爪紅の記憶
‐‐‐ 前
※爪紅=現在で言う
鳳仙花
直ぐにでも忘れたい記憶と、生涯
失くしたくない想い。
どちらか一つだけが叶えられるとしたら、どちらの方を、取るだろう ――― ?
地上に住まう者の穢れを全て拭い去ってしまう様な潔さを纏い、夏の空は今日も変わらず頭上に広がっている。
蒼い蒼い空の下、身体を天日干しにしていると、心までもがからりと晴れ渡って行く様に感ぜられるのは、やはり天の為せる業か。
けれど、その効力も届かずにどんよりとした心を抱えたまま、骨食いの井戸へと飛び込んだのは、かごめ。
なんでも、"期末てすと"とかいう厄介な年中行事が近々控えているらしく、今度ばかりは七日間の長きに渡り故郷へ留まるという話であった。
そして残るは三日となった頃合に、今度は犬耳の半妖の姿が消えていた。
「まったく、あやつには辛抱という言葉はないらしい…。」
「あった方が恐いだろ?」
「それは、言えておる。」
呆れた風に呟いた法師の言葉へ、犬夜叉への援護…とは言い難くもあるが、珊瑚と七宝が反論してみせる。
「まー、それもそうですな。」
てくてくと歩く一行は、路銀稼ぎの妖怪退治を終えた帰り。今朝方楓の村を出立する頃には、既に姿を眩ましていた犬夜叉を話題に、帰路を辿っている途中であった。
「弥勒、あれはなんじゃ?」
濃紫の肩先に陣取っていた七宝が、小さな指を左へと向け、法師へと問う。
「ああ、爪紅でしょう。もうそんな時季か。」
七宝の指差す先に在ったのは、金魚の尾の様なひらひらとした花弁を重ねて咲き誇る、赤色の爪紅。それが、幾本か群れを
生し存在を主張しており。
「ほんとだ。綺麗…。」
爪紅の前で膝を折る法師の傍らへ歩み寄った珊瑚が、見惚れた様に呟く。その乙女然とした彼女の様子を傍目で見遣った弥勒が、
「珊瑚、爪でも染めてみますか?」
優しい口調で珊瑚へと声を掛けた。
「…え?」
「なんなら私が染めてやっても良いですが。」
きょと、と目を見張った珊瑚と視線を合わせた弥勒が次に告げた科白に因って、爪よりも先に紅へと染まる年若い娘の頬。
「べっ、別に要らないっ。子供じゃあるまいし、大体そんなの似合わないしっ。」
女扱いされた事に面食らってしまったのか、慣れぬ状況に陥った珊瑚はそそくさと立ち上がると、背を向け帰路へと戻って行く。その後を軽快な足取りで追うのは、雲母。
「振られたのぅ。」
「振られましたな。」
肩の上からませた言葉を投げて来た子狐へ、弥勒は苦笑を浮かべつつ答えたが。
似合わない ――― ?
「…そんな事、ないだろうが。」
そう小さく呟くと、空いた左の指先で爪紅の花弁へとそうっと触れた。
瞬間。
ひらひらとした花弁が生き物の如くぴくん、と脈打ち、ばく、と弥勒の爪先をその花弁で覆った…様に、見えた。
見えた、という曖昧な表現であるのは、え?と思った時には疾うに花弁は元の姿に戻っていたから。
「……。」
ごしごしと、刮目している七宝も弥勒も無言のまま。
「…見間違いかのぅ。」
「…見間違いでしょう。」
それは、弥勒にしては、あまりにも尚早な結論だったのだ。周囲に妖しの気配が一欠けらも存在してはいなかった事など、理由にもならぬだろう。
「いつまでそうしてんのさー?法師さま、七宝ーっ。」
離れた場所から、珊瑚の催促が飛んで来る。
「今行きます。」
何事もなかった様に腰を上げ、念の為、珊瑚へも話しておいた方が良いかと声を掛けようとしたのだが。
向こうで佇んでいる、小袖姿の娘のその名を ――― 思い出す事が、出来ない。
言葉を失った法師に代わり、法具の鐶が、しゃらん、と鳴いた。
「おぬしまでがそのような顔をしておってどうする。」
「…わかってるけど。」
楓の言う事も尤もなのは承知していた。傍で動揺している幼い狐妖を、益々煽ってしまう事になるのだ、自分までもが暗い表情を浮かべていては。
けれど、どんな顔をしていれば良いというのか。
記憶の全てを失くしてしまった、彼の法師を目の前にして。
情けないと知りつつも、己の抱える不安の大きさは、恐らく七宝とそう変わらないに違いない。
先程まで優しく名を呼んでくれていた法師が、
『…あんた、誰だ?』
そう言った時、悪ふざけにも程がある、と思ったのだけれども、続けられた科白は珊瑚の背から血の気を奪うものであった。
『俺は…何者だ?』
姿形は変わらぬが。
眼差しが違う。目に宿る魂が違う。
弥勒の言葉が冗談ではないと確信した珊瑚は、彼をその場で質問攻めにしたのだが、それは落胆と焦燥を駆り立てる以外に何の作用も齎しはしなかった。
「妖怪を退治した際に、何か心当たる事はなかったか?」
落ち着いた声音で問うて来る楓へ、珊瑚は首を横に振る。
何も、なかった。ただの化けヤモリを退治したに過ぎなくて、毒も霧も出はしなかった。
彼奴本体に触れる必要もなく退治は完遂したのだ。なのに何故突然、法師の記憶が消えるのか。
「身体の何処かを強く打ったりはしておらぬか?何か混入されたものを馳走になっては…?」
考えられる原因を列挙する楓に、やはり珊瑚は首を振る事しか出来なかった。
身体なんか何処も打ってはいないし、今日食したものは、法師と七宝と己は全て同じ。それが理由になるとは考え難い。
「…すまんが。」
其処で、黙していた弥勒が口を開いた。
その座する容姿は、平生の法師と何ら変わらぬけれど。
常であらば、楓を前にしている時の弥勒は何時も背筋をぴしりと伸ばし、目上の者への礼儀を崩しはしないのだが、現在の彼は胡座を掻いた膝へ伸ばした両腕を掛けており、その仕草はまるで一般の青年のそれである。骨の髄まで染み渡った筈の所作も、記憶と共に消え去ったか。
「…俺は、本当に此処へ世話になっていても良いのか?」
所在無さげに、ぽつり、と弥勒は言った。
「法師どの。おぬしは此処の人間じゃ。何も案ずる事なくゆるりとしておられるが良い。」
老巫女は、彼の心配を取り除く様にゆっくりと返事をする。
そう、忘れてはならなかった。一番不安なのは、他ならぬ、彼自身なのだ。己の名前さえも覚えておらず、どうやって生きて来たのかも定かではなくなっている弥勒自身が。
そしてこの先、記憶を取り戻す事が可能かどうかもわからぬのだ。
このまま、思い出せなかったら ――― ?
つき、と珊瑚の胸に走った痛みの正体は、彼女を自己嫌悪へと
誘っていた。
彼の為じゃない。自分が思い出して欲しいだけなのではなかったか?
――― あたしの事を。
自分の存在を忘れてしまったという事実が遣り切れなくて、悲しくて、ただ、思い出して欲しいと。
これまでに過ごして来たあたしとの時間を。
彼の心中を思い、その未来を懸念しての感情なんかではなくて ―――
なんという、狭量な心か。
「有り難いが…でも俺は、どういう
経緯であんた達と知り合いになったんだ?」
そのような珊瑚の後ろめたい心境など、無論察せる訳もなく、弥勒は楓の心遣いへ礼を言った後、記憶の糸を手繰り寄せる為に一番身近な質問を、投げた。
何の解決策も見出せぬまま、夜は明けて行く。
弥勒の問い掛けに、珊瑚は結局それぞれの旅の途中で知り合った、としか答えてはやれなかった。
奈落との因縁も、風穴の呪いの件も、まだ言えない。
真っ先に話さなければいけない重大事であると、わかってはいるが ――― 過去を失い生きる糧を探しあぐねている人間へ、その事実を告げるのは非道な事の様に思えてならない。
「弥勒っ、なんぞ思い出したか!?」
起床して開口一番、弥勒の膝へ飛び乗った七宝が勢い込んで問い掛けた。
「…いや。」
その答よりも、何時もなら其処で頭を撫でてくれるであろう動作が無い事の方が、七宝の心を深く抉る。
「…おらの事も?」
「…ごめんな。」
しょんぼりと上目遣いに問うて来る幼子へ、心底申し訳無さそうに弥勒が謝罪の言の葉を落とす。
「…弥勒の所為ではないのじゃ…。」
静かにそう言うと、七宝はとぼとぼと小屋の簾を潜って行った。
その七宝を見遣りながら、入れ違いに中へと入って来たのは、珊瑚。
「…俺は、あの子供を泣かせてしまったのかな。」
「法師さまの所為じゃないから…。」
「…同じ事を言っていた。あの、…七宝、も。」
薄く苦笑を浮かべ、覚えたての名を口にする弥勒であったが、その呼び方にやはり違和感は否めない。
「あんた、俺の過去を何処まで知ってる?」
唐突に問われ、珊瑚は瞬間口篭もる。
「ど、何処まで、って…」
「俺は、思い出すべき過去なんて持ってるのか?」
真剣な瞳で見据えられ、いよいよ珊瑚は口を噤むしかなかった。
アタシノコト、オモイダシテホシイヨ ―――
言えたら、楽だったかもしれない。
「…何も言わないんだな。」
溜め息交じりの、弥勒の声。
何時も自分が胸中へ留めている不満を、逆に弥勒から言われる日が来ようとは。
「ついでに、もう一つ。」
返事を寄越さぬ珊瑚を非難する素振りも見せず、弥勒は彼女が最も恐れていた言葉を口にした。
「俺の…この右腕の手甲と数珠。こいつは一体何なんだ?」
びくり、と、珊瑚の肩が僅かに震えたのが、弥勒の目にも捉えられただろうか。
「知ってんなら、教えてくれ。」
そう珊瑚を真っ直ぐに見詰めて来る弥勒の目は、彼女の知っているあの真摯な瞳であった。
――― 地獄の烙印を、己に押せと言うのか。
まっさらな、今の彼の胸へ。
どうすれば良いのかと、躊躇する珊瑚。
伝えなければ。喩え記憶を失おうとも、呪までもが消え去った訳ではないのだ。彼の命を蝕み続ける風穴は、今猶その掌中に存在している。
彼がこのような状態だからと、奈落がその魔手を緩める筈もありはしない。ならば、過去など知らずとも、未来の為に戦う道しか弥勒には残されておらぬのではないか。
それを伝える事がどれほどに嫌な役回りかは想像して余りあるけれど、かといって他者へその大事を委ねてしまうのも耐えられなかった。
どうせ告げなければならぬのなら、あたしの口から ―――
「…その数珠はね、」
弥勒の前へ腰を下ろした珊瑚は、自分の知る限り全ての彼の境涯を、告げた。
今日も、このまま暮れ行くのだろうか。こんなに穏やかに見える、一日が。
「珊瑚、弥勒は何処へ行ったのじゃ?」
雲母を抱き締めた七宝が、夕餉の支度をしている珊瑚を見上げている。
「え?居ないの…?」
「…おらん。」
七宝のその声に、
「探して来るっ。」
握った菜っ切り包丁を放り出すと、珊瑚は慌てて表へと駆け出して行った。七宝も彼女の後を追って直ぐに簾を抜け、珊瑚とは別の方角へと足を向ける。
「雲母、おぬしは向こうじゃ!」
七宝のその声に、みぃ、と一声鳴いた雲母も、法師を探すべく割り当てられた方角へと姿を消した。
何処に行ったのだろう、やはりまだ言うべきではなかったのだろうか、との思いを抱えながら当て所なく走るのは、珊瑚。
今朝方に告げてしまった、過酷な現実。
恐怖に顔を歪めるかと思っていた予想に反し、弥勒は「そんな事言われても、実感わかねーなぁ。」などと言ってはいたのだが。
確かに、いきなり「その手に呪いの穴が開いていて、穿った奴を討たなければいつか己がその穴に飲み込まれる」なぞ他人に言われ、すんなり受け入れられる筈もないだろう。今の彼は、風穴の威力さえ目にした事はないのだから。
けれど、事実は事実。時間が経つにつれ、少しずつ恐れが生まれて来たとしても不思議はない。
本来の法師は、その胸に
凝るものを見せようとはしないけれど、そうなるまでも、言葉では表し難い葛藤を繰り返して来たに相違ないのだ。
その果てにようやく掴んだ"見せ掛け"の平常心。
喩え元が同じ人間であろうとも、己を支える、経験と言う名の保身術を持たぬ今の弥勒に、それを望む方が酷というものだ。
(馬鹿な事だけは考えないでよ…!)
右へ左へ視線を移しながら、彼の法師の姿を求め、走る。
すると、大きな大きな菩提樹の、根元。
其処へ背を預け、緇衣を纏った男が座って居た。
「どうしたんだ?そんな血相変えて。」
己の眼前で、はあはあと息を切らせて立ち竦む珊瑚を見上げ、全身黒尽くめの弥勒が問う。
「…ほ、法師さまこそ…っ、…袈裟は…どうしたのさ?」
弾む息を整えつつ、見慣れぬ姿の弥勒へと問い返す。深い紫を目印に探し回っていたので、危うく見落とすところであった。
「ああ、あんなもん着てると、誰かに捕まって説法なんぞをせがまれそうで。」
緇衣一枚の方がまだ目立たないだろう、と彼は言う。
そういった、人が知る常識と呼べるものは綺麗に残されている。消えているのは…思い出。
あっけらかんと言い放った弥勒の右腕に、珊瑚の視線が落ちた。
何時もはそれと同化しているという事なのか、紫の法衣が無いだけで、こんなにも鮮明に浮かび上がってしまう。
墨染めの袂から覗く、呪いを覆い隠す手甲の色彩が。
その珊瑚の視線に気付いてか気付かいでか。弥勒が、その右手を己の顔の斜め上空へと翳すと、暖色に染め抜かれた空色が数珠の上にもその触手を伸ばし、何色とも言い難い色へと珠を変化させている。
そして、己の手の甲を見上げ、静かに弥勒が言った。
「…俺は、こいつを恐がってたか?」
ぎゅう、と己の襟元を握り締める、珊瑚。弥勒は翳した手を、くる、と返し、今度は布一枚で閉じられた風穴と向き合った。
「思い出さない方が、楽だったりしねぇのかな…。」
自身の持ち物でありながら魔物に左右される、その利き手を見詰める弥勒の目は、虚空を捉える様な頼りなさで、とてもあの"弥勒法師"とは思えぬ程に覇気がなかった。
このままでは、この人は記憶を取り戻すよりも先に、魔に喰われてしまう ――― 。
「…思い出そうが出すまいが、その風穴は無くなったりしないよ…?」
非道い言い方だろうか。
「死ぬのが嫌なら、どっちにしろ戦わなきゃあんたの未来なんか来ない。」
けれど、こんな遣り方しか知らない。
あたしに、どちらが楽かなんて答を求めないで。そんな残酷な問いを、どうかあたしに投げないで。
真っ直ぐに見下ろして来る珊瑚の、凛々しくも、けれど幾許かの憂いを含んだ双眸を受け止め、弥勒が口を開く。
「…厳しいんだな。」
「甘く言って欲しいなら、あたしじゃない誰かに訊いた方がいい。」
そうすれば、いいよこのまま何も思い出さずにゆっくりと過ごそう、って言ってくれる優しい人が居るかもしれない。
あたしだって、そんな風に言ってあげられれば良いのだけれど、まだ希望を失いたくはない。血を流し、砂を噛み、やっと此処まで辿り着いたというのに。
苦しんで来た弥勒の過去を、こんな事で無駄にしてしまっても良いとは思えなかった。
その珊瑚の懊悩などは、無論知らず。ちり、と至極小さな数珠音が鳴り、弥勒の右腕が膝の上へと落下する。
「あんた、俺が記憶を取り戻した方が、やっぱりいいか?」
「…ちゃんと生きる意思があるなら、どっちでもかまわないよ。」
嘘だ、と思った。
本当は、思い出して欲しいくせに。
あたしの事を。
あんた、なんて言わずに、穏やかなあの声で"珊瑚"と呼んで欲しいくせに。
しかし、彼が積極的に生きようとしてくれるのならば、本当はどちらでも支障は無いのだろう。故に、この望みは利己的なものでしかない。
それでも今己が抱えている思い出達が、共犯者を失った独りだけの思い込みになってしまうのが嫌で。
喩えそれが、あたし一人の我儘だとしても ―――
互いに無言になってしまった重苦しい雰囲気をどうにかしたくて、珊瑚が話を逸らしてみせた。
「ほら、もう行こうよ。直に夕餉だよ。」
彼女のその提案に、弥勒も素直に返事を寄越す。
「…ああ、探させちまって悪かったな。なんか、頭がぼぅっとしてたから。」
おてんとさまに晒したらはっきりするかと思ってな、と。
その言葉に、過剰に反応してしまったのは、珊瑚。
「え。まさか熱でもあるんじゃ。」
弥勒の身体の変化に些か過敏になっているのかもしれないが、記憶を喪失した原因に直結しそうな事象を軽々と見過ごす事など出来なかった。
すとん、と彼の前に膝を折ると、弥勒の長目の前髪を潜る様に額へと右手をあてがい、左手を己の額へ乗せた。
「…熱はない、かな。」
己の体温と比べ、異常がないのを確認した珊瑚は胸を撫で下ろしつつ弥勒の額から手を離そうとしたのだが。
その前に、彼女の手の甲に弥勒の右手が重ねられていた。
「な」
熱があるのはどちらかと聞きたくなる様な頬を携えた珊瑚が、何かを言い掛けた時には、既に彼の掌がその細い手を柔らかく握り締めており、二つの手は目線の高さに保たれていた。
「ちょっと」
「…俺、以前にもこんな風に…あんたに触れた事、あるか?」
何すんのさ腐れ法師記憶失くしてもやっぱりそれか!?…との文句は喉の途中で消えていた。
先程までの虚ろな瞳はなりを潜め、問うて来るのは清廉な両眼。
珊瑚は、弥勒は本気で訊ねているのだと直ぐに理解したのだが、だからと言って、その科白へまともに応えられる様に出来てはいなかった。一気に跳ね上がった心拍数を、抑え込むので精一杯。
「そ、それは…」
「ある、よなぁ…。」
珊瑚の答を待たず、確信めいた呟きを洩らす、弥勒。
頭ではなく、皮膚が、肌が、覚えている。
弥勒は彼女の手を握ったまま、その手を己の口許へと持って行き。
「…あんた、俺の…なんだ?」
珊瑚の白い指先へ己の唇を乗せつつ、目線だけを上げた弥勒がゆっくりと、低い声音で問うた。
ばくばくと走る鼓動を押し隠した珊瑚は、その声を
身動ぎもせずに聞いている。
そして、ようやく紡ぎ出した答は。
「…仲間、だよ…。」
なんとも味気ない返事だ、と、己でも認めてはいるものの、今の珊瑚にそれ以外の答を導き出す事など出来ようか。弥勒も、珊瑚のその言葉を鵜呑みにしたとは思えぬ双眼を、彼女へと向けている。
再び静まり返った空気の中で、居辛い様な、それでいてこのまま暫く居たい様な複雑な心境を抱えた珊瑚は、頬を赤らめたまま、弥勒から視線を外し俯いてしまっていた。
「…俺、やっぱり思い出したいかもな。」
沈黙を破ったのは、今度は弥勒の方で。
「どっかに落っことしちまった、あんたとの記憶。」
え、と珊瑚が
面を上げると、直ぐ其処に、見慣れた法師の微笑があった。まるで、記憶を取り戻したのではないかと錯覚してしまう様な ―――
振り解けないままの手が、今も重なり合っていて。
「 ――― さ」
「珊瑚ぉーーーッ!」
弥勒の声を遮り、突然七宝の大
音声が二人の元へと届けられた。
「し、七宝っ。」
慌てて弥勒の手を払い除けた珊瑚が、声のする方へと向き直ってみると、其処には転がる様に駆けて来る子狐の姿。
「ど、どうしたのさ?七宝。」
動揺を悟られまいと、平静を装った声音で問う珊瑚の膝元へと飛び込んで来た七宝は、
「おお、弥勒!おったのじゃなっ良かった!」
はあはあと乱れる息の下からそう言った。そして、直ぐに言を繋ぐ。
「思い出したのじゃ!珊瑚っ!」
「何を?」
勢い込んで喋ろうとする七宝を己の膝の上へ抱き上げ、珊瑚が訊き返した。
ずっと、弥勒の記憶が失くなったという事に気が動転していたから忘れておったんじゃが、と前置きをした後に。
「あの直前、弥勒は爪紅の花弁に指を噛まれたのじゃっ!」
「…なんだって?」
――― 掴まえた。
零れて消えた思い出の、在り
処を
標す、糸口を。
「本当に一人で平気か?珊瑚。」
「大丈夫だから。法師さまを頼んだよ、七宝。」
きゅ、と高く髪を結い上げながら、珊瑚が幼い狐妖へと法師の護衛を言い渡した。
皆、逸る心を抑え、夜が明けるのを待っていた。そして今、ようやく東の空が天の光を手にして輝き出す。
「妖怪の気配が無かったとは言え、正体が知れぬ。心してゆけ、珊瑚。」
その楓の言葉に頷くと、
「楓さま、法師さまの事…お願いします。」
「こちらの心配は要らぬ。安心せい。」
娘は小さく頭を下げた。戦に身を置く者とは容易くは信じ難いその細い腕を、老巫女は、ぽん、と一つ叩いてやる。
もしも此処で奈落の手が伸びれば、今の法師では、護法を駆使する事もままならぬであろう。故に、珊瑚は七宝も雲母も守り役としてこの場へ残し、単独であの爪紅の在る場所へと向かう事に決めた。
果たしてそれが、真実記憶の欠如の原因かどうか定かではないけれど…確かめてみる価値は、ある。
「…俺も一緒に行った方がいいんじゃないのか?」
黒衣の胸の上で腕組みをした弥勒が、幾らか眉根に皺を寄せながら珊瑚へと問うのは、何度目か。
危険を伴うやも知れぬ
戦場へ独りで行かせる事を厭うその性格は、珊瑚の脳裏に元来の法師を彷彿させた。
「大丈夫。あたしの腕を知らないだろう?法師さま。」
そう、悪戯っぽく笑うと。
「法師さまの落とし物、ちゃんとあたしが拾って来るから待っていて。」
珊瑚は持ち上げた飛来骨を背に負い、躊躇いのない足取りで以って仲間の居る村を後にした。
あの人の唇が、もう一度"さんご"と形作られるのを見たいから。
我儘でも身勝手でもかまわない。
彼が、思い出したいと望んでくれるのなら、あたしは彼の中の"あたし"を、取り戻すまで ――― 。
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