キタカゼ と タイヨウ
‐‐‐ 後
問題の魔の山へ足を踏み入れると、急降下した気温が肌へと伝播されて来る。
それは妖気や邪気という悪意に満ちた冷気ではなく、自然が齎す純粋な恵。全てを枯らそうとしているような強烈な日光にも負けぬ梢が、心地良い日陰を提供してくれている。
そして、その隙間を縫い零れて来る日差しの欠片達は、まるで別の空から降りて来たのではないかと思わせるほど、穏やかなものへと形を変えていた。
物の怪退治の一行が山道を登り来る途中、人っ子一人、擦れ違うことはなかった。
悪い噂が広まっている所為か、やはり此処へ入山して来る羇旅の数は大分減少しているらしい。さぞかし魔物どもは腹を空かせていることであろう。
折りしも陽は翳り始め、逢う魔が刻と言われる頃合である。これ以上の条件はない。
「何処に居やがる、人喰い妖怪はっ。」
「そう焦らずとも人の匂いを嗅ぎ付ければ直ぐに姿を現して来る。」
ひくひくと鼻を鳴らす犬夜叉を、弥勒が静かに窘めた。
先頭は、肩に七宝を乗せた犬夜叉と、かごめ。その後ろには弥勒。そしてその半歩下がったところに、小春。更にその後方、しんがりには珊瑚と雲母が控えている。
普段であらば、弥勒の肩に陣取るところである七宝が、今は自ら犬妖の方へと居場所を移していた。
避けられているのか、もしくは、嫌われてしまったか ―――
弥勒は、前方に在る豊かな黄金色の尻尾を視界に宿す。
先刻は、別に嘘誤魔化しを述べた訳ではなかったのであるが。
面白いことを言う、と思ったのとて、逃げ口上ではなく真実で。
呼称がその存在の価値的上位を決めるのだと言うのであらば、敬称を付けている方をこそ特別なのだと判断する方が自然なのではないか、というのが弥勒の考えであったのだが、どうやらそう言い切れたものでもないらしい。まこと、人の思考というのは千差万別で興味深いことこの上ない。
とは言え。
男女の枠を取っ払えば犬夜叉や七宝は勿論、はたまた其処彼処で出会う村娘にだとて、己はそうそう"さま"など付けてはおらぬ…と自覚していたのだが、他人はそう見てくれてはいなかったようだ。
身分的差別ではなく区別として、それなりの地位にある者には敬意を払い、敬称も付けようが。その理に基づいて言うならば、小春と珊瑚は ――― 同じ、存在。
(七宝が、そんな意味での"特別"を言ってるんじゃねぇってのはわかるけどよ…。)
弥勒は、誰にも悟られぬよう、こっそりと極小の溜め息を吐いた。
かごめは、確かに特別であるのだ。
見も知らぬ世界から来訪し、常人にはない…修行を積んだ弥勒にさえ得られぬ摩訶不思議な力を秘めている。それだけで、彼にとっては充分別格なのである。
かごめは弥勒の中の尊貴に属する人間で、そういった意味では桔梗とて楓とて同様で。
男だとか女だとか、そのようなことは全く以て関係がなかった。
そして、その時点で引かれている ――― 一線。
心を隔離し、距離を取っているというつもりは弥勒にもないが、それでもやはり、負ではなく正の薄い壁が生まれているのは、事実。腐れても身体の最奥に根を張っている感覚は、法師としての己の立場を忘れさせることなど、ありはしなかった。
けれど、珊瑚は。
(説明なんて、してやれるかよ…。)
弥勒は、其処でまた一つ嘆息する。勿論、皆には気付かれぬ程度に。
――― 珊瑚は、一人の少女として現れた。
何か特別な力を持った者でもなく、何かを冠した者でもなく。
己にとり、彼女は生身の身体でもがき苦しみ、それでも這い上がろうとする、"普通の"少女。
その、何も持たぬ腕一つで懸命に生きる、一人の娘としか己の目には映らない。
勇猛果敢な退治屋の手練だとかいう、その名を飾る言葉など、どうでも良かった。
そんな通り名めいたものを以てしても、珊瑚の本質を隠すことなど不可能なのだ。
退治屋の、珊瑚。
勇ましい、珊瑚。
強い、珊瑚。
無論、それを否定はしない。彼女の有能さは、これまで共にした旅の中で、己が一番理解している。
けれど、彼女の名に付くそのどれもが ―――
余計な修飾など要らぬ、ただの、珊瑚。
己にとって、珊瑚は、ただの ―――
其処で、かごめが唐突に悲鳴を上げた。
「きゃーっ!」
「どうしたかごめっ!」
犬夜叉、弥勒、珊瑚が瞬時に身構える。次にかごめの口から発せられたのは。
「か…っ、蛙ぅー…っ!」
「あ゛?」
かごめが右手で覆った顔を背けたのとは、反対の方角を、彼女の左手が指差している。
その指先に導かれ、一同がそちらへ視線を走らせると、ちょろちょろと流れる岩清水があり、其処にあまり可愛らしいとは言えない図体の蛙がふてぶてしい表情を晒してこちらを見ていた。
「なんでぇ、ただの蛙」
犬夜叉が言い掛けると、げこ、げこ、と瞬く間に大合唱が広がり始める。そしてそれと共に、びょん、びょん、と…
「って、多過ぎじゃぁー!」
今度は七宝の悲鳴が上がった。
一見しただけでは気付かなかった数多の蛙が、雫を乗せた葉陰から、そして岩の割れ目から、飛び出して来たのである。
つやつやとした葉色の緑を携えた者と、地に紛れそうな土色を纏った者。そのどちらの表皮も、不気味にぼこぼことした盛り上がりが目立つ。何があっても触りたくはない部類だ。しかも、でかい。
「ぃいやぁーッ!」
生理的に我慢ならないその襲来に、かごめは涙目で叫び声を上げていた。
無理もない。大口を開けたそのような輩達が、自分目掛け、とんでもない跳躍力で迫って来るのだから泣きたくもなるというものだ。
「こいつら、喰う気満々じゃねぇかっ!」
其処に妖気を感じ取った犬夜叉は、ばきりと伸ばされた爪牙を操り、自身とかごめへ向かって来る蛙の大群を薙ぎ払う。
「これが魔物の正体ですかねぇ。」
些かのんびりとした口調の弥勒は錫杖を、無言の珊瑚は飛来骨を手に、二人の間に挟まれた格好の小春を庇うように立ち回っていた。
すると其処へ、予告もなく耳障りな濁声が割り込んで来る。
「人間と妖しの者が徒党を組んでいるとは、珍しいのーう。」
二つの声が重なってはいるものの、一音も外さぬ斉唱でそれは届けられた。
巌を滑る清水の中から、ばしゃん、と音をさせ現れた影が、二つ。
「おまえ達がこやつらの親玉と言う訳か。」
錫杖を斜めに構えたままの体勢で、弥勒が
彼奴等へ低く問う。
びょんびょんと跳んでいた蛙達が、さささぁーっと退いて行ったその先には、人間とほぼ変わらぬ身の丈をした、けれど紛れもなく蛙の形を取った妖怪が二匹、直立していた。
一匹は、緑。一匹は、土色。輪郭からはみ出した瞼と眼球が、端と端にぎょろりと並んでいる。
そしてやはりその表皮は…先に述べた通り。しかも、この二匹の傍に控えていた
僕と見られる先程の蛙どもが、にょき、にょき、と二足歩行の姿に変化して行くのだから、たまったものではない。
これなら、いつぞや信長くんと退治したあの時の蛙の方がまだ可愛いわ…と、かごめは心内でまだ泣いていた。
「わしらは腹が減っているのでなぁ。大人しく餌になって貰うぞーい。」
やはり一糸乱れぬ旋律を奏でる二匹の蛙妖の、まったりと毒々しい声差しがなんとも気色悪い。
「誰がてめぇらの餌になんぞなるかっ!」
鉄砕牙の柄をがちゃりと掴んだ犬夜叉が、そう叫んだのと時を同じくし。
「ゆけーぇ。」
一つになった二つの声が、号令を掛けた。途端、二本足で立った数限りない蛙どもが再び一行へと突進を開始する。
「きゃーっ!」
勘弁して、と叫んだかごめの目の前で、抜刀された鉄砕牙が翻った。
後方では、少女を挟んだ法師と退治屋が、奮闘を始めている。
「あたしから離れるんじゃないよっ!」
「は、はいぃっ!」
接近戦により、飛来骨の代わりに右手に握った刀を横殴りに一閃させた珊瑚の言葉に、小春は素直な返事を寄越した。
「うーむ。」
暫し戦況を眺めていた親玉二匹は、ばったばったと倒されていく己の下僕達を見遣り、やはり同時に唸る。
「戦力を、分けさせるかーあ。」
一緒に言い、一緒に頷く。
そして。
「分断じゃーあ!」
「分断じゃーあ!」
その雄叫びは、初めて輪唱となった。その直後、土色の方の一匹が、びよーん、と盛大に跳び上がり、林立する木々の間へ身を躍らせた。人間達を襲っていた内の茶色の体躯をした一団が、びょんびょんとそれに続いて行く。
「あっ、コラ、待ちやがれっ!」
妖刀を素早く鞘へ収め、犬夜叉が片方の群れを目で追った。
「弥勒、俺らはあっち追うぞっ!」
「承知。」
振り返りもせずに叫んだ半妖に、こちらも視界を変えぬままの法師が答える。
「行くぞかごめっ!」
「…はいー…。」
「向こうじゃ、犬夜叉っ。」
嫌そうなかごめの返事も待たぬうちに、犬夜叉は彼女と七宝を同時に背に負うと、一寸の間も置かず彼奴等の追尾を開始していた。
その場へ残された緑色の一団を迎え撃つのは、僧兵宜しく仏法守護の戒杖を振るう法師と、妖怪を討つことを生業とする、退治屋の娘と雪白の妖猫。
じゃらん、と環が鳴くと、一匹。そして、別の場所で銀光が閃くと、また、一匹。どしゃりどしゃりと妖は斃れ行く。
そしてその戦う珊瑚の背の後ろでは、両手を胸の前で握り締めた小春が、かたかたと震えていた。
初めて目の当たりにする、人間と魔の対峙。覚悟はしていたものの、これほどまでとは。
小春は、邪魔にはならぬ、と言った己の浅慮を思い知っていた。
邪魔はせずとも、しっかり足枷になっているではないか。自分の所為で自由な立ち位置の取れぬ今の状態では、きっとこの
女性は戦い辛いに違いないのだ ―――
小春の直ぐ前方には、抜き身を縦横無尽に走らせる珊瑚の姿があった。柄へ両手を掛ける時以外、その左手は小春を庇うが如き要領で翳されている。
戦う術を持たぬ者を安全圏へと導くように、時折りその左手は小春の小さな身体を押し遣って来る。それに促され、小春は未だ無傷であった。
――― あたしが責任持って守るさ ―――
震える娘は、己が捏ねていた駄々を掬い取ってくれた、珊瑚の言葉を思い出す。
弥勒と少しでも長い時間一緒に居たいという、我儘だけで通した無理。
その無理を聞いてくれた、珊瑚。
では、自分は?
自分は、このひとの力になってはあげられないのだろうか ――― ?
退治屋の背後で娘がそう思った時、珊瑚の左腕が小春から離れ、素早く柄尻に添えられる為様は、流水の動き。そしてその流れを乱すことなく、大上段から振り下ろされる、刀身。
それは、正面から挑んで来た一際巨躯の妖を、袈裟懸けに斬り裂いていた。
その時。
小春の左脇から迫る者が、一匹。異様な気配に気付き、横へと目を遣った小春は、思わず息を呑んだ。
其処には、獲物を頭から呑み込まんと、大口を開けた、蛙妖。
「ひ…!」
小春は、反射的に目を瞑っていた。
――― ぐさり。
「…?」
次の瞬間、痛みもなく、けれど何かが突き刺さる音を耳にした小春は、ゆっくりと双眸を開けてみる。
見れば、自分へ襲い掛かって来ていた妖怪が、大手を上げたまま、そして口も開けたまま、ぴたりと動きを止めていた。
「大丈夫?」
掛けられた声に、小春は今度はそちらへと頭を廻らせる。無論、その声の主は、珊瑚。
傍に居る珊瑚は、先程までと同じく前を向いたままこちらを振り返ってはいなかった。小春の目に映るのは、高く結い上げられた艶黒の長髪と、華奢な背中。
けれど。
右手に握られた刀が、珊瑚の左脇腹の横から顔を出しており、その刀身は小春の脇を擦り抜け、蛙妖の腹部を見事刺し貫いていた。
何時の間にか逆手に持ち替えた刀の柄尻には、押し遣るように左手も添えられており、後ろ手とはいえ、殺傷力は充分にあった。
やはり目線は周囲の敵へくれてやったまま、珊瑚は、ぐ、と力を込め、右腕を前方へ投げ出すように刀を背後の彼奴から引き抜いた。
引き抜くと同時、その鋭利な切っ先は、今吸った妖の体液で半円の如き軌跡を描く。
珊瑚がその己が得物を再び構え直した時には、既に絶命していた件の妖怪は、鈍い音を立てつつ仰向けに斃れていた。
この人には、後ろにも目が付いているのだろうか…?
呆然とその光景を見詰めていた小春であったが、
「ぼうっとしてないで!」
「はっ、はいっ!」
珊瑚の屹とした声音に引き戻され、猶も敵と
見え続ける彼女の背へついて ――― 行こうとした、矢先。
其処彼処へ転がった妖怪の残骸に、思い切り足を取られてしまう。
当然、次に起こるのは ――― 転倒。
「きゃっ。」
びたん、と前のめりに転んだ小春を察知し、
「!」
珊瑚が即座に振り返る。
その珊瑚の双眼に滑り込んで来たのは、びょーん、と文字通り身を躍らせ、うつ伏した小春へと跳び掛かる蛙妖が、二匹。
「ちっ!」
一瞬間に方向転換を図った珊瑚は、力の限り地を蹴った。
跳び上がったその空間で、左から右へ音もなく滑らせた刀身が、一匹を真横に薙ぎ払う。残る一匹は、右へ払った切っ先を翻し様に斬り捨てる、筈、だった。
なれど、先の一匹を仕留めていた最中に、既に他方の妖の腕が振り上がっており、その水掻きの付いた巨大な掌が、珊瑚の痩躯を、横殴りに、叩く。
軽々と吹っ飛ぶ、珊瑚の身体。
「珊瑚さんっ!」
どしゃっ、と肩から地へ落ちた珊瑚は、不覚にも刀を取り落としてしまっていた。それでも身体に走る激痛を無視し、直ぐさま半身を起こす。そしてその視界を塞ぐほどの至近距離へと迫っている、蛙妖の姿を捉えた。
それを認識した時には、彼女の身体は疾うに次の行動へと移っており。
膝下から足先までをぐるりと覆う革の中から引き出した、尖鋭なる鋼の棒。その細い棒を両手で握ると、己へと覆い被さって来る妖怪の心の臓へ、尖った先端を力の限り
捩じ込んでいた。
肉を貫く嫌な感触、そして確かな手応えが、珊瑚の両手へ伝わって来る。確かめる必要もなく、一撃必殺。
しかし、そのまま倒れ込んで来る彼奴の身体を下から支えるだけの腕力は、流石に持ち合わせてはいなかった。
骸の下敷きになる ―――
そう珊瑚が思った刹那、一息に開ける、彼女の視界。
今眼前へ迫っていた筈の妖の死体は、横から疾風の如く現出した影に、すっかり持って行かれてしまっていた。
「ありがと、雲母。」
左肩を抑えながら立ち上がった珊瑚が、四肢に炎を纏った妖猫の名を呼ぶと、その猫は、己が牙へと掛けていた蛙を、ぶんっ、と振り払い、ちょこん、とだけ首を傾げてみせる。
たった今、生死を分ける戦いを繰り広げたとは思えぬ主従の落ち着いた仕草に、小春はへたり込んだまま口を閉じるのを忘れていた。
「珊瑚!」
「大事無い!」
彼女達とは離れ、妖の親玉の傍まで近付いていた弥勒が、こちらを振り向き安否を気遣って来たけれど、彼の邪魔をしたくない珊瑚は、そう短く応えただけであった。
「…信じるぞ、その言葉!」
「当たり前だっ!」
彼方から飛んで来た法師の言葉へ再び端的に応答した時には、珊瑚は己が刀を拾い上げていた。
どうしてか、その時小春の心臓はどきりと大きく脈打った。
おらの知っている弥勒さまだったら、きっと、直ぐにでも引き返して来て守ってくれる ―――
それこそ、御仏の如き優しさで以て。
なれど、その立派な法師の筈の彼は、小春の予想とは反した言葉を投げて来た。
そしてそれは、以前にも似たようなことを聞いたことがあるような…?
サンゴ、コハルヲタノム ―――
そんな科白を、聞いたことがなかったか?
弥勒が自分の前から消えたあの日、記憶の辻褄は合っていないままだった。その欠落した記憶の中に、そんな風な弥勒の声が、存在したような ―――
考えれば考えるほどに鼓動は速まり、そしてその不安なざわめきの正体を探り当てようと、無理矢理思考を展開させる。
「怪我はない?立てる?」
其処へ割って入ったのは、珊瑚の問い掛けであった。
視線は周囲へ張り巡らせたまま、珊瑚の左手が小春の腕を掴み、ゆっくりと立たせる。その隙を埋める為か、雲母が、ぐるる、と低く威嚇していた。
小春は、珊瑚の腕に支えられて立ち上がりながら、妖怪どもを睨み据える彼女のその凛々しい横顔を見上げていた。
このひとは、自分の力で戦えるんだ。弥勒さまの助けがなくとも ―――
「あ。」
其処で小春は小さく声を上げる。
「どうかした?」
ずばり、と一匹を斬り捨てた珊瑚が、小春へと尋ねた。すると、小春は慌てて懐を探ったかと思うと、一片の紙切れを取り出す。
「こ、これ…!」
あまりにも息つく間もなく始まってしまった戦いの所為で、失念してしまっていた、護符の存在。
小春の指に握られたその護符を目に捉え、珊瑚も、あ、と思い出していた。
「おら、これがあるから大丈夫です!珊瑚さん、弥勒さまのお手伝いをして差し上げて下さい!」
「でも」
珊瑚が反駁し掛けた時、二人へ襲い来る蛙妖の眼前へ、小春がその護符を翳してみると。
「ぎゃあぁっ!」
じゅわっ、とまるで肉が焼けるような音と共に、その一匹は跡形もなく消し飛んでいた。
「ほ、ほら。」
その手は少々震えているけれど、小春はなんとか笑ってみせる。
その様子を見ていた周囲の妖怪達が、それを後押しするようなことを口々に囁き始めていた。
「そ、そう言えばこの娘、昨日入山して来た時に、護符を掲げながら歩いていた傍迷惑な奴じゃないか?」
どうやら小春は弥勒から授けられたこの護符を、懐に仕舞っておくどころか、身体の前に掲げて歩いていたらしい。それではこの蛙妖どもも、遠巻きに見送ることしか出来なかったことであろう。
「おら、此処で護符を持って大人しくしてますから!ですからどうか弥勒さまの手助けを!」
必死の面を晒し、小春は珊瑚へと手を合わせた。お札を持ったままの、その、小さな手を。
「…わかった。雲母、此処は頼んだ。」
護符の威力を目の当たりにし、そして小春の想いを理解した珊瑚は、幾許かの逡巡の後、そう告げた。
安堵したような小春の表情に頷いた後、雲母の赤目と視線を合わせる。すると、真白き猫は、短く喉を鳴らし返事を寄越した。
珊瑚はくるりと振り返り、流麗な線を描く黒髪を揺らしつつ、数多の蛙妖が蠢く渦へと駆け出して行く。
その後ろ姿を見送る、小春。
唐突に開かれた戦端。どちらかがその親玉を討ち取る為に、どちらかが雑魚の気を引いておく、などという申し合わせをする暇は、なかった筈である。
それでも二人は極自然に、自分の果たすべき役割へと身を投じていた。
恋しい
弥勒は、この自分を、躊躇なく珊瑚へと委ねたまま。
「弥勒さまは、珊瑚さんのこと、凄く信用してらっしゃるんだ、きっと…。」
初めて見た、"予想外の法師"の姿。そしてそれを、
彼の
女性は良くわかっている。
小春の視線の先には、見惚れるほどの太刀捌きで妖怪達の包囲網を潜り抜け、弥勒の元へと辿り着いた珊瑚の姿が在った。
二人は言葉で何かを確認する訳でもなく、それでいて示し合わせたような連係を見せている。
その彼等から、視線を外したいのに、外せない。
自分は、弥勒へ近付けば近付く程、法師という名の彼の姿を、強く強く、感じていた。
肌に刻まれたかの如き濃紫の袈裟を ――― それを、彼の全てだと思っていた。決して、脱ぎ去ることはないのだと。
なれど、あの凛然たる容貌を湛えた彼女は、違う。
己の知らぬ、彼の側面を知っている。
弥勒という法師に庇護されるしかない、己。
法師という弥勒の隣へ立てる、あのひと。
あの珊瑚というひとは、自分には生涯見ることの叶わぬであろう弥勒の別の姿を、引き出すことが出来るのだ。鎧を脱がせることが、出来るのだ。
それは、ほんの ――― 蜻蛉の羽の如く薄い薄い一枚ずつであるかもしれぬけれど。
その幾重にも重ねられた衣の奥の核心へ、近付くことが、出来るひと ―――
遠くで、弥勒の隣に肩を並べて立つ珊瑚を見たら、何故か、そう思った。
きっと、あの場所へ自分は絶対に立てはしないと。
小春は、くしゃくしゃになるのも構わずに、ぎゅう、と強く護符を握り締める。
弥勒さまに、別の顔があるだなんて考えてもみなかったのに。
あの人が、鎧を纏っているだなんて馬鹿げたこと、思ったこともなかったのに。
…なのにどうして、おらはこんなことを考えているのだろう?
どうして、こんなにも胸の真ん中が痛くなるのだろう?
どうして。
あの二人が一緒に居るのを見ているだけで、こんなにも涙が出るのだろう…?
ようやく探り当てた不安なざわめきの正体は、涙で滲んだ小春の視界にも、はっきりと映し出されていた。
「いやいや、本当に有り難うございました。これでこの村は救われます。」
曲がった腰を更に曲げ、村長は妖怪退治を成し遂げた一行へ深々と頭を下げた。
もーいや、もー蛙の大群なんて見たくない、とかごめは嫌忌極まれり、といった様子であったが、戦力を二手に分かたれようとも、緑色軍団・土色軍団共に犬夜叉一行の敵ではなかった。
「今宵はもう遅い。お礼と言ってはなんですが、是非こちらへ御逗留下さりませ。」
「いえ、我々は先を急ぐ旅ゆえ、このまま発たせて頂きます。」
以前小春を西の村へと預けた時同様、弥勒は村長の厚意を丁重に断っていた。
遣いも終えたらしい小春は、今晩此処へ泊まってから、明日元の村へ戻るという。
「皆さん、おらの我儘を聞いて下さって、有り難うございました。」
邪魔になってしまったことを詫びつつ、小春は笑みを浮かべて礼を述べた。
「なんだ?この前みてぇに一緒に連れてけとか言わねぇのか?」
「妖怪との戦いを見て、流石に嫌になったのではないじゃろか?」
一歩前へ出て応対をしている弥勒の後方で、こそこそ、と犬夜叉と七宝が囁き合っている。
其処へすかさず、しーっ、というかごめの窘める声が被さった。そしてその隣に立つ珊瑚はといえば、何処か遠くでも眺めているような。
「弥勒さま。おら、またお会い出来てとっても嬉しかったです。」
「小春…。」
その後一瞬俯いて、そして再び顔を上げた小春の手に、かさり、と握られている、紙片。
「…おら、このまま、この護符を持っていてもいいですか?」
真面目な面持ちで、弥勒へと小春が問うた。
「勿論。それはもう、おまえのものなのだから。」
澱みなく返って来た弥勒の科白は、猶も続く。
「だが、小春。おまえは、おまえの力で幸せになりなさい。」
右手に持った錫杖の環が、小さいながらも玲瓏たる声を、零す。
「…弥勒さま、おら、おらは…」
「おまえには、その力がある。」
自身の持つ力が一体どのようなものなのか見当も付かぬ少女の、不安な瞳を受け止め、弥勒は言った。
どんな者でも暗示に掛かってしまいそうな、柔和な笑顔と共に。
「おら…」
弥勒さまと一緒に居られれば、それで幸せなんです ―――
それでも、共には行けぬことを、悟ってしまったから。
危険な旅だからという、その理由の他に。
だから、別の言葉を口にする。
「…おら、ずーっと、ずーっと、弥勒さまの旅のご無事を祈ってます。」
それは、ぎこちなく笑顔を浮かべたようとした小春の意に反し、声涙共に下ることとなっていた。泣くと益々幼さが強調される少女を残して行くことに、少々の後ろめたさを感じながらも、弥勒は最上級に優しい声差しで、有り難う、とだけ、告げた。
そうして、闇へと紛れ行く想い人の背中を見送りながら、幼い娘は恋の終わりを初めて、知った。
「なんだか小春ちゃん、この一日で随分大人っぽくなったような気がしない?」
「ああー?そうかぁー?」
(あんたに訊いたのが間違いだったわ…。)
道すがらに見つけた古惚けた庵の中。今晩は、其処を寝床にすると決めたのだが、手応えのない犬夜叉の返事に、かごめはがっくりと肩を落としていた。
「ところで、珊瑚は遅いのぅ。」
「んー。偶には一人で居たい時もあるでしょ。」
懐中電灯に照らされた狭い庵内で、今度は七宝とかごめの間で会話が交わされる。
風に当たって来る、と言い置き外へ出たまま戻らぬ珊瑚。そろそろその戻りの遅さが心配になって来る頃合であった。
そうなると当然、床へ寝かせていた錫杖を掴んだ弥勒がゆっくりと腰を上げる。
「なんにせよ、今時分おなごが一人で居るのはあまり良いことではありませんな。」
「おめーが行った方が良くないことが起こるだろーが。」
次の瞬間、寝転がって片肘を付いていた犬夜叉の頭へ、ごぃん、と錫杖が振り下ろされており。
顔を床へと突っ伏しつつ怨言を吐いている半の妖には目もくれず、法師は庵を出て行った。
庵から些か離れた場所に、朽ちた大木がごろりとその身を横たえていた。其処へ腰を落とした珊瑚の頭は、小春のことだけで占められていた。
今頃、あの
娘はまだ泣いているのだろうか ―――
別れ際、予想外に潔く弥勒を送り出したその理由が、どうにもわからないけれど。
妖怪を恐れてなどではない。
法師を想う気持ちが薄れた為でも、ない。
それだけははっきりわかるから、きっと今頃辛い心を抱えているのだろう、と思った。
別段あの娘と親しくなった訳でもなかったけれど、それでもその心中を思うと、どうしてももやもやとした感情が湧き上がって来てしまう。
法師への恋情で生まれた辛苦に同情し、法師から大事にされているような立場に嫉妬し、法師と離れてくれたことに安堵して ―――
相反するような、しかも決して褒められたものではない感情達が一つ所で
鬩ぎ合うことに、珊瑚自身、うんざりしていた。
「珊瑚。」
不意に背後から掛かったその声に、珊瑚の身体は勢い良く弾かれる。あまりに頭が一箇所へ集中していた所為か、周囲の気配を全く読んでいなかった。
「そろそろ戻ったらどうだ?」
何処かで鳴いている冷涼な鈴虫の声と共に届けられる、弥勒の言葉。日中の大気はあんなにも暑さを保ち続けているというのに、虫達の季節は早くも次へと動き出しているようだ。
「…うん。」
その提案を受け入れたような返事の割りに、一向に動こうとしない珊瑚へ、弥勒が言を継いだ。
「このような夜中に、おなごが一人でいるものではない。」
「別に、襲われたって負けないし。」
背後に立つ弥勒の方を振り向きもせず、珊瑚は応える。その口調は、食って掛かるという意図もなく、ただの、無感情。
「何を言う。おまえだとて、かごめさまや小春と同じ年若いおなごなのだから、少しは用心しなさい。」
僅かに諌めるような色を含んだ弥勒の科白。それに、珊瑚はゆっくりと背後を振り返る。其処には、暗闇と区別が付かぬ緇衣を纏った法師が、泰然と佇んでいた。
「…あたしが?…同じ?」
きょと、と切れ長の目を見開いた珊瑚は、其処に在る法師を見上げ遣る。
「当たり前でしょう。おまえが若い娘でなくて、一体何だと?」
呆れたように、弥勒が言った。
あの可愛らしい友人や、一途なあの娘と、同じに思ってくれているのか ―――
それは、珊瑚にとって少々意外なことだった。女として見られてなどいない、と思っていた故に。
一瞬心に光が射したような暖かさを感じたけれど、それは直ぐにしぼんでしまう。
同じ、なんだ ――― 皆と。
今喜んだことが、次の瞬間それでは物足りなくなっているなんて、なんと強欲なのだろう…。
「それよりも珊瑚、おまえ、今日怪我をしなかったか?」
自然に摩り替わった話題に、珊瑚は内心ぎくりとする。それを悟られまいと、
「別に…?」
これまた自然に背中を向けるけれど。
「本当か?」
珊瑚の左肩に、ぽん、と弥勒の手が軽く置かれると。
「ぃた…ッ!」
思わず、小さな悲鳴を上げていた。
本日、退治の最中に強打した、左肩。骨に異常はなかったが、立派な打撲として痛みはまだ其処に在った。
「何処が"別に"だ?」
「だっ、大丈夫だって!手当てはちゃんと自分でしたし!」
眉宇を顰めた弥勒の低い声に、慌てて珊瑚は言い訳を返した。
村長の屋敷で戦装束から小袖へと着替える際に、処置はしてある。抜かりはない。
どちらかと言えば、そのようなことよりも、法師のあまりの目敏さに感心するばかりである。
「それでもまだ、そんなにも痛むのだろう。」
「…ま、ね。」
珊瑚は立ち上がると、ぱんぱん、とはぐらかすように着物を払い、今まで己が腰掛けていた横倒しの大木の上に、ちょん、と跳び乗った。そして、軽々と法師の横に降り立って見せる。
「この通り。全然平気。」
さ、戻ろう、と珊瑚は庵へと戻る為の一歩を踏み出そうとしたのだが。
「…その痛み、私が代わってやれれば良いのだがな。」
神妙な面差しで、そのくせ何処となく甘い声音でそう呟いた弥勒に、珊瑚は足を止めた。
かっ、と頬が染まりそうになったものの、それよりも先に心で思ったことをそのまま口にする。
「そういうこと、どうせ誰にでも言ってんでしょ?」
女ならば、手当たり次第こういう甘い科白を吐いているに違いない、と珊瑚は白い目を向ける。しかし、
「残念ながら、私の身体は一つなのでな。」
星明りの下でもわかる珊瑚の蔑視をものともせずに、悠々と弥勒は言ってのけた。
「この身で代わってやれるとしたら、ただ一人だけなのだよ。」
柔和な笑みを浮かべた弥勒の視線に射抜かれて、今度こそ珊瑚は耳まで赤くなるしかなかった。
その、二人の佇む場所から少しだけ距離をとった、草陰の中。
りりりと鳴く虫達と共に、身を潜める影が。
(聞いたぞ…。)
尖った耳を
欹てて、頭には雲母を乗せた七宝が、嬉しげに胸裡で独り言を言う。
やっぱり、やっぱり、珊瑚は他のおなごとは別なのじゃ!
(かごめに報告せねばーっ!)
喜び勇んで駆け出した七宝は、その直ぐ後に響き渡った殴打音を、耳にしてはいなかった。
大事無い、とあの時言った珊瑚へ、信じると返した己がどれほどの無理を必要としたか、きっと彼女は気付かない。
信じていなかったという意味合いではなく、視界の端に捉えた珊瑚の危機に、身体が直ぐさま駆け付けたいと叫んでいたから。
如何に不撓で腕の立つ女だと理解していても、守りたいと願う思いに、鍵を掛けるのは容易ではない。
退治屋の、珊瑚。
勇ましい、珊瑚。
強い、珊瑚。
彼女の名に付くそのどれもが ――― 己には、大きな意味を成さない。
余計な修飾など要らぬ、ただの、珊瑚。
己にとり、珊瑚は、ただの ――― 女。
ただひとりの、おんな。
■
130000ゲッター・翆さんご依頼の「小春再び(呼び方&護符付き)」でございましたが、以下長くなりますのでお覚悟を。
ええと、かなりリクからは逸脱してしまっている点をまずお詫び申し上げます。「何故小春は珊瑚と同じく呼び捨てなのか?」という点が、「かごめと珊瑚の呼び方の違い」に摩り替わってしまっています。私的に、弥勒が女性を呼び捨てにするのは特別だとは思っていなくて。むしろ"さま"を付けている方が特別なのでは、と感じているもので、こうなってしまいました。
何かこう人として(そして法師として)捨て置けないしがらみが発生した時に"さま"を付けるというか。
例えば、原作第5巻登場のなずなに法師が普通に出会ったとすれば「なずな」と、もしもかごめから「あたしの友達のなずなちゃんよ」と紹介されたなら「なずなさま」と呼ぶのではなかろうかと。年齢的・立場(地位含む)的なものも加味されるのでは?なんて。
其処から考えると、珊瑚と小春が同じ呼び方であるのも合点がいくのではないかと勝手に折り合いを付けてみました。フツーの純朴年下村娘系は皆呼び捨てにしていそうな法師が見えたのです(あとはやはり関わり方=しがらみ次第かと)。
これはあくまで私個人の法師像なので、「呼び捨てこそ特別な存在である証拠」とお考えの方にはご不快かもしれません。申し訳ないです。
小春のお遣いが何だったのかは、私も知らないのでツッコミは無しで。
こんなにもお待たせした上に、リクを勝手に作り変えてしまって、翆さん、本当にスミマセン。寛大なお心でお納め頂けましたら幸甚です。
では、最後までお読み下さいまして有り難うございました。
2002.09.15