見逃さずに。
「…本当は、いつから起きていた。」
「だから、今さっき。」
目を瞑ったままで、珊瑚は弥勒の疑いを否定してみせた。
「嘘が下手だな、おまえは。」
「あたしは、嘘なんか吐かない。」
きゅ、と握る指先に力を込めて。
「だから、絶対、」
「大丈夫、か?」
「そうだよっ。」
立ち膝の姿勢の珊瑚が、今度はその意思ある両目を開き、些か睨むように弥勒を見上げて寄越した。此処でにっこり笑顔を放って来ない辺りが、如何にもこの娘らしいと法師は思う。その彼女らしい励まし方に、思わず和んでいる自分を知っている。
「…わかっているから。」
柔らかな声で、弥勒が応えた。目を細め、珊瑚を見詰め返す。その正真正銘の法師の微笑に、すぅ、と珊瑚の顔から険しい色が消えて行った。すると、娘は惜しげもなく男の手を離し、
「さて、じゃあそろそろ帰る準備をしなくちゃね。」
などと、満足そうに立ち上がる。
がくーと倒れ込むのは、弥勒。
「こう、もう少し余韻とか何か…」
「何か言った?」
部屋の隅で以て襦袢の上に小袖を羽織りながら、珊瑚が振り返りもせずに訊き返す。
「いいえー。」
力なく言葉を返した後、弥勒は声も立てず苦笑した。小さな文句を垂れつつも、それさえも楽しいと思える自分が、何やら可愛らしい生き物に思えて来て仕方がなかった。
そうした中で、呼び戻される、現実。
(あと、一度…か…。)
憶測でしかない、けれど確信に限りなく近い、不確かな感覚。
「法師さま、夜が明け切る前に帰らないと。」
身形を整え、濃紫の袈裟を抱え上げた珊瑚が、その法衣を差し出しながら弥勒へと呼び掛ける。彼女の足元に陣取るのは、すっかり目が覚めたらしい、雲母。
「ああ、そうだな。」
弥勒は落ち着いた声音で返事をし、もう一度外の景色を見遣った。雨は、今も細く弱く降り続いている。
名残惜しげに其処から視線を剥がした弥勒は、珊瑚の体温を未だ忘れていない右の指先で、すたん、と静かに障子を閉めた。







「…鬱陶しい。」
子狐の溜息は、一体何度目だろう。
「ああ!?誰のことだっ!」
「自覚してないんだ?」
「それは人生、生き易くて羨ましい。」
憤慨して立ち上がった犬夜叉へ、珊瑚と弥勒が追い討ちを掛けた。
「やかましいーッ!」
「やかましいのは自分じゃ。」
ごつん。
ぽつりと言った七宝に、とうとう拳骨という名の雷が落ちた。当然、その落とし主は犬夜叉。七宝は、わーんおらにあたるなー、と珊瑚へ跳び付いた。犬夜叉の方はと言えば、ふんっ、と鼻息も荒くそっぽを向いている。
他所から依頼された妖怪退治を終えた弥勒と珊瑚、雲母が楓の庵へと戻ってみると、かごめの帰郷に同行した筈の犬夜叉の姿が其処に在った。早過ぎるその帰宅は、無論、かごめを伴ったものではない。
"向こう"で喧嘩をした為に、犬夜叉が一人で先に帰って来たということは確かめずとも誰の目にも明らかだった。
苛々とした雰囲気を周囲へ撒き散らし、文字通り居ても立ってもいられぬ様子で、立ったり座ったりを繰り返し、落ち着きのないことこの上ない。
よくある事象とは言え、それがもう二日も続いているのだから、いい加減七宝が痺れを切らして文句をつけたとしても、それを咎めるのは酷と言えよう。
「そんなに気になるのなら、もう一度向こうへ行って来れば良いのじゃ。」
「気になんかならねぇっ!」
まだぶつぶつと言っている七宝を、ぎらりと犬夜叉が睨んだ。ひー、と珊瑚の膝にしがみ付く、七宝。その子狐の頭のコブをよしよしと撫でながら、犬夜叉の鋭い眼光には全く動じない珊瑚が言う。
「でも、会いたいんだろ?」
「あっ、会いたくなんか…っ」
「ないのか?」
珊瑚が追い込んだ犬夜叉へ、弥勒の放ったとどめが刺さった。犬夜叉は、言葉が出ない。
「行って、謝って来なよ。」
ふぅ、と小さな息を吐きながら珊瑚が提案してみせる。
「…なんで俺が悪いと決めてかかる。」
「では、かごめさまが悪いので?」
弥勒が、犬夜叉の質問に質問で返す。犬妖を除く此処に居る全員が、そんな訳はないだろう、という顔をしていた。何より、言い返せずにいる犬夜叉が全てを物語っている。
「うううううるせぇ!俺は謝らねーッ!」
一声吠えると、犬夜叉は銀髪を翻して小屋の簾を勢い良く潜り、あっという間に皆の視界から消えて行った。
「素直じゃないね。」
「素直じゃないのぅ。」
珊瑚と七宝が顔を見合わせている横で、雲母が呆れたように欠伸をしている。
「…全く、平和じゃのぅ。」
それまで若者達の遣り取りを黙って見守っていた楓が、茶をすすりながらしみじみと言った。







犬夜叉は、己が一身に非難を浴びた小屋から些か離れた樫の大木の枝に、どっかりと陣取っていた。
空は蒼く視界は良好、腹はふくれて邪気もない。数少ない心穏やかに過ごせるひとときの条件が並んでいる。唯一つを、除いては。
けっ、と辺りを憚らず悪態を吐くと、彼は朱色の袖を翻し、頭の後ろに両腕を組んだ。其処へ近付いて来る、聞き慣れた清涼な音色。あれは、法具の鐶の音。
「頭を冷やしているとは、殊勝な心掛けだな。」
「…誰が。」
下方から投げられた声には一瞥もくれず、犬夜叉は一言だけ返す。
聳え立つ樫を見上げつつ、弥勒は溜息を吐いた。
「ひとの足元で溜息吐くな。気分わりぃ。」
どうやら、彼の半妖の機嫌の悪さは絶頂にあるらしい。損な役回りだ、と弥勒は胸裏で思うけれど、かごめが居ない以上諌め役は己であると心得ている。
「かごめさまと一時も離れていたくないというおまえの気持ちもわからんではないが、かごめさまにとて故郷での都合というものがあろう。それを理解して差し上げねば、いつまでも同じ諍いを繰り返すばかりで進歩は望めぬぞ。」
いちいち理に適っている説教に、犬夜叉は無言を通した。喧嘩の原因なぞ話してもおらぬのに、すっかりお見通しである法師の慧眼も少々煩わしい。尤も、この法師に限らず皆が同じ予測でいるのであろうが。そう考えると、益々胸が悪くなる。
「じゃあおめぇは珊瑚が離れちまっても平静でいられっか。あいつの全てを理解してんのか。」
「努力は惜しんでおらぬつもりだが。」
意地の悪い犬夜叉の質問にも、弥勒は淀みなくすらりと答えて見せた。その泰然たる答えっぷりが、全く以て気に気に障る。しかし、枝上を見上げていた彼の視線が、一瞬遠くを見るように彷徨ったことを犬夜叉は見逃していた。
「おめーみてぇに理性派じゃないんでな、俺は。」
自棄になっている訳でもないが、些か拗けた科白を犬夜叉が口にする。すると今度は、弥勒が黙した。
てっきり小難しい論法で言い返して来るだろうと思っていた犬夜叉は、その空白に違和感を覚え、頭をひょいと起こし地上へと目を落とした。けれど、其処に佇む法師の表情は、見えない。
まぁいっか、と再び樫の幹へ半身を預けたところで弥勒の声が聞こえた。
「…おまえは、好いたおなごを大切にしろ。」
静かに言った弥勒の言葉に、犬夜叉は今一度頭を起こした。
「…おまえ"は"、って、なんだよ…?」
「……。」
平生、微妙な言い回しなどは気にも止めぬ犬妖であったが、この時ばかりは心に深く引っ掛かったその科白を聞き流すことが出来なかった。
「どういう意味だ。弥勒、おめぇ自身は」
「犬夜叉。」
訝しげな声音で放たれた犬夜叉の問いを遮るが如く、弥勒が強く彼の名を呼んだ。
思わず零してしまった己の言葉に弥勒は少々後悔していたが、最早撤回は不可能。ならば今がその時であるのだと自身に言い聞かせた。
「珊瑚の、力になってやってくれ。」
ざざざっ、と枝が揺れ木の葉が擦れる音。その音と共に、弥勒の頭上から朱の一塊が降って来る。眼前へ鮮やかに舞い降りた半妖の鋭視が、己を射抜くように見据えていた。
「…何言ってやがる?意味がわからねぇ。」
「珊瑚の手助けをしてやって欲しいと言っている。おまえに。」
一触即発の危うさを持って、静かに会話は続けられてゆく。
弥勒は、何故このようなことを言うのか。
思い当たることは、たった一つ。出逢った頃からずっとずっと影のように付き纏って来た、呪縛。
「ふざけんな。てめぇの女ぐらいてめぇで面倒みやがれっ。」
足早に脈打ち始めた鼓動をひた隠し、犬夜叉は吐き捨てた。覚悟はしていたつもりの核心から、逃れるように。
「だから、私の力が及ばぬようになった後の話だ。」
隠し切れない犬夜叉の狼狽を読み取って猶、弥勒は容赦なく言を継いだ。
「風穴の限界だ、犬夜叉。」
耳を塞いでしまいたい事実が告げられ、犬夜叉は瞠目する。直ぐには、言葉が出なかった。灰黄色に翳ってしまった両眼には、いつもと寸分違わぬ様子の法師が映し出されていた。
「私自身を飲み込む時は、近いうちに訪れるであろう。」
「な、何を…」
途轍もない重大事をまるで他人事のように口にする法師の落ち着き様に、犬夜叉はたったそれだけを絞り出す。
「もしくは、今一度己の意思で風穴を開いた時。それが最後だろう。これだけ大きくなった風を自ら解放すれば、再び封じ込めるだけの力はもうこの世には存在せん。」
「そんなこと、わかんね」
「わかるのだ、犬夜叉。私の父も、そうであったように。」
異を唱える犬夜叉を、弥勒が静かに断じた。あくまで普段とは変わらぬ声音だったけれど、その顔に笑みはなかった。
どのようなからくりで、その風の咆哮が聞こえて来るのかはわからない。他人からすれば、ただの思い込みだと一蹴されてしまうかもしれぬ曖昧さ。だが、それでも否定出来ない確実性を持って、本人にのみ響いて来る ――― 足音。
それが、此処のところ毎日のように弥勒の耳元で踵を鳴らしていた。これはもう、"いつものこと"で済まされる範囲のものではない、と、どんなに愚鈍な者であっても、気付く。
先日の晩 ――― 珊瑚と妖怪退治に出向き、雨に道を塞がれ宿を取ったあの夜も、風の足音は眠りに落ちた筈の弥勒を執拗に苛んだ。
体温で温まった蒲団を抜け出し、まだ陽の昇らぬ真っ暗な窓の傍で、己の利き腕をどれほどの時間眺めていたのだろう。降り続ける雨の音にも、全く気付かずに。
そして、きっとその光景を珊瑚は見ていたのだ。
ただ、黙って。
朝陽が顔をのぞかせるのを、じっと待つように。
けれどその珊瑚でも、弥勒の中で生じた絶望的な異変には、気付いてはおらぬだろう。
「故に、」
「やだね。」
今度は、犬妖が法師の科白を断ち切る番だった。
「冗談じゃねーぞ、てめぇ。此処まで来て途中で降りようってのか?そんなの俺は認めねえっ。」
瞳の奥に炎が見えるのではないかと思える激しさで、犬夜叉は弥勒を睨みつけた。
「認めないと言われても」
「珊瑚は知ってんのか?」
「……。」
犬夜叉の狼狽も反駁も、表情を変えずに全て受け止めて来た弥勒が、初めて其処で目を逸らした。思った通り、珊瑚には何も知らされていないらしい。そういう男だと、わかっているけれど。
弥勒の所為ではないと、頭では理解しているのだ。彼が、旅の途中で行先を変えてしまうことが。
変えざるを得ないことが。
それでもどうしても納得がいかない。
弥勒が、居なくなる?
珊瑚には、何の前触れもない唐突な別れとして?
怒りにも似たその思いは弥勒本人へと向けられ、激情の赴くままに、犬夜叉は彼へと掴み掛かっていた。その拍子に錫杖が法師の手から離れ、がしゃり、と音を立て地へ転がった。
「おまえは女を大事にしろ?自分に出来ないからって、俺で叶えようとしてんじゃねえぞ!俺もかごめも、てめーと珊瑚の代理じゃねえんだ!」
情けを含まぬ犬夜叉の叱責が、弥勒へと浴びせられる。
「珊瑚が大事なんだろ!だから言わねえんだろ!?其処まで惚れた女を他の男に頼むなんざ恥ずかしいとは思わねーのか、情けねえッ!」
牙も顕わに一気に捲くし立てた次の瞬間、法衣を乱暴に掴んでいた犬夜叉の両腕に、他者の力が加えられた。
「ならばおまえに…っ」
弥勒の胸座を掴んでいた犬夜叉の腕が、ぎりぎりと締め付けられ、徐々に黒い襟元から遠避けられて行く。
「ならばおまえに、惚れた女を他人へ託すしか道のない俺の気持ちがわかるか!?」
何者の反問も許さぬような、頑硬な声音、面。
弥勒が、一糸纏わぬ本音を犬夜叉へと叩き付けた。
これまでに見たこともない弥勒の峻烈な様相に、犬夜叉は改めて愕然とするしかなかった。
事実、なのだ。
弥勒が、近く消えてしまうことも。
弥勒が、何よりも珊瑚を愛しく思っていることも。
自分とかごめの仲違いを、心の底から憂えていることも。
別れねばならぬ自らの命運を、知っているから ――― おまえは、惚れた女(かごめ)を大切にしろ、と。
犬夜叉の両腕を完全に払い除けた後、冷静さを取り戻した弥勒が言った。
「珊瑚には、やるべきことが未だ残されている。無論、おまえにも。故に、私が居なくなった後、あいつの道行きに手を貸してやれるのは、犬夜叉。おまえしかおらぬのだ。」
奈落という魔を討ち果たし、弟琥珀を取り戻す。それは、長き険路となるだろう。自分がこの世に在るうちに叶えることは、既に無理な願いであると悟っている。その無念さなど、言葉で表せるものではない。
わかるか、と犬夜叉へは問うたけれど、わかろう筈もないことを法師は承知していた。勿論、わかって欲しい訳でもなかった。このような残心など知らぬ人生の方が良いに決まっているのだから。
「おまえが…」
弥勒に気圧され、口を噤んでいた犬夜叉が其処でようやく声を発した。
「おまえが守れよ。琥珀を取り戻すまで…!」
駄々を捏ねる子供と同じく、犬夜叉は己の意見を曲げはしなかった。
これほど言っても、まだわからぬか。
弥勒は、嘆息するしかなかった。
「その日まで守りたくとも、私には時が足りぬ。」
「なんとかしろ、それくらいっ!」
「それくらい、って、おまえ、」
「根性と気合で、どうにか凌げんだろっ!」
「……。」
血管が浮き出るほどの握り拳を掲げた犬夜叉は、どうやら本気らしかった。聞き分けのない相手に対する怒りを通り越し、呆気に取られる、弥勒。
意気込んで前のめりになっていた己の熱さに気付いた犬夜叉は、その拳を解くと、すっと胸を反らした。そうして唐突に後方へ方向転換をし、
「…俺だって、珊瑚の泣くとこなんて見たかねーんだ。」
銀糸の髪に覆われた背中が、そう言った。
何処か怒ったような口振りで。
ただ、この法師にもっと生きて欲しい。たったそれだけが、素直に言えなかった。
珊瑚だけではない、きっと。かごめも泣くだろう。法師に懐いているあの幼い妖狐も。そして、もしかしたら、涙など似合わぬこの自分さえも。
「犬夜叉…礼を、言う。」
言葉足らずのこの半妖の、乱暴な物言い。その零れた欠片から全てを酌むのは、弥勒にとって最早困難なことではなくなっていた。
「俺は承知してねぇっ。」
振り返る素振りは、爪の先ほども見られない。
それでも、弥勒の頬には柔和な笑みが戻っていた。そうとは知らぬ犬夜叉は、やはり怒気を含んだ声色で、俺は絶対請け負わねー、と言い置いてから盛大に地を蹴った。
飛ぶが如くを地で行く跳躍で以て、これ以上の会話は御免とばかりに勢い良く走り去って行く。その、小さくなっていく朱色の背に向かい、強情な…と一言嘆いた後。
「…有り難う。」
瞑目した弥勒が、呟くように再び礼を口にした。足元には、物言わぬ錫杖が横たわったままだった。