声熱
‐‐‐ 前
果てなく広がる漆黒の闇夜。
姿を見せぬ月の
齢は、朔の頃。
今宵の天は星の瞬きさえも拒む
体で、頑迷なまでに真闇の黒だけをその身に纏っている。
僅かな妖気に初めに気が付いたのは、巡錫の法師であった。
横たえていた身を起こすと、周囲へ意識を走らせる。山深くに張った営の周りは森閑そのもので、常人であれば何の異常も其処には認められぬだろう。しかし、弥勒は己が感覚を頼りに一歩を踏み出す。
「…法師さま。」
辺りを憚る小声が、弥勒の背に掛かった。
「ちょっと様子を見て来ます。珊瑚は此処に。」
珊瑚はこくりと頷いたが、黙っておれなかった者が、一人。
「俺も行く。なんか居んだろ。」
結わえもせず、あるがままの黒い長髪を揺らし犬夜叉が立ち上がった。
変化しないとわかっている己が妖刀をがちゃりと腰へ挿す。
「…今日のところは大人しくしていて欲しいのだが。」
「うるせぇ、あっちか?」
ぼそらぼそらと囁き合いつつ、二人の男は闇の中を進んで行った。すると、梢の隙間にぴかりと鈍く光る点が、二つ。
「…鳥、か?」
「てめぇ、さっきから何をこっちばかり窺ってやがる!」
何の駆け引きもなく、突然犬夜叉が怒鳴った。脈絡もなく喧嘩を売るのではない、と法師が溜め息を吐いたことなど彼には些かの影響も及ぼさない。
「黙りゃ、小僧。わらわの邪魔をするならただではおかぬぞえ。」
光る目を持つ妖が答えた。その声は嗄れた老婆のような風情で、鼓膜を
嬲ること不快極まりない。ざりざりとしたその声差しに、思わず二人は耳を塞ぎたくなる衝動に駆られた。しかし、これから起こるであろう戦闘を考えれば、手の自由を奪う訳にもいかず、なんとかその気分の悪さにも踏み止まった。
「我等を邪魔と言うからには、これから一体何を
為すつもりであった?」
錫杖の切っ先を下方へ向け、柄を右脇へ挟むような格好を取った弥勒は、何時でも踏み込める体勢である。
妖鳥は、その法師の問いには答えぬ代わり、巨大な両翼をぶわりと広げて見せた。闇の中に浮かび上がるは、三尺を超える、その姿。
「八咫烏…っ」
思わず呻いた弥勒の声を遮るように。
「どきや!目障りじゃ!」
醜い鳴き声と共に、その妖鳥を取り囲むように数え切れぬほどの光点が目を開けた。
「!」
途端、凄まじい程の羽音が弥勒と犬夜叉の周りを埋め尽くす。黒を黒で染め返すように、ぎらと光る目だけが異様に目立つ妖鳥の大群による襲撃が始まった。
「…っの野郎…!」
錫杖と鉄砕牙を縦横無尽に走らせるものの、濡れ羽の包囲網は数にものを言わせ、なかなかに崩れを見せない。その様子を離れた場所から見守っていた珊瑚は、飛来骨を手にし前方へと走り出した。
「法師さま、犬夜叉っ!」
妖の眼光を頼りに暗い道を駆けながら、珊瑚が叫ぶ。
「…待った甲斐があった。」
其処で、例の醜悪な声が弥勒の頭上で発せられた。同時、一際大きな羽ばたきが耳朶を掠める。
「良い、声じゃ。」
「!」
その妖鳥の言い様に、弥勒はやっと思い到った。
聞いたことがある。人間の女の声を奪う、酷く醜い声をした雌烏の妖の存在を。
「珊瑚、来るなっ!」
しかし、弥勒の声は
僕の烏共の羽音に遮られ、珊瑚へは届かない。
彼女は、渾身の力を込めた飛来骨の一投を放つ。それは闇を切り裂き白い軌道を描くと、弥勒と犬夜叉を取り囲む烏達の上方を見事薙ぎ払った。けれど、一瞬崩れたかに見えた陣形は、瞬く間に再編されていく。
「ちっ。」
その珊瑚の眼前へ、飛来骨の返りよりも早く、ばさりと現れ出でし親玉の巨鳥。
「!」
「その声、わらわにくりゃれ!」
嗄れたその叫びが、尖った
嘴から放たれた。その一言で、珊瑚もこの烏がどのような類の妖かを瞬時に悟る。地をごろりと横転し、珊瑚は間一髪で彼奴の来襲をかわした。その一連の騒ぎに、彼女の後方でかごめと七宝が目を覚ましたらしい気配を読み取る。
「さ」
「かごめちゃん、声出さないでっ!」
その手に掴む筈だった、己の脇を摺り抜けて行く白い得物を見送りつつ、叫んだ。今、この烏妖の意識は自分へ向けられている。かごめが声を出しさえしなければ、彼女が
彼奴の選択肢に含まれてしまうことだけは避けられるであろう。
しかし、その一瞬の目配せが珊瑚の隙を生んだ。
「!?」
巨大な翼が己の方へ伸ばされたかと思うと。その翼が見る見るうちに真っ黒な丸太のように変形し、その先端が五本に割れた。
まるで、人間の指先 ――― そう認識した時には、その異形の指は珊瑚の細い首へと絡み付いていた。
「…ぐ…っ!」
喉へと被さる、激烈な圧迫感。それと同時、己の中から何かが吸い出されていくような嫌悪感と倦怠感が湧出する。
締め上げられた首へ食い込む、ぬめり気のある羽の感触。しかしそれは羽毛の柔らかさなど微塵も伴ってはおらず、強力な十指としか言いようがなかった。
珊瑚の両の足は、既に地表を離れている。身体を侵蝕する邪気と、自由にならぬ呼吸が足枷となり、珊瑚自身の力による抵抗は最早叶わない。
其処で割り込んだ、獣の咆哮。光焔を四肢に纏い、成獣へと変化した雲母が、窮鳥と化した主を救わんと猛然と突進し。
珊瑚の首を捕えて放さぬ羽毛に覆われた片腕へ、盛大に己が牙を突き立てた。
「ぎゃああッ!」
同時、尖鋭なる嘴から放たれる、叫び。
――― なれど、それは既に珊瑚の声差し。
突然耳を
劈いた悲鳴が彼の退治屋の娘の声であることに仰天した雲母は、妖の腕へ喰い込ませていた牙を反射的に抜き取っていた。
その痛烈なる叫び声は、どんなに払っても斬り裂いても影響のない、数多の烏に動きを完全に封じ込まれた弥勒と犬夜叉の耳へも届く。
「珊瑚!?」
視界を闇色の羽に遮断された二人には、この烏共の形成する籠の外で何が起こっているのか欠片も見えてはおらず、聴覚のみで認識した珊瑚の悲鳴に、狼狽の色を隠し切ることは出来なかった。
「犬夜叉、私の援護を!」
「な?」
「いいから早く!」
説明している猶予はない。
言われるまま、烏の来襲を払う行為から手を退いた弥勒へ群がる分も、犬夜叉は錆刀で相手せざるを得なかった。
守護を妖力を持たぬ少年へ預けた青年法師が、懐から引き抜くは一枚の符。それを足元へ放つと、弥勒は強行手段へ打って出た。自分達の立つ此処が、他の仲間とどのような位置関係にあるかわからぬ以上、安易に風穴を開くことは避けねばならぬ。ならば、己に与えられた別の力を使うより道はない。
ひらりと舞った薄い符の上から、どがり、と法具錫杖の柄尻を地へ突き刺した。しなやかな指先が、足早に印を結んで行く。そして口の中で二言三言密やかに言霊を放つと。
符を頂いた錫杖が地を貫いているその箇所を中心に、弥勒と犬夜叉を取り囲むように不可視の力が現出した。足元から噴出したその加護は、瞬時に上空へと駆け抜ける。
その駆け上がる力は、目には捉えられぬ軌道上、下から上へ撫でるような柔らかさで以て烏共の包囲網を蹴散らしていた。
全ての消滅とまでは行かずとも、揺らぎ薄らいだ黒羽の囲いの中に、突破口が顔を覗かせる。
「どけぇっ!」
犬夜叉の怒号。
彼の錆刀と、地表から引き抜いた錫杖が、その間隙を見逃さずに二閃を浴びせ、その開けた空間へ己が身体を飛び込ませた。
ようやっと籠の中から転がり出ることに成功した二人の目に映ったのは、首許を妖鳥に締め上げられ、宙へ浮いている珊瑚の姿。
「珊瑚っ!」
身体を起こした犬夜叉がその名を叫んだ時には、弥勒は
疾うに地を蹴っていた。
再び弥勒を追おうとする烏合の衆。
「うろちょろ目障りなんだよっ!」
その防波堤には、鉄砕牙を握り直した犬夜叉が立った。その数は、既に彼の手に余るほどではなくなっている。
「きさまっ!」
嚇怒を顕わにした声を放ちざま、弥勒は疾走する速度を寸分も落とすことなく、錫杖を彼奴へと横殴りに浴びせ掛ける。
しかし、法師の行動を嘲笑うかのように八咫鳥は珊瑚から両手を離し、見る間に翼へと姿を変えたその腕で羽ばたくと、漆黒の闇の空へと舞い上がった。
雲母の牙に因って穿たれた傷から、どろり、とした血を零しつつも、高く、高く。
そして宙へ放り出される、珊瑚の身体。
「珊瑚!」
彼女の身体が地へ落ちる寸前で、弥勒の右腕が珊瑚をその肩から抱き留めた。反動で、がしゃん、と法具の鐶が激しく震撼する。
弥勒の腕へ確かな重みを伝えて来る珊瑚の身体からは一切の力が抜け切っており、それは彼女が既に失神していることを容易に知らせていた。
「確かに貰い受けたぞえ!」
「!?」
遥か上空から降り注ぐその声に、思わず弥勒が烏を振り仰いだ。
闇に紛れる黒鳥の妖の嘴から洩れし、その、音色。
それは聞き違える筈もない、彼の娘の高くもなく低くもなく、凛々しくも柔らかき、耳に心地良い筈の、声。
既に珊瑚の声はあの烏に盗まれてしまっている事実を、その嘴が雄弁に物語っていた。
「待…ッ」
闇夜を突き刺すが如き眼光を空へと走らせた弥勒であったけれど、其処には、先程までと同じ寒々しいまでの静寂と諒闇が広がるばかりであった。
「お帰り、犬夜叉、弥勒さま。」
辺りに宵闇が広がり始めた頃、半妖の姿に戻った犬夜叉と法師が洞穴の入り口へ現れたのを、中から見て取ったかごめが先に声を掛けた。
「珊瑚の様子は如何です、かごめさま。」
返事もそこそこに、弥勒は珊瑚の安否を気遣う言を投げた。
「まだ、目を覚まさないの。…邪気が身体に残ってるんじゃないかな…。」
己の傍らで仰向けに横たわっている珊瑚へ視線を落とし、かごめが心配げな声を返す。
ただでさえ色白な珊瑚の頬は、蒼く凍えた色合いを湛えていた。
広げたレジャーシートの上、丸めたタオルでこしらえた枕へ頭を乗せ、仰臥した胸から大判のバスタオルを掛けられた珊瑚は、まるで病人のようである。
確かに、妖気塗れの身体は、病に冒されているのと同じではあるのだが。
その彼女の枕許、雲母はじぃっと蒼白な主の
面を見詰めたまま、片時も傍を離れようとはしない。
「それで、どうだった?手掛かりは?」
「ないっちゃ、ない。あるっちゃ、ある。」
問うて来たかごめへ、犬夜叉が曖昧な返事をしつつどっかと腰を落ち着けた。
「なんじゃ、それは?」
「今日だけで、手負いの烏の妖怪が何箇所か村を荒らしている痕跡があります。その何れもが、人間のおなごの声をしていたと言いますから、我々が遭遇した輩と同じと思ってまず間違いないでしょう。」
昨夜遅くから、珊瑚の看護はかごめへ任せ、弥勒は直ぐに
彼の雌烏捜索に発った。
彼女の意識が戻るのも待たぬその即断は、居ても立っても居られぬ故の行動だろう、とかごめは思う。
魑魅魍魎闊歩する夜のうちは、妖力を持たぬまでも戦事に長けた犬夜叉が彼女達の傍に残り、朝の清明な光に魔物共が形を潜めたのに反して力を取り戻したと同時、その俊足で烏探索へと加わって行った。
そしてその間、珊瑚の意識は戻らぬまま。
「じゃあ、それを手掛かりに追えば」
「一貫性がまるでねぇんだよ。足跡に。」
かごめの言葉が終わる前に、犬夜叉が口を挟んだ。空を飛ぶ奴等だからな、と付け加えながら。
あちらこちらとつまみ食いをしつつ、気の向くままに餌床を変えているらしい鳥達を、陸から追うのは容易ではない。
「それじゃあ…」
「長くなるかもしれません。故に、一旦戻りました。」
弥勒は、珊瑚の傍らに膝を折ると、其処へ控えた雲母の頭へふわりと手を乗せた。
固く閉じられた珊瑚の瞼を一度見遣った後。
「雲母、おまえの力が必要だ。珊瑚の傍を離れたくはないであろうが…」
雲母の小さな頭が、珊瑚から視線を外し法師の方を向いた時だった。
伏せられた長い睫毛が、ぴく、と震えたかと思うと、彼女の黒耀の瞳をすっかり隠していた両の瞼が、力無く開かれた。
「…珊瑚?」
「珊瑚ちゃん!」
それぞれの安堵の仕方で以って、その名を呼ぶ。
「珊瑚、気が付いたのじゃなっ!」
仰向けになった珊瑚の肩先へ走り寄った七宝へ視線を送った後、彼女の唇が動いた。
『ごめん、あたしずっと』
気を失ってた?と続けようとしたところで、発した筈の声が己の鼓膜を揺らさない事実に気付く。
『あ、あれ…?』
声を出そうとしているのに。
発声法などいちいち教えて貰ったことなどありはしないが、生まれた時から知っている本能の動作。
それが、叶わない。
ゆっくりと半身を起こし、己の喉許へ右手を添えた。打撲のような痛みが、まだ其処に在る。そして、あの烏の妖に声を奪われてしまったのだと、悟る。
戸惑いを含んだ珊瑚の表情を前にし、一同は事の重大さを改めて思い知っていた。
「…珊瑚、昨晩の出来事、覚えておるな?」
避けては通れぬその一言は、弥勒が静かに口にした。彼の面を見詰め返し、珊瑚は神妙に頷いてみせる。
「大丈夫じゃ、珊瑚!声なぞ直ぐに取り戻して来てやる!」
かごめが故郷から持って来たふわふわとした布に覆われた珊瑚の膝の上へ跳び乗った七宝が、彼女を元気付けようと、その小さな胸を、どん、と叩いた。
『有り難う、七宝。』
まだ赤味が完全に戻らぬ珊瑚の唇が、再び動く。そうしてから、あ、と珊瑚は己の口許へ手をやった。わかってはいても、ついつい動いてしまう、唇。出した筈の声は、誰にも届きはしない無音であるのに。
誰にぶつけるものでもない、漠然とした不安と憤りを感じ、珊瑚の表情は再び曇って行く。
「"有り難う"と言ったのだな、今。」
不意に聞こえた弥勒の声に、珊瑚が思わず顔を上げると、其処には彼の微笑が待っていた。
読唇だとわかっていたが、なんだか己の声が届いたような気がして珊瑚の心はほんの少し軽くなるのだが…。
「珊瑚、おまえはまだ邪気が身体から抜け切っておらぬようだから、此処で待っていなさい。」
『でも』
「では、急ぎましょう、犬夜叉。」
「おう。」
『あたしも行くよ。』
「じゃあかごめ、気を付けんだぞ。」
『待ってよ、ちょっと。法師さま、犬夜叉。』
やはり、届きはしないのだ。
一度視線を外されてしまえば、誰も、己の声を聞いてはくれない ―――
振り返っては、くれない。
それは、何故か酷く珊瑚を不安にさせた。
『法師さまってば!』
自分でも知らず、気付いた時には墨染めの袂を強く引っ張っていた。
「珊瑚?」
引かれた左腕をなぞるように弥勒が目を向けると、その先には、立つこともままならぬ状態の珊瑚が縋るような瞳で己を見上げていた。
「どうした?そう心配せずともよい。我等がついている。」
再び膝を着き、彼女と目線の高さを合わせた弥勒が、柔らかな声音で言い聞かせる。
しかし珊瑚は、それにはふるふると首を振った。
今だって、何度も呼んだのに。
こうやって手の届く距離に居なければ、返事をしても貰えぬもどかしさ。
「珊瑚?」
今、口にすればきっとこの法師は声を"読んで"くれる。けれど、訳もわからず不安だから一緒に居て、なんてどの顔を下げて言えばよいのか見当もつかない。大体、一時的に声を失くしただけではないか。妖を斃しさえすれば、自ずと声は戻る筈で。両腕も両足も満足にあり、五感さえも失われてはおらぬのだ。何をそれほど怖れることがあるのだろう。
彼の名を、呼べぬだけで。
「よっし。じゃ、行こっか、犬夜叉。」
「へ?」
リュックの中身を置いて行くものと持って行く分に取り分けていたかごめが、唐突に半妖の後方で立ち上がった。
「かごめさまには珊瑚の傍に居て頂かねば」
「弥勒さまが残ってよ。」
「…は?」
怪訝そうに言い掛けた弥勒の言葉を最後まで聞かず、かごめがあっさりと言い放ち、弥勒は益々合点の行かぬ声を上げる。
「あの烏を見つけ出すまで、何日掛かるかわからないんでしょ?だったら、こっちにも守り手が一人残らなくっちゃ危険だもん。」
「だもん、て、かごめ…」
そう言った犬夜叉の鼻先へ、びし、と人差し指を突き付ける、かごめ。
「犬夜叉、動けない珊瑚ちゃんとあたしなのよ?か弱い乙女二人を置き去りにしちゃっても、あんた平気なワケ?」
「う。」
「その間に妖怪なんかが来たら?鋼牙くんが来たら?奈落が来たら?」
「…弥勒、おめぇはやっぱ此処に残れ。」
犬夜叉のその科白を引き出したかごめが、こっそり勝利の握り拳を形作っていたことなど、誰一人知る由もなく。
「犬夜叉、かごめさま、しかし」
「じゃ、珊瑚ちゃん、行って来るね。心配しないで待ってて!」
弥勒の言葉などお構いなしに、かごめは珊瑚の手をぎゅう、と握ると、雲母を呼んだ。
すると、瞬く間に変化した雪白の背中へ跨った犬夜叉とかごめの間へ、
「おらも行くっ!」
七宝が、するりと滑り込む。
そして、弥勒へは止める隙を与えぬまま、三人を乗せた雲母は洞穴の入り口から直ぐに天へと駆け上がって行った。
見る間に小さくなる、足元へ広がる景色。
「七宝ちゃん、どうしたの?」
犬夜叉の後方で、抱き上げた子狐へ問う、かごめ。何時もなら、「弥勒を見張るー!」と留守番を買って出るところであるのに。
「…珊瑚のあんな顔は、見ておられん…。」
すまなそうに、子狐は俯いてしまう。
気丈に振る舞おうとした珊瑚の顔が、戸惑いや不安を含んだその表情が、見ているには忍びなかった。彼女を助けたいと思っていたけれど、それは傍に居てやることではなく、声を取り戻しに行く方で成し遂げられはしないだろうか。
それが狡いこととは知っていたが、それでもあの場を逃げ出してしまいたかった。
「…そうね。」
かごめは、優しい声差しでそれだけ応える。
声の出ぬ珊瑚には同性の者がついていた方が何かと都合が良かろう、との判断からの弥勒の心配りは、わかっていた。けれど、珊瑚のあのような顔を見てしまえば、今彼女の傍に本当に必要なのは誰なのか、わからぬかごめではない。
(ごめんね、弥勒さま。)
彼には彼の珊瑚への思いやりがあって。
しかしそれを知っていながら無碍にしてしまったかごめは、心中で法師へ詫びを入れた。
(なんでこうなる…?)
三人を乗せ、空の彼方へ消えて行った雲母の姿を見送った弥勒が、胸裏で一人ごちる。
かごめさまの言い分は、理解出来る。いちいち尤もな話だ。
けれど、己の気持ちはどうなるのだ。
なんとしても、珊瑚の声を盗んだ憎き妖は己の手で討ちたかった。
そしてこの手で、彼女の声を取り戻したかった。
でなければ、あの場へ共に居ながら何の力にもなれなかった己の罪滅ぼしも、珊瑚への申し開きも叶わぬものだと思った。
それなのに、ただ指を咥えて待っていろと言うのか。
自分ではない者が、珊瑚の声を取り返して来るのを。
仲間の力を見縊っている訳ではない。信頼していない訳でもない。
なれどそれとはまた別の話で、珊瑚の為に飛び出して行った彼等へちょっとした羨望が入り混じるのを禁じ得はしなかった。
其処で、背後から人の動く気配。
弥勒が振り返った時には、立ち上がろうとした珊瑚は前のめりに倒れてしまっていた。
「珊瑚っ。」
廻らせていた思考を一瞬で遮断し、弥勒は彼女の元へと駆け寄ると肩を掴んで抱き起こす。
「無理をするのでは」
言い掛けた弥勒の両眼へ、顔を上げた珊瑚の視線が ――― 否、彼女の唇が映った。
ほうしさま、と。
(呼んだのか…?俺を…)
途端、迂闊だった己の行動を恥じる。
声を上げることの叶わぬ相手に対し、背を向けていたとはなんたる浅慮か。
呼ぶことも出来ず、ましてや今の珊瑚は立ち上がる体力さえ回復してはおらぬというのに。
珊瑚は、自分の身体へ手を廻している弥勒の上腕辺りを掴むと、それを支えに自分で半身を起こし居住まいを正した。
蒼い顔で弥勒を見上げ、彼が読み易いようにゆっくりと唇を動かす。
『ごめんね。』
と。
「…何故おまえが謝る?」
珊瑚の背へ廻した手を静かに戻しながら、弥勒が問うた。
『…面倒なことに、なっちゃってるし。』
「今、面倒なこと、と言ったか?」
こくん、と珊瑚は小さく頷く。
「珊瑚は被害者でしょう。余計な気を廻すものではない。」
青っ白い顔をしている時くらい、自分のことだけ考えていろ、と弥勒は思う。
傍についていながら妖鳥の施術を許してしまった己の方が、謝りたいところであるのに。
「今はもう少し眠りなさい。そのような顔色のままでは、例えおまえが嫌がってもこちらは心配せずにはおられぬのだから。」
弥勒のその柔和な声に、珊瑚は何かを言い掛けたけれど、直ぐにその彼の言葉へ従ってみせた。正直、半身を起こしているのも辛い状態にあった故。
ふくふくとした、この時代では見たことも触れたこともない布を再び胸元へ引き寄せ、背を倒す前に、
『あたしの声、ほんとに戻るかな。』
俯いたまま小さく、そして足早に紡いだ。
無論、音になって誰かの耳へ届く筈もなく。
「?珊瑚、今、何か…」
頬に掛かる髪の陰で、珊瑚の唇が動いたような気がした。
それには、珊瑚は頭を横に振り、弥勒が座するのとは逆の方を向き身体を横たえた。
弱気な言葉を吐こうとも、それを聞かれずに済むのは有り難いと思った。
反面、聞いて欲しい言葉を認めて貰えぬのは、とてもやり切れないのだけれど…。
弥勒へ背を向け横になったまま、
『法師さまが残ってくれて、嬉しかった。』
聞かれたくない、それでいて知って欲しいような説明のつかぬ感情を吐露した後、珊瑚は再び眠りに堕ちて行った。
(何か、言ったよな…。)
珊瑚は首を振り否定したけれど、確かに何かを呟いた筈である。
これほど傍に居て、彼女が何を言ったのか"聞いて"やることが出来なかった。
声を失くしたことが、想像以上に互いの距離を隔ててしまっているのだろうか。
たった今交わしていた会話も、脳裏に響くのは己の声ばかり。耳朶を心地良く転がる珊瑚の声音は、終ぞ聞こえはしなかった。このまま、彼女の声が戻らなかったとしたら ――― 誰にも似ておらぬ、耳にするだけで心の温度がふわりと上昇するような、あの、声が。
己の中にふと立ち込めた黒雲を、弥勒は直ぐ様払拭した。
犬夜叉達が彼奴を斃せば、珊瑚の言葉は返って来る。あの程度の妖ならば、妖力の満ちた犬夜叉が梃子摺る相手ではない。
その、足取りさえ掴めれば。
(今は、犬夜叉達を信じて待つしかない。)
己へ言い聞かせるように、胸中で繰り返す。
攻め込むばかりが効果的ではない、と知っている。待つこととて、時には重要な手段。課された状況下で、各々が為すべきことを為してこそ満足のいく結果を得られるのだ。
けれど、不安を抱いたまま待つのはやはり容易ではなかった。
恐らく、この元凶である八咫鳥を探す為に野山を駆けずり回った方が、ずっと楽であろう。
――― 楽?
楽になろうとしているのか、俺は。
不快な感情が、ぼこり、と泡のように涌いた。
あの場で珊瑚を守れなかった己を納得させる為に。
悔しい思いをした己の感情を、彼奴を成敗することで、埋める為に。
盗まれてしまったけれど、取り戻したのは自分だ、と慰める為に…?
珊瑚の声を、取り返したい。彼女の声を、聞きたい。それには嘘偽りがないけれど、随分と狭い了見ではあるまいか。
一番切ない思いをしているのは、珊瑚本人であるのに。
声を失い、縋るような瞳で引き留めて来た彼女を、先刻己はそれを振り解きこの場を後にしようとしたのだ。
(かごめさまの手でも握っていてやれ、と言ったのは、誰だったか…。)
以前、半の妖へ尤もらしく諭した日を思い起こしていた。
それぞれに為すべきことがあると言うなら、今の自分に出来るのは、それこそ ―――
「すまなかった、珊瑚…。」
消え入りそうな声で囁くと、横臥した彼女の頬にかかる髪を、そぅっと払ってやる。
一番不安であろうおまえを、置いて行ける筈もないのに ―――
珊瑚の不安を癒す為ならば、てめぇの自己満足なんぞは取り敢えず後回しにするべきだったのだ。
失敗を挽回する機会が失われるとしても、そんなもんは俺が我慢すりゃいい話じゃねぇか。己の悔しさなど、此処で最優先させる程の大事ではないのだから。
――― ああ、そうだ。
珊瑚の声が戻った暁に、誰よりも先に耳にすることが出来るのは、自分ではないか。
それだけで、充分だ ――― 。
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