SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



水隠(みごも)りて思ひしも



※水隠り=此処では「内緒にしておく」や「表に出さない」という意味合い





例えば、誰かにお願い事なんかされたりしたら、嫌とは言えない。
誰かに頼りにされれば、素直に嬉しいと思う。
それがお節介故なのか、寂しがり屋だからなのかなんてのは、どうでも良い事で。
誰かに何かを求められたら、それに応えたいと。
そんな風に思うのは、自己犠牲極まりないな、と何処ぞの誰かが言っていたけれど、この際、そんな言葉にも目を瞑る。
あたしの力を必要としてくれるならば、それが邪道でない限り、あたしは何処へでも行くだろう。
例えそれが、どんなちっぽけな事だとしても。
それが、今のあたしの、ありったけ。







かごめが故郷へ戻ったのも、致し方ない状況であった。
菊月も終わろうかという頃合。
細かく霧の如く降ろうとも、雨は雨。水は水。一月前からは想像も出来ない程に冷たさを増した雨に打たれた後、かごめは盛大に熱を出し、帰郷を余儀なくされていた。
こちら側に留まるよりはずっと治りが早い筈だから、との弥勒や珊瑚の説得の甲斐もあり、犬夜叉も簡単に首を縦に振った。かごめの体調が関わっているとなると、手前の我儘を通す余裕も無くなるらしい。
尤も、ふらふらと足取りの覚束ないかごめを抱え、共にあちら側へと消えたのだから、文句のある筈もないのだが。
そういった訳で、こちら側に残された旅の一行の片割れ達は、楓の元で暫しの間、戦いからは離れた生活を送る事と相成った。







がらがらどさっ、と物が落下する音を耳にした七宝が、顔を上げる。
すると、その視線が捉えたのは、抱えていた桶を地面へ落とし、中に入っていた洗い物をばら撒いてしまった珊瑚の姿。
「どうしたのじゃー、珊瑚?」
雲母と共に、蟻の行列を興味深く見詰めていた七宝は、とたたっ、と軽い足取りで以て、珊瑚の方へと走り寄った。その脇を、ぴょここん、とこちらも軽々とした風情で雲母が駆けて行く。
「な、んでもない。ちょっと躓いちゃって。」
珊瑚はそう答えると、ぶちまけてしまった洗い物を拾うべく、屈み込んだ。
「…っ」
一瞬歪んだ彼女の顔を、目聡く指摘する者は、今は居ない。その事実に、珊瑚は胸を撫で下ろす。
「これで全部じゃな。また洗い直さねばいかんのぅ。」
まだ水を含んだままの重みのある晒しを、桶の中へ、ぽすん、と落すと、七宝は珊瑚の方へと頭を向けた。なんの疑いもなく見詰めて来る大きな瞳を見返し、珊瑚は、有り難う、と微笑んでみせた。それを合図に、七宝は元居た方へと駆け戻ると、彼の関心は再び蟻の行進へと容易く移行したようだ。
雲母はと言えば、しゃがみ込んだままの主の隣で、その紅玉の如き双眼をくりくりと輝かせ、視線を珊瑚へと注いでいる。
「…いいから、雲母。おまえは七宝の相手してて。」
一瞬首を傾げた妖猫の小さな頭へ乗せた珊瑚の左手は、そのまま下へ滑って雲母の喉許を一撫でした後、最後にもう一度頭部へぽん、と置かれた。
雲母はそれに応えるように、みゃう、と一声鳴くと、可愛らしく二股の尾を揺らし駆けて行く。その後姿を見送った後、珊瑚はようやく腰を上げた。
胸に桶を抱え、空いた方の掌を己の額へと当てる。水仕事で冷え切った手の感触が、我ながら気持ち良い。
「かごめちゃんなら、話もわかるけどさ…。」
忌々しげに呟いた後、土塗れになってしまった、洗い上げたばかりの物体達へ視線を落とし、溜め息を吐いた。
「若いおなごが溜め息とは、少々頂けませんな。」
「…元から頂かなくていい。」
「いや、男は普通頂くでしょう。」
背後から現れたその声に、珊瑚はくるりと振り返ると、其処に佇んでいる長身の法師へ目を向けた。
そりゃあんたなら、女が溜め息吐いてたら一も二も無く駆け寄って、お近付きのきっかけにする事間違いなしだろうけど ――― と彼女の目が語っている。
「ただいま戻りました。」
その白い視線を受け流しつつ、弥勒はあっさりと笑顔で言った。
「お帰り。」
たった今交わした会話など忘れたように、否、それこそが帰宅の挨拶だったかのように、珊瑚の方も短い返事をしただけだった。
朝餉も取らぬ早いうちから勤行へと繰り出していた弥勒が戻ってみると、珊瑚が嘆息していた、という訳である。
「で、溜め息の理由(わけ)は。」
「別に。ただ単に洗い直しなだけ。」
弥勒にも中身が見えるよう、珊瑚は胸に抱えた桶を軽く前方へ傾けてみせた。
「…なるほど、これはまた大変そうですな。私も手伝いましょうか。」
顎に手を当てた思案げな弥勒が、洗い物を覗き込んだままそう言ったけれど、
「何言ってんの。お勤めして帰って来たばかりの人に、そんな事させられる訳ないだろ。」
珊瑚は、法師の親切な申し出を当然受け入れない。
「ろくに寝てもいないくせに。法師さまの分の朝餉、中にちゃんと準備してあるからとっとと食べちゃってよね。」
ぶっきらぼうなその言葉にも、弥勒はきらりと目を輝かせる。
「珊瑚、おまえ、そんなにも私の身体を気遣って…」
「な。い、いいから早く食べて仮眠でも取ってれば!?」
「ではそうしましょうか。」
素直に頷いた法師に、内心安堵した珊瑚であったが甘かった。
「珊瑚の戻りを、蒲団敷いて待ってます。」
「敷くなーッ!」
ぶんっ、と何時もの如く振り上げられる右手。それは、予定調和のように法師の頬へ見事着地するのが常であったのだが。
ほんの少し弥勒が頭を後方へ反らすと、緩慢な流れで珊瑚の右手は空を切って行った。
「…なんで()けるの。」
「なんで、って、おまえ…。」
じろ、と見上げて来る珊瑚の双眼を、頭が避けたままの体勢で見詰め返す弥勒は、其処まで言った後、無言になる。
頭を後ろへ傾け、口を開きかけて止まってしまった弥勒の表情は何か言いたげであった故、珊瑚もそのまま彼の二の句を待ってみたけれど、何時まで経っても続きを紡がぬ彼の態度に、考え過ぎかと諦めた。
「兎に角、ちゃんと食べてよ。」
そう告げ、その場を立ち去ろうとした珊瑚へ。
「珊瑚、おまえ、」
「何?」
弥勒の呼び掛けに、珊瑚は足を止め再び振り返る。
「…また、水を使うのか?」
「当たり前だろ。」
何を言うかと思えばそんな事か、と珊瑚は些か呆れ顔である。泥塗れの布地を、一体何で洗えと言うのだろう。
訳のわからぬ事を問うて来る法師をその場へ置き去りにし、働き者の娘は己のやるべき仕事へと向かって行った。
「…まあ、言っても聞かねぇんだろうなぁ。」
後に残されたのは、弥勒の嘆きと、溜め息と。
「もうちょっと、好きにさせとくか…。」







忙しく出歩いていた楓は、夕刻になるとようやく戻って来た。疲労からか、曲がった腰を更に曲げている。
しかし、珊瑚が居ると家の中の雑事に気を配る必要がなくなる為、普段よりずっと楽なのだと 彼女は言う。実際、今日も帰るや否や温かな湯気に迎えられた楓は、珊瑚へ礼を述べていた。
母屋と離れと、その畑と。それら全てを一人で管理するのはそう楽な仕事ではない。そして巫女としての生業もある。ましてや、楓はあの高齢。故に、こうして自分が帰村している時くらいは老巫女に楽をさせてやりたいという気持ちが、珊瑚の中でむくむくと顔を出すのだ。
こうして世話になっている以上、何らかの形で恩返しをしたいとも思う。
そして楓が「珊瑚が居ると助かる」と言ってくれる事に、応えたいとも、思う。
それ故、楓が持って来た時妖怪退治の依頼も、二つ返事で引き受けた。
それは、食料や畑を荒らす何かが居る、という程度の話。人間に直接害為すものではないらしいが、楓は他の件で手一杯。故に、珊瑚へ話が廻って来た。
何故だか弥勒が「それは私がお請けしましょうか」などと口を挟んで来たけれど、それには「あたしの仕事の横取りする気?」と、珊瑚はわざと凄んでみせておいた。
何かと忙しなく過ごしてはいても、それにかまけ退治の仕事を他人へ譲るという行為は、珊瑚の自尊心が許さない。弥勒もそれは充分理解しているからか、それ以上何も言いはしなかった。尤も、弥勒の方も明日はちょっとした法会の営みなんぞを依頼されている為、そうそう暇もないのであるが。
「折角骨休み出来る機会だというのに、すまぬな、珊瑚。」
夕餉の席で、楓にそのような言葉を掛けられた珊瑚は、微笑み、応える。
「妖怪退治は、あたしの本業だよ、楓さま。」
――― 大丈夫。
一晩眠れば、きっと、治ってる ――― 。







想像以上に、呆気無くかたはついた。
人々を悩ませていたのは、兎であった。
丁度珊瑚が出向いた際に現れたのは、真っ白な兎が一羽。妖力と言える程のものも感じられず、その兎を特殊な煙で追い払った後、今後の防護策を一通り講説し、退治屋としての仕事は完了となった。
持参したものの、出番のなかった得物がずっしりと珊瑚の背に圧し掛かる。
帰り道、足取りが途轍もなく重いその訳も、きちんと自覚していた。
(一晩眠れば、治ると思ったのに…。)
依頼が大したものではなかった事に、感謝せねばなるまい。飛来骨を使わねばならぬ相手であったなら、無傷で済んだかどうか、自分でも自信が持てなかった。
それほどまでに、珊瑚の体調は悪化していた。
昨日の段階で下を向く度に襲って来た頭痛は、今日は何もしておらずとも激しく頭を苛んで来る。ほんの少しだった寒気やだるさも、己の中での限界へと近付きつつあった。
(昨日、水使い過ぎたかなぁ…。)
二度の洗濯に因り、身体が必要以上に冷えてしまった事は否めない。
がんがんと痛む上に熱でぼうっとして来た頭を抱えながら、一歩踏み出す事さえ億劫になっている珊瑚は、それでもなんとか己が身を寄せている離れの簾を潜っていた。







無人の離れの中で、戦装束から小袖へ着替えた珊瑚は、其処で一息を吐いた。寒気がして仕方ないのに、顔は松明を突きつけられたように、熱い。
発熱してしまっている不覚にうんざりしながらも、これ以上悪化の一途を辿る訳にはいかぬとばかり、薬草へと手を伸ばし、その効力へ縋ろうとしたのだが。
「…これしか残ってないの?」
一握りの解熱の薬草を手にし、珊瑚は力無く呟いた。
加工した分も、生薬の分も。
今回の己の分だけだと考えるならば、充分足りる量ではある。…あるのだが。
「…行って、来るかぁ…。」
薬草を、採りに。
今使ってしまって、明日使う用が起こらぬ保証は何処にもない。多少なりとも戦事に身を置く己が居ながら、命綱とも成り得る薬草を切らしたままにしておく訳にはいかなかった。
こんな事じゃ留守を預けてくれている楓にも顔向け出来ない、と思う辺りが、彼女が生真面目過ぎると言われる所以でもあって。
今直ぐにでも横臥したい身体に鞭打つと、珊瑚はふらりと立ち上がる。
弥勒は、勿論不在。
七宝は、何処ぞへ遊びに出ているらしい。雲母もそれについて行っているのだろう。退治へ出向く際、雲母を置いていった己の判断を後悔しても、後の祭りであった。







山中を行く珊瑚の歩調が亀の足並なのは、薬草を見逃すまいと四方へ視線を走らせている所為だけではない。
瞬きするだけでも頭蓋を揺らすような痛みが走る。しかも、一度走り出した痛みは鐘の音の響きに似て、何時までも反響し、じわじわと内まで染み入って来るのだ。
「あー、もう、ちくしょう…。」
ただ歩くという行為が、鉛の足枷を着けられた苦行のように感じられ、無意識に泣き言が漏れた。早く薬草を摘んで帰ろう、と思う。
あの程度の雨に濡れただけで、熱を出してしまうなんて情けないったら、ない。かごめちゃんならいざ知らず、あたしがそんなにか弱く出来ている筈がないのに。
しかもこの人手不足の折に、だ。こんな状況下で役立たずの病人になるのだけは御免被りたい。だから、皆に知られぬうちに、せめて日常生活に支障がない程度まで持ち直さなければ。
だから、早く薬草を摘んで帰らなければ ―――
と、珊瑚が痛む頭の中で考えを廻らせていると、一羽の黒兎が足元から己を見上げているのに気付いた。
珊瑚の黒曜の瞳と、兎の真紅の目が、ぱち、と合った。
「……。」
人懐こい兎だな、と思いつつも、先を急ぐ珊瑚はその黒兎から視線を外すと、再びのろのろと歩き始めた。
すると、突然背後で若い男の声。
「むーすめさんっ。」
何やら軽々しい口調のその呼び声に、珊瑚は怪訝そうに振り返る。
人の気配なんか、なかった筈 ――― ?
幾らかの警戒心を身体に纏った彼女の双眼に映ったのは、山賊の如き(なり)をした、青年。
陽に焼けて浅黒い肌。首の後ろ辺りで一つに結わえられた長髪は、光を放つような、艶黒。体躯を覆う着物の上からは、其処彼処に黒々とした毛皮が添えられている。短い腰巻の下から伸びた足には同じく毛皮の脚絆を着けており、一瞬珊瑚は、妖狼族かと思ったりもしたのだけれど。
夕陽よりも真っ赤な色合いを湛えている彼の目に気付き、先の読みは違えていると判断した。
「あんた…」
「娘さん、お暇ならわたくしと餅つきなんて如何でしょうかー?」
眉宇を顰め言い掛けた珊瑚の言葉を遮って届いた科白は、なんとも間の抜けたものだった。
「…なんなの、あんた。」
「兎のくろすけと申しまーっす。」
にっこり笑ったその顔は、やはり人懐こいものだったけれど、これでは珊瑚の問いの答には物足りなさ過ぎた。
「兎って、さっきの黒兎…?…って、妖怪?」
「はい、その通り。」
にこにことした表情を崩さずに、"くろすけ"が返事を寄越す。
「え、だって、妖気なんて…でも、人型になってるし…」
己の感覚が鈍っているのを認めたくはなかったが、確かに兎が人間の形をしているのだから、ただの兎である筈はなかった。それでも回らぬ頭を無理矢理働かせ、珊瑚は目の前の兎妖へ胡散臭げな視線を投げてみる。
「はい、わたくし達の妖力なんて、人妖の形を取れるくらいで。人間さまに迷惑かけるよーな妙な力は持ち合わせておりませんので、妖気なんて感じないでしょー。あはは。」
"くろすけ"の説明は、妙に丁寧であるものの何処までも軽口で以て続けられた。
「…兎妖がなんの用さ。」
「ですから、わたくしと楽しく餅つきと洒落込みませんかー?」
「洒落込まん。」
兎の若者の勧誘の言葉をばっさりと一刀両断した珊瑚は、くるりと踵を返した。
「あああーっ、待って下さいよぅ、娘さんっ。」
「うるさい、急いでるのっ。」
泣きそうな声で追い縋って来るくろすけへ、ぎろりと鋭視をくれてやる、珊瑚。しかし彼はそれには全く怯まずに猶も食い下がる。
「お願いです、人助けだと思って!」
「…人じゃないだろ。」
「兎助けだと思って!」
悪びれもせず言い直す兎妖に、珊瑚は心底呆れていた。
――― なんなの、一体。これ以上、頭の痛くなる事を増やさないで欲しいのに…。
「時に娘さん、お名前はっ?」
珊瑚が何かを言い出すより早く、くろすけの口が開いた。勢い込んだその問い掛けに、彼女も思わず名を名乗る。
「…珊瑚、だけど。」
「珊瑚ちゃん!珊瑚ちゃんですか、良いお名前ですっ。」
くろすけは腕組みをし、その名を噛み締めるようにうんうんと頷きながら馴れ馴れしくもそう呼んだ。
「"珊瑚ちゃん"て、あんた」
「くろすけ。」
「は?」
「くろすけです。人さまの名前はちゃんと呼びましょう、と小さい頃に教わりませんでした?」
真っ直ぐな赤目に優しくそう言われ、珊瑚は些か調子が狂うのを感じていた。
何やら、相手の歩調に乗せられているような…?しかも、こんな感じの奴に何処かで会った事があるような…。
「…じゃ、くろすけ。」
「はい、なんでしょう珊瑚ちゃん。」
嬉しそうに見返して来る若者へ、珊瑚は問う。
「…なんであたしが餅つきに付き合うと、くろすけを助ける事になるのさ。」
「其処なんです!聞いてくれます!?」
いやだから訊いてるんだってば、とは、珊瑚もあまりに疲れるので言わずにおいた。
「実はですね、本日わたくし達一族の餅つき合戦がありまして!」
「も、餅つき合戦…?」
脱力したような珊瑚の呟きは、くろすけの耳には届いていないらしかった。
「これは雌雄一組で参加する決まりなのですが、運悪くわたくしのお相手のゆきちゃんが出られなくなっちゃいまして。それでゆきちゃんに代わるわたくしの相方さんを探しておった訳なのです。」
「…それって同じ一族の雌兎の中から探せばいいんじゃないの?」
「それじゃ駄目なんでーす!」
珊瑚の尤もな提案に、くろすけは握り拳を作って語調を強める。
「ゆきちゃんは、一族一の器量良しさんなんですよ!ゆきちゃんの代わりになれる者なんて、一族には居ないんですっ。」
「あー…そー…へぇー…。」
くろすけの熱の入りように、珊瑚は気のない相槌を打った。こんな山中に立ちっ放しで、寒気がどんどん酷くなるばかりである。
「で、こうして外へ探しに来たところ、珊瑚ちゃんを見つけた訳ですよ!ゆきちゃんの代わりが出来るのは珊瑚ちゃんだけです絶対!」
自信に溢れたくろすけの両眼が、びし、と珊瑚へ突き付けられた。その勢いにたじろぎつつ。
「で、でも、ほら。あたし、人間だし…」
「合戦の時は皆人妖の姿です。構いませんっ。」
「あたしが構うっ!」
ああ言えばこう言って来るくろすけにうんざりしながら、やっぱりこいつ誰かに似てる、と珊瑚は心中で一人ごちた。
「…兎に角。あたしにそんな暇ないの。悪いけど他当たって。」
前髪を掻き上げ、珊瑚は溜め息混じりに断りを入れる。
ずきん。
割れるような頭の痛みを誤魔化して喋り続けるのも、力の入らぬ足で立ち続けるのも、正直そろそろ限界であった。
「それは困ります。…わたくし、女の子に乱暴を働くのはあまり好きではないのですが。」
実力行使に出るしかないですか、と残念そうに兎妖は言った。
其処で初めてくろすけの目が真面目なものになったような気がしたけれど。
「…あたしを攫おうなんて、百年早いね。」
「おや、珊瑚ちゃんは腕に覚えあり、ですか?」
今の己には強がりでしかないとわかっていながら放った珊瑚の科白に、くろすけは素早く反応を寄越した。その目は、既に元の愛嬌のある瞳へと色を戻している。
「では、珊瑚ちゃん。兎の後ろ足の強さなんてご存知で?」
足技か ―――
珊瑚がそう読んだ時には、びょうっ、とくろすけの鋭い蹴りが飛んで来ていた。
「ち…っ…!」
珊瑚の左脇腹辺りを目掛けて襲って来た彼の右足を、彼女は瞬時に緊張を走らせた左腕で受け止めつつ、叩き落とす。そのまま右足を一歩踏み出しくろすけの懐へ右肩から入り込むと、右腕を彼の首許へと振り薙いだ。
短い袖が、翻る。
「うわぁっと。」
ぴん、と伸ばされた指先が、閃き空を切った。
間一髪、ばっ、と後方へ宙返ったくろすけは、珊瑚の手刀を模った右手から逃れる事に成功していた。
「ふーっ。危ない危ない。油断ならないですねぇ珊瑚ちゃんの手は。」
片膝を折り右の掌を地に着いたくろすけが、左手で額の汗を拭うような仕草を見せる。
「……。」
しくじった、と内心舌打ちするのは、珊瑚。この熱に侵された身体で、対等に渡り合える相手ではないと、今の一連の動きから悟っていた。
妖力はないものの、くろすけが体技に長けているのは明らかである。
そういった場合も想定し、最初から一撃で仕留めるつもりで飛び込んだのに ――― 避けられた。
想像以上に、自分の動きには何時もの切れが欠けていた。
「では、次行っても宜しいですか。」
「…っ…」
笑んだままのくろすけの口許から再開宣言が放たれたと同時。
地を蹴った兎妖が、人間の娘の眼前まで一気に距離を詰めて来る。それに続け、上中下段ありとあらゆる位置へ突き出される左右の蹴り。
それを腕で受け流し、時には寸前でかわしながら、珊瑚はずるずると後退していく。
避けるだけで精一杯。しかも、次第に頭の中の輪郭がぼやけ始めており、左へ頭を振れば脳が右へ置き去りにされるような感覚に捉われていた。
身体が、思うように動いてくれない。
このままじゃ ―――
そう思った時だった。
一際大振りな回し蹴りが珊瑚の眼前に迫る。それをぎりぎりの間隔で逃れた彼女の前には、丁度こちら側へ背を晒したくろすけの姿。
その彼の上半身が下方へ傾いだかと思うと、その反動で振り上がった右の足蹴りが珊瑚の顔面へ、飛んだ。
「く…っ」
やや反応が遅れたものの、珊瑚は頭部を左へ流し(すんで)のところでその蹴りから逃れた ――― が。
どがっ、と。
後頭部へ、激しい衝撃。
(しま…っ…)
避けた筈の兎妖の足。しかし、その事で油断していた。足技はそれで終わりではないのだ。
真っ直ぐに伸ばされた蹴り。その空を切ったくろすけの右足は、膝を軸にして見事切っ先を翻す。
珊瑚の右脇を通り過ぎた刹那、膝を支点に戻された踵は、まだ其処に在った彼女の後頭部を鮮やかに捉えていた。
振り上げた右足をくの字に曲げたままのくろすけは、
「あれ、意外と呆気ない?」
と拍子抜けした様に呟いたけれど、一撃を喰らい意識を切らせてしまった珊瑚には、最早聞こえる筈もなく。
ぐらりと前のめりに倒れ込んでいく珊瑚を、くろすけが、おおっと、と慌てて抱き留める。
さらと泳いだ珊瑚の長髪が、ぱたり、と彼女の背へ着地した。
「さぁってと。では取り敢えず参りましょうか。」
くろすけは、そう満足げに独り言を言うと、まるで荷でも運ぶように珊瑚の身体を右の肩へと担ぎ上げた。