集いし者達、その名は。
暗鬱とした闇の広がる、山中。
ほぅほぅと鳴くは、
木菟か。かさりこそりと静寂の邪魔をするのは、擦れ合う枝葉の音。
そして、山風に踊らされているのは木の葉ばかりではなく。
ふわり、と闇に溶け合う漆黒の長髪が靡いている。その髪と対比をなす、鮮やかな緋の水干。古びた庵の屋根上に、胡座を掻いている姿が、一つ。
刻限は、草木も眠る丑三つ時、と言ったところか。そのような深夜に屋根の上などに居ながらも、山男にも
山賤にも見えぬ、整った面差しを湛えた少年 ――― 。
(とっとと明けやがれ…っ。)
忌々しげに心中でごつは、その少年 ――― 犬夜叉。
今宵は新月。半の妖であるその身体が、全てを人間の匂いに侵食される、夜。
四魂の欠片を求める旅の中、今夜の寝床はこの山小屋と決まった。この朔の夜に限っては、犬夜叉には屋内に身を潜めていて欲しい、というのが、彼を除く面子の正直なところであったのだが、本人が屋根の上が良い、と頑として言い張るのだから仕方がない。皆、彼を庵内へ留め置くのは諦めていた。
「本当に高いところが好きじゃのぅ。」
幼い狐の妖が、大人びた口調で言ったものだった。
「高いところが好きなのって…馬鹿?」
「てめ、なんか言ったか!?」
小袖を纏った少女が独り言の様に呟いたのを聞き逃さずに、屋根の上から犬夜叉が怒鳴る。
「まったく、面倒な自尊心ですなぁ…。」
珊瑚の隣で、緇衣姿の青年が首を振りながら法具をしゃん、と鳴らした。
「……。」
思い切り顰めた面の中に在る眼光が、下方を睨み据える。しかし、そのぎらぎらとした視線を無視し、三人は庵の中へと消えて行った。不安で眠れずに居る姿を見咎められるのを嫌っての行動だ、と皆わかっているから、それ以上は何も言わなかった。
そして、後に残った少女が一人。胸へ掛かる
薄衣が、微かな夜風に、さわ、と流れる。
それに呼応するかの様に、犬夜叉の袖括りの露が、ぱたり、と靡いた。
「何かあったら、直ぐに呼ぶのよ。」
見上げた瞳が星明かりを反射する。一瞬奪われたその己の視線を慌てて彼女から逸らし、
「うっるせぇから、とっとと寝ろ!」
腕組みをし、怒気を含んだ声音で答えた。
むか。
なんで何時もそういう言い方しか出来ない訳?と思ったけれど、かごめはそれに対して言い返しはしなかった。今夜だけは、苛立つ彼の心中を察してやらねばならない。
「…寝るけど。いーい?何かあったら、直ぐに呼ぶのよ。」
「わぁかったから、さっさと中入っちまえ!」
同じ言葉を繰り返したかごめへ、またもや邪険な言葉を返す犬夜叉。
おやすみ、と小さな挨拶を口に乗せた後、かごめも小屋の木戸を潜って行った。
少し前に雨が上がったばかりの、夏には未だ届かぬ山中。日中とは違った、ひんやりとした空気が辺りに満ちて。
…風邪でもひかれちゃ困るんだよ…。
それが、早く夜が明けろ、と一人ごちた
何時か前の出来事だった。
(…なんだ?)
何かが、犬夜叉の人耳に…否、感覚に引っ掛かった。人間である今、そうそう気など読めるものではなかったが、それでも"人として"気配を感じ取る事は出来る。仮にもつい先日までは独りで何もかもと戦って来た、という経験と言う名の自負もあった。
(人間?こんな刻限にか?)
集中させた意識が、人の気配をはっきりと捉える。立ち上がった犬夜叉は、それでも人間らしからぬ身軽さで、ひらり、と屋根から足音もさせずに跳び下りた。
――― 何かあったら、直ぐに呼ぶのよ ―――
一瞬、先刻のかごめの言葉が頭を掠めたが、彼はそれを呑み込んでしまう。
(人間程度で、"何か"に値する事もねぇだろ。)
そう高をくくり、犬夜叉は一歩を踏み出す。
今の己だからこそ、妖怪の気配には"気付けない"でいるという事を、人の気配が在る事が却って掻き消してしまっていた。
「はあ、はあ。」
逃げるのは、男。何処から駆けて来ているのか、すっかり息は上がっている。その行く手を遮る様に、草木を掻き分けて現れた、影。
「ひぃぃっ!」
途端、男は尻餅を着いた。
「こんな時間に何やってんだ、おめぇ。」
尋常ならぬその男の様子に、犬夜叉は意に反し、そう問い掛けていた。己から人へ声を掛けるなど、そう滅多にある事ではない。しかし、この男の慌てっぷりに黙っていられなくなったのは、一体誰の影響がなした業か。
質素な
形をしたその姿から村人と判断されるその男は、犬夜叉の腰に下げられた刀を見遣り、助かった、とでもいう様な表情を晒した。
「た、助けて下せぇ!」
「あぁ?」
「もっ、物の怪に追われております!」
…失敗した。
己の足元に縋って来た男を見遣った後、犬夜叉は内心舌打ちする。それでも、知るかっ、と此処で見捨てて帰ってしまえる様には出来ていなかった。否、それこそ、出来なくなった、と言うべきか。
まったく、厄介な ―――
そう思ったところへ、その物の怪が登場した。
「ほほぅ、餌が増えたか。」
犬夜叉を見止めたその妖怪が、にや、と舌舐めずりをしつつ下卑た声を上げた。
人間と変わらぬ背格好の、しかし、その面は。潰れた鼻に、耳まで届くのではないかとばかりに大仰に笑う弓形な口許、上目で見る様なぎょろりとした目玉は、正しく武悪の如く。
其が物語るは、異形の ――― 魔。
「てめぇ一人ぐらい、この身体で充分だっ。」
変化しないと承知している護り刀を、しゅるん、と鞘から抜く。
何処からどう見てもおんぼろなこの鉄砕牙と、己の腕力だけが、頼り。
「刀を使うか…では。」
妖怪は、そう言ってから己の懐から小さな壺を取り出した。何の飾り気もない、土ででも作った様な素っ気ない色合いをしたその壺を、自身の口許まで持ち上げると、ふぅ、と一つ息を吹き掛ける。すると。
壺の口から、ぶわ、と噴出する、数多の魑魅魍魎。
「!!」
「ひぃぃぃぃぃっ!!」
とんでもないその数と禍々しい妖怪の姿に、村人は既に腰を抜かして動けない。
「ちぃッ!」
その男の前に立ち塞がった犬夜叉が、どぅ、と突進して来る妖怪達目掛け、鉄砕牙を振り抜いた。
確かな手応えの元、何匹かの妖怪が、ざざざぁっ、と千切れる様に消し飛ぶ。しかし、所詮は"ただの"刀。その軌道から逃れた妖達が、ぶわり、と襲い掛かった。
「雑魚がっ!」
切っ先を翻し、再び刃を薙いだ。空いた左手は拳を形取り、逆から攻め入る妖怪を力任せに叩き伏せ。
疾うに、その四肢は傷だらけであった。
「おめぇ、今のうちにどっか行けッ!」
後方の男へ怒鳴るけれど、その男は抜かした腰を立ち上げる事が未だ叶わず。
「無駄だ。大人しく、我に喰われよ。」
親魔が、子魔達の勝利を疑わず、せせら笑って犬夜叉を眺めていた。
「く…っ!」
がきん、と鉄砕牙を眼前で真横に掲げ、何匹かの妖怪を正面から受け止める。左手を峰へ添え、押し返すけれど、向かって来る力の方が断然強い。
一歩後退った左足が、ずるり、と地に取られ、犬夜叉が身体の均衡を崩す。しまった、と思った時には、既に彼の身体は背中から地面へ落下していた。其処へ、牙を剥いた妖魔共が一気に覆い被さろうとする。
(ちきしょ…っ!)
ぐい、と頭を起こし、目の前をぎらりと睨み返した、その犬夜叉の双眼に映ったのは。
人影。
すい、と彼と妖怪共の間に身体を割り込ませて来たその影は、じゃっ、という玉の滑る音の後に、己が前方へ右手を翳した。
途端。激烈な風が巻き起こり、抗う術もなく魑魅魍魎達がその掌中の奥へと呑み込まれて行く。
「み、弥勒…。」
自分の前に立つその背中へ、犬夜叉が思わず声を零すと、
「犬夜叉、無事か!?」
振り向かぬまま、袈裟を後方へ靡かせつつ、弥勒が犬夜叉の安否を気遣う言葉を寄越した。しかし、風穴の領分から運良く逃れた妖怪の一部が、犬夜叉と村人の背後から迫っており。
「野郎…っ!」
慌てて膝を着き身体を起こし、鉄砕牙を構え直したが。
間に合わねぇ ――― そう思った刹那。
妖怪達の更に後ろから、白い飛び道具が風を切り裂いて現出し、彼奴等の体を瞬時に薙いだ。その武具は犬夜叉の鼻先を掠め、放物線を描きながら元来た軌道を戻って行く。その先には、少女。
「大丈夫か、犬夜叉!?」
珊瑚が、飛来骨を見事に受け止め、叫んだ。
「…珊瑚…。」
犬夜叉が、珊瑚の後方にかごめ(と七宝と雲母)の姿が在る事に気が付いた時には、既に辺りは水を打った様に静まり返っていた。
「片付きましたよ。」
親魔さえも呆気なく呑み込んで、何事もなかった様な声差しの弥勒が振り向く。その右手には、何時もと変わらず封印の数珠が巻かれている。周囲に、妖の息吹は一欠片も残されてはいなかった。
何が起こったのかわからずに座り込んだままの男へ、法師が声を掛ける。何故このような刻限に、魔物が闊歩する夜山を急ぐのか、と。答えは、至極簡単であった。山里に住まう男の妻が病にかかり、薬を手に入れる為山を二つ越え、帰路に就いた途中であったらしい。そして、妖怪の餌になりかけた、という訳だ。
「では、先を急がれるのですね。」
そう言って、弥勒は懐から一枚の護符を取り出し、男へと与える。
「これを持ってお行きなさい。弧裡妖怪の類から、あなたを守ってくれるでしょう。」
法師からその符を受け取り、有り難い、有り難い、と一
頻り一行へ礼を述べた後、男は妻の元へとまた走り出した。
その男の背中を見送って。
「さて。」
弥勒が、犬夜叉を見返り、言う。
「どういう事でしょうな、これは。」
半ば呆れた様な、その口調。
「う゛。」
返答に窮する犬夜叉を見、かごめが口を挟んだ。
「兎に角、小屋へ戻ろう。犬夜叉、怪我してるでしょう?」
静かに。そして、労わる様なその科白。
しかし、抑揚のないその声は、かごめの今の感情を充分に伝えていた。
「怒っておるぞ。かごめも。弥勒も珊瑚も。」
「ううう、うっせぇっ。」
犬夜叉の肩へ跳び乗り、ぼそり、と告げた七宝へ、彼は、精一杯の悪態を吐いた。
「なんで一言言って行かなかったの!?」
あちらこちらへ生じた犬夜叉の傷口を消毒してやりながら、かごめが語気を荒げて言った。
「うるせぇ!あんくらい、いちいち言って行く程のモンかよっ!」
腕まくりをした左腕をかごめに預けたまま、負けずに怒鳴り返す犬夜叉。
「その結果が、これか?」
胡座を掻いた弥勒が、両腕を袂へ挿し通したまま、ぐさり、と犬夜叉の自尊心を言の矢で刺し貫いてみせる。
「べっ、別に、おめぇらが来なくたって、あんな雑魚は俺一人で片付けられたんでぃッ!」
「まだそんな事言ってんの!?あたしが言った事なんて、聞いてなかったって事!?」
犬夜叉の負け惜しみが言い終わったか終わらぬうちに、かごめの怒声が飛んだ。
びく、と思わず犬夜叉が退く。こめかみから、一筋の、冷汗。
――― 何かあったら、直ぐに呼ぶのよ ―――
彼の脳裏に、またしてもかごめの言葉がぷかぷかと笹船の如く浮かんでは、消え。
「あたしの心配なんて、あんたちっともわかってない…!」
其処で再び犬夜叉を非難するかごめだが、それまでの語気とは打って変わり、涙声になってしまっている。
ぎくぎくぎくっ、と、その彼女の様子に一瞬怯む、犬夜叉。
「だ…っ、だから!心配する程の事じゃね」
どがっっっ。
慌てて取り繕おうとした(つもりの)、その言葉の途中。
犬夜叉の眼前の床へ、飛来骨が轟音と共に突き刺さっていた。
しいぃぃぃぃん。
と、一瞬静寂に包まれる、庵内。
見事切っ先を上へ向け、縦に屹立する、飛来骨…。
「…な。」
その沈黙を破ったのは、やっとの思いで声を絞り出した犬夜叉。
「何すんでぃっ!さん」
「黙れこの
唐変木!!」
「と…っ…。」
またも中途で遮られ、珊瑚の罵声が被さった。その迫力に、一言洩らした犬夜叉が呆然となる。
「とうへんぼく…。新しいのぅ…。」
「まぁ、今回の犬夜叉にはぴったりですなぁ。」
他人事の様にその会話を観賞している七宝と弥勒が、小声で頷き合っていた。それは無論無視し、珊瑚の言葉は続く。
「犬夜叉あんたねぇ、かごめちゃんの気持ち、ほんとにわかってんの!?どんだけ心配したと思ってんだっ!」
それまで我慢していた珊瑚の怒りが一気に奔出する様に。
「一人で行動するなって、あれ程言われて!なんで黙って行く訳!?そんなにあたし達って信用ならなくて頼りない!?」
「それは」
犬夜叉が、言い澱む。
「…珊瑚ちゃん…。」
かごめが、珊瑚の方を見遣る。どうやら彼女は、自分と同じくらい、もしくはそれ以上に本気で怒っているらしい。柳眉を吊り上げた珊瑚の説教は、猶も終わりを見せなかった。
「面倒掛けたくないって気持ちはわかるさ。それでもし死んだって、犬夜叉の勝手だよ。だけどね。」
其処で、一層鋭利な目線が犬夜叉へ向けられた。ぎろり、と睨まれた犬夜叉は、その目に一瞬気圧される。
「その身勝手の所為で、後に遺された者がどんな思いをするのか、あんたわかってやってんのっ!?」
犬夜叉は、彼女のその言葉に絶句するしかなかった。反論の余地など、ありはしない。
「あんたはね、かごめちゃん泣かしたら駄目なんだよ!わかったかッ、このすっとこどっこいッ!」
「す、すっとこどっこい…!」
「…私が言われたら泣くかもしれませんねぇ…。」
そのような事を囁き合っている七宝と法師へ一瞥をくれた後、珊瑚は肩を怒らせたまま、どかどかと小屋を出て行ってしまった。
誰も、何も言い出せぬままにいた状況を、犬夜叉自らが打破してみせる。
「な、なんなんだよあいつはっ!なんであんなに気が強ぇんだよっ。」
一人の娘に圧倒された羞恥を隠す様に、責任転嫁的に話を逸らした。
「可愛いではありませんか。」
しれっ、と答えた弥勒へ、一同の視線が集中する。
「い、今、さらっと
惚気言わなかった…?」
毒気を抜かれたかごめが、ぽそっ、と呟く。
「おめぇ…なんでアレが"可愛い"んだよ…?」
納得いかない、とでも言いたげな、犬夜叉の科白に、
「何を言う。ああいった気が強くて意地っ張りなおなごを大人しくさせるというのも、また一興」
弥勒が其処まで言ったところで、開け放たれた戸口から、ばびゅん、と飛んで来たのは―――珊瑚の苦無。
それを、ひょい、と頭を下げ、軽々とかわした弥勒であったが、
「うわ!」
その為、彼の奥に居た犬夜叉の頬を掠め、背後の壁へとその武具は突き刺さった。
「何処が可愛い、何処がッ!」
「命懸けじゃのぅ、弥勒…。」
引き抜いた苦無をわなわなと握り締め、弥勒へにじり寄る犬夜叉と七宝へは、彼も力無くははは、と笑うばかり。しかし、その顔が何処か楽しんでいる様に見える事に、かごめだけは気付いており、彼女は呆れ顔で小さな溜め息を吐いた。
「…犬夜叉。珊瑚の言った意味、わかっておるな?」
真面目な表情へ取って代わった弥勒が、犬夜叉へ向き直り、静かに言う。
「間違った事は、言っておらん。」
「…わかってらぁ…。」
低く、ぼそり、と犬夜叉が返事をした。悪戯を咎められた子供の様に、バツの悪そうな顔をして。
珊瑚に、辛い事を言わせてしまった、と自覚している。
後に遺されたものの、思い。
起因が異なるにせよ、その結果を体現しているのは、他ならぬ、珊瑚。
己の力及ばず、仲間を一瞬にして失ってしまった者の、痛み。
置いて行かれる事の、
惨さ。
それを、思い起こさせてしまった。
己とて、そして弥勒も七宝も、少なからずその思いを抱いて、此処へ居る。
わかっているのに。肝心な時に、差し伸べられた手を払ってしまう悪い癖を、未だ直す事は出来ずにいるのだ。頼りにしていない訳ではない。信頼していない訳でも…。
信頼。
聞きなれぬ、言い慣れぬ、言霊。
それをどうやって受け止め、どう応えれば良いのか、頭では理解出来ない。身体が勝手に反応する様になるのは、一体何時の事だろう、と思う。
否。この半妖、其処までも思ってはいないのかもしれない。既に身体が理解し始めている事にさえ、未だ気付いてはおらぬのだから。
「では、私は珊瑚を迎えに行って参りますので。」
しゃりん、と錫杖の鐶を鳴かせつつ、ゆらりと弥勒が立ち上がる。
「弥勒。」
犬夜叉が、座したままその法師を呼び止めた。
「…はい。」
弥勒は返事をしたけれど、当の犬夜叉が一瞬言葉に詰まり、間を空ける。彼の二の句を黙って待つ弥勒の耳に届いた科白は、
「…珊瑚に、あやまっ…いや。礼、を、言っといてくれ…。」
そっぽを向いたままではあったけれど、神妙な面持ちで、ぼそらぼそらと。
そして、その犬夜叉への弥勒の返事は、
「…自分で言いなさい。」
そう一言告げて微笑すると、法師も庵を出て行った。
「珊瑚。」
「法師さま…。」
小屋の入り口からも見える距離。其処に転がった適当な岩へ腰を掛けていた珊瑚が、法師の声に振り返る。
弥勒も、珊瑚の右脇へと腰を下ろした。雨が乾いたばかりの石塊は、普段以上に冷え冷えとした感触を伝えて来る。
「…どうしました?」
先刻犬夜叉を怒鳴りつけた様子がなりを潜め、沈んだ表情になってしまっているのが、夜目にもはっきりと見て取れた。
「…あたし、犬夜叉に言い過ぎたかなぁ。」
どうやら珊瑚は、先程己が叱り飛ばした犬夜叉を気遣い、落ち込んでいるらしい。
(おまえが気に病む事でもねぇんだけどな。)
彼女の優しさに内心苦笑しながらも、
「あれくらい、犬夜叉には良い薬でしょう。」
弥勒は珊瑚の行動を肯定してみせた。
「そうかな…。」
弥勒のその言葉に、俯かせていた面を上げる、珊瑚。そして、ふぅ、と軽く嘆息すると、
「…あたし、やっぱり、仲間を助けられないのはもう嫌だからさ…。」
月の見えぬ、星の独壇場と化した無限の空を見上げ、彼女は言う。
その空を仰ぐ双眸に、悲しい色合いは見受けられず、弥勒は取り敢えず安堵した。そうそう、感傷に塗れた顔ばかりを晒す娘でもないのだが。
「あいつ。…あたしの事、一緒に居てもいいって言ってくれたからさ。…だから、死なせたくないんだ。」
裏切り者のこの己を、先に仲間だと認めてくれたのは、犬夜叉の方だった。
故に、彼が示してくれた義に報いるのだと。
大切な仲間を守りたいと、珊瑚は言外に告げていた。
それだけではない。
彼には、かごめが居る。彼の身を心底案ずる娘が居る。そのかごめの気持ちを思えば、やはり、彼には軽はずみな行動を取って欲しくはないのだ。
そのような思いを抱えているのに今夜の様に無視されてしまうと、犬夜叉の心根はわかっていても、怒鳴り声を上げずにはいられなかった。
「役得ですな、犬夜叉は。」
「は?」
予想外の弥勒の呟きに、珊瑚が間抜けた声を返した。
「おなご二人にかように心配されているのだから。」
「…何大人気ない事言ってんの。」
馬鹿馬鹿しい、と珊瑚は取り合わない。けれど。
「おまえの言い方は、犬夜叉への愛の告白の様にも聞こえますが。」
ずる。
珊瑚の身体が岩の左端から滑り落ちそうになったが、其処は運動能力に秀でた娘。なんとか踏み止まっていた。
「…そんな訳ないじゃないかっ。」
うんざりした様に、珊瑚が否定してみせる。大体、そんな科白を吐く割には、随分と柔和な表情を浮かべているのだ、この法師は。
「何故、そんな訳ないのだ?」
「だって。」
「だって?」
其処まで問答を続けたところで、珊瑚の頬に朱が差して来る。色白の頬に乗せられたその色は、星明かりでも、はっきりと、わかる。山中に居る所為か、その強い星の煌めきに、空が近い様な錯覚さえ覚えた。
「なんなの、法師さま。喧嘩売ってんの?」
弥勒の方を見遣った珊瑚は、口を尖らせ、じろ、と少々下方から睨み上げている。
あまりに可愛らしいその仕草に、
「売っているのは、喧嘩ではない。」
そう言うと、弥勒の長い左の指先が珊瑚の頬に掛かる髪を、ふわ、と退けて、その頬へと伸びた。
ぴくん、と瞬間肩を竦めた珊瑚だが、それは敢えて無視し、負けじと法師へ言い返す。
「じゃあ、何よ?」
睨む目は変わらず。弥勒の方もその瞳を見詰め返すけれど、こちらの方は、反対に優しい眼差しで。
「買ってくれるか…?」
言い終わる頃には既に己の鼻先へと近付いている弥勒の為様に気付いたけれど。
何もかもが、遅いのだ。
「っ!買わな」
抵抗を試みた珊瑚の言葉は、弥勒の唇に因って行き場を失っていた。
しん、とした静謐の中に在るのは、犬夜叉、かごめ、七宝。そして、雲母。
小屋の中を、ぼやぁ、と照らしているのは、人口的な灯り。かごめが故郷から持って来た、充電式の小さな
部屋灯が、この時代のこの刻限に於いては不自然なまでの明かりを齎している。
先程までの喧騒が嘘の様に静まり返ってしまったその中で、気まずそうに息を殺しているのは、犬夜叉だけではなかった。
所在無さげにしていた七宝は、小屋の端で雲母と何やらじゃれあっていたが、その様子は如何にも"おらの事は気にせんで良いぞ"という気遣いに満ちている。が、それも長くは続かなかった。
大体この刻限である。妖だろうが、所詮は幼子。何時の間にかうとうととしたかと思うと、尻尾を丸めた雲母と向かい合う様に、眠りへと落ちていた。
すぅ、すぅ、と、七宝の寝息だけが、微かに響く。
「犬夜叉。」
不意に、かごめが呼んだ。びくり、と反応するのは、その犬夜叉。
また、怒鳴るのか…?
「…置いてったり、しないで。」
彼の予想に反し、彼女の声はとても穏やか…否、水底から浮かぶ水泡の如き儚さで、ぷかり、と浮き上がり、そして音もなく弾け、消え行く。告げられた、少年の胸底へ。
澄んだ瞳が、彼を真っ直ぐに射抜いた。
「…かごめ…。」
なんと返事をしたら良いのかわからずに、犬夜叉は、その名を呼ぶに留まった。其処で、かごめの双眸がふと伏せられ、彼の方へと右手が伸びた。
その細い指先が掴んだのは、彼の、袖括りの露。己の指よりも頼りなく細いその紐を遠慮がちに捕まえて。
不覚にも、ぱた、と自分の膝の上へ雫が落ちた。
泣く程の事じゃないのに。こんなのあたしらしくないのに。
犬夜叉の馬鹿っ、と大声を浴びせて背中を向けた方が、平生の自分らしい為様だと、心得ている。しかし、先の胸が破裂する程の恐れを、拭い切れてはいなかった。
妖気が近い、と言って身を起こした法師と珊瑚の言葉に小屋の外へと出てみれば、あの何の妖力も持たぬ筈の少年が、忽然と姿を消していたのだ。
普段であらば、そうむざむざと他の妖にやられる様な男ではない。けれど、今夜は違う。己と同じ人間なのだ、彼は。その身体が、どんなにひ弱なものか、自分がよく知っている。
なのにその身体で、妖の跋扈する闇の中へ一人で消えたというのだから、驚いた、どころの話ではなかった。
もしも。もしも…あたしの知らないところで、犬夜叉が…命を落としたりしたら…?
自分の知らぬところで、彼が傷付いているのかもしれぬと想像するだけで、ぞっとした。
せめて、傍に居られれば。
どんなに凄惨な戦いになろうとも、己の与り知らぬところで犬夜叉が窮地に陥るのに比べれば、その場に居合わせていた方がまだましだった。
待つだけの、彼の姿の見えぬところへ居る事は、
斯くも辛い。
どんな瞬間も傍に居たいと願うのは、我欲から醒めぬ乙女のみの道理とわかっていても。
「二度と一人で消えたりしないでよ、馬鹿…。」
それだけで、充分だった。彼の心へ届くには。
唐突に、犬夜叉の左腕が、ぐい、と引き上げられた。あ、とかごめが思った時には、指先で弱く掴んでいた露が摺り抜けており。そして、次の瞬間。彼女の眼前でその袂が翻ったかと思うと、爪牙をもがれた彼の左の掌が、背後からかごめの左肩に廻されていた。
「わかったから…泣くな…っ。」
己の肩に留まった温もりを確かめて。犬夜叉の緋の肩へと頭を預け、うん、とかごめは頷くけれど、猶も彼女の涙は止まらない。けれど、もう一つ、伝えなければならない事がある。
「…犬夜叉。珊瑚ちゃんも、弥勒さまも…皆、一緒に居てくれるよ。」
今、此処に。
操られた運命か、定められた命運か、そんな事はどうでもいい。
こうして
縁を生じた、引き合わされた、それぞれの道。
たった一人で生きて来た、この、同志というものを知らなかった不器用な少年へ。
お節介だと承知していても、こうして告げずにはいられなかった。
「…わかってる。」
ぼそ、と犬夜叉の声が聞こえた。
わかっている。
人間へ恐れを振り撒く為に在る様なこの妖へ、何の躊躇いも怯みもなく叱咤して来るのは。
戦いの
最中、当たり前の様に、背を預けられるのは。
今、共に旅をしている、この ―――
「……。」
戸口の前に、二つの影。
その隙間から中を窺う珊瑚の頭の上に、弥勒の頭も見える。
「どうしよう…入れないよね…。」
遠慮した珊瑚が、極々小さな声音で、傍らの法師へと返答を仰いだ。
指の一本一本の跡までが明らかな手形を、びったりと頬へ残した弥勒も、
「邪魔は出来ませんなぁ。」
と、思案顔である。
その科白とは裏腹、邪魔してやろうか、との
聖人としてはあるまじき思考も浮かんだけれど、彼にとっては、その悪戯よりも逃し難い、この好機。
「仕方がありません。もう暫く、外で待つと致しましょうか。」
そう言うと、庵には背を向け、てくてくと今居た場所から離れて行く。
「…そうだね。」
法師の後を追いつつ、小屋を振り返った珊瑚の顔は、安堵感に満ちていた。
(良かったね、かごめちゃん…。)
しかし、ほっとしたのも束の間。彼女には次なる戦いが待っており。
「では、我々も先程の続きを」
「続きって、法師さまの顔に痣を増やすって事?」
弥勒の言葉を遮って。
肩に廻されて来た奴の腕も軽く摺り抜けて。
腕組みをした珊瑚が胸を反らし、顎先を少し上げた高飛車な態度で、ふふん、と鼻で笑ってみせた。
(…このやろう。)
可愛い事を、言いやがる。
確かに、先刻は思いっきり殴り倒された。ちったぁ手加減しろよ、などと思ったのも事実。しかし、きっちり戴くものは戴いた。
「ああ。痣など増えてもかまわぬよ。」
悪びれる様子もなく、腕組みした珊瑚の腕を強引に解くと、彼女の右手首を掴む。抜けられはしない、計算ずくの柔らかさで。
「続きが出来るのなら。」
「この…ッ」
なんでこいつは“懲りる”という言葉を知らないんだ、と思った珊瑚の指先を、するり、と移動させた己の指で口許へと運ぶ、弥勒。
にや、と上目に笑みを湛えつつ、その指先に触れる間際の唇が紡いだ言葉は。
「なんなら、おまえの身体にも痣を作ってやるが?」
「な!」
どっかあぁぁぁぁ、と、頭のてっぺんから足の爪先まで、紅の染め粉で塗りたくられたが如く、一気に赤くなる、珊瑚。
形勢は、逆転した。
光に満ちた朝が連れて来たのは、今日という日と、妖の、血。
「さ…ッ、珊瑚っ。」
翌朝。はぁぁ~あ、と戸外で伸びをしていた珊瑚へ、犬夜叉が覚束ない声差しでその名を呼んだ。
その髪は、疾うに銀糸に戻り、異形の耳に、牙、そして、爪。
全てが、犬夜叉の犬夜叉たる所以のそれへと戻っている。
「何?」
姿は戻れど、何処か平静とは言えぬ彼の様子に、珊瑚が聞き返した。
「ゆ…っ…、」
「ゆ?」
言い掛けて、何かを躊躇う様に固まってしまった犬夜叉を、珊瑚は怪訝そうに見遣る。何やら一生懸命葛藤しているのが、ありありとわかる。
「……。」
僅かな沈黙が流れた後。
「ゆゆゆ夕べの事は礼を言っとくッ。」
だんまりを決め込んだ後に発せられた言葉は、聞き取るのも危うい程の早口で一息に告げられた。
「…へ?」
聞き間違いだろうか。七回
竈へくべて出来上がった様な自尊心を持つこの男から、今、途轍もなく殊勝な科白を聞かされた様な。
思い切りすっ転びそうな早足ではあったけれど。
ぽかん、と立ち尽くしたままの珊瑚へ、
「ちゃんと言ったからな、俺は!」
ふんっ、と鼻息荒く吐き捨てた後、犬夜叉は、怒った様に珊瑚へ背を向け去って行く。
「…なんなの。」
呆然と彼を見送りながら、珊瑚が呟いた。
「…まだ、いちいち気にしてたのか…?」
その言葉を聞いたなら、さぞや彼は憤慨しただろう。決死の覚悟で紡いだ言であったというのに、その苦労は、報われず終い。
「…最後のあれがなければねぇ。」
庵の影から、こっそりと覗いていたかごめが、は~ぁ、と溜め息を洩らす。
それでも、あの半妖にしてみれば、大・大・大っ進歩である事には変わりなく、嬉しく思うのだけれども。
「ところで。」
傍で一緒に事の成り行きを見守っていた法師へ、かごめが問うた。
「弥勒さま。戻って来た時は気付かなかったけど…なんでそんなにズタボロなの?」
明らかに草臥れた風のその見た目が、かごめの疑問になっていた。
まるで、闇討ちにでもあったのか、と聞きたくなる傷だらけの顔。
「…いえ、ちょっと。」
眼を瞑った弥勒が、無表情に答えたが。
「珊瑚になんぞしたのじゃろう!?」
わささっ、と彼の肩へとしがみ付き、七宝がお決まりの科白を浴びせ掛ける。
それには無言を貫く、弥勒。
そう言えば。外から戻って来た時。肩を怒らせた珊瑚ちゃんと、肩を落とした弥勒さまと。絵に書いたが如き、対照的な姿だった様な…。
「振られたのか。」
「振られたのね。」
七宝とかごめの的を得た追い討ちに、眉宇を顰めたその法師は、地まで届くかと思わせる勢いで肩を落とした後、特大級に嘆息してみせたものだった。
「
何時まで仕度に時間掛けてやがるっ!もう行くぞッ!」
「ちょっと待ってよ、犬夜叉っ。」
「おなごの仕度は時間が掛かると相場が決まっておるでしょうが。」
「法師さまが言うと、なんか深読みしたくなるんだけど。」
「珊瑚、深読みするとどうなるのじゃ?」
何時もと変わらぬ、出立の朝。
みぃ、と鳴いた妖猫の声を合図に、一夜を越えた山を、後にする。
向かうは、未来。
共に行くは、此処に集いし ―――
同志達。
B.G.M. <flower's high> drug store cowboy
最初は犬かごメインに据えてた話だったのに、ミロサンへ筆がどんどこ流れて行ってどーにも止まりませんでした。
久々の単純短編、久々の曲先行でした。字面にするとクサイけど、独りで歩いて来た犬が「身勝手な俺にも仲間が出来た」って思う話だったのです、最初はね…(木っ端微塵)。
此処で私信。某素敵サイトの某素敵管理人さま。この話のUPについてご相談してから随分と時間が経ってしまいましたが、ようやく出番が廻って参りました。貴女様あってこその「集いし者」です。本当に感謝しております。今後も同病妄想煩悩で地獄までお供仕ります。
では、最後までお付き合い下さいまして、有り難うございました。
2001.11.03