SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



紫炎秘曲



‐‐‐ 後




弥勒が庭先を歩き戻る途中、廊下の向こうから勘爾(かんじ)がやって来るのが見えた。
ち、と弥勒は内心舌打ちするものの、何食わぬ顔で遣り過ごそうとしたのだが、勘爾の方から声が掛かった。
「法師さま、珊瑚を知りませんか?」
「…"珊瑚"?」
法師は、珊瑚を呼び捨てにしたことを指摘しているのか。それとも「珊瑚の居場所?」という意味でその名を繰り返しているのか。それは勘爾にも判別し難いところではあったのだが、なんとなく前者のような気がした彼は、敬称を付け言い直してみる。
「いえ、あの、珊瑚…さん。」
「…何か珊瑚に御用ですか。」 (なつめ)さまが帰った後までいちいちあいつの尻を追っかけてんじゃねぇぞこの野郎、と言えたらどんなに楽か。
「その、やっぱりちょっと心配で。先程から姿が見えないまんまだし…」
「…あの娘のことならばご心配なく。」
その科白の根拠である、おめーごときになんとか出来る程度の小事じゃないんでな、という部分は、無論、告げない。
しかし、その法師の言葉を額面通りに受け取った勘爾は、あからさまに安堵の表情を晒した。
「そ、そうですか。そうですよね、珊瑚さん、本当に強い女性(ひと)ですから大丈夫ですよね。」
笑顔になった勘爾が、さっきはほんとに凄かった、と言い掛けると、
「珊瑚が強い?」
弥勒の独り言のような問いが割って入った。
「え?ええ、だってあんな風に怯みもせずに」
其処まで勘爾が口にしたところで、草履も脱がず廊下へ踏み込んだ弥勒が彼の胸座を掴み、背後の柱へそのままひ弱な身体を力任せに押し遣った。勘爾の背が、どがっ、と音を立てる。
「ほ、ほう、し」
「一日二日一緒に居ただけで、あいつの強い弱いがわかるとでも?」
何が起こったのかわからず呆気に取られている勘爾の声を遮り、低い声音で弥勒が再び問うた。
至近距離から弥勒の冷徹なまでの眼差しに睨み据えられた勘爾に、返答など望めるべくもない。
弥勒とて珊瑚の強さを否定するつもりなどないけれど、今、この男にだけはそれを言われたくはなかった。
ぐ、と奴の襟元を握る右手へ更に力を込める、法師。次の瞬間には抑制した静かな声音ながらも、容赦のない弾劾を勘爾の眼前へと突き付けていた。
「喩え芝居だろうと珊瑚の男を気取るなら、さっきみてぇな時はてめぇが盾になってやらなくてどうする?それでも男かきさま…ッ」
静謐なる、怒声。
――― こいつは知らない。帯に掛かった珊瑚の頼りない指先が、微かに震えていたことを。
如何に剛毅な娘であろうと、公衆の面前で着物を脱ぐことに羞恥と恐れを抱かぬ女がいるものか。
喩えそれが譲れぬ信念に所以した行動であろうとも。仲間の為に身を削ることを厭わぬ女であろうとも。
俺は、ぎりぎりまで待ってやったではないか。あの場面、どう考えても勘爾が珊瑚を庇うのが最適だと思われたから。
…否。当然そういった行動に出るだろうと疑わなかったから。
けれど、こいつはうろたえるばかりで待てども待てども動く気配を見せない。自分であれば、あれほどの泥仕合になる前に ――― 珊瑚を辱めるような状況に陥る前に、止めることが可能だったのに。
結局この男は、最後まで動かなかった。もうあれ以上珊瑚を侮辱されるのは耐えられなかったし、こんなぼんくらの目に彼女の肌を晒すのも許せなかったから、己が立ったのだ。
それを、彼女は強いから大丈夫だと?
その厚顔な口を切り裂いてもまだ足りぬ。
――― あの時。こいつではなく、俺だったなら。
俺だったら、あんな受けずとも良い屈辱と涙など珊瑚に味わわせはしなかったのに。
これを醜い嫉妬と呼ぶなら、呼ぶがいい ―――
眼光鋭き聖人(ひじり)の双眸に捕らえられた勘爾は、蛇に睨まれた蛙の如く竦み上がるしかなかった。
其処へ。
「おお、法師さま。愚息に何か有り難いお話でも?」
「おや、埃が。」
廊下の角を曲がり、弥勒の背後から現れた名主の人の良さそうな声を聞いたと同時、勘爾の襟元をぽんぽん、と払う素振りを見せる法師。
その後、名主へ軽く会釈をすると、何事もなかったかのように法具を鳴らしつつ、廊下から庭へと下り去って行く。
「どうした?顔色が悪いぞ、勘爾。」
法師の背から視線を剥がし、柱に寄り掛かったまま放心している息子を見遣った父が怪訝そうに問うた。
「…いや、なんでも…と言うか、俺にもなんだかよく…」
わからない、と言い掛けたところで、へなへなとその場に崩れ落ちた。どうやら腰が抜けているらしい。
さっきのは、なんだろう。あれが、法師と呼ばれる類の人間の行いだろうか?
あのような粗雑な口調に ――― 烈火と氷河を同時に宿したが如き尖鋭なる双眼は。
…などと自業自得な印象を持たれてしまった弥勒法師本人はと言えば。
そんな日常茶飯事とも言える事象などには別段執着する風もなく、しかし昨夜の酒の苦さを思い出し、己を棚上げしたことをひょろ男に言ってしまったか、と自身に呆れていたものだった。







性懲りもなく、我儘娘は本日も来訪した。
生憎、と言おうか丁度と言おうか野暮用で勘爾は留守である。その旨を棗へ伝えると、あっさりと勘爾さんじゃなくて退治屋さんに用があるのよ、などと返事を寄越したものだから、彼が家を空けることになったのも案外棗の画策なのではないかと一行は疑っていた。
昨日の銭嚢紛失事件だとて、名主がその威信に懸け屋敷内の人間全てをしらみ潰しに当たったのにも関わらず、手がかり一つ掴めぬ状況で、棗の狂言である可能性が富士の山より高かった。
その彼女の実家の土蔵に、物の怪が棲み付いていると言う。まだ特別人害はないようなのだが、薄気味悪くて仕方がないので退治して欲しい、との依頼であった。
「行くの?珊瑚ちゃん。」
「うん。仕事だから。」
上がり框へ腰を下ろした珊瑚は、足を覆う革の上から廻しやった紐を結わえながら、かごめへと答えた。
下を向いた頬へ、結び上げた髪の先がちらちらと掛かり揺れている。
「ほっときゃいーんだ、あんなのは。」
両の袂へ腕を挿し入れた犬夜叉が、忌々しげに呟く。その肩からは、そうじゃそうじゃ、と子狐の同意の声が上がっていた。
棗のことだ。何が待ち受けているかわかったものではない。
「そういう訳にもいかないだろ。」
身支度を終え立ち上がった珊瑚は、己の得物を軽々と背負い上げると、きらら、と小さく呼んだ。それに呼応し、雪白の妖獣がぴょこん、と彼女の左肩へとその身を預ける。
なんだか心配、と眉根を寄せるかごめへは、大丈夫、とだけ答え、珊瑚は直ぐに表へと出て行った。
棗は、門前に待たせてある。待たせる時間が長ければ長い程厭味の雑言も多くなるというものであろう。
「遅いわよっ。」
予想通り、棗の苦言が飛んで来た。しかし、次に続いた言葉は珊瑚の予定外で。
「…ふぅん、退治ってあんた一人でやる訳じゃないんだ。」
「え?」
「はい。」
いきなり己の背後から上がった返事に、珊瑚がびくりと振り返ると。
「…なんで居るの。」
「人助けですから。」
一歩下がったところに控えていた法師を視界に捉え、珊瑚が怪訝そうに問うたが、至極簡単な答のみが返って来た。
「ああもう、なんでもいいわよ。じゃ、ついて来なさいな。」
「……。」
つん、と前方へ向き直り、歩み始めた棗の背中と隣の法師を、交互に見遣る珊瑚。
一緒に行くと言い張ったかごめ達をなんとか制して置いて来たその意味を、この法師がわかっていない筈はない。
昨日のような、嫌な思いをさせたくはなかったからこそ一人で行くと言ったのに。そしてその願う対象は、この法師とて例外ではないのに。
(まさか、棗さんまで口説くつもりじゃないだろうね…。)
何時ものような考えが生まれては来たけれど、その可能性はなんだか酷く稀薄なものに思えた。それとももしかして、己の身を案じて …?
しかし直ぐに、それは都合の良い解釈だと自重する。
(ひょろ男の気配がないところで珊瑚と共に居られるのは久方振りだ。)
珊瑚の自分勝手な解釈は、当たらずとも遠からず。それへ更に付加される理由が弥勒にはあったという意味で。
たったの二日を長の歳月かのように一人ごちた弥勒の胸中の本音は、結局はそういうことだったらしい。
そうは言っても、二人の間に流れる雰囲気は、和やかなものとは言い難かったのだが。
結局、棗の屋敷へ到着するまで二人は一言の会話を交わすこともなく、代わりに涼やかな錫杖の鐶の音色だけが彼等の周囲を取り巻いていた。







「この蔵よ。この中に、なんか居るみたいなのよね。」
蔵の錠前を外しながら、棗が言った。どうやら、"何か"が居るのは本当らしい。
時たま聞こえる不審な鳴き声や物音が薄気味悪く、この蔵の中身はずっと取り出せぬままだと言う。
ぎぎぎ、と扉が開けられると、
「確かに、妖気が漂ってる。」
「…極小さいですがね。」
真っ暗な蔵内を入り口から眺め遣った珊瑚と弥勒が、其処でようやっと会話らしい会話を繋いだ。
背後から差し込む外界の明かりがぼんやりと蔵内を照らし、宝物達の輪郭を浮き上がらせる。
なるほど、反物やら装身具、胡散臭い仏像に至るまで、大層な量のお宝が鎮座ましましているようだ。
一歩二歩と蔵の中へ足を進める二人の背へ、棗から声が掛かった。
「退治にかこつけて、他人(ひと)んちのもの黙って持って行ったりしないでよ?まあ、ちょっとくらいなら目を瞑ってやってもいいけどね。」
珊瑚は振り返らなかったけれど、棗が蔑むように笑みながら言っているのは手に取るようにわかっていた。しかし、昨日の間違いは二度と繰り返さない。その言葉には無視を決め込み、視線は前方へ向けたまま。
「恵んでやってもいいって言ってるんだから、礼くらい言いなさいよね。」
猶も珊瑚へ向けられる棗の舌鋒が途切れた時だった。
仄かに照らされた土蔵の奥。そちらからぎぎぃぃぃ、と獣の鳴き声が放たれ、漆黒の陰が頭を擡げたのが目に入った。珊瑚の足元には、ふうぅ、と純白の毛を逆立たせ、威嚇する雲母。
「化け鴉か…。」
ばさばさ、と巨大な翼を振り上げながら、緒に紅玉を連ねた年代物の首玉を尖った(くちばし)に咥え込んだ、一羽の妖鳥が姿を現す。
両の足を宝の山へしっかりと喰い込ませたその様子は、誰にも渡さぬ、とでも言いたげである。
ひっ、と棗の引き攣れた悲鳴が後方から聞こえた。
「そんなに光り物に囲まれて暮らしたいもんかね。」
独り言を洩らした後、珊瑚は己が得物の取っ手を握り直し、その右手を後方へ振り被った。
「退がっていろ、雲母。」
大した妖怪ではない。飛来骨の一投でかたはつくだろう ――― そう思った瞬間。
しゃら、という珠の擦れる清涼な音を聞いた。視界の端で、緇衣の袂が翻ったのが、見えた。
(え?)
反射的に、傍らに立つ人物へ首を廻らす。すると、其処には既に左の指へ数珠を絡めた法師の姿。
「ちょ、ちょっとこんなところで風穴開いたら…っ!」
珊瑚がそう叫んだ時には、弥勒は些かの躊躇いもなく封印の数珠を右腕から解き放っていた。
途端、怒号と共に逆巻く空気。斜め上空へと翳した右の掌中から、唸りを上げて現出する風の咆哮。
その激烈なる呪われた風の影響下、出鱈目に暴れる髪を押さえることもせず、珊瑚はただ呆然と魔の力を駆使する弥勒の姿を見詰めていた。
ぎゃあぎゃあという耳障りな声を上げながら、艶黒の体毛を引き千切れんばかりにはためかせた化け鴉が、己が体躯の何分の一かにしか満たぬ人間の掌へと無抵抗に吸い込まれて行く。
…そして当然、周りに積まれた財宝の数々もその地獄行(じごくこう)を共にしており。
普段であらば、標的を呑んだ瞬間直ぐさま呪風の呼吸を断絶する筈であるのに、その封じの時機が何時もよりも遅かったように思えたのは、珊瑚の考え過ぎであろうか。
しゅんっ、と風音が止んだ頃には、先程まで蔵一杯に積まれていた金銀財宝は、僅かな量を残しただけでその姿の大半を消していた。
「…法師さま、」
眉宇を顰めて問いかけようとした珊瑚はそのままに、弥勒は蔵の入り口の方へと向き直る。
其処には、人とは思えぬ程の法力を目の当たりにした為に腰を抜かして座り込み、ぱかと開いた口を閉じることを忘れ、尚且つ瞠目したままの棗が居た。
「化け鴉を退治する際に周囲の宝物(ほうもつ)も巻き込んでしまいました。避けられなかった事態故、どうかご容赦を。」
神妙な面持ちで、法師は軽く頭を下げると、では、と蔵を出て行った。
法師の声も届いておらぬのか、蔵の中を見詰めたまま放心している棗と、怪訝そうに立ち尽くした珊瑚と雲母が、その場にぽつんと残された。







「ちょっと、法師さまっ。」
振り向きもせず飄々と歩き去る法師へ、小走りに駆けて来た珊瑚がようやく追い付いた。
彼の隣へ並び掛け、足を止めぬまま苦言を呈する珊瑚。
「ねえ、なんなの?あれは!あんなことしていいと思ってんの!?」
けれど弥勒は涼しい顔を些かも崩さない。
「避けられなかった、なんて嘘言って!大体、あんな狭いところで風穴開いたら、みんな吸い込まれちまうことくらいわかってただろ!?」
まるで、此処のところの空白を埋めるかのように、珊瑚は一気にまくし立てた。
自分へ罵詈雑言を浴びせ掛けた人間の損得まで気にしてやるとは生真面目この上ないな ――― と、弥勒が感心していようなどとは露も知らず。
「ちょっと聞いてんの!?法師さまっ。」
「おまえが…、」
やっと口を開いた弥勒が、足を止める。それに合わせ、珊瑚も立ち止まった。きりきりと柳眉を吊り上げた娘は法師の横顔を見詰めているけれど、彼の方は視線を寄越さず静かに言った。
「…おまえ、泣いていただろう。」
全く想像外だったその言葉を受けた珊瑚は、一体なんの話だ、と問おうとした刹那、昨日の出来事へと思い当たった。
――― 見られていた?
梅の下での、あの、悔し涙を。
途端、かああ、と体内の血が逆流し頬が染まっていくのを自覚したのだが、敢えてそれには気付かぬ振りをする。
法師のその告白で彼の意図の全てを酌むことは出来たけれど、だからと言って、諸手を上げて喜べる珊瑚ではない。全く嬉しくないと言えば嘘になるが、それでも彼女の中の正義感は、弥勒の暴挙を見過ごせはしなかった。ましてやその原因が、己の不甲斐無さにあったというのなら、猶のこと。
「…そっ、そんな下らない理由であんなことしたっての!?」
「下らなくなどない。立派な理由だ。」
柔らかいながらも屹とした色合いを宿した双眸が、ようやっと珊瑚を見た。久し振りに絡んだ視線は、互いの胸へ何処となく切なさを孕んだ痛みを疼かせる。
「…だ、だって、」
「そんなに文句があるのなら、隠れて泣いたりするのではない。」
おまえの涙を知らずにいるような間抜けな男になりたくないから泣くときゃ俺の前で泣け ――― と他の女にならば澱みなく言えそうな二の句が、珊瑚相手だと次げなくなる己がもどかしい。
「だから、あれは…っ」
「まだ言うか?」
耳まで赤くなりながらも負けじと反論しようとする珊瑚を遮り、いい加減黙らすぞ、と凄味を含んだ声と共に弥勒の背が屈められた時だった。
「珊瑚っ!」
飛び込んで来たのは、表向き珊瑚の男となっている者の声。
「勘爾さん?」
「……。」
息せき切って向こうから走り寄って来た勘爾は、表情のない法師の視線を受け止め、
「あ、えっと、珊瑚、さん。」
二人の前で肩を上下させ息を整えつつ、彼は言い直す。
「どうしたの?」
「外から戻ったら、棗さんに連れて行かれたって聞いたから…その、心配になって。」
珊瑚と弥勒の間で、ちらちらと視線を泳がせながら勘爾は言った。
「ああ、ただの妖怪退治だったから心配ないって。」
苦笑しつつ答えた珊瑚の前で視線を固定させた勘爾は、
「本当に?怪我はありませんか?棗さんにまた何かされたんじゃ…?」
焦った声差しで繰り返す。
そんな二人の遣り取りを前に、一度浅く瞑目した後、弥勒は無言のまま一人帰路を辿り始める。
勘爾の声を上の空で聞きながら、珊瑚は、その拒むような法師の背中をただ視線で追うしか出来なかった。







事態は急展開を見せた。
貯蔵していたお宝を失った棗は、
「勘爾さんなんかに構ってる場合じゃないわ!あたしは裕福な家の男を探しに行かなくっちゃならないのよ!」
と握り拳で決意表明をし。
「…で、何か言うことは?」
勘爾へじろりと大きな目を向ける。
「あ。えっと…お気を付けて。」
ぴしっ。
ああそうよあんたはそういう男よ止めてくれるなんて思っちゃないわよ、とぶつぶつと独り言を述べた後、棗は踏ん切りがついたように瞳を上げた。
既に、彼女は前しか見ていない。後ろなんか、振り返らない。
我儘気ままな棗お嬢さまは、生命力満ち溢れた背中を晒し、一堂の前から金持ち男探索へと消えて行った。
なんなんだ一体、人騒がせな女だ、と、皆が呆れ顔でその背を見送っていたのは言わずもがな。
(棗さんて、結局勘爾さんのことほんとはどう思ってたんだろ。)
流石のかごめにも、今回の彼女の本意は掴み難いところであった。
実は心の奥底で好きだったのだとしても、自分の欲求を満たしてくれぬと知るやさっさと見限る辺りは彼女らしいと言えなくもないけれど。
丸く収まった…と言えるのかどうか定かではないが、これで珊瑚が勘爾と恋仲にある芝居を続ける必要はなくなったのである。
事情を説明された名主は、彼の娘が倅の妻候補ではなかったと知って大層がっかりしていたものだった。
屋敷を発つ一行を送り際、勘爾は名残惜しいのか幾度となく謝辞を述べる。それは、何かを言いたくて、だが言えなくているような歯切れの悪さを伴っており。
「あの、本当に、有り難うございました。命拾いをしたと言うか…」
棗と一緒になることは、勘爾にとって命に関わる大問題であったらしい。
もういいって、と珊瑚が苦笑いを浮かべ、勘爾に頭を上げるよう促す。すると、背を起こした勘爾は決心したような表情で彼女と向き合った。
「あ、あの、珊瑚」
ぴきーん。
「…さん。」
「何?」
何故か身体に悪寒を感じ、勘爾は取って付けたような敬称を加えていた。しかし、それには負けず、言いたかった言葉を口にする。
「も、もし良かったら…その、このまま此処に残っては貰えませんか…?」
「何をッ」
「七宝ちゃん、しっ。」
食って掛かろうとした七宝を抱き抱え、慌ててその小さな口を塞ぐ、かごめ。その隣で犬夜叉は、へーへーと興味もなさげに勘爾と珊瑚へ半目を向けている。
「…ごめん。有り難いけど、目的のある旅だから。」
極力勘爾を傷付けぬ言い回しで以って、珊瑚は答えた。困ったように笑んだ彼女の(おもて)を受け止め、勘爾も諦めるしかないと悟る。
「そ、そうですか。いえ、変なことを言ってしまってすみませんでした。」
明らかに落胆した風情ではあったが、勘爾は直ぐに退き下がってみせた。が、おずおずと右手を差し出し。
「どうか…道中お気を付けて。」
珊瑚はふわりと笑み、その右手を己の利き手で握り返した。
「有り難う。勘爾さんも元気でね。」
その、握手を交わした珊瑚の後方。袂へ両腕を隠した法師が佇んでおり、ふと、勘爾の視線が彼のそれとぶつかった。
法師は相変わらずの、無表情。けれど意気地のない青年の方は、途端どどぉーっ、と勢い良く噴出した冷汗を隠すことが出来ない。
いつまでも珊瑚に纏わり付いてんじゃねえぞてめぇ さっさと手ぇ離さねぇと呪い殺すぞコラ ――― などという法師の物騒な本音を垣間見たならば、この気弱な若者、その場で心の臓が動きを止めていたかも知れぬだろう。
「どうかした?」
蒼くなった勘爾を認め、珊瑚が何気なく問うてみた。
「いえ!」
「?」
ぱ、と勘爾が手を離し、空いてしまった珊瑚の右手は宙に浮いた。
自分の背後から、見た目普通でその実凄まじい眼力が飛ばされていた事実など、無論、珊瑚の知るところではない。







「ねーえ、ちょっと休もうか。」
「ああ?何言ってんだかごめ。まだ一刻も歩いてねーぞ。」
「いいじゃないの、ちょっとくらい。ね、かまわないでしょ?弥勒さま。」
不満げな犬夜叉から弥勒へと視線を移したかごめが、両手を合わせ拝むような素振りを見せた。
「…私は別にかまいませんが。」
「ちょっと待て。なんで俺じゃなくて弥勒の許可取ってんだ、かごめっ。」
もーそんなの別にいいじゃないの、と答えた横で、
「では、後ほど此処に集合ということで。解散。」
短く約束事を告げた弥勒は、さっさと好き勝手な方角へと消えて行く。その背を追おうとした珊瑚は、躊躇したように足を止めた。
「犬夜叉、七宝ちゃん。ちょっと付き合って。」
緋色の袂へ腕を絡めたかごめは、強引にその少年の腕を引く。なななんだよ?と極僅かに頬を赤らめた犬夜叉は悪態を吐くけれど、その行動は素直にかごめへ従っていた。
「かごめちゃん?」
「じゃ、珊瑚ちゃん、後でねー。」
笑顔で手を振るかごめに引き摺られて行く犬夜叉と、不思議そうにその後をついて行く七宝。そして、その場にぽつねんと残された、小袖姿の娘と真っ白な妖猫。
「何処行くんだよかごめー。」
ぶつぶつと言っている犬夜叉を見遣り、はぁ、とかごめは溜め息を吐いた。
此処まで、一っ言も口を利かずに来た弥勒と珊瑚の雰囲気に、犬夜叉は気付かなかったのだろうか…?







(かごめさまには、余計な気を廻させてしまったようだな…。)
暫く歩いた先に見つけた小川のほとり。夏草が生い茂り始めた至極緩やかな土手に寝転がり、弥勒は胸中で一人ごちる。頭の後ろで組んだ両腕の片方が、ち、と小さく珠の鳴き声を伝えて来た。
未だ苛立つ心を押し隠す為、己らしからぬ行動を取ってしまったと自覚していた。
気持ちの良い気候にも、初めて通る街道の景色にも、会話を弾ませているかごめと七宝にも、一言も触れず此処まで来た。これでは勘の鋭いかごめに訝しがられたとて不思議はない。自業自得というものだ。
茶番劇は己の目の前で終止符が打たれた筈。だのに、釈然としない自分が未だ存在し。
(女々し過ぎる…。)
うんざりとした口調で、また、ごちる。
振り払おうとして猶浮かび来る、夫婦宜しく舅へ酒を注ぎ談笑するひょろ男と珊瑚の姿。芝居とは承知しつつも、仲良さげに振る舞う此処数日の素振りを思い起こしては、胸を掻き毟られた。
ならば思い出さずにおけば良いものを、何故か繰り返し繰り返し己を痛め付けるように反芻してしまうのだから始末に終えない。
演技だとわかっていても、己以外の男の隣で微笑む彼女を許せなかった。
――― 否。許せなかったと言うよりは、悔しかったと言うべきか。
あんな風に極普通の生活を送った方が、彼女にとっては幸せなのだろうか ――― と。
今の己には、到底与えてはやれぬ幸福。その中に在る珊瑚を目の当たりにし、一層の敗北感を味わう。
自分が存在しない環境の中で笑う珊瑚が、眩しいような、疎ましいような。
全ては勘爾へ向けられるべき負の感情が、あまりに膨らみ過ぎてあろうことか珊瑚へまでも波紋を広げてしまった。
嫉妬という、下らない独占欲と過剰な自意識に因って雁字搦めにされ、真綿へ(くる)むようにして守りたかった筈の女へ、自ら小さな棘を刺してしまったのだ。
ずっと、何か話し掛けようとしている彼女を、知っていたのに。
(馬鹿か、俺は。)
再び己を罵ってみたところで、みぃ、という聞き慣れた獣の声が弥勒の耳へと届いた。
「…雲母?」
頭を起こすと、とたたたっ、と駆けて来た小さな体躯が仰向けになった濃紫の上へと転がり込んで来る。
「…おまえ一人か?ご主人様はどうした?」
襟元まで近付き、弥勒の顎先へ白い頭をふるると摺り寄せた雲母は、その問いにみゃう、と答え、首を廻らした。
その妖獣の鼻先が示した先。小川へと架けられた、子供でも越えられそうな低い欄干を携えた粗末な橋。その半ば辺りに佇んだ珊瑚が、こちらの方を見ていた。
雲母を抱いたまま、ゆっくりと上半身を起こした弥勒であったが、何時ものように軽く声を掛けることが出来ない。
その名を呼び此処へ来るよう促すべきだとわかっていても、先の夜と同じく彼女をそのまま放ってしまう。
しかし、珊瑚の方はあの夜と同じでなかった。其処で弥勒から逃げたりはせず、意を決した表情で橋を渡り彼の方へと歩を進めた。
両手で抱えた雲母をぐりゅぐりゅと弄びながら無言でいる弥勒の脇へ、飛来骨を肩から下ろした珊瑚も口を開かず腰を落ち着けた。
「何か?」
用か、と含んだ言い方は、珊瑚を拒絶しているのだと取られてしまっても仕方がない、と、思う。こんな言い方をしたいのではないのに思うより早く喉から零れてしまった…など、言い訳にもならぬだろう。
その弥勒の声に、珊瑚は隣の男をじぃ、と見遣る。その視線を受け止めるのも痛い弥勒であったが、其処は仮面をしっかり被り、事も無げに彼女を見詰め返した。
すると。
「ごめん。」
珊瑚の唇から滑り落ちた一言。また同じ問答になる、と思いつつも、弥勒は先日と同じく訊き返す。
「何が?」
「わかんない。」
「…は?」
あっさりと返って来た珊瑚の返事に、弥勒は気の抜けた声を上げる。
「なんで法師さまがそんなに機嫌が悪いのかはわからないけど、あたしの所為ってことだけは、わかるから。」
「……。」
「そんなつっけんどんな態度、あたしにだけだろ?だから、あたしに何か原因があるんだ。」
其処まで気付いていながら、それが嫉妬に起因しているとまでは理解していない辺りが珊瑚らしいな、などと暢気な感慨を抱く、弥勒。
膝を抱えて傍らに座っている珊瑚は、困っているとも落ち込んでいるとも取れる表情で、ほんの少しだけ尖らせた唇を前方へ向けていた。彼女を困惑させていることに少々の罪悪感を覚えながらも、弥勒はその愛らしい面を見遣る。
「何か思い当たる節でもあるのか?珊瑚には。」
「ない。」
間も置かず、きっぱりと珊瑚は言い切った。その潔さには弥勒も苦笑するしかない。
当たり前だ、珊瑚に非などないのだから。
「おまえはそれでも謝るのか。」
「…自覚がないってのは、最悪だろ。」
其処で珊瑚は一つ溜め息を吐く。法師の気分を害する態度を取ったであろうのに、自分でそれに気が付いていないなんて、最悪だ。
「あたしが何か法師さまの気に障ることを言ったか、やったか、なんだろ?だから、ごめん。」
珊瑚は再び弥勒の方へと向き直る。些か上方にある法師の双眸を見遣ると、また、謝罪した。
参ったな、と、弥勒は思う。
何故にこの娘はこんなにも真っ直ぐなのだろう。己に責があるやもしれぬ、と一度(ひとたび)思えば真っ向から頭を下げて来る。
喩えそうであろうとも、口八丁手八丁で自己弁護から責任転嫁まで一人で綽々とやってのける術を知る何処ぞの誰かとは大違いな一本気。
つまらない我欲に(ねじ)けていた己とは、雲泥の、この差。
「聞いてる?法師さま。」
「え、あ、はい。」
じろ、と睨み上げて来た珊瑚へ、弥勒は気もそぞろな返事を投げた。それが珊瑚には気に入らなかったようで、彼女は立ち上がろうと腰を浮かせ膝を着く。どうせ原因なんて教えてくれる気なんかないのだろう、と彼の気性を把握している珊瑚は、この場を立ち去ろうとしていた。
「…いいけどさ。でも、法師さまがそんなんじゃ息苦しくって仕方ないよ。」
珊瑚の本音が、顔を出す。
「…楽しくない。」
其処は小声でぼそりと呟いたのだが、彼の地獄耳は充分にそれを捉えており。
「私が普段通りならば楽しいのか?」
揚げ足とりな科白を吐いた弥勒へ、
「だ、誰がっ。」
「珊瑚が。」
膝立ちの状態で言い放った珊瑚であったが、至極簡単に彼から切り返された。
「じゃなくてあたし達がこんなんじゃ、かごめちゃん達にも悪いな、って…っ」
「本当に悪いと思っているのか、おまえは。」
――― お前が悪い訳じゃない ―――
けれど。
些か頬を紅潮させた珊瑚の前で、上半身のみを彼女の方へ捻った弥勒が右手を支えに身を乗り出し、今度は大真面目な顔で問うた。それに気圧され、跪いた珊瑚は己の踵へぺたり、と尻を落とした。
「え、そりゃ…」
「口ではなんとでも言えよう。」
う、と珊瑚は口篭もる。確かに、足の爪先から頭の天辺まで罪悪感に満ちている訳ではない。
それこもこれも、あんたが理由を言ってくれないからでしょー、と喉まで出掛かったけれど、辛うじてそれは堪えた。嫌な予感はするものの、良心の呵責に耐え兼ね、一応、訊ねてみる。
「じゃあ、どうすれば許してくれるの。」
「接吻。」
「馬鹿者ーーーッ!」
あまりにも予想通りなその答えに、珊瑚は手許の草を引き千切り、土交じりのそれを思い切り弥勒へ向かって投げ付けた。
左手を翳した弥勒の、ぷは、という声の後に、…っ()ぇ、と呻き声が付け足されたのだが、珊瑚の反応は冷たかった。
「自業自得。」
けれど弥勒はその後無言になり、左手を面から外そうとしない。その指が、目の辺りをなぞるようにゆっくりと行き来している。
「…どうしたの?」
流石に不安になった珊瑚が、警戒を解かぬまま法師へ訊いた。
「…目、に…入った…。」
「え!?嘘、ごめん…っ!」
慌てて弥勒の左の袂を縋るように掴む、珊瑚。
「ちょっと、擦らないで見せて。」
彼の左手をどかせ、その目の下辺りへ己の指を置く。法師は左目を瞑ったまま、下から覗きこんで来る珊瑚の心配げな顔を右目一つで視界へ宿した。
「目、開けられる?…ごめん、法師さまならきっと()けると思っ」
ちゅっ。
一瞬の隙をついて。
極々浅く短く、珊瑚の唇に温かいものが重ねられた。
あまりにも唐突で、瞬きする間にも満たぬ刹那の為様に、珊瑚はぱちくりと目を見開く。
「謝罪の品、確かに頂戴した。」
両の瞼を開け、に、と笑う弥勒の面が眼前に在った。
やられた、と知ると同時、見る見るうちに上昇する、珊瑚の体温。首まで真っ赤に染まった彼女のやることは、最早一つ。
「この腐れ法師ぃーッ!!」
川面をも震わせる怒声の後。
肩を怒らせた珊瑚は雲母を連れ立って疾うに去り、こてんぱんに熨された法師だけがその場へ置き去りにされていた。
「目に入ったのは嘘じゃねぇんだけどなぁ…。」
仰臥したまま空を見上げ、弥勒は無理矢理こじ開けていた左目を再び瞑った。何やら可笑しくなり、左手で長めの前髪をくしゃりと掻き上げつつ、彼は一人くすくすと笑い出す。
己の責には素直に謝る珊瑚も、相変わらずこういった所業には意地を張りっ放しで可愛らしいことこの上ない。
だが、こんなじゃれ合いを介してしか、彼女が己の手の内へ戻って来たと実感出来ない自分の方が余程子供のように思えた。
尤も、珊瑚の方には"何処かへ行っていた"などという意識はないのだろうけれども。大体、手の内にあるのかどうかさえ元から怪しいものである。
――― 此度は、己一人が振り回されたような気がしてならない。
珊瑚にまで八つ当たりをし、彼女とて多少なりとも気分を害したであろうに、その件に関しては一切苦言を呈しては来なかった。
情けなくも珊瑚の方に気を遣わせてしまうとは。
そして、未だ凝り固まっていた心中を、何気ない、普段と変わらぬ会話一つで全て解かしてしまうのだからお手上げだ。
不機嫌の理由(わけ)を、知りもしないくせに。
(下らない意地を張っていたのは俺の方か。)
俺がこんな状態では息苦しいと、楽しくないと珊瑚は言った。
芝居の中の生活と、今の旅路を比べてしまったけれど、何を幸せと感じるかは、珊瑚次第。己が決めることではない。
喩えあの勘爾のような平々凡々とした幸福を今は与えてやれないとしても、俺が俺らしくあるだけで、彼女が喜楽を感じていられるのならば ―――
自惚れてみるのも、悪くはないだろう。
故に、今回のことはこれで終わりにしよう。
珊瑚にはどうやら知られずに済んだらしい、この胸を苛んだ馬鹿げた悋気については、告げぬまま。


「…結局、なんであたしの所為だったんだろ…?」
憤慨しながら首を傾げる珊瑚には、永遠の、謎。
…そして。
弥勒の胸中で、揺らぐ炎の如く奏でられた嫉妬と言う名の不協和音は
日の目を見ることのない、永遠の ――― 紫炎、秘曲。











60000ゲッター・兎月さんご依頼の「犬夜叉達を絡めた"嫉妬法師"」でございました。
ごーめーんーなーさーい。「嫉妬法師」が「心配性法師」に見えるのは管理人だけでしょうか。なんとか嫉妬を態度に顕さずに済ませたかったのですが、私の非力でそれを表現するのは無理でした。しかも法師が女(棗)にお仕置きを…しますか?あの女好き法師が?いくら珊瑚の為でも??
「犬夜叉達を絡めた」というところにも適っておりません。添えただけという。そして、取って付けたような妖怪退治もご愛嬌。
兎月さん、このような嫉妬法師でご満足頂けますでしょうか?どうか広いお心で受け取って下さいまし…!
では、最後までお付き合い下さいまして有り難うございました。

2002.02.28