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©2001 minato



声熱(じょうねつ)



‐‐‐ 後




天も地もなく広がる暗闇の中、ぽつん、と立ち尽くしているのは、白地に桜色の染めを施した着物を纏った、一人の娘。
此処は何処かと(こうべ)を廻らせると、見慣れた背中が視界に入った。
白銀の長髪に、鮮やかな朱の水干。その隣には、異国の着物を身に着けた少女が居る。
そしてそれよりも少し手前。其処には聖紫の左肩に乗った黄金色の尻尾が見えた。その足元には雪より白い体躯の妖猫。
『かごめちゃん。』
娘が呼んでみたけれど、返事はない。
『?犬夜叉…?』
今度はその脇に立つ少年へ声を掛けてみるが、結果は同じ。
無視をしていると言うよりは、まるで聞こえていないかのような、無反応。
『七宝。雲母?』
返事はない。
『…法師さま。』
振り返らない。
『ねえ、聞こえないの?法師さまっ。』
大きめの声音で呼び掛けるけれど、やはり誰も娘の方を振り向きはしなかった。
小さな胸を一息に侵蝕する、不穏な感情。
足早に脈打ち始めた心の臓を、耳朶へ捉える。その鼓動に煽られるように、再び娘は声を上げた。
『法師さま、かごめちゃんっ!』
どうして?
どうしてあたしの声を聞いてくれないの?
己を拒絶するような背中達を、思わず追い掛けていた。
喩え声が届かずとも、その背へ触れれば、腕を掴めば、きっとこちらを見てくれる。
けれど、駆けても駆けても彼等の背中は一向に近付いては来なかった。
それどころか、己と彼等を隔てる距離は広がるばかり。
止め処なく溢れて来る焦燥を無視することは能わずに、悲痛な叫びが口を吐いて出ていた。
『待ってよ、かごめちゃん!』
呼ぶと、その名を持った少女の姿は霧のように掻き消えた。
それを目の当たりにし瞠目した娘は、走る足を止める。
『犬、夜叉…?』
恐る恐る再び呼ぶと、闇の中鮮明に浮かび上がっていた銀と朱が、混ざり合うように色を消した。
『…七宝!雲母…っ!』
小さな残影は、跡形も残らない。
皆、何処へ行ってしまったの ――― ?
震え出した膝を、止めることなど出来なくて。
これ以上ない速度で刻む心拍が、目眩さえ伴わせる。
誰も、あたしの言うことを聞いてくれない。あたしを待ってくれない。
あたしの声は、何処にも届かない ――― ?
『法、師、さま…。』
至極小声で、その名を囁いた。
彼の背は、まだ其処に在った。
『法師さま…っ。』
しかし、娘の声は未だ届かず。
娘は、裂帛の叫びを放つ。
『法師さまッ!』
けれど、その声は ――― 己の声ではなく、嗄れた醜き老婆の(てい)へと変わっていた。
『きゃあああっ!』
愕然とすると同時、信じ難き己の濁声に悲鳴を上げる。


「珊瑚!」
――― 其処で、娘は(うつつ)へと引き戻された。







思い切り見開いた両の目へ最初に映し出されたのは、眉根を寄せた弥勒の顔であった。
心配そうに、こちらを覗き込んでいる。
(ゆ、め…?)
ほんの少し上がった息を認め、珊瑚は自分の置かれている世界を確認した。
「酷い汗を掻いているが…悪い夢でも見たか?」
珊瑚の額の汗を手拭いで拭いてやりながら、弥勒が静かに訊いた。
夢の中で叫んだ声は、やはり、誰にも聞こえてはいなかったのだ、と珊瑚は悟る。
実際に大声で放ってしまったであろう悲鳴も、此処に居た弥勒へさえ届いてはいない。
鷹揚に半身を起こした珊瑚は、何も言わずに弥勒の手から手拭いを受け取った。弥勒の指が一瞬拒んだのが珊瑚へ伝わったけれど、彼は直ぐに手拭いを彼女へと譲ってやった。
自分でやる、と言えれば、こんなこともないのに、と珊瑚は益々重苦しい思いに捉われてしまう。
「珊瑚、」
『なんでもないよ、大丈夫。』
視線を下へと落としたまま、汗を拭いながら珊瑚は言った。
極、自然に。
しかし、汗を拭き取る手が、はたと止まる。
思わず顔を上げると、向き合っていなかった為に珊瑚の唇を読み取れなかった弥勒の(おもて)とぶつかった。
そしてまた、思い知る。
独り言にもならぬ己が言葉の無力さを。
珊瑚は、握り締めた手拭い毎、膝の上へと拳を落とした。
『ちくしょう…っ』
何故にこれほどまで焦るのであろう。不安で不安で仕方ないのは、自身が妖討伐へ向かえずに他力本願な状況に身を委ねねばならぬ所為だけでは、きっと、ない。
「体力が戻れば、気力も満ちる。」
珊瑚の不安を見透かしたように、弥勒が静かにそう告げた。虚ろな瞳で以って見返して来た珊瑚を、柔和な微笑で受け止め、続ける。
「今は、体内に残った妖気がおまえの懸念を増長させているに過ぎぬ。浄化されるまで、今暫くの辛抱だ。」
噛んで含める口調は、するりと珊瑚の胸の内に入り込むけれど、それが心理の奥底まで染み入るには些か時間が掛かるように思われた。
わかっているのだ、法師に言われずとも。しかし、どうしようもなく弱い自分が顔を覗かせてしまう。
それでも余計な心配をさせまいと、こくん、となんとか形だけ頷いてみせた珊瑚へ。
「…案ずるな。」
弥勒の、声。
「おまえの声は、私がちゃんと聞いてやる。」
思わず、彼の法師の瞳を見返していた。
ただの慰めだろうとなんだろうと、その言葉は珊瑚の不安を和らげるには充分な一言で。
たったそれだけで、雪解けの水が流れるように一筋の光明が身体の奥へ馴染んでしまうとは、自分でも易い人間だと思う。
けれど、自然に湧き上がる泣き笑いのような表情を押し殺すことも無理な相談であった。
――― 聞いて欲しかった。
届けたい声を。
何の意味もなさぬような、ただの呼び掛けさえも。
口にした筈の言葉が、無いものとして扱われ消えていくのが、嫌だった。
確実に己の中で生まれ発した言葉が、誰の耳にも止まらず死んでいくのが、堪らなかった。
しかし、産声さえも上げられぬこの言葉(こえ)を、この法師は聞いてくれると、そう、言った。
なんとなく滲んでしまった眦を隠すように再び小さく頷いた珊瑚へ、弥勒の右手が袂をふわりと泳がせ、近付き。
「…痛むか?」
一瞬、ぴくり、と身体を強張らせた珊瑚の細い首許。
八咫烏の腕に締め付けられた箇所が痣になり、くっきりと白い肌を取り巻いている。
その決して有り難くない首飾りへ、弥勒の指が触れていた。
打撲めいた痛みを未だ感じているものの、それを忘れてしまうような彼の行動に珊瑚は身を硬くしながらも、俯いたまま二、三度首を横に振って答えてみせた。
その珊瑚の幼い仕草に弥勒は溜め息混じりに微笑んだ後、頭を彼女の傍らへと寄せ、淡雪の上に咲いた牡丹の如き紫色の痕へ、そぅっと唇を押し当てた。
二つの体温が、一箇所を始点に混ざり合う。
彼の至って真面目で誠実な為様に大人しくしていた珊瑚も、首許へ乗せられた弥勒の皮膚温には流石に黙っていられる筈もなく。
心地良い人肌と呼吸の織り成す細やかな風に、刹那囚われそうになっていた己を認めてもいたのだが。
緇衣に覆われた法師の両の肩を無理矢理押し返し、真っ赤な顔を隠しもせずに、彼にもわかるよう大袈裟なくらい口を開く行為へ力を込めた。
『ちょ、ちょっとっ、やめてよねっ!』
「"もっと、舐めてよね"?」
間髪入れずに飛んだ珊瑚の右手は、しかし、敢え無く法師の左腕に掴まってしまう。それと同時に唸りを上げた左腕も、無論、同じこと。
「そのように警戒せずとも、これ以上のことなどせん。」
薄く笑む様は、邪念のじゃの字も感ぜられぬほどの清廉さだが、それがこの法師の最も信用ならないところだと承知している珊瑚は、上目に睨む視線を弱めはしなかった。
そしてやはりその次に放たれる言葉は案の定。
「この先は、珊瑚の声が戻った後でなくば、楽しくありませんからな。」
『…な…っ…』
珊瑚の両腕を抑え込んだことですっかり安心した弥勒がにやりと吐いた戯言の後、予想だにしなかった彼女の頭突きが彼の額へ見事お見舞いされていた。







犬夜叉達が発ってから、三日目を迎えていた。
珊瑚の声は一向に帰る兆しを見せず、予想以上に…否、予想通りと言うべきか、八咫鳥探討は難航しているようである。
ただ一つの救いは、珊瑚の体調が順調に快復していることであろうか。彼女は一人でも立ち上がれるようになっており、随分と普段通りの所作へ近付いていた。
そのような折、前以って積まれていた薪の残りが怪しくなって来たのに気付いたのは、昼過ぎのこと。花冷えのした昨日、少々気前良く使ってしまった、その報い。
夜ともなればまだ火無しでは過ごせぬ卯月である。陽が傾き始める前に調達して来た方が良さそうだ、との弥勒の判断は至極当然であった。
『あたしも行く。』
珊瑚がそう言い出すであろうことは、無論弥勒の予想通りではあったのだが、それでも一応諭すように言ってみる。
「まだ無理をしてはならん。」
『平気。もう歩けるし、何時までも、こんな洞穴に籠もったままじゃ、腐れちゃうよ。』
すらりと腰を上げた珊瑚は、ゆっくりと唇を動かしつつ、身振り手振りを交えて弥勒へ"言"った。
珊瑚の言葉を目で聞き取った弥勒は、確かに外へ出た方が鬱気の病も少しは晴れるやもしれんな、と彼女の申し出を承知した。鬱気の病に冒されているのは、彼の法師とて同じこと。
今を盛りと咲き誇った桜の波を目にすれば、積もった不安と心配を一瞬彼方へ押し遣ることも可能かもしれない。
「では、行きますか。」
弥勒の声を合図に、連れ立った二人は薄暗い洞を後にし、麗らかな日差しが誰に遠慮するでもなく舞い踊っている空の下へと身を晒した。







適当な枝を拾い上げながら、時に桜の木へ眩しげに目をやりながら、二人は少しずつ少しずつ山道を進んで行った。
気付くと、法師は必ず自分の横か、後方に居る。
桜花の白、桃、葉の緑、空の蒼に見惚れつつ歩いている時は、珊瑚の傍らに。
共に屈み込んで薪となる枝を手に取っている時も、頭をふと廻らすと己の後方に。
絶対に、自分より前を行くことはなかった。
故に、話し掛けたいことがあれば、横を向けば事足りた。ちょっと振り返れば、必ず微笑み返して来る彼が居た。
珊瑚が追わねばならぬ状況だけは…彼女が"目で話"せぬ状況だけは、絶対作らずにいてくれた。
追い掛けても追い掛けても追いつけず、その腕を取りこちらを向かせることさえ出来なかった、あの夢とは、違う。
弥勒の方から言わせれば、珊瑚が自分の視界に入らぬことが決してないように。声の出ぬ現実に彼女が改めて打ちのめされることのないよう、直ぐに反応出来る態勢を取り続け。
たったそれだけのことだけれど、珊瑚の鬱屈した思いを引き上げる効果は少なくなくて。
そしてこの穏やかな季節にも感謝せねばなるまい。これが、暗く澱んだ空から天上よりの使い舞い降る雨季であったり、生きとし生けるものの時間を止めてしまうような厳寒の冬であったりしたならば、そうそう鬱気も晴れるものではないだろう。
けれど今は、越冬という厳酷を耐えた様々な命が芽吹き綾なす春である。
それを祝福するが如き柔らかさで彼等の身体を包む春光は、その内へまでも触手を伸べる霊妙を秘めていた。







ひらりひらりと揺蕩(たゆた)う桜の花弁の生き急ぐ姿に、寂寥と哀愁を掻き立てられようとも、緩やかな水面(みなも)に打ち捨てられたその花弁は沈まず何処までもゆくのだと信じたくなるのは、この生命力満ち溢れる春の匂いの所為か。
はたまた、傍に居る誰ぞが齎す癒しの(さざなみ)の影響か。
――― そのようなことを思っていたのは、弥勒。
一切衆生の済度。その恩恵を欲する者に縋られたならば、尤もらしい科白を吐くのはいとも容易い。
けれど案外、それは女が持っている力なのではないかと罰当たりなことを思ってしまうのも、この法師らしいと言えようか。
人を迷わせるのも女なら、迷いから救うのも、また、女。
(まぁ、これは俺一人の済度にしか成り得ねぇか。)     ※済度=此処では単に、人間を迷いから救う、の意。
些か自嘲気味に笑むものの、それも悪くないと思っている辺りが手に負えぬのだが…。
傍に居れば伝わる体温で。
目に映る小さな笑みで。
それは、口には出せぬ迷いをも眼前へ突き付ける時も、ある。
しかし、その独り善がりな迷霧とは相反するように、何度救われ癒されたことか。
存在そのものが春の柔らかさを保ち、周りを灼き尽くすような夏の激しさを纏い。
そう。己は生きているのだと実感させてくれる、この名を呼ぶあの声だけが、今は失われているけれど ―――
「…珊瑚?」
其処で、弥勒はようやく我に返った。
ほんの少しの間、意識を陽だまりへ解かし込んでいただけに過ぎぬ筈であったのだが、何時の間にか珊瑚の姿が消えていた。
「珊瑚っ。」
拾い集めていた薪ががらがらと腕から零れるのも気に止めず、錫杖を掴んだ弥勒が立ち上がり、呼ぶ。なれど、当然返事はない。
(何処へ…っ)
しまった、と後悔してももう遅かった。
彼の娘の護衛でありながら、目の前の相手から意識を外してしまうとは。
物の怪に襲われても悲鳴一つ上げられぬ、本調子ではない珊瑚を見失ってしまったのだから、この冷静な法師が慌てふためいてしまったとしても無理のない話であった。







弥勒は、呆気ないほど容易く珊瑚を見つけることに成功していた。
「珊瑚、急に消えてしまっては」
彼女の背中へ声を掛けた弥勒の頭上を、一羽の烏が横切って行った。珊瑚の眼前に立つ満開の桜の枝から飛び立ったようである。
その烏の姿を追うように振り返った珊瑚は、弥勒を認めると、バツの悪そうな表情で『ごめん』と口を動かしてみせた。
『烏の、鳴き声が、聴こえたから…もしかして、なんて、さ。』
口許で指を外へと弾くようにして"鳴き声"を表現してみせたり、右の人差し指で己の耳を指したり。そしてゆっくりと唇を操る、珊瑚。
言葉を伝えようとする懸命なその姿は痛ましいのだけれど、己の目にはとても健気で愛おしくさえ映ってしまった不謹慎さを無理矢理押し殺すのは、弥勒にとっても至難の業であった。
「…犬夜叉達が、必ず取り返してくれる。」
それだけ絞り出した後、珊瑚の頭へ、ぽん、と軽く左の掌を乗せた。
幼子を諌めるようなその仕草に、珊瑚は苦笑いしながら、
『…法師さまってば、父親みたいだねぇ。』
顎を少し上げ、背の高い目の前の法師を見上げ遣る。
「…父親と言ったか、今…。」
『当たり。』
珊瑚の黒髪から手を退き、がっくりと肩を落とした法師であったが、悪戯っぽく笑んだ彼女の面につられ、彼も微笑を浮かべていた。
『あのさ、ちょっと、休んでもいい?早く薪集めないと、陽が暮れちゃうのは、わかってるんだけど。』
桜の木の下を指差しながら、珊瑚は弥勒へ一語一語はっきりと伝える。
「ああ、疲れたでしょう。おまえは少し休んでいなさい。丁度この辺りは材が豊富なようだし、私が拾っておきますから。」
有り難う、と珊瑚が言ったのを確認し、其処で初めて弥勒は彼女へ背を晒した。その広い背中へ、珊瑚の右手がゆっくりと、伸びる。
気付かれぬよう、彼の背中から引き戻した珊瑚の指先に掴まれていたのは、乳白色の、一枚の桜の花弁。
それを大事そうに見詰めつつ、珊瑚は桜の根元へ腰を下ろした。
視線の先には、屈んだ法師がその大きな手で二、三本ずつ一気に枝を拾い集めている、後ろ姿。
『なんでそんなに、人のことばっかり思い遣れるんだろうね…?』
膝を抱えた珊瑚は、躊躇いもなく口にする。
その答はわかっているような、しかし全くわからないような、そんな、曖昧な感覚。
どちらにせよ、心の中で幾度も繰り返して来た呟きを、こうして唇に乗せてしまえる今の状況を使わぬ手はない。
案の定、至近距離に居ながらも弥勒へは聞こえる風もなく、彼はせっせと薪拾いへ没頭…しているかどうか定かではないが、その面が珊瑚の方を振り返ることはなかった。
そのような法師の背を見詰め、自然、珊瑚の頬は緩んでいく。そして、先ほどまで濃紫の上に鎮座していた白い花弁を持ち上げ、それへ軽く口づける。
ずっとずっと、彼が自分へ背中を向けぬようにしていた気配りを知っていた。
何かを伝えたくてふと後ろを振り向けば、己を見守っている彼の視線と直ぐにぶつかった。
それは勿論嬉しいことで、安心感を与えてくれるけれど、それは何処か、こそばゆさをも生み出すもので。
故に、法師の背に纏わり付いていたこの花弁へ、僅かな羨望を抱かずにはいられなかった。
何の遠慮も恥じらいもなく、彼の大きな背を見詰めていられるから。
そしてようやく今、法師の無防備な背を存分に眺めることが出来る。
『ごめんね、法師さま。ほんとはまだ薪拾いくらい、出来るんだけどさ。』
休みたいと言ったのは、疲れたからなどではない。ちょっとくらいの無理をすれば、まだ、走ることとて可能だ。普段であらば、この程度の疲弊で休息を願い出たりなど絶対に、しない。
『でもさ、久し振りに見たくなったんだよね。』
黒と紫がくっきりとその領分を隔てる背中へ語り掛ける、何時になく素直な、意地っ張りな筈の、娘。
悪夢の中の不安を煽るだけの後ろ姿ではなく、今此処に在る、現の情景を前にして。
『…あたし、法師さまの背中見てるのって、「好きだよ。」
「え?」
「!?」
唐突に振り向き瞠目した弥勒に、珊瑚の方も度肝を抜かれていた。
「珊瑚、今」
「あああああのっ、今のは、だから背中が、じゃなくて、その…っ」
「おまえ、声が ――― ?」
あたふたと逃げ道を言い連ねようとした珊瑚の思いとは違い、弥勒が指摘したのは、言葉ではなく声の方。
「…あれ?そう言えば…」
其処でようやく己の声が法師へ届いたのがどういう意味なのかを、悟る。
「法師さま…聞こえて、る?あたしの、声…。」
今度は恐る恐る、珊瑚が問うた。
「…相変わらずの、美声ですよ。」
頷きながら、弥勒が優しい笑顔で以って、返す。
「犬夜叉達が、あの烏を成敗したようですな。」
遠い空を仰ぐように頭を廻らした弥勒は、晴れ晴れとした口調で続けた。
「そっ、か…。」
心底安心したように、珊瑚は己の喉許へと両手をあてがっていた。泣きはしないけれど、泣きたい程の安堵感が湧き上がって来ていたのも、事実。
「かごめちゃん達に、お礼、言わなくっちゃ…。」
「私もですな。」
うんうん、と腕組みをしつつ頷いている法師を見遣り、珊瑚は怪訝そうな顔を彼へ向けた。
「…法師さまは別にいいでしょ。」
「何を言う。おまえの声を一番に聞かせて貰った役得に礼を尽くさねば、仏罰が当たろうというもの。」
なんでこやつはそういうこっ恥ずかしい科白を、しれっと言ってしまえるのだろう、と、珊瑚は半ば呆れながらも頬を桜色に染めている。
「あ、あのさ。」
「はい?」
「法師さまも…ありがとね。」
聞き逃してしまいそうな小声が、弥勒の耳許を滑り落ちて行く。
「なんのことでしょう。」
「わかんないなら、別にいいよ。」
すっ呆ける弥勒を敢えて深追いはせずに、珊瑚もあっさりと答え遣り。
「お礼なら、言葉以外に何か頂けると有り難いんですがねぇ。」
「…礼をされる覚えはないんじゃなかったの。」
それが仏へ帰依する者の言い様か、とでも言うように珊瑚は弥勒へ白い目を向けていた。
「いや、貰えるものは貰っておこうかと」
「はい。」
間を置かず、弥勒の眼前へ珊瑚の指先が突き付けられる。その細い指に挟まれているのは、一片の、白。
「…これは?」
「桜。」
「いえ、それはわかりますけど」
「お礼。あげる。」
「……。」
味も素っ気もない珊瑚の物言いに少々落胆したように、弥勒は目の前の桜の花弁をまじまじと見詰めている。
「何か不満でも?」
「…頂戴します。」
ちらん、と見上げて来る珊瑚に負け、弥勒は不承不承その花弁を指先で摘むと、彼女の手からその御礼の品を貰い受けた。
ただでさえ小さな花の欠片が、弥勒の指へ移動したことにより、益々その極小さを際立たせ、何やら微笑ましいような感慨に捉われる、珊瑚。
その珊瑚の顔と、今しがた己の物となった桜を見比べた弥勒が思い出したように、言った。
「そういえば、先ほどなんと言ったのだった?」
ぎく、と強張った珊瑚の表情を、見逃すような弥勒ではない。此処は突っ込みどころだ、と本能が嗅ぎ付ける。
「べ、別に、大したことじゃ…」
「大したことでなくば、教えてくれても良いであろう。」
聞こえていなかったのか、との安堵感と、この場をどう切り抜けようか、という焦りが、同時に珊瑚の胸の内を駆け廻る。
「あれは、だから…」
「…すき…とかなんとか、言っていたようであったが。」
其処まで聞き付けられていて、なんと誤魔化せば…?
「だから、す、す…隙だらけだよ、って言ったのっ!」
それには、ほんとか~?という、あからさまに"疑ってます"光線を寄越す、弥勒。
「思いっ切り背中空けちゃってさ、無防備極まりないな、って思っただけ!」
「…隙だらけだよ、ね…。」
むきになって言い募る珊瑚へ、含み笑いを浮かべた弥勒が意味ありげに言ってみせる。
「な、何さ、その言い方っ。」
「別に意味はないですよ?」
かあああ、と赤く染まった珊瑚の頬を満足そうに眺めた後、隙だらけだよ、隙だらけ、すき、ねぇ…、とぶつぶつと独り言をわざと零すこの男、仏の道を踏み誤ってはいないかどうか、まっこと怪しいところである。
「ちょっとっ、ヘンな想像しないでよね!?この馬鹿法師っ!」
久々に飛んだ、罵声。
「…おまえ、やっと声が戻った途端にその言い草もないのでは…?」
「じゃあ何がいいのさ。阿呆法師でも腐れ法師でも、好きなの選びなよっ。」
ばれているやもしれぬ羞恥が手伝い、鼻息荒く珊瑚は吐き捨てた。けれど。
「何時ものように、ただ呼ぶだけで、それだけで良い。」
これまでの雰囲気から一転、急に真面目な顔でこういう科白を言ってしまう弥勒の反則技に、結局はしてやられてしまうのだ。
「え、」
毒気を抜かれた珊瑚が、一瞬呆けた声を上げた。
「その声で、何時ものように呼んではくれぬか。」
弥勒は、些か小首を傾げるように、己よりも短躯の珊瑚を柔らかく見下ろしている。その視線に射抜かれた後、珊瑚は耳まで朱に染めたまま、俯いてしまう。
「あ、あの…」
先ほどのきつい口調とは打って変わり、身体の前で組まれた両の指先が、上下を何度も入れ替えて落ち着きなく動き回っている様は、やはり年頃の乙女らしく可愛らしいものであった。
「…法師、さま…。」
傍に立つ弥勒にしか聞き取れぬほどのか細い声が、舞い散る桜の花弁の波間を縫い、彼の耳朶へと届けられた。
胸にふわりと降り立ったその珊瑚の温かな声を、弥勒は瞼を閉じたまま噛み締めているようで。
「こ、これでいいんでしょっ。」
己らしからぬ娘らしい素振りに自分で気恥ずかしくなった珊瑚は、弥勒の顔も確認せぬまま、ぷいっ、と後ろを向いてしまう。
ほらぁっ薪拾って早く戻んなきゃ、などと照れ隠しにぶっきらぼうな言葉を発しながら。
「――― はい。」
その珊瑚の背を見詰めながら、弥勒は一言返事を投げる。
背中を見たままでも会話出来ることの有り難さに、深く深く、感謝して。
先刻珊瑚から頂戴した白い花弁を、つ、と持ち上げると、その先へ触れる程度の浅い接吻を乗せた。
その後、桜の花弁を大事そうに懐へと仕舞い込む。
そして、花弁を介し二人が間接的に唇を重ねた偶然は、小さく白い媒介自身のみが知る、花霞の中の淡く長閑(のど)けし春景と、消えた。







冷たき声を投げられれば、心は凍てつき氷原と化す。
素っ気ない言葉を返されれば、胸に虚空のような穴が開く。
目視の叶わぬ、形なきものでありながら、容易く人を奈落の底へと突き落とす。
そしてその真逆があることをも、人間は知っている。
故に、求めずにはいられない。
己が心を焦がして止まぬ、想う誰かの声の温度を。











80000ゲッター・飛鳥辺悠さんご依頼の「声の出なくなってしまった珊瑚と、それを心配する弥勒」でございました。
なかなか深いお題で、しかし考えまくった割には軽めのお話になっております。失声の理由は色々と考えましたが、結局は妖怪絡みという相変わらずの芸の無さでスミマセン。
後半、珊瑚嬢をもっと落ち込ませるべきかとも思いましたが、「烏を斃せば声は戻る」という、退治屋だったら絶対に捨てないであろう希望が残されておりましたので、この程度で踏み止まりました。
悠さんの思う通りの内容になったかは甚だ疑問ではありますが、お受け取り頂けましたら幸いです。兎にも角にも、声を聴けること声を出せること、そしてこの長かったインターバルに呆れずお付き合い下さった皆さまに感謝しつつ……あらあらかしこ。

2002.04.14