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©2001 minato



いつか優しい雨が







心と体が、それぞれの行く先を(たが)えると、何時か何処かで狂いが生じる。
心は、彼の地へ往きたいと願い、体は、その本性の一歩を拒む。
吐き出したいのだ、と心は言う。それは聞けぬ叶わぬ、と四肢が言う。
往々にして、心の願いには眼を瞑って来た。それが、本性であってはならぬと、言い聞かせながら。
ならぬ、ならぬ。
心を、見透かされてはならぬ。
汝は、恐れを掬い取る者にあり。それそのものが、慄く心に侵されてなんとするか。
往きたいと願う先は、脆弱なる胸裡を吐き出す事を赦す、()の温かい肌であってはならぬ。
欣求浄土。
導き癒すが、己が使命。故に、許さぬ体を正とする。嘆く心を、邪と見なし。
臆する心根を心底拒むその体こそが、最も恐れ慄いているのだとは、気付かぬふりをしたままに。
――― そして、(ひじり)が狂い出す。







「あれぇ、弥勒さま、何処行っちゃったんだろ。」
「あの野郎、他人(ひと)になんやかや言っておきながら、てめえがどっか遊びに行ってんじゃねえのか!?」
その界隈で一番構えの大きなこの屋敷で、例の如くお祓いを済ませた法師の姿が、何時の間にか消えていた。
間もなく夕餉の準備が整おうかという頃合だ。先程まで落ち着きなく木に登ったり屋根に上がったりしていた半妖の少年へ、「少しじっとしていなさい。」等と年長者らしく窘めていたものだったが。
「あたし、ちょっと捜して来る。」
珊瑚が、一言告げて腰を上げる。
かごめが何かを言い掛けたが、それは聞かぬままに彼女は屋敷の玄関先を既に潜り抜けていた。







あれは、何日前だったろう。
偶さかに開いた風穴へ、大量の妖を吸い込んだのは。大丈夫だと普段通りに笑っていた顔に、なんの翳りも読み取る事は出来なかったけれど。
身体へ蓄積されたであろう、禍々しい邪気。喩え日々の行動に何の影響が無いとしても、神経(こころ)に与える打撃が皆無だとは、思えない。
(少し疲れた、と、何か一言でも言ってくれたら…。)
その方が、こちらからしてみればどれ程楽か。知らないのだ、あの法師は。全てを隠し通す事で、仲間の平穏が保たれると思っている。
だから、あたしは、彼が何時か何処かへ一人で消えてしまうのではないかという恐れを、今も、消せない ――― 。







屋敷から些か離れた、色気も何も無くただ広がる林の中で、無患子の幹へ背中を預ける人影が一つ。
僧とわかる緇衣にその身を包んだ年若い男の憂えた瞳が捉える先には、右の、(かいな)
(三日も経ってるってぇのに…ザマァねぇな…。)
ちゃり、と涼やかな音をさせ、伸ばした右膝の上へ数珠に巻かれた右腕を置いた。晒される、掌中。布切れ一枚で塞がれたその先には、底無しの暗闇が口を開けている。
まるで、嘘の様に。
三日前。数多の物の怪をその闇へ葬った事自体は、そう珍しい事ではない。ただ、その力が。
――― 風穴の威力が、増して来ている ――― 。
傍から見ていれば、その微量な差など気付くべくも無いだろう。なれど、それを宿したこの身体が、その差違を見逃す筈もなかった。如実に感じる…認めねばならぬ、残された時間を縮め行く足音。知らずにいられれば良いものを、この身体は、感じ取ってしまった。
故に、今独りになり、左腕で利き手を強く、掴む。
小刻みに震える、その呪われた掌中を。
もしも、この風の生まれる処を己自身に掲げたら…?その闇を宿す主そのものを容易く呑み込んでくれるだろうか。
そうしたら、全てが終わるのだろうか。
(まったく…是非も無い…。)
俺も無駄な事を考えるものだ。
馬鹿馬鹿しい、と、思う。風穴に呑まれる事を恐れる己が、自分からその中へ飛び込む事など出来る筈もない。第一、まだ、諦めてはいない。此処から、解き放たれるその時を。その時を待ち望む己が居るからこそ、其処へ辿り着けずに終焉を迎える事を、恐れるのだ。
だが、この右手が。
このまま風力を増していけば、巻き添えにしてしまう日が来るやも知れぬ。制御出来なくなったこの使いが、意思とは関係無く、消してはならぬ命を行く先の知れぬ地獄へ(いざな)ってしまうやもしれぬ。
限界だろうか ――― 。
他人(ひと)と、関わる事が。このまま、共に旅を続ける事が。
四魂の欠片を収集する為にはこの形態の方が好都合だと踏み、それまでの己の信念を曲げる事も厭わず、今日まで来た。そして、それが何時の間にか居心地の良いものになっていたのも事実で。
戻るべきなのだろうか、独りの、旅へ。
決心を促す様に、双眸をゆっくりと瞑る。その瞼の裏に浮かぶのは、供を…友を得てからの日々ばかり。我ながら情けない、と嘆息し掛けた其処へ人の気配を感じた弥勒が、再び目を開けた。
「何してんの、こんなとこで。」
凛々しい筈のその声音は、何処か頼りなげに放たれて。
「…そんな沈んだ顔をしているおまえの方こそ、その科白を受けるべきの様に思えますが。」
「はぐらかすな。」
小袖の女 ――― 珊瑚が、何故だか切ない瞳を向け、其処に立ち竦んでいた。
「走って来たのですか…?」
少々息が上がり、上下する珊瑚の肩を見た弥勒が言う。
何をそんなに息せき切って…失くしたものを探す子供の様に、駆けて来たのだ?
まるで、俺の心を見透かした様に、そんな瞳をして。
「だって、もう夕餉だよ。突然消えたりして、折角準備して下さってる家主さまに、失礼だとは思わないの?」
一気に答えた後に、珊瑚は小さく息を吸い直し、呼吸の乱れを整える。最初の問いに答えてくれる筈も無い事を見越し、続ける。
「帰ろう、法師さま。」
帰る?何処へ?
「…珊瑚一人で戻りなさい。私は、今少し此処におりますから。」
「…もう直ぐ、雨が降るよ、きっと。」
「大丈夫だ…。」
また、そんな言葉で納得させるつもりなのか、この男は。
「何が大丈夫なの?」
ざくざく、と足元の草葉を鳴らし、珊瑚が弥勒の横まで辿り着くと、其処へそのまま膝を折った。
「ねえ、何が大丈夫なのさ。言ってみなよ。」
平生とは違う珊瑚の態度に、それでも表情を変えぬ弥勒の両目が彼女を捉える。
「そう酷い雨にはならぬでしょう。故に、大丈夫だと言った。」
こんな風に、澱み無く尤もらしい答えを返せる自分自身が、何処か穢れたものに思えて、ならない。
「なら、あたしも此処に居る。」
弥勒の右横から真っ直ぐ彼を見返して、駄々をこねる童の様に珊瑚が言った。
「おまえ、家主さまに失礼だと言ったのはどの口だった?」
「一人が二人になったって、同じだろう。それに」
呆れた様に返した弥勒へ紡いだ言葉が、中途で、切れる。
「それに?」
促す弥勒。折った膝の上方で握った両手へ、ぎゅ、と更に力を込めて彼女が続けた。
「…何処かへ消えるつもりだったんじゃ…ないよね。」
驚いた様子も見せずに、弥勒が珊瑚の顔を見つめ返す。何の抑揚も感じられぬ表情で。
両の目で訴える、彼女の本意を受け止めた。
(敏いな、おまえは…。)
「…なんで何も言わないの。」
何時もみたいに、そんな訳がないでしょう、って、言って。何をまた馬鹿な事を、って、何時もの笑顔で言ってみせてよ。そうしたら、あたしだってこんな情けない顔を止めて笑ってあげるのに。
早く。この目に張った薄い膜が、決壊してしまわぬうちに。
そう思った珊瑚の頬へ、弥勒の右の指が、そろり、と触れた。ひんやりと冷えたその指に伝わる、生ける者の温かさ。
その先から、一気に流れ込む、命の温度。
「逃げないのか?」
身動(みじろ)ぎもせずに佇んだままの珊瑚へ、弥勒が低く問うた。
普段であれば、何触ってんの、との捨て科白と共に後退るところであろうに。
「…法師さまが、変だからだろう…。」
何時もと違うのは、自分ではなく弥勒の方だろう、と珊瑚は答える。それには、ゆる、と薄く笑むばかりの法師。
消えそうに、透けていく様に、薄く。
この人は、何も言ってくれない。一度だけ、ほんの少しだけ、畏怖を抱えるその心を垣間見せてくれたけれど。
あれ、一度きり。またこうして、何かを仕舞い込んでいる。あたしは、あの時嘲るように言った「疾うに狂っているのかもしれない」という彼の言葉を、忘れてはいないのに。何処か歯車の狂っている目の前の法師へ、何もしてあげられない口惜しさ。
「…こんな風に、おまえを泣かせたくないのだ。」
だから、消える。此処から。
声に出さないその言葉が、珊瑚には聞こえた様な気がした。左の頬を一筋伝う、透明な道行きを拭う彼の言葉のその後ろに。
「ちが…っ、そんなのは、絶対に違う…!」
瞬きもせず、二度、三度、(かぶり)を振る。泣かせたくないから消えるなんて、そんな理屈は男の傲慢でしかない。間違っている。けれど、あたしはこの人を引き留めるだけの論述など、持ち合わせてはいないのだ。
宵闇が広がり始めた薄暗い天から、ぽつり、と雨が落ちた。珊瑚の涙に示し合わせたかの如く降り始めた雨は、極々細かく、大地を湿らす事さえ適わない程で。
弥勒は、珊瑚の頬を覆っていたその手を彼女の(うなじ)へ滑らすと、そのまま己の方へとその頭を引き寄せる。
ゆっくりと頬を近付け、薄く目を開いた弥勒の眼前。鼻先が振れる程の距離にある珊瑚の眉根はきつく寄せられ、双眸も力任せに閉じられていた。
触れる間際であった唇で、ふ、と一瞬自嘲気味に笑んだ後、彼は自分の頭を引き戻す。
顔の直ぐ傍にあった弥勒の気配が遠退くのを感じ、珊瑚も恐る恐る薄目を開け、その後視線を上方へ泳がせた。
そして次の瞬間には、抗う間も無く、その聖紫の胸へ彼女の身体は抱き留められていた。
「…今宵は、大人しいのだな。」
何の憎まれ口も抵抗も見せず、ただ黙って弥勒へ身体を預ける珊瑚へ、彼の低い声が届く。
「おかしいのは、法師さまの方だと、言ったろう…。あたしの所為じゃ、ない…。」
呼吸に合わせ、規則正しく上下する袈裟の上へ頬を押し付けたまま、珊瑚が小さく答える。
茶化す気にも、怒る気にもなれない。ただ、このままこの法師(ひと)を離したくないと思った。
しかし。
参ったな、と思うのは、寧ろ弥勒の方で。
無論、こんな時の対処に窮する程、人生経験が乏しい訳ではない。このまま珊瑚を攫う事など、いとも容易い。ましてや彼女がこの様な状態の今なら、雑作もありはしない。
それでも、そうは出来ずにいる自身に、困惑していた。
これ以上を望みながら、踏み込めない己が居る。どうしても、迂闊に己に染めてしまってはいけない気がする ――― 。
また、頭の奥で鳴り響く、ならぬ、という声。
縋ってはならぬ、と。()女性(ひと)へ、逃げてはならぬ、と。
右腕の底から逆巻く風が現出し、呪いの解けぬこの腕で、珊瑚を抱いてはならぬのだ、と己を取り囲む様に合唱を始める。
奈落を討ち果たす、その時まで、彼女の未来を縛ってはならぬ。
手を握り、髪に触れ、背中を抱き ――― 接吻を交わそうとも。
それ以上は、己の未来が不確かな今、為すべきではないのだと、彼の中の聖が諭す。
(それこそ、身勝手な言い様だな…。)
触れる事自体に、此処まで、と、此処から、などという境界線を引く、その独り善がりな自己弁護。
此処から消えようとしていた寸刻前の思いは、何処へ行った?温かい珊瑚の肌を求め、結局は手を伸ばしてしまっているではないか。
最初から、触れるべきではなかったのに。
それ故、迷う己が此処に存在する。
「…帰ろう、法師さま。」
皆の、ところへ。
不意に、珊瑚が震える声で呟いた。
何時の間にか弥勒の背に廻された細い両腕は、彼の着物を強く握って、放さない。
引き留める術など、知らない。ただ、この腕で繋ぎ留めておくしか出来ない。だから、この唯一つの方法で、彼を何処にも行かせない。子供じみた方法だとは知っていても、今あたしの持つものは、この腕しかないのだから。
幼子の様にしがみ付いている珊瑚の姿を、弥勒が細めた目で見下ろす。
ちらちらと舞う様に降りて来る雨粒が、彼女の髪の上を、ころん、と幾筋も滑り落ちていく様が、目に入った。
自分が居なくなれば、珊瑚の胸を、後々軽くする事が出来るのではないかと、思っていた。例え、別れた刹那は辛くとも。なれど、そうなれば、針の如く降り注ぐ雨から誰が彼女を守るのか。私が珊瑚を守る、と言ったは、嘘偽りではなかった筈だ。
否、それさえも、言い訳なのかも知れない。
まだ、この娘の傍を離れたくはないのだという、隠れ蓑にしか過ぎないのかも知れない。
もしも、此処で約束出来るのならば、この愛しい女をこんな風に泣かせる事もなかったのだろう。
もしも、そんな約束を交わせたなら、今此処でこうして身体を濡らすこの雨を、これ程冷たくは感じないのだろう。
珊瑚が、何か崩れない約束を欲している事は、わかっているけれど。
何時かその日が来る時まで、待っていてくれとは言えないくせに、俺を忘れてくれとも言えぬ、狡さ。
それを、おまえは赦してくれるだろうか。
「帰ろうよ…法師さま。」
再び、珊瑚が口を開く。今も、彼の背を強く繋ぎ留めたまま。
決心など、脆いものだ。(ぬく)い肌と、その縋る腕と甘い声を払い除けられる程、まだ自分は強くないらしい。
触れてはならぬ、恐れに侵食されてはならぬ、という声を聞きながら、離れたくはない、という本能の囁きを優先させてしまう。
まだ、もう少し、此処に居ようか。居心地の良い、あの輪の中に。
己を、制御出来るうちは。
「帰ります、か…。」
ようやく紡ぎ出した弥勒の言葉へ応える様に、珊瑚が頭を起こす。
兎の如き両の瞳を携えて、それでもそれを恥じる素振りも見せず、
「…まったく、世話が焼けるんだから…。」
と、嬉しいのか怒っているのかわからない複雑な表情を法師へ向けてみせた。
その視線が、苦笑を浮かべる法師のそれと、思いもよらぬ程の至近距離でぶつかって、我に返った珊瑚が慌てて彼から身体を離す。そして、今しがた己が取っていた行動をはぐらかす様に口を尖らせ、言った。
「冷たいったら、やっぱり雨が降って来ちゃったじゃないか。」
己の肩先をぱんぱん、と払う仕草を描いた珊瑚の左手を、弥勒が(おもむろ)に掴み、
「冷たいんなら、もう少しあったまって行きますか?」
今度は、何時もの調子で、悪戯っ子宜しく不敵な笑みを浮かべている。
彼の右横へ膝を着いていた珊瑚の身体が、勢い、再び法師の胸へ飛び込む形となった。
「な、何調子に乗ってんの!?」
空いた右手で以って、彼の左の顎先を捕えると、ぐいーっ、とそのまま力任せに上方へ押し退けてやる。
「あいたたたた。」
本当に痛がっているとは思えない間の抜けた声を上げた後、掴んだ珊瑚の腕を解放してやる、弥勒。
がば、と立ち上がった珊瑚が、彼を睨み下ろして言葉を投げた。
「早く、帰るよ。家主さまに、失礼だろう!?」
頬を赤く染めたままで腕組みをする珊瑚の科白は、まるで取って付けた様で、またしても弥勒の頬を緩ませる事となるのだが。それでも膨れっ面の娘は、何時もの様に法師を見捨てて行ってしまう事はなく、彼が錫杖を握り締め立ち上がるのを待っていた。
「では、行きますか。」
うん、と素っ気なく答えた珊瑚の歩幅に合わせ、弱く視界を曇らせる雨の中を、並び行く。
それぞれの、道行き。
一人一人が進む道は、決して一つに成る事はない。誰も、他人の人生を歩む事は出来ない。
どれほど傍に居ようとも、二人は二人でしかあり得ない。
それでも、一人であったから、一人の道が在ったからこそ、こうして出逢う事もある。
代わってやる事の、背負ってやる事の出来ないそれぞれの道の上で、何を与える事が出来るだろう。
今こうして目指す先が偶然にも同じ場所であった為に、遠く離れていた筈の道筋が、隣合って。しかしその目指す場所さえも、通過点でしかないのだ。
その先は、一体何処へ繋がっているのか。
その先も、俺達の道は並走しているのだろうか。

そう。約束は、出来ないけれど。
今降り注ぐこの冷たい雨を、どうか、恨まずに。
天上から授けられしものに、罪は無いから。
だから、どうか、恨むなら ―――



俺を恨んでくれて構わないから、もう少し、傍に居てくれ。
せめて、何時かこの雨を、優しく感じられる様になるまでは。








B.G.P. <からだの中に> 谷川俊太郎


相変わらず、クドイです。しかも、何を言いたいのかよくわかりません。行き当たりばったり、言葉の思いつくままに書き連ねてしまいました。故に、まとまりよりも直感優先の話。
一応「翼をくれた人」に呼応する話の筈だったのですが…アラ?って事になっちゃいました。
「翼」で珊瑚は「二つの道が一つになった」と感じていますが、法師はそうではない。「人の道はそれぞれ別に在る」…という、男女間の考え方の相違、男の傲慢、女の思い込みというものを表したかったのですが…此処で説明してりゃ世話無いっスね。
それでは、最後まで読んで下さいまして、有り難うございました。

2001.09.25