キタカゼ と タイヨウ
‐‐‐ 前
「あの、西の山ですか。」
不意に、耳へ届いたその声音。
この声は…
片時も忘れることなく、呪文のように繰り返し思い出しては、もう一度その声を聞きたいと ―――会いたいと願った、
彼の
男性の声。
聞き
違える筈がない。
その声を認識した途端、娘の周囲の景色は意識の遥か彼方へ消し飛んでしまっていたけれど、それでも彼女はその声のする方角へ、迷うことなく走り出していた。
「あの西の山には、物の怪が棲んでおりますのじゃ。」
通り掛かった小さな村で、
緇衣を纏った
有髪僧が村人に縋り付かれたのは、昼前のこと。
兎に角話だけでも聞いて欲しい、と村長の屋敷へ案内された奈落討伐を志した一行は、またしても旅を中断させられているのである。
「あの山に入った者は、皆消息を断ってしまう。恐らく山歩きをしている旅人も皆喰らわれてしまっているのではないかと…。」
西からやって来る者が誰もこちら側へ辿り着けない。これは、村の民のみならず、商用を抱えている者にとっては、あちら側にしてもこちら側にしても死活問題である。
「このままでは、この村には西方からやって来る人間が寄り付かなくなってしまいます。どうか、退治しては頂けませんでしょうか。」
年老いた村長の懇願に、
「あの、西の山ですか。」
客間に座した一行のうち、弥勒がそう返した時だった。
ぴくり。
銀糸の髪を掻き分け顔を出している半妖の耳が微かに動き、彼は背後の廊下を振り返る。
「犬夜叉?どうし」
「何か、来る。」
犬夜叉と呼ばれた少年の隣に正座している、変わった
形をした少女 ――― かごめの問い掛けを遮ったのは、切れ長の
眦を湛えた退治屋珊瑚の声。
「え?え?何!?」
思わず畳へ手を付き後方へと身を乗り出したかごめは、閉められた障子の向こうをきりりと引き締めた表情で見遣る珊瑚の横顔に、少々の不安を覚えずにはいられなかった。
その一瞬の後。
「弥勒さまーッ!!」
障子が開け放たれたと共に響き渡る、大
音声。
瞬く間に崩れ落ちる、緊張感。
無論、唖然とした一行を気に留める余裕など、その声の主にはありはしなくて。
「おら、会いたかったですーぅ!」
娘は、己を見上げて座っている法師の胸へ、恥じらいもなくどどーんと飛び込んでいた。
「…小春、おまえ、何故此処に?」
しっかり彼女を抱き留めつつ、それでも幾らか面食らったような表情を一瞬見せた後、弥勒は驚きを含んだ質問を投げた。
周囲の者も、突然の出来事に皆瞬間言葉を失っていたのだが、
「…まさか弥勒を追っかけて来たんじゃねぇだろな。」
「有り得るぞ。」
腕組みをした犬夜叉と七宝の声に、かごめは、はっ、と我に返る。
何時だったか、旅の途中で出逢い、そして別れた少女の姿が目の前に在った。幼さが未だ色濃く残された面差しも、かごめよりも低いその背丈も、以前出逢った時のまま。
かごめは、思わず珊瑚の方へ視線を向けたけれど、弥勒の奥へ座る彼女の表情は、彼へと抱きついている小春の身体が盾となり、かごめに捉えることは出来なかった。
「おら、弥勒さまが世話して下さったあの村長さんのお遣いで此処へ来たんです。」
弥勒に両の上腕を掴まれ、その胸から優しく剥がされた小春は、膝を付いたまま彼を見上げると、元気一杯に答えてみせた。
しかし、
彼の村は確か此処から西方の…
「小春ちゃん、まさかあの魔物が出るっていう西の山を、一人で越えて来たの?」
「よく無事で…」
かごめの問い掛けの後、無謀な、とでも言うように些か眉根を寄せた弥勒の科白が続く。
「だっておらには、これがありますから!」
そう言った小春は、懐からごそごそと縦長の紙切れを取り出した。
「弥勒さまが下さった護符がありますから。おら、きっと弥勒さまが守って下さるって、信じてましたから。」
あの、離別の日。別れの言葉も交わさぬまま、気付いた時には己の手に握らされていた、一枚のお札。誰の行いと言われずとも、あの法師が残してくれたものだとわかっていた。
「おら、ずっとこの護符を弥勒さまだと思って、大事に大事に持っておりました…。」
毎日の様に手に取っては、見詰めていたのだろう。少々張りを失ってしまったその護符は、幾つもの浅い皺を刻んでおり、其処へ落とされた小春の視線は、この上なく幸せに満ちている。
「……。」
「…なんです。」
仲間達から向けられる白い目線に耐え切れず、弥勒が一言返してみるが、それには誰も反応しはしなかった。
西の山の噂を聞き、用事があるにも拘わらず遣いを出せずにいる村長の窮状を見兼ねた小春は、己が山を越える、と自ら志願したのだという。村長は、若い娘を危険な独り旅には出せぬ、と中々承諾してはくれなかったけれど、弥勒の力がきっと己を守ってくれる筈だから、と小春は結局自分の意思を押し通した。
「おら、この通り無事にこちらへ着きました。やっぱり弥勒さまが守って下さったのですね!」
きらきらと瞳を輝かせた小春の
面を受け止める弥勒の表情は、苦笑しているように見えなくもない。
「おお、その娘御が山の物の怪に襲われずに済んだのは、貴方さまのお蔭でございましたか?」
それまで成り行きを見守っていた年老いた村長は、ようやく事態を飲み込めたらしく、其処で口を挟んだ。
「それでは、安心して退治をお任せ出来るというものですじゃ。」
そう、目一杯の期待を込められた言葉を頂戴した弥勒法師は、はいお任せを、とにっこりと笑って頷いていた。
「弥勒の所為じゃぞ。」
客間に一行水入らずとなった時点で、初めに苦言を呈したのは七宝である。両手を左右の腰へあてがい、胸を張り、正面の男の顔を見上げていた。
「何がです。」
背筋を伸ばしたまま胡座を掻き、訊き返すのは、弥勒。
「事が面倒になっておる。」
「そうですか?」
答を寄越した七宝の言葉には、弥勒はあまり興味を示さぬ態度を見せた。
「小春ちゃん、ずっと弥勒さまのこと忘れてなかったみたいねぇ。」
これは、かごめ。隣に座った珊瑚に遠慮しているのか、その声は必要最低限の大きさで発せられた。そしてその珊瑚はと言えば、全くの無表情。それでも纏っている空気が些か波立っているように見えるのは、かごめの気の所為ばかりでもないであろう。
「だいたい、おめえが余計な土産なんか残して来るから、ああいう未練の塊が出来上がっちまうんだろうがよ。」
鉄砕牙を抱えたまま座した犬夜叉が、面倒臭そうに吐き出すと、
「そうじゃ。いくらおなごには抜かりなく、とは言っても、時と場合があるじゃろう。」
七宝もそれに同調してみせる。
二人とも…否、弥勒以外の一行の面々は、この後、彼と小春の間でまたも一悶着起きるのではないかと気を揉んでいるようだ。
たった一枚の護符を、弥勒だと思い大切に大切に胸へ仕舞って来た小春である。
何があろうとも、この弥勒が残した札がある限り、彼が守ってくれるのだと信じ切っている、小春である。
あの時、小春は旅の一行に加えてくれと、中々退き下がらなかった。今回も、あのような面倒が起こらぬとは言い切れない。
「あの時は、何も策を施さぬままに立ち去れるような、安穏とした状況ではなかったでしょう。」
其処でようやく、弥勒のまともな発言があった。
あの時 ――― そんじょそこらの妖怪ではなく、神楽に、神無。挙句は奈落までが姿を現し、犬夜叉に至っては瀕死の重傷までも負わされたのだ。故に、容易くその場を後に出来る状態とは言い難かった。
「…小春は、思い違いをしている。」
両の袂へ腕を挿し通し、弥勒は静かに言を繋ぐ。
「私は、私の面影を置いて来たのではない。小春を守ったのは、私の拙い力などでもない。」
双眸を閉じたまま。
「小春の元へ置いて来たのは、御仏の加護。あの娘を守ったのは、私ではなくあの護符に宿った御仏の力なのです。」
其処で一つ、極々小さく息を吐いた。
「…それは、私の
為すべき当然のことなのですよ。」
女の気を繋ぎ留めておく為とか、ただの気紛れな優しさなどと捉えられては、心外も甚だしい。
あの時取った行動は、法師にとって何ら特別なことではない。しかし、だからといって、そうすることが心の籠もらぬ機械的な為様だったということでもない。
あのような状況にあったれば、自然、そういった行動に出るように身体が馴染んでしまっている。誰ぞが危機迫る境涯にあるならば、己が会得した方法全てで以て、それを回避する策を与えることが ―――一視同仁、生業と呼ぶにはおこがましいが、それが、何時如何なる時でも己の為すべきことなのだ。
「…おら、今、弥勒が法師に見えた…。」
「…俺も。」
「あたしも…。」
「…あたしも。」
「あのね。」
珍しく弥勒の
旗幟を明らかにされた面々が、失礼なことを言って寄越したので、弥勒も短く返し遣る。
「褒めておるのじゃぞ。」
「…それはどうも。」
わさわさと緇衣の肩先へ登って来た七宝の方は見ない弥勒の返事は、溜め息交じりであった。
「でも、さ。」
其処で、ぽつり、と珊瑚が声を漏らした。
「なんです?珊瑚。」
正座をした膝の上に手を置いたまま、顔を俯かせている珊瑚の方を見遣り、弥勒が優しげな声音で問う。
けれど、
「…いや。なんでも」
そう珊瑚が言いかけたところで、
「弥勒さまーっ。」
再び小春の声が廊下の方から飛んで来る。
「呼ばれてっぞ。色男。」
「おすわり。」
面倒の原因である弥勒を人身御供にしておきゃいいだろ、とでも言うような犬夜叉の言葉に被さって、素晴らしい素早さで放たれる、かごめの言霊。
畳に突っ伏したまま、なんでだかごめぇぇぇ、と怨めしげに呻いている半の妖には応えずに、かごめは仲間二人の顔へ交互に目を向けていた。無論、自然な態度で。
柔和な表情を崩さぬ法師と。
何処か憂いを含んだ、退治屋の娘と。
そして、からり、と障子を開けて現れた、一途な少女と。
目線で三角形を描いた後、かごめは胸裏で大きく嘆息したのであった。
部屋に残されたのは、現在、犬夜叉、弥勒、七宝という男衆のみ。
野郎だけで顔を付き合わせている、弥勒に言わせれば「景観の宜しくない全く面白みに欠けた室内」となるに至ったのは、先程戻って来た小春に付いて、かごめと珊瑚が席を立った所為。
退治に向かう前に、せめて足浴だけでもされてからでは如何ですか、との小春の提案を受け入れた為である。
今の気候は、正に、茹だるような、という形容がしっくりと来る、盛夏。
全てを灼かんとする太陽の熱が地上へと降り注ぎ、その中をただ黙々と歩を進めて来た旅の者達は、文字通りの汗塗れであった。
勿論、かごめが真っ先に肯定の表情を晒した。他の者も、有り難く厚意を受け取った。
そして、
盥の準備を終えた小春が先刻客間へ戻って来た、という訳である。
男性上位が当たり前の小春は、当然弥勒や犬夜叉を先に案内しようとしたのであるが、何とも自然に法師はこう言ったのだ。
「私どもは後で構いませんから、お先にどうぞ、かごめさま。珊瑚、おまえも。」
(おめぇが女にウケが良い理由を見たよーな気がする…。)
にっこり笑んだ法師の顔を横目で見遣り、腕組みをした犬夜叉がそのようなことを心中で一人ごちていようとは露知らず。
三人きりの部屋の中で、七宝が口を開いた。
「…のぅ弥勒。なんで珊瑚は"珊瑚"で小春も"小春"なのじゃ。」
「は?」
あまりに唐突な物言いに、胡座を掻いた弥勒が呆けた声を上げた。
何言ってんだおめぇ、という犬夜叉の言葉へは応えずに、七宝は続ける。
「なんと言うかのぅ…かごめは"かごめさま"ではないか?でも珊瑚は"珊瑚"じゃ。おらはそれがなんとなく好きだったのじゃが…。」
俯きつつ、手指をもじもじと捏ね繰り回しながら吐き出される七宝の科白は、全く以て不得要領。当然、気の短い犬夜叉からは、もっと訳がわかるように話せ、との突っ込みが入った。
それに些か焦った七宝は、
「だだだからおなごには"さま"とか付けてへつらう弥勒が珊瑚には付けぬから珊瑚は弥勒にとって特別なんじゃと思っていたのに小春も同じとはどういうことじゃと言っておる!うわーん!!」
と、早口で一気にまくしたてた。どうやら、自分でもどう説明したら良いのかわかっておらぬらしい。
一瞬ぽかん、とした犬夜叉は、座したまま呆れたように七宝の頭をがしりと鷲掴みにする。
「おめー、なんだそりゃぁ?言ってることがわかんねぇぞ。」
男女の機微には、この見た目幼子の狐妖よりよっぽど疎いと見える犬妖が、ばしばしと
黄金色の頭を軽く平手で
叩き遣った。
どうせ犬夜叉なんぞには理解出来んわいっ、と吼えた七宝の頭は、三発目で拳を見舞われたのだけれども。
「…面白いことを言いますな、七宝。」
相変わらず表情を崩さぬままの弥勒が、柔らかな声差しで、頭を抱える七宝へと言葉を降らせた。
「……。」
小さな両の手を頭に乗せ、目尻に涙を滲ませた七宝が、無言で弥勒を見上げている。
この子狐は、今の五人と一匹で旅を続けるようになってから、珊瑚の感情に変化が訪れたことには何時の間にか気付いていた。
そして、何故かその体温が、無類の安心感を与えてくれる法師が、関わる人間とは距離を置こうとする癖も、知っている。
けれど、その弥勒が他のおなごへとは違い、珊瑚へはほんの少し心を開いているのではないか…と勝手に解釈するようになったのは、何時からだったか覚えていない。
その言動に見られる、それこそ距離を置くような、女性への際立った丁寧さが珊瑚へは薄いように感じられるのも、親愛の表れではないのかと。
珊瑚に言わせると、それは女として見られていないだけだと両断されそうではあるが…真実などは、七宝にとっては大した問題ではなかったのだ。
御仏に仕える法師と、妖怪を粉砕する、退治屋の娘。
己にとって天敵とも言えるその二人は、今や家族同然の存在となっている。
故にこの二人が心を寄せ合っているのならば、それは何となく喜ばしいことのように思えたのだ。
そう思えるだけで、良かったのだ。
擬似家族だと、言われようとも。
なれどそれは、小春の登場で足元から掬われることと相成った。
それまで、他の娘へとは違う、と思い込んでいた弥勒の珊瑚への態度は、小春へも傍目変わらぬもののように見えなくもない。それどころか ―――
これには、実は内緒で少々落胆していた七宝である。そして彼の娘との再会で、
蟠っていたそのもやもやが噴出してしまったといったところであろうか。
「…どちらかと言えば、特別なのはかごめさまの方かもしれませんな。」
「へ?」
予想外の弥勒の返答に、七宝と犬夜叉は、同時に声を上げていた。
「み、弥勒っ。てめぇ、そりゃどういう意味だっ!?」
こめかみをぴくぴくと震わせた犬夜叉が、片膝を立て、弥勒へと詰め寄る。
「特別なのはかごめさまのほ」
「だからそれはどういう了見だって訊いてんだろーがーッ!」
がばーっ、と立ち上がった犬夜叉が、涼しい顔で寛いでいる弥勒の前に仁王立ちになった。
最早七宝の存在は彼の頭の中には、ない。
何と言った、この女ったらしは。
自分にとり、かごめの方こそ特別な存在だとぬかしやしなかったか…?
理性という糸が切れ掛かった半妖は、代わりに記憶という糸を辿ってみる。
そうしてこの法師と出逢った頃の記憶を手繰り寄せてみれば、湧出して来るのは、むかむかとした不快な感情。第一印象も第二印象も、最悪だったことを思い出す。
「てめぇ…かごめに手ぇ出しやがったら、跡形もなく斬り刻む…!」
地の底から這い上がって来るような声で、そう凄んだ犬夜叉は、右手を鉄砕牙の柄へ掛けつつ恐ろしい程の殺気を携え、法師を見下ろしていた。
「はいはい。」
「はいはいってなんだぁーッ!」
弥勒にあっさりと流された犬夜叉は、益々以て不機嫌この上ない。
その癇癪を起こしている犬夜叉を遮り、今度は七宝が同じ質問を繰り返した。
「どういう意味じゃ?」
珊瑚ではなく、かごめが特別?
「では、珊瑚は?珊瑚はなんなのじゃっ?」
恐る恐る問う七宝の大きな瞳を受け止めた法師の双眼は、平生の如く、優しく笑むばかりであった。
「冷たーい、気持ちいーい!」
井戸端で歓声を上げているのは、かごめである。
「喜んで貰えて良かったですー。」
からからと滑車の音をさせつつ縄を曳いているのは、小春。
たっぷりと水を抱えた釣瓶が井戸の中から現れると、桶の部分を掴み、盥へと水を放つ。
すると盥には、真新しい井戸水が溢れんばかりに張られていく。
暑苦しい靴下と革靴を脱ぎ捨てたかごめは、その盥の中に立ち、魚のようにぱしゃぱしゃとはしゃいでいた。頭上ではぎらりと燃えた太陽が相も変わらず睨みを効かせているけれど、真夏の水道水とは比べ物にならぬ水温の低さを、足先で存分に楽しんでいる。
その隣の盥の中には、深緑の腰巻を外し着物の裾を膝の辺りまで捲り上げた珊瑚が佇んでおり、前屈みになりつつ水を掬っては脹脛の辺りへと掛けていた。盥の傍では、それを囲むように雲母がちょこちょこと走り回っている。
「あー、やっぱり足だけでも冷やすと違うわよね。」
「…うん。」
夏に咲く大輪の花のように微笑んだかごめへ、珊瑚は気も
漫ろな相槌を返した。
この暑さを慮り、行水を提案してくれたのは、小春。無論、此処の家主である村長の了解あってのことではあるが、良く気が付く女、というのはこういうことを言うのだろうか、などと珊瑚は考えていた。
妖怪退治へと赴くならば、気分良く送り出してあげたいという小春の想い。
容赦無く襲い掛かる熱射に、普段の倍ほど体力を奪われていたものの、この冷水のお蔭で随分とすっきりとして来るのがわかる。
汗に塗れ、歩き詰めで
浮腫んだ足も、目に見えて引き締まって行くようだ。これならば、もう一仕事するのも容易いだろう。
「お二人とも、ずっと弥勒さまとご一緒に旅を続けているんですよね。」
話題を変えた小春の言葉が、珊瑚の思考を中途で遮断させた。
顔を上げた珊瑚の視界に映ったのは、先程までの元気一杯の態度とは一転し、萎れてしまった花の如く地を見詰める、小春の姿。
「羨ましいです、おら…。」
「小春ちゃん…。」
小春の様子に、かごめも足の動きを止め彼女の名を小さく呼んだ。
「おらも、ずっと弥勒さまと一緒に居られたら、どんなに…」
目を伏せたまま、何処か寂しげに小春は呟いた。言い掛けた言葉の続きは、聞かずとも予想はついていた。かごめにも、珊瑚にも。
弥勒との再会を果たしたことで、もう死んでも良いとまで言っていた一途な娘。
弥勒のことが、それほどまでに好きなのだと彼女は言う。
何の邪念も駆け引きもなく、ただ、真っ直ぐに。
そんな小春を見ていると、珊瑚はどうしても胸に刺さる痛みを覚えずにはいられなかった。
こんなにも彼に恋焦がれている小春は、あの護符だけを心頼みにずっと生きて来た。
傍には居てくれぬ、彼の代わりとして。
けれど、あれは己の分身などではなく御仏の加護の媒体なのだと、授けた彼は、そう言った。
弥勒の言っていることは至極尤もで、理解も出来る。しかし、小春にとってそのような半ば説法めいた理屈は意味を持たないに違いない。
恋しい男が己に与えてくれたもの。それだけで、充分なのだ。
それを思うと、どうしても彼女を疎んじることは出来なかった。
憐れみ…いいや、同情だろうか?
珊瑚自身はあまり良しとはしない感情のうちの一つが、それでも僅かに芽吹いてしまっているのだろうか。
同じ
男性へ想いを寄せている女ではあるけれど、それ故に理解出来てしまえる小春の心中。
一別以来どんな思いで弥勒を想い、どんな気持ちで護符を抱いて来たのか ―――
嫉妬で胸が軋むのか、同病であるが故に胸に刺さるのか、この痛みの理由はどうにも判別し難いけれど、どうしても、憎めない。弥勒ばかりでなく、その仲間である一行へも気遣いを見せてくれる、気立ての良い彼女のことを。
「あの法師さまの…何処がそんなに良いの…?」
無意識に、珊瑚はそう口にしていた。同時に己へと向けられたかごめと小春の視線に気付き、珊瑚は思わず盥の中で後退る。妙なことを言ってしまったか、と瞬時に後悔したけれど、出た言葉はもう引っ込まない。まるで自分への問い掛けのようなその質問は、しっかり小春の元へと届いてしまった。
「だって!弥勒さまはお優しい方です。あんなにお優しくて大きくてご立派な方は、おら他に見たことありませんっ。そう思いませんかっ?」
息を吹き返した小春から繰り出される賛辞の波に飲まれそうになりつつも、それを肯定出来るようには出来てはいない珊瑚であった。
恍惚とした光を宿した小春の目は直視出来ぬまま、それでもぼそぼそと反論めいた言葉が唇から零れ出す。
「…あたしは、あんなに助平で触り魔で嘘吐きで見栄っ張りで素直じゃない男、見たことないけど…。」
(珊瑚ちゃ~ん…。)
何もそんな言い慣れてるみたいにすらすら流暢に言わなくても、と隣で苦笑を浮かべている、かごめ。
小春はと言えば、聞き慣れぬ弥勒への雑言を耳にし、ぽかん、と立ち尽くしていた。
「ほ、ほらぁ~、小春ちゃんショック受けちゃってるよ、珊瑚ちゃん…。」
「え。」
一箇所意味のわからぬ単語が含まれてはいたが、珊瑚にもかごめの言っていることの意味は大体理解出来た。確かに、きょとんとした小春が己を無言で見詰めている。
「いくらほんとのことでも、小春ちゃんにはキツかったんじゃない?」
かごめの言い様も大概
非道いが、彼女の言う通り、弥勒信奉者の小春には些か毒が強過ぎたか。
それが彼の全てだとは毛頭思ってはいないのに、法師の印象を訊かれると何故かこういった悪面ばかりが口を吐いて出てしまうのは、一体どうしてなのだろう。
「あ、あの、ごめんね、あたし」
「そんな弥勒さまが、居るんですか?」
慌てて取り繕おうとした珊瑚の声に被さって来たのは、小春の問い掛けであった。は?と今度は珊瑚がきょとんとする番で。
「居るって言うか、ええっと…」
珊瑚に代わり言い訳をしようとしたかごめであったが、やはりそれは小春の声に遮られた。
「そんな弥勒さまの姿…知らないです、おら…。」
「……。」
またもしょんぼりと俯いてしまった小春を見、かごめと珊瑚はそれぞれの浸かった盥の端っこに移動すると、相棒の傍へと擦り寄った。
「…なんか、やっぱり理想の法師さま像を崩すようなこと言っちゃったかな、あたし…。」
「うーん。でも、知らせた方が世の為人の為ってことも…。」
ぼそぼそと小声で囁きあう二人の胸には、小さな小さな罪悪感。
と、其処へ、割って入った第三者の声があった。
「これはこれは。いやー絶景ですな。」
軽々しいその聞き慣れた口調は、話題の人物のもの。
ほくほくという音が聞こえて来そうな笑みを湛え、その視線は水浴びをしている娘達の足元へと注がれていた。
「…出やがったね、俗僧。」
「あんまりな言い草ですな、珊瑚。」
膝までたくし上げていた裾を、するすると水面ぎりぎりまで落とし、珊瑚は弥勒をぎらりと睨み遣った。返って来るのは、どうせ飄々とした返事だろうとわかっていたけれど。
「んもー、呼びに行くまで待ってられなかったの?」
まだ浴び足りないんだけど、とでも言うように、かごめは弥勒の後ろで仏頂面を決め込んでいる犬夜叉へと声を掛けた。
「俺は水浴びなんぞどうでもいんだよ。こいつが勝手に先行くっつーから…」
かごめになんかヘンなことしねぇか見張りに来ただけだ、とは流石に言えず、彼は其処で口篭もる。それをかごめが訝しむより先に、どうせ早目に来て人の足覗こうって魂胆だろ、と珊瑚の声が上手い具合に滑り込んで来たから、犬夜叉は少々ほっとしていた。
いやーもう早く水に浸かりたくてですな、嘘を吐け、などという、弥勒と珊瑚の何時もの掛け合いが始まってしまったのだが、小春が興味深げにその光景へと見入っている。
やれやれ、とかごめは本日何度目かの溜め息を吐くと、飛沫を散らして盥から上がり、傍に敷いてあった
茣蓙の上へと降り立った。すると、何やら難しい顔をしている七宝と視線がぶつかった。
「どうかした?七宝ちゃん。」
用意された手拭いで濡れた足を丁寧に拭きながら、かごめは七宝へと首を傾げてみせた。
七宝は、弥勒の意識がこちらへ向いてはいないことと、犬夜叉が井戸端の楢へ登ってしまったことを確認すると、つい先程交わされた男三人の会話の件を、かごめへと小声で伝え遣った。
「…ふ~ん…。」
屈み込み七宝の話を聞いていたかごめの反応はこれだけで、子狐は些か拍子抜けしてしまう。
「驚かんのか?弥勒は、かごめが特別じゃと言って、珊瑚のことは何も言わんかったのじゃぞ。」
「そうねぇ…。」
焦りを含んだ七宝の物言いに、かごめは少々困ったように微笑み、言った。
「特別じゃない特別、っていうのも、あるんじゃない?」
「…なんじゃ、それは。」
かごめの意味不明な言葉に、七宝の頭の中には星の数ほどの疑問符が乱れ飛ぶ。
「弥勒さまって、時々わっかり難い言い回しするのよねえ。」
あれはきっと人がちんぷんかんぷんになってる姿を見るのを楽しんでるのよ、などと、あっけらかんと言い放つ、かごめ。
「かごめの言ってる意味もおらにはわからんぞっ。」
勢い込んで答を求める七宝へ、やはりかごめは笑顔を向ける。
「大丈夫。七宝ちゃんが心配するようなことは、何もないわ。」
一行が心配していたのとは別件ではあったけれど、退治へ向かう直前になり、少々の問題が発生していた。
「絶対、皆さま方のお邪魔は致しませんから!どうかおらもお供させて下さいっ。」
「だから、妖怪退治などという危険を伴う場所へ、小春を連れて行く訳にはいかぬのだよ。」
先程から続けられている弥勒と小春の会話。
今正に出発しようという門前で、思い切り難渋しているのだから、先の懸念がある程度的中したと言っても差し支えはないであろう。
「でもおらは、あの山を無傷で越えました!弥勒さまの護符がある限り、足手纏いにはなりません!」
「いや、だからね、小春…。」
眉をハの字に下げ、困り顔で笑む弥勒を見兼ね、かごめが「ちゃんと無事に戻って来るから此処で待ってて」と助け舟を出したりもしたのだが、一向に効き目はありはしなかった。
「…いいんじゃない、連れて行ってあげれば?」
其処で、皆の耳へ信じ難い科白が届けられた。此処に集っていた者達が一斉に振り返ったその先に佇んでいたのは ――― 漆黒の戦装束に身を包み、右肩から巨大な得物を担いだ、珊瑚。その足元には、主人に異を唱える訳でもなく、涼しい顔をした雲母が控えていた。
「何を言うておるのじゃ、珊瑚。」
苛立たせた緋色の肩先に留まっていた七宝が、解せない、とでもいうような声を上げた。
珊瑚を見詰める弥勒の両眼も、おまえらしくもないことを言うのだな、と物語っているのがはっきりとわかる。
直接依頼に関わる立場にある訳でもない素人の同伴を、この珊瑚がそう易々と認める訳がないのだ。当然此処は、この場へ残るよう小春を諭すべき立場にある筈であるのに…。
「あたしが責任持って守るさ。それなら文句はないだろう。」
皆の目線には怯むことなく、有無を言わせぬ強い口調で珊瑚はそう続けた。
この小春という少女は、恐れているのだろう、と、珊瑚は思う。退治を終えた後、過日のように何も告げぬまま法師が姿を消してしまうことを。
村長から依頼された仕事である以上、それを完遂すれば報告へ戻られねばならぬのは百も承知だろうが、それでも猶払拭出来ぬ、不安。
これが最後になるのではないか、と。
厄介なことに、珊瑚が何時も胸裏の奥底に沈め遣っている小さな
凝りに、それは似ているのだ。
それを、この男はわかっているのだろうか ――― 。
「…珊瑚が其処まで言うのなら、仕方ありませんな。」
「ほ、本当ですか!?弥勒さまっ!」
瞑目しつつ、尚且つ溜め息混じりではあるものの、念願叶って弥勒の了承を得た小春は歓喜の声を上げていた。
正直、小春当人にとっても意外な展開であった。どんなに強く懇願しようとも、この法師はきっと己を連れて行ってくれることはないのではないかと、思っていたから。それが、自分の知る「弥勒法師」であったから。けれど、この珊瑚という
女性が自分に加勢してくれたお蔭で、弥勒にうんと言わせることが出来ようとは。
「有り難うございます、弥勒さま!有り難うございます、珊瑚さんっ。」
小春はありったけの感謝を込め、腰を直角になるまで折り曲げて珊瑚へ頭を下げた。
珊瑚はと言えば、いいってそんな、などと左手をひらひらとさせながら、けれど真面目な顔をして、
「その代わり、あたし達の傍を絶対離れちゃ駄目だからね。」
と、小春へ念を押していた。
「良いのかのぅ、これで。」
「へっ、知るか。珊瑚が責任取るって言ってんだからいいんだろ。」
ぼそらと呟いた七宝に対し、犬夜叉は大して興味もなさそうな声音で応える。しかし、それを聞いた七宝は、
「…そういう話をしているのではないじゃろー。」
うんざりしたように、再び呟いていた。
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