SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



紫炎秘曲



‐‐‐ 前







「この娘さんがおまえの心に決めた相手か、勘爾(かんじ)。」
「はい、父上…。」
白髪交じりの頭を掻きながら確認を投げて来た父へ、かんじ、と呼ばれた(せがれ)は少々びくついた瞳を上げてそう答えた。
「…おまえには困ったものだ。(なつめ)さんにはなんと申し上げれば…」
「ですから初めから、俺にはそのような気などないと…」
正座をして父の前に控えた勘爾は、段々と背を丸まらせては自信無さげな怨言を述べる。その些か頼りない態度に、隣に座った娘がやれやれ、と溜め息を洩らした。無論それは胸の内に隠したものであって、対峙した親子の知るところではないのだが。
「…で、娘さん。名はなんとおっしゃいましたかな。」
困惑した表情はそのままに、けれど初対面の相手への礼節は軽んじることもなく、中年の男が娘へと問うた。
「珊瑚、と申します。」
両の指を折った膝前に揃え、頬に掛かる髪をさらりと揺らしながら、その娘が、応えた。







「馬鹿馬鹿しい。人がいいのにも程があるってもんだ。」
「しっ。もう来ちゃったものはしょうがないでしょぉー。」
勘爾と珊瑚のその後方で、旅を頓挫させられたことに苛立ちを隠さぬ犬夜叉が吐き捨てたのを見て取って、かごめが静かに窘めた。その二人の隣で、膝に七宝を乗せたまま瞑目しているのは、弥勒。
今このような状況に置かれているその理由は、半日程前に遡る。
何時もと変わりなく、奈落を求め旅を続けていた一行。道端の切り株に腰を掛け悩み深げに俯いた男の前を通り過ぎようとしたところ。
「どうかなされましたか。」
そもそも声を掛けたのは、慈悲深き高徳の法師(本人談)弥勒であった。
声を掛けられた本人よりも先に、背中から聞こえたその声に振り返り口を開いたのは、犬夜叉。
「てめぇはまた余計ななんぱをしてんじゃねぇっ。」
「犬夜叉、この場合それはちょっと誤用よ。」
かごめに倣った言葉を思わず口走っていた犬夜叉だったが、彼女にその使用法の誤りを指摘され、何処が違うんだよ、などと不満そうにぐちぐち言っている。
一見全く共通性の無い風変わりな一行をぽかんと見上げていた男であったが、その視線が法師の後方で佇んでいる小袖姿の娘に止まった。
と、いきなりがばと立ち上がり、懇願するように珊瑚の手を握りかけ。
「あんた!俺の女になって」
すこーん。
握りかけた手は空を切り、後頭部で高らかに鳴った殴打音と共に、男の身体は珊瑚の眼前で地へ伏していた。
男の頭を見事捉えた得物 ――― 仏法を守護する筈の錫杖が、しゃらん、と涼しげな音色と共に法師の腕の中へ収まっている。
「まったく、見ず知らずのおなごの手を握ろうとするとは。昨今の男衆は、油断も隙もあったもんじゃありませんな。」
「自分以外の男には血も涙もない奴じゃのぅ…。」
珊瑚へ辿り着く前に容赦無く男を叩き伏せた弥勒の肩の上で、七宝は白い眼差しを彼の横顔へと浴びせていた。
「自分を棚上げしたことを言ってんじゃないよ。…ちょっと、大丈夫?」
珊瑚は、ぎろ、と一瞬弥勒を睨んだ後に、無惨に這い(つくば)った男の前へしゃがみ込む。弥勒の方はと言えば、おまえまでそのような…などと大層憮然たる面持ちをしていたが、それに関しては誰の心にも同情の余地などありはしなかった。
珊瑚に支えられ、へろへろと立ち上がった男は、すみませんすみません、と何度も頭を下げた。背後から殴られて文句の一つも言わないとは、なんとも気の弱い男だな、と思っていた珊瑚の両手は、しかし今度は間違いなく彼の手の中に捕えられており。
「頼む!あんた俺の女になってくれ!」
ばちーん。
乾いた音は、平手打ちのそれ。
「珊瑚ちゃんも結構容赦ないよね…。」
「いや、これはつい条件反射で…っ」
「何故其処で私を見る。」
その場に居た仲間全員の痛い目線に身体を射抜かれた法師が、無表情に反論してみせる。
結局、被害者と呼べるのは、華奢な少女のびんたに吹っ飛ばされて仰臥し、みぃ、と雲母の問い掛けを浴びている男 ――― 勘爾のみであった。
聞けば、なんでも意に添わぬ縁談が持ち上がっている為頭を抱えているとのこと。女みてぇな奴だな、と呟いた犬夜叉の脇を、どんっ、とかごめの肘が突付いた。
名主の息子であるという勘爾であったが、その何倍も裕福な環境(いわゆる成金というやつだ)で暮らす娘・棗に何故か気に入られ、「嫁に来てやる」と半ば脅迫めいた求愛を受けているらしい。
なるほど、確かにひょろひょろと背ばかり一丁前で、腕っ節にはてんで欠けそうな痩躯をしている勘爾であるが、優しげなその顔は決して悪い方ではない。
権力を握ってしまった家の娘を無下にも出来ず、勘爾は遠回しに断ったのだが一向に効き目はなかった。煮え切らぬ勘爾の態度に怒り出した棗に「決めた女でも居るのか」と詰め寄られ、彼は思わず「はい」と答えてしまった。こうなれば、「だったら連れて来い」と来るに決まっているのだが、棗 からその場限りに逃れることしか考えていなかった勘爾には、此処までで精一杯。決めた女どころか惚れた女さえも居ない彼は、どうやったら棗の詮議から切り抜けられるのか、と、頭を悩ませるしか出来なかった。
「それなら、村のオトモダチとかに恋人の振りを頼めばいいんじゃない?」
しかし、かごめの提案は、あっさりと却下された。棗というのは村一番の器量良しで、そしてそれを本人自ら言って(はばか)らないのだから、そんじょそこらの女が相手では到底諦める筈がない、と。
「そんなにいい女なら、嫁に貰っておけばいいだろうが。俺達にゃ関係ねぇ。」
下らない色事で足止めされては迷惑至極とばかりに、犬夜叉が低く言う。
「いえ、確かに顔は綺麗なのですが、その、なんというか、手前とは性格が…」
「合わないのね。」
「棗は性格が悪いのじゃな。」
気弱な瞳を上目に泳がせつつ答えた勘爾の科白に、かごめと七宝がその意味を察し、先回りをしてみせた。
詰まるところ、勘爾は棗を諦めさせる為、珊瑚に良い仲の女の振りをして欲しい、と頭を下げている訳だ。先の「俺の女に」という言葉は、この辺りの説明を全てすっ飛ばした最終願いだったらしい。
「でもそんな綺麗な人が相手じゃ、あたしなんかよりもっと別な人を探した方が」
「いや!…いえ、あの、そんなことはない、と思いますが…」
言い掛けた珊瑚の声を遮り、勘爾が勢い込んで(かぶり)を振った…かと思うと、またしどろもどろに俯いてしまう。
何やらその頬に薄っすらと赤味が差しているように見えたのは ――― 弥勒だけであろうか。
「お、お頼みします!このままでは、俺は無理矢理棗さんと…」
ううう、と泣きながら訴えて来る人間をこの場で見捨てて行けるものなら、これまでの珊瑚達の旅はもっと容易く進んでいたに違いない。
「…わかったよ。」
「ああ!?なんだと珊瑚コラァッ!!」
「犬夜叉おすわり。」
めしゃ、と沈んだ犬夜叉は敢えて無視し。
「けど、あんたももっとしっかりしなよね。」
「あ、有り難うございますっ!」
地へ(ぬか)づかんばかりに土下座をした勘爾が、その声に嬉しさを一杯に滲ませた。
棗との話がもつれた原因は、この気の弱い男自身にもないこともないのだろうが、そんな彼が初対面の人間へこのような無理を願い出るということは、相当に切羽詰っているのだと言えなくもない。
――― そう言えば、と。
何時もならば「これも人助けです」と法師らしい科白を口にする筈の弥勒が、最後まで一言も発しなかったことに気が付いたのは、かごめのみであった。








「で、その女が勘爾さんのいいひと、って訳?」
「は、はい。」
やはり高い背丈を曲げ、勘爾は頼りない声を上げた。前方に座っている棗の方が、余程威厳があるように見える。
いかにも高価そうな着物を纏った棗は、確かに麗しき見目をしていた。年の頃は十六、七といったところか。丸くて大きな目は愛らしく、睫毛は影を落としそうな程長い。絹のような肌を煌めかせて座る姿は正しく牡丹と言えるだろう。しかし、外見と中身が総じて一致するとは限らない。その花弁の如き可憐な唇から零れる言葉は刺々しい…と言うか、毒々しい。
「あんた、何処の阿婆擦(あばず)れだか知らないけどね。」
その棗の科白に、ぴく、と一行の誰も彼もの眉が微動する。
「勘爾さんが名主の息子だと知って取り入ったんでしょ?でも残念ながらこの家にそんな大層なお宝なんてありゃしないんだから。」
自分の家でもないのに、なんという言い草か。これならば、勘爾が涙を流して助けを求めたその意味も知れようというものだ。
「諦めて、帰りなさいよ。その後ろの訳のわからないお供を連れてさ。」
「んだとコラァッ!」
訳のわからない、という言い様に引っ掛かった犬夜叉が腰を浮かし掛けたが、
「こ、この方達はご親戚と、仏法に仕える使いの者ですっ。」
あまりにもお粗末な勘爾の弁明に、半妖は言葉を失って脱力した。駄目だ、この男…と思ったのは、かごめ、七宝、然り。
「別に、そんなものを目当てにしていた訳じゃないから。」
それまで黙っていた珊瑚が、ぽつり、と言った。途端、周囲に緊張が走る。
「…へぇぇ。じゃあ、なんの損得もなくこの腰抜けの勘爾さんが好きだって言うの?」
酷過ぎる…。
己の前で肩を落とし…恐らくるるると泣いているであろう勘爾へ、かごめは同情の念を禁じ得ない。
「ああ、好きだね。」
びしっ。
二人の少女の間で、空気が確実に(ひび)割れる音をかごめは聞いた。
大きな瞳でぎらりと珊瑚を睨んだ棗であったが、当の珊瑚は涼しげな(まなじり)を些かも歪ませることなくその鋭視を受け止めていた。棗にしてみれば、その落ち着き払った態度が益々以って気に食わない。
やおら立ち上がった棗を見上げ、
「こ、これでわかってくれました…?」
びくびくと小声で問う勘爾。それを殊更激しい視線で見下ろし、棗は答えた。
「何をわかれって言うの!?明日、また来ますッ!」
がーん、と勘爾の頭の上で重厚な鐘の音が鳴ったのを聞きながら、一行は、いい?あんた逃げるんじゃないわよっ、との捨て科白を残して去って行く棗の背中を見送っていた。
「…諦めねぇじゃねーかよ。」
犬夜叉の低い呟きが部屋へ響き渡る。
確かにそれはそうであったのだが、棗が相手の女の容姿について罵倒しなかっただけでも効果はあったのだと勘爾は言った。
「でも、明日も来るって…」
「いつまで此処に居りゃいいんだよっ!」
気の毒そうに言ったかごめの声に、犬夜叉の怒声が被さる。それに気圧された勘爾は、ええとええと、と口篭もるばかり。
「…棗さまのご様子からして、勘爾どのが他のおなごと祝言を挙げるまで諦めはしないのでは?」
その静かな声音の発せられた方を、其処に居た全員が一斉に振り返る。
視線を浴びた弥勒は動じる風もなく言を繋いだ。
「もしも一旦諦めたとしても、珊瑚がこの土地を離れれば状況は元に戻ってしまうのではないですか。」
「あ」
「…そう言えばそうよね。」
弥勒の言葉に、皆はようやく思い至ったようで。
「何故それをもっと早く言わんのじゃっ。」
「…誰も疑問に思わなかったのですか。」
はぁ、と軽く嘆息しつつ呟く弥勒。
久々に口を開いたかと思えば、的確なことを言って来る。だったら先に言ってくれれば、と珊瑚も七宝同様の苦言を胸裏に浮かべていた。
――― さっきは、止めもしなかったくせに。
「だったらてめぇがあの女をたぶらかせばいいだろうが。何時もみてぇに。」
言った途端、かごめに白銀の一房を掴まれ、ぐいっ、と千切れる程に引っ張られた。犬夜叉はいでで、と唸る。
「棗が美女じゃと聞いたから、黙ってついて来たのじゃな?」
「…おまえ達は御仏に帰依するこの私を一体なんだと思っているのです。」
「女の敵。」
「詐欺師。」
「ナンパ師。」
「スケコマシ。」
間髪入れず次々と暴露される、皆が心に抱えている己の印象。しかもかごめの影響か、評する語句が格段に増えている。それを突き付けられ、弥勒は改めて肩を落とした。
「じゃ、じゃあ…祝言の真似事だけでも…」
「悪いけどそれだけは出来ない。」
珊瑚の顔を窺うように言い掛けた勘爾の言葉は、にべもない珊瑚の一言で切り捨てられる。明らかに落胆した風情の彼は、そうですよね、と弱々しく応えただけだった。
結局何の解決策も見出せず、取り敢えず明日の棗の様子を見よう、ということでその場は収まった。問題提起をした弥勒はと言えば、その後またも無言を貫いてしまってちっとも知恵を貸してはくれなかったのだ。
珊瑚は、思う。
(怒ってるのかな。)
浅はかだった、己の判断を。
このままいけば、少なくとも二、三日旅を止めしてしまうのはまず間違いないであろう。
(軽蔑して、いるのかなぁ…。)








何はともあれ、その日の夕餉と寝床にはありつくことが出来た。
夕餉の席では、勘爾の父である名主が"良い仲の二人"へ色々と質問を投げて来た。名主にしてみれば、息子と棗が契った流れで傾いたこの家を盛り返したく思っていた節があったのだが、こういう状況になってまでそれを無理強いするような非道い親ではなかった。
話してみれば気立ても器量も申し分のない娘である。そんな相手が愚息にいようとは思ってもみなかった父の姿は、中々の上機嫌を表しており、それには勘爾も安堵していた。
「ああ、酒が切れたか。どれ、わしが催促して来よう。」
赤くなった顔を綻ばせ、名主が席を立った。打ち合わせ済みの内容ばかりだったとは言え、質問攻めに遭っていた珊瑚と勘爾は少々の休息に胸を撫で下ろす。
「皆さんには御迷惑をお掛けして申し訳ございません。」
へこりと頭を下げる勘爾へは、いーえそんな、とかごめが代表して返事をした。
「珊瑚さんには本当になんとお礼を言ったら良いか…」
「"さん"は要らないってば。よそよそしくって却って変に思われるだろ。」
他意はなくあっさりと言う珊瑚を見返し、酒に因ってかその科白に因ってか、僅かに上気した頬を携えた勘爾が答える。
「…では…珊、瑚。」
「はい。」
ばきっ。
瞬間、乾いた音が何処かで鳴った。
「何?何の音?」
「ああ?なんも聞こえねーぞ。」
おかしいなあ、と首を傾げて辺りを見回すかごめ。それほど大きな異音ではなかったので直ぐに忘れてしまったのだけれども。
丁度其処へ、徳利を山ほど載せた盆を抱えた使用人と共に名主が戻って来た。名主は再び勘爾と珊瑚の膳の前へ腰を下ろすと、三人で他愛もない話を始める。名主へ酌をする珊瑚は、舅と旦那に囲まれた新妻、といった風情であった。
「なんぞ、良い雰囲気じゃなぁ~…。」
その様子を眺め遣り、少々恨めしげに七宝が呟いた。
「珊瑚、このまま勘爾の嫁になってしまったりはせんじゃろうか。」
「そんときゃ珊瑚を此処へ置いていくまでだ。」
「んもぅっ、なんで犬夜叉はそういう言い方しか出来ないのー。」
不安げに珊瑚を見詰めている七宝を膝の上へ抱き上げながら、かごめが犬夜叉を軽く睨む。そして、大丈夫よ、と七宝の黄金色の頭を優しく撫でてやった。しかし、なんとかせねば、と思えども名案は浮かばない。何時も助け舟を出してくれる筈の頭脳労働担当者が、未だ沈黙を守っているのだからお手上げというものだ。
それにしても、棗の態度に違和感を覚えたのは自分だけだろうか。彼女は、本当に勘爾に恋しているのだろうか?
かごめの胸には、何故かそんな風な疑問が涌いて来てならない。
「先に戻ります。」
かごめの思考を遮るように、抑揚のない声が届いた。
「え、弥勒さま…」
殆ど食べてないんじゃ、とのかごめの言葉も聞こえていないような弥勒は、名主へ一言挨拶をしてから静かに宴席を後にした。
(…法師さま?)
其処で止めに入るのも憚られ、珊瑚はその背を見送るしかなかった。
犬夜叉でもあるまいし、食事の ――― 酒の有る場所からとっとと消えるなんて。
(今も、あたしの方は一度も見なかった。)
普通と言えば普通、不自然と言えば不自然。その程度の微少な違いではあるのだが、そんな法師の態度に珊瑚は困惑するばかりである。
「ああもう、こんなに残して、罰当たるんだから…。」
ふと弥勒の膳に視線を落とし、そう呟いたかごめは、
(あ。)
見事真っ二つに()し折られた箸 ――― 先程の異音の正体を其処に発見していた。







眠れない程苛立っているとは、自分でも認めたくはなかった。
けれど実際、用意された暖かな蒲団へ潜り込みもせず、先の宴席からくすねて来た酒をこの縁側で一人引っ掛けているのはどういう訳か。
あてがわれた小奇麗な部屋で、七宝は早々に寝入ってしまった。弥勒がその閨を抜け出したことには犬夜叉とて気付いているのだろうが、さして珍しくもない所業故、知らない振りをしてくれている。別室で、かごめも珊瑚も今頃は眠りに就いているであろう。
弥勒は、赤茶色の、(いびつ)な感じが良い味を醸し出している杯を、つ、と口へと持って行く。冷酒が五臓六腑に染み渡るけれど、それは何の味もしてはいなかった。無論、酔い気など揺り起こされる筈もない。
(なんだってんだ、一体。)
持て余す、己が感情。
己という個を律することは得意中の得意ではなかったか。そもそもがそういう生業で、心情の制御に困ることなど随分と昔からなくなっている ――― 筈、だった。
(ただの、演技だ。)
あのひょろ男(弥勒命名)と、珊瑚の態度は。
自身へ言い聞かせるよう、そう、胸裡で吐いた。
わかっている。そんなことは百も承知だ。だからこそガキみたいな感情は眠らせておくべきなのだ。
なのに ―――
「法師さま。」
いきなり割って入った珊瑚のその声に、平静を装った弥勒が顔を上げた。
「…どうしました。」
声を掛けられるまで、気配に気付かなかったとは。余程精神が乱れているな、と情けなくも自覚する、弥勒。
「眠れないの?」
眠れなかったのは自分の方。どうしても先程の法師の様子が気に掛かり、もしかして、と思いこちらへ足を向けたれば案の定彼が居た。こんな時は、決まって寝床を抜け出す彼の癖を珊瑚は知っている。
「飲み足りなかっただけです。」
変わらない。
何時もと、全く変わらない。法師は、澄ました顔で本音か建前か判別出来ぬ科白を言って来る。
珊瑚は弥勒の隣に腰を下ろし、
「だったらなんで途中で席を立ったりしたのさ。」
彼の矛盾を突いてやった。けれど弥勒は表情も変えず酒を呷るばかりで答を寄越さない。
「怒ってるの?」
「…何に?」
訊ねて来た珊瑚へ、弥勒は逆に問い返した。首を絞めることになるか ―――
「…お酒、いっぺんも注ぎに行けなかったから。」
意外なその答に、一瞬弥勒は吹き出しそうになったけれど、珊瑚の方は大真面目である。
「おまえは酌婦ではないのだから、そんなことを気にしてはいけない。」
「……。」
「そんなことでいちいち怒りますか。」
弥勒の方にしてみれば、彼女の罪悪感を取り除く為に言った言葉であったのだが、受け止める方はそうはいかなかった。
「…珊瑚?」
かああ、と頬を染めてしまった珊瑚に気付き、弥勒がその名を呼ぶ。
なんと自惚れたことを言ってしまったのだろう、と珊瑚は悔やんだ。
あたしが酒を注がないから法師さまが怒った、なんて、自意識過剰にもほどがあるというものだ。それを冗談でも肯定してくれれば戯れた会話で済んだのであろうが、否定されてしまっては、自惚れ以外の何ものでもなくなってしまう。
あまりの羞恥と後悔で、己の体温が上がっていくのがわかった。
黙ってしまった珊瑚を何となく放ったまま、弥勒は次の一献を口にする。なんとも気まずい空気が流れているとは思ったが、何時ものようにそれを自ら打開してやる気分にはなれなかった。
「…考えなしで、ごめん。」
「…今度はなんです。」
棘のある言い方になってしまっているのはわかっていた。
「足止め、喰らいそう…。」
「今始まったことでもないでしょう。」
珊瑚に謝って欲しい訳ではなかったが、旅の進行などではなく勘爾との茶番を謝罪して欲しいと思ってしまった己も居る。そんな己の浅ましさを暴露してしまいそうで、必要最低限の応えしか返せなかった。
珊瑚は、何故だか普段のように会話を広げて行かぬ法師の為様に居心地の悪さを覚え、堪らなくなっていたのだけれど、そのままこの場を去るのも躊躇われ。
「あの、法師さま」
「もう戻りなさい。勘爾どのと恋仲にある筈のおまえが、深夜に他の男と一緒だったなどと屋敷の者に噂でも立てられたらなんとする。」
反駁を許さぬ、強い口調。
「でも」
「戻れ。」
消えろ、と聞こえた。珊瑚の、耳には。
前を向いたままこちらの方を見ようともしない弥勒の横顔は、暗がりの為はっきりとその表情までを捉えることは出来ない。
けれど珊瑚はその闇へ、ほんの少し感謝をしていた。今、彼の(おもて)を見るのは恐い。
否、法師と共に居るそれそのものが恐いのかもしれなかった。
彼の姿を見止めた時には、そのような感情は微塵もなかったけれど、会話を続けるうちに暗澹たる思いが波紋のように広がって行くのを止められなかった。
何時もなら怒声を浴びせているのは己の方で、彼を恐いなどと思ったことはない。弥勒を相手にぽんぽんと強気な言葉を吐ける自分を知っている。
でも、今は。
何故か萎縮してしまっている己が居た。弥勒の纏う現在の雰囲気は、それほどまでに ―――
冷たい、ような気がした。その原因は、結局はわからないのだけれど。
故に、憤りよりも不安の方が大きくて、「なんなの法師さま!」と強く声を上げることは叶わなかった。
このまま曖昧にしてはおけぬという気持ちと、逃げ出してしまいたい思いとが、珊瑚の中で(せめ)ぎ合う。
暫しの逡巡の後。黙って立ち上がった珊瑚は、おやすみ、と小さく言いつつも後ろ髪を引かれる思いで廊下を戻って行った。
明りは天上の月星のみのこの刻限、珊瑚の細い背は直ぐに真闇の中へと溶け込み、弥勒の視界から消え失せた。
(小せぇな、俺も…。)
後に残された弥勒は、この上もない自己嫌悪の嵐に吹かれており。
珊瑚に八つ当たりをして何の意味がある。あんな風な背中を晒させて、それでもおまえは男か ――― 。
己へのどんな罵詈雑言も、珊瑚を傷つけてしまったであろう罪への罰には到底軽過ぎて。
最初から、こんな芝居なぞ止めれば良かったのだ。そうでなければ、見落としている穴を指摘し、別の策を講ずれば良かったのだ。
なれど、どうしてもその一言が言い出せなかった。
理由など、わかっている。
妬いているのかと勘繰られるのが、嫌だった。
声を出せば、何か余計なことまで口走ってしまいそうな予感がしたから。
嘘偽りの面を被るのは、己にとり容易い所業であった筈なのだが…。
そしてその結果がこれだ。男気の小ささにも程があるというものだ。
珊瑚の所為などでは、ないのに。
かつん、という冷え冷えとした音と共に注がれた酒は、杯の容量を半分も満たさぬうちに、最後の一滴をぴちょん、と落とした。
(…ちくしょう。)
やること為すこと何もかもが気に入らず、思わず心中で悪態を吐いていた。そしてその最後の一杯を、ぐい、と大袈裟に喉へと流し込み、暗い声で苦々しく、呟く。
「不味いな…。」
それは、酒の味なのか。それとも自身の愚行に対する後味なのか。
闇と同じ緇衣を身に着けた法師を見下ろす千里眼の月さえも、その真実の答を見抜けはしなかった。







次の日。
屋敷の玄関口で、かごめと七宝が戯れていたのは巳の刻辺り。
「邪魔よっ。」
居丈高な視線と科白で現れたのは、棗。昨日の言葉に違うことなく今日も珊瑚の品定めにやって来たようである。
「あの~、棗さん。」
「何。」
道を譲りながらも、かごめは棗へと声を掛けた。(わだか)っている疑問を、意を決し投げてみる。
「勘爾さんのこと、本当に好きなんですか…?」
「はぁ?」
ぎら、と棗に睨み返されたけれど、それには動じず、けれど質問の仕方を変えてみた。
「勘爾さんの、どんなところが好きなんですか?」
相手の感情を逆なでせぬよう、ゆっくりと、静かに。
「好き?誰がそんなこと言ったのよ。」
「え?」
「あいつはねぇ、このあたしを綺麗だとか可愛いとか、言ったことがないのよ?何処の男からも"是非とも嫁に欲しい"って言われる、このあたしを!失礼だと思わないっ!?」
かごめへ掴みかからんばかりの勢いで、棗の歯に衣着せぬ答が噴出する。
「冗談じゃないわよ、ほんと。面と向かって褒めるのが恥ずかしいからって、あたしを無視するなんて許されると思うっ?だからわざわざこうしてこっちから機会を作ってやったってのに… "棗さんを嫁に戴けるなんて夢のようです"って返事するのが道理ってもんでしょう!?」
「えーと…」
道理、ってそういう意味合いだったかしら、とかごめは首を傾げたくなったが、此処で棗と言い争う気はこれっぽっちも喚起されはしなかった。
「絶っっっ対にあたしを嫁に欲しい、って言わせてみせるんだから!」
いざ勝負、とでも言い出しそうな勢いの棗の背中が屋内へと消えていくのを見送りながら、かごめは呆気に取られていた。
どうやら棗は、色恋事ではなく女の自尊心を懸けて勘爾との戦いに臨んでいるらしい。今更「棗さんは美しい」などと勘爾が言ったとしても、それで済む話ではなくなっているようだ。
(なんだかやっぱり、勘爾さんって可哀想かも…。)
そう、心中で一人ごちたかごめの足元。
「…女は恐ろしいのぅ。」
七宝が、ぽつりと呟く。
共に旅をしている女性(にょしょう)がかごめと珊瑚である巡り会わせに、深く、深く、感謝していた。







問題が持ち上がったのは、昼餉の後である。
皆が一堂に会し、味さえわからなくなるような険悪な雰囲気の中で腹を満たした後、棗が悲鳴を上げた。
「あたしの銭(ぶくろ)がなくなってるー!」
持参して来た巾着袋はそのままに、中の財布が消えていた。
昼餉の席へ出向いた折、無用心にも客室へ置きっ放しにしておいた棗にも非はある。大体、勘爾の元へやって来るだけであるのに、べらぼうな金額が入っていたというのだから、不注意と言おうか金銭感覚が欠落していると言おうか。そして、彼女が疑ってかかったのは、やはり、にっくき珊瑚であった。
「あんたでしょう、あたしの銭を盗んだの。」
客室に、一行と勘爾をずらりと座らせ、上座へ陣取った棗がさも当然そうに珊瑚をぴしりと指差した。
「違う。」
馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりに答えた珊瑚を筆頭に、一行は落ち着き払っている。その傍らで、勘爾は相変わらずおろおろとしているのだが。
本日、やって来てから一寸たりとも離れずに珊瑚と勘爾へ引っ付いていたのは他ならぬ棗なのだから、珊瑚にそのような素振りがなかったことなどわかっていての物言いである。却って性質(たち)が悪いというものだ。
「聞けば、あんた妖怪退治屋の里の生まれだって言うじゃない?」
意味ありげに艶笑して問う棗を、珊瑚は無言で見詰め返す。
「そんな胡散臭い生業に身を置いてるんだから、盗みの真似なんて雑作もなく出来るんでしょう?」
棗の、にやり、と端が上がった朱唇を認めた珊瑚は、それでも無言を貫いた。
此処で怒れば、彼女の思う壺 ―――
「もともと銭に困ってんでしょ?そぉんな、田舎臭い格好して。」
「てめぇ、言わせておけば」
「犬夜叉っ」
ばき、と爪を鳴らした朱の袂を慌ててかごめが押し返す。言い返したいのは自分も同じ。けれど、珊瑚が無言でいるものを、こちらが勝手に口を挟んで良いものかと思考を廻らせていた。頼みの綱の弥勒は、例によって黙して語らず。
「ああ、やだやだ野蛮人は。でもあんたみたいな下賎の仕事をしてる人間には、こういう得体の知れない(なり)した女や物の怪なんかがぴったりかもねぇ。」
「このアマ…ッ」
かごめまでも悪し様に言われ、黙っていられる半妖ではなかった。かごめの押し留める手などは振り切り、右手の爪牙が一段と激しい音を立てる。しかし、その腕が振り上げられる前に。
「撤回して貰おうか、今の科白。」
棗を見据えたまま、珊瑚が低く言い放った。
「あたしのことはなんて言われようがかまわないさ。自分の生業が、あんたに侮辱された程度で貶められるような軽いものではないとわかっているから。」
珊瑚の揺るぎのない強い口調に、一瞬棗は押し黙る。
「でも、此処にいる仲間を悪く言うのだけは許さない。謝って貰おうか。」
真っ直ぐに見返して来る凛々しいその瞳が、棗には気に入らなかった。その頑迷な鋼の如き双眼を、意地だけで睨み返し、叫ぶ。
「あ、謝るのはそっちでしょ!?人の銭盗っておいて、この泥棒猫っ!」
「…あたしじゃないと、言っている。」
「じゃあ、その証拠は!?証拠を見せなさいよっ。どうせその袂にでもこっそり隠して、裏で薄ら笑っているくせに!」
冷静な珊瑚の声に反比例して吊り上がる棗の声音。
腰を浮かしたり下げたり、珊瑚を見たり棗を見たり。その身振りだけは忙しい勘爾であったが、一向に口の方は動かない。そのような勘爾に見切りをつけ、犬夜叉を引き留めつつ、かごめの瞳は弥勒へと縋るように向けられた。なれど、弥勒は未だ動く気配を見せない。瞑目したまま、その表情には些かの歪みもなかった。
「そんなにお仲間が大事なら、此処で着物でも脱いで自分の潔白を証明してみたらどうなの!?出来ないわよねぇ、他人の為に、そんなこと!」
その棗の声に、珊瑚はすら、と立ち上がる。
「珊瑚ちゃん!?」
かごめが、珊瑚の横顔を見上げた。
「それで信じて貰えるの。」
棗へと降り注ぐ、凛然とした双眸。まさか脱ぐ気か、と棗は一瞬ぎょっとしたけれど、
「着物と一緒にちゃりん、なんて銭が落ちて来たら笑っちゃうわね。」
今更退く訳には行かず、煽り文句を口にする。
「…謝ってよ、ちゃんと。」
弥勒は、未だ、動ぜず。
「は、早まるな珊瑚ッ!」
「もう二人ともやめてよ、ちょっと弥勒さまっ!」
何してんのよ止めてよ早く、と言い掛けたかごめの脇に、ぱら、と深緑の衣が舞い降りた。
「さ、珊瑚ちゃん、ちょっと…っ」
隣には、小袖一枚で立ち尽くす珊瑚。その前方には、潔い娘の行動を前にし、焦燥をひた隠しにしようとしている棗。
勘爾は女二人の遣り取りに最早顔面蒼白となり、腰を抜かしたようにあわわと震えている。
「珊瑚っ!」
足元に纏わりついた七宝を一度見遣った珊瑚の両手が、背後へ回され帯へと掛かった時。
彼女の前身へ、しゃらん、と錫杖が翳された。
「いい加減になさい。」
遅過ぎるその登場に、待ち草臥れた、とばかりにかごめが大きく安堵の息を吐いてみせる。
珊瑚が視線を横へ廻らすと、其処には法師が立っていたが、彼女を見てはいなかった。
「…棗さま。この娘は盗みを働くような人間ではございません。それは私が保証します故…此処は拙僧に免じ、信じて頂く訳には参りませぬか。」
珊瑚の前に横倒した錫杖を己が胸へと引き上げながら、弥勒は棗の目を見て泰然と言う。僧侶なんぞが出張って来ては、もう事態は収集されたも同じであった。しかし、棗は反射的に口を開き。
「で、でも」
すると、ざ、と衣擦れの音をさせ、法師は棗の前へと膝を折った。
「棗さまとて、本気でこのような無体をお望みであった訳ではございますまい?年頃の娘を衆目の前で身ぐるみ剥ぐなどという蛮行、棗さまの御名を汚すだけにございましょう。」
じぃぃ、と青年法師の清廉な瞳に見詰められ、棗は僅かに頬を染めた。こうなれば、弥勒の勝ちも同然である。
「あ、当たり前じゃないっ。あたしがそんな非道いことを本気でさせる訳がないでしょ!まったく、田舎者は洒落ってもんがわからないんだからっ。」
「…殺す。」
「い、犬夜叉、まあまあ。」
ふんっ、と鼻を鳴らして言い捨てた棗を睨む犬夜叉を、再びかごめが宥めすかした。
珊瑚は両手を帯から離し、しかし直立したままで棗の声を聞いていた。
弥勒が救ったのは、珊瑚だけではない。引っ込みのつかなくなった棗へ収束の機会を与えてやったということを、本人はどうやら理解していないらしい。
「もういいわよ、帰れば銭なんかいっくらでもあるんだから。あ~あ、こんなことに本気になっちゃって、馬っ鹿みたい。」
「ちょっとアンタねぇッ!」
「おい。」
棗の言い様にとうとう我慢の限界を超えたかごめへと、今度は犬夜叉が突っ込んでみせる。
「帰る。明日は文無しで来ようかしらねー。」
「…来るのか。」
「来るんじゃ…。」
立ち上がり、財布の失せた軽い巾着袋を指先でぐるぐると振り回しながら言った棗の言葉に、うんざりしたように犬夜叉と七宝が呟く。
棗は、珊瑚の脇を通り抜けざま一瞥を投げ、つんっ、とそっぽを向き客室を出て行った。
「…珊瑚、あのような暴論に」
「わかってるよ、ごめん。」
法師から己の愚かさを叱責される前に、珊瑚は先に一言謝りを入れる。弥勒へ謝罪すべき話でもないのだろうが、彼の諌止がなければ今頃どうなっていたかわからないのも事実であるから。
「す、すみませんっ!」
まるで棗の呪縛から解かれたかのように、其処でようやく勘爾が口を開いた。
「あ、あの、俺、何も出来なくて…」
相変わらずのしどろもどろで弁解をする勘爾の顔色はやはり真っ青で、冷汗が大量に輪郭を伝っている。
「期待しておらんわ。」
ぼそ、と言った七宝の言葉は、かごめや犬夜叉の思いをも代弁していた。
「大丈夫だよ、別に。乗せられちゃったあたしも悪いし。」
珊瑚は薄い笑顔でそう言うと、外した腰巻を畳の上から掴み上げ廊下へと足を向けた。
「珊瑚ちゃん?」
「その辺探してみるよ。何処かに落ちてるかもしれないから。」
そう告げた時には、珊瑚は既にとたとたと廊下を歩き始めている。そして、ひらり、と雲母が後に続いた。
「お、俺も」
立ち上がり珊瑚の背を追おうとした勘爾の眼前。
吊り橋が降りるように、しゃん、と錫杖が現れた。その細い一本が、勘爾の行く手を阻むべく(かんぬき)を掛ける。
「追わずにおいて頂けますか。」
「へ?どうして…」
「どうしても。」
ずい、と彼の鼻先に突きつけられた弥勒の顔には一切の表情が無かったけれど、何故か勘爾は背筋が冷たくなるのを感ぜずにはいられなかった。







屋敷内を目指すものもなく闇雲に歩き回っていた割には、きちんと人影のない場所 ――― 裏庭へと辿り着いていた。
珊瑚は、此処までどうやって来たのだったか、と、一瞬辺りを見回した後、ふう、と軽く溜め息を吐く。
腐っても名主と言われる地位にある人物の屋敷。その裏庭には立派な梅の大木が三本、見事な枝を広げている。疾うに花弁を散らしてしまったその梅木の最奥の一本を見上げ、珊瑚はつい先程の出来事を思い返した。
棗の科白を、一言一句違わずに蘇らせることが出来る。
――― 慣れている。
過去、あんな暴言を浴びせられたのは一度や二度ではない。退治屋家業が堅気の生業とは言い難い事実は承知しているつもりだ。故に、ああいった反応を示す者にいちいち取り合ったりすることもない。
しかしそれと、湧き上がる屈辱感はまた別の話であった。
必死に抑えたつもりの感情は、更なる仲間への侮蔑に因り静かに奔出してしまった。
あのような方法でしか己が潔白と友の名誉を保持出来ぬと思った自身の浅はかさ。そしてその行動へ及ぼうとした瞬間の自分の姿を思い浮かべると、やり場のない憤りが湧出するのを止められなくて。
どうしてか、涙が滲んだ。
「…ちくしょう。」
足元では、もの言わぬ妖猫が、愛くるしい赤眼で以って主の姿を見上げている。
罵声を浴びせられたのが恐ろしかったとか悲しかったとか、そういう次元ではなく、ただ、悔しくて堪らなかった。
小娘一人に侮辱されたところで貶められるものではない、と己で言い切っておきながら、その実平静ではおられぬこの有り様。
退治屋を侮辱されたのも、仲間を悪し様に言われたのも、あのような売り言葉を買ってしまい娘にあるまじき所業を選んだ己も、全てが悔しくて情けなくて。
俯いた眦を、左の指先で覆った。その指が僅かに濡れたのがわかった。
この程度のことで涙腺が緩んでいる事実がまた悔しくて、指では覆い切れなくなった両の瞼を今度は手の甲で隠す。
ぐい、と何度も拭うけれど、なかなか頭を持ち上げられるようになるまでには至らなかった。
そのような憂色を晒す珊瑚の背と、その後方で屹立する他方の梅の大木。その一本は屋敷をぐるりと囲む廊下の程近くに生えており、彼女の様子を背後から見守るように立っていた。
その更に陰へと隠れるように、幹へ背を預けた男が、腕組みをしたまま身動ぎもせず佇んでいることに、珊瑚は気付かない。
十の歩みにも及ばぬ程度の距離が横たわっているだけであるのにも関わらず、梅の木一本がまるで男の気配を遮断したかの如く静寂を保ち続けており、珊瑚はそれと知らぬまま、暫し彼と背中合わせに立ち尽くすこととなっていた。
濁った灰色の上空を横切る、(つばくらめ)
深く瞼を閉じていた男は、ゆっくりと開眼し、梅の幹から背を離す。
一旦肩越しに細められた双眼は、再び前へと向き直り。
彼は、法具の鐶を鳴らさぬよう、静かにその場を後にした。