SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



翼をくれた人







あんなに晴れていたのに。


夕刻迫る、皐月の空。先程までからりと澄み渡っていたというのに、今は、泣き声を上げそうな表情へとすっかり変化していた。
(たきぎ)を集める為に山の奥深くまで入っていた弥勒と珊瑚だが、その大いなる自然が見せた心変わりに、内心舌打ちする。
「急ごう、法師さま。」
瞬く間に空を覆った黒雲を見遣り、後方へ居る法師へ、珊瑚が声を掛けた。
「そうした方が良さそうですな。」
同意した弥勒が、嘆息しながら頭上を仰ぐ。
犬夜叉が、先の戦で負傷し、今は動かせぬ状態。故に、適当な洞穴へかごめ(と七宝)を看護に残し、こうして二人でやって来たのだが。
(出来れば食料も調達したかったんだが…そうもいかねえか。)
溜め息の、訳。
かごめの所持するあの頭陀袋(と言って良いのかどうか)から、何でもかんでも出て来る筈もなく。大分、その膨れ具合が小さくなってしまっていることに、弥勒は気付いていた。しかし、この分だと天候は大荒れになるだろう。帰り際の判断を誤っては、足止めを喰らいかねない。
適当なところで切り上げ、薪を抱えた二人は帰路へと就く。
「珊瑚、重いでしょう。持ちましょうか。」
「何言ってんのさ。それじゃ二人で来た意味がないだろう。」
何度も荷を抱え直す珊瑚を見て、弥勒が優しく声を掛けたが、当の彼女は救い手を拒む。
「そりゃ、そうですが。」
苦笑い。確かに珊瑚の言う通りだが、そんな重そうにしてたら気になるだろうが、と心中で呟く。声に出して言おうものなら、馬鹿にすんな、と強がりな声で一蹴されて終わりだろう。
ぽつ、と遂に空が泣き出した。頬を打った小さな粒に、もう?と珊瑚が怨めしそうに天を睨む。
その時、二人の背後で、何かが動いた。
「!」
「気付いているか、珊瑚。」
振り向かぬまま、何食わぬ顔で会話を続ける弥勒と珊瑚。
「ああ。全く、こういう急いでいる時に限って、邪魔しやがる。」
忌々しい、といった面持ちで珊瑚が呟く。
「確かに。こちらの都合はお構いなしですなあ。」
弥勒も、面倒臭そうに応える。すると、その背後から今度は、
「娘を置いて行けえええ。」
くぐもった、妖の声。
「なんだい、あたしに用か?」
珊瑚が振り返る。
「なんですか。二人居るというのに、しっかりおなごを選ぶとは。」
呆れた声で、弥勒も背中を翻す。
「法師さまと変わんないね。」
「それは酷いですな、珊瑚。」
はあ、と溜め息を吐いて珊瑚へ抗議する弥勒。緊張感の無い二人のやり取りの中、振り返った後もこちらを見向きもしないその態度に苛立った物の怪が、再び濁った声を上げた。
「二人まとめて喰ろうてやる。」
其処に居たのは、ぬめり、とした体躯が長く伸びた異形の姿。蛞蝓(なめくじ)、のなれの果てか。
はた、とその声の主をようやく視界に収めた法師と娘は、やはり緊迫しているとは決して言えない言葉を返した。
「…あんまり、気持ちの良いもんじゃないね。」
「私も、好きではありませんな…。」
「……。」
ぴき。
その随分と大きな蛞蝓の頭の上で、空気に罅が入る音がしたかと思うと、その触角の先から液体が放出された。
ばっ、と跳び退いた二人だが、その今居た場所は、じゅうじゅうと音を立て、どろり、と地面が溶かされている。
「あ~あ。折角集めた薪が。」
「また拾い直さねばなりませんな。」
跳び退いた拍子に、二人共手に抱えた薪を放り出してしまい、不満そうに嘆く。かと思うと、普段の動作の延長、とでもいう様に至極あっさり、再び弥勒が軽く地面を蹴った。
つい、と持ち上げた錫杖をしゃらり、と鳴らし、蛞蝓妖の頭上へと一直線にそれを振り下ろす。鈍い音と共に、妖怪の叫び声が広がった。とん、とこれまた極自然に着地した弥勒の横。
どう、と倒れる。息絶えた、様に見えた。
「もう、いいんじゃない?行こう。」
珊瑚が弥勒へ言葉を掛ける。本格的になり始めそうな、雨足の気配。このままでは、本当に足を止められてしまう。
「はい。」
弥勒も、今妖怪を退治したことなど嘘だった様に返事をし、薪を拾い上げる。と。
蛞蝓の巨大な尾が、横殴りに飛んで来た。
「!」
気付いた時には、その一撃を珊瑚は背中にまともに喰らい、体毎吹っ飛ばされていた。
「珊瑚!」
弥勒の視線が彼女を追う。そのまま、山の斜面を転がり落ちて行く珊瑚の姿が目に入る。
「てめえっ!!」
弥勒の怒声が、飛ぶ。起き上がった蛞蝓の胴体を、そやつが態勢を整える暇も与えずに錫杖で容赦無く振り抜いた。
どしゃり、と音がして、真っ二つになった妖怪の体はその場に沈み、もの言わぬ骸と化していた。
「珊瑚!!」
たった今成敗した妖怪には目もくれず、斜面を駆け下りて行く弥勒だったが、ぬかるみ始めた土に何度も足を取られそうになり、雨さえも呪うこととなる。
目指す珊瑚の身体は、斜面を下り切ったところへ、うつ伏せに横たわっていた。
「珊瑚、無事か!?」
弥勒が、珊瑚の体を抱き起こす。
「…大丈夫。ちょっと、油断した…。」
閉じていた瞼を開き、珊瑚が呟く様に答えた。
ほう、と安堵の息を洩らした弥勒が、所々泥の着いてしまった珊瑚の小袖の上から、ぎゅ、と腕を廻した途端。
「い…っ!」
「何処か痛むのか?」
慌てて珊瑚の体を自分から離す。知らず、力を込めていたらしい。
「…背中。打った、かな。」
彼女が体を起こし、自分の後方を見遣る様にして、言う。細い眉が、少々歪められている。
「歩けそうか?」
「…なんとか。」
そう言って、立ち上がる。自分が転がり落ちて来た斜面を見上げ、
「随分下まで来ちゃったんだ。」
珊瑚が言う。この短い会話の間に、激しさを増した雨は遠慮も無く人と地を打ち、話し声さえも聞き取り難い程になっていた。
「この泥濘(ぬかるみ)を、登るのは無理だな…。」
弥勒が、誰に言うともなく呟く。先程でさえ、足を取られるような状態であったのに、今、目に見えて水を吸い込んでしまった斜面が、とんでもなくぬかるんでしまっているのは、明らかだ。このまま無理に登ってまた落ちて…怪我をし兼ねない。
「取り敢えず、雨を凌ぐ場所を探しましょう。」
びしょ濡れになった髪から雫を落としながら、珊瑚がこくり、と頷く。
陽は、黒い雲の向こう側で山の端へと消えていた。







兎に角、この斜面を越えなければ辿り着けないところに、犬夜叉達の待つ洞穴が在る。外敵から極力発見されぬ様にと、面倒臭い場所に腰を据えたことが裏目に出てしまった。まあ、それは今更言っても始まらないことで。
しかし、この如何ともし難く降り注ぐ、豪雨。これが止んでくれないことには、どうにも埒が明かない。
叩き付ける様な雨の中、細く伸びる獣道を行く二人は古い小屋を発見し、其処へ一旦避難することに決めた。
がたがた、と立て付けの悪い木戸を開けると、中は無人であったが現在も使われている庵の様で、綺麗に整頓された屋内には薪も火打石も有り、取り敢えず安堵する。
「助かりましたな。」
弥勒がそう言って、珊瑚を庵の中へ導き入れた。
早速薪をくべ、火を入れると、ぱちぱちと()ぜる音を響かせながら、炎は囲炉裏端をぼんやりと照らし始める。
はあやれやれ、と溜め息を吐いた後、弥勒は(おもむろ)に袈裟を外し、墨染めの着物の上半身を脱いだ。それを脇腹の辺りで掴み、搾る。じゃあっ、と一気に吐き出されたその水量に、益々気が滅入るというものだ。
ふ、と珊瑚が小屋の隅の方で小さくなっているのが弥勒の視界に入った。
「珊瑚?どうしました。火が入りましたよ。」
囲炉裏の傍へ来ない珊瑚を不思議に思い、彼女へ声を掛ける。
「あ、あたしは、此処でいいから。」
「…何を言ってるんです?濡れたままでは風邪をひきますよ。」
不審そうに、弥勒が猶も彼女を促す。
「だ、だから、いいんだってば!」
「……?」
ぶんぶんと首を横に振る彼女を無言で見遣った後、ぽん、と合点がいった様に、弥勒が手を打った。
「ははあ、珊瑚。おまえ、私がこんな格好をしているものだから警戒しているのだな?」
そう言った弥勒の顔は、何やら楽しげである。からかい心が頭を(もた)げて来るが、それは珊瑚の次の声音によって眠らせざるを得なくなる。
「ち、ちが、うっ!」
馬鹿にされた様な気がした珊瑚は立ち上がって抗議しようとしたのだが、最後の一声が悲鳴に変わった。己で己を抱え込む様にし、また座り込む。
「痛みますか?無理をするのではない。」
「…平気。」
仏頂面で、珊瑚が小さく返事を寄越した。しかし、その言葉を真に受ける程、この法師はお人好しではない。百歩譲って怪我が"平気"なのだとしても、雨に濡れておきながら火にもあたらぬことが"平気"である筈はないのだ。
とたとた、と床を鳴らし、珊瑚のしゃがみ込む片脇まで歩み寄ると、僅かに身を屈め、彼女の細い手首を掴む。
「兎に角、こちらへ来なさい。何もせん。」
「な」、と一瞬珊瑚は反問しようとしたが、それにはお構い無しに彼女を囲炉裏端へと引っ張って行く弥勒。その手に導かれるまま立ち上がった珊瑚の視界には、広い彼の背中が映った。思わず、顔が赤くなるのが、自分でわかる。不謹慎なのは一体どっちだ、と己に言い聞かせているのだが、一度意識してしまった頬の熱さは、止められるものではなかった。
ようやく囲炉裏端へ腰を落ち着かせた珊瑚に安堵した後、弥勒が今度は袈裟を搾り始める。
全く、予想のつかない雨には困ったものですなあ、などと小声で呟く法師には、いちいち返事を返さずに。濃紫の衣を力任せに搾る、法師の右腕。何時もそれを覆っている黒い袖が無い所為か、その封印がやけに目立つ。珊瑚は、動く度にちゃり、と小さく音を立てるその右腕を見つめていた。
「珊瑚。」
弥勒の声に、珊瑚がはっとする。
「うん?」
視線を上げた珊瑚の頬に掛かる髪が揺れて、その髪の先から小さな雫がぽたりと振り落とされる。彼女の濡れた黒髪は、薄暗い小屋の中で炎の明かりを受け、艶々と光を放っていた。濡れ羽色のその一本一本が首筋や背中に纏わりつき、普段とは全く違った様子を湛えている。
「…着物、脱いだ方が、暖かいと思うのですが。」
「うるさい。魂胆見え見え。」
弥勒のその言葉に白い目を投げた後、珊瑚はそっぽを向いてしまう。
薪の積んである其処へ袈裟をばさりと掛けた後、やれやれ、本気で言ってんだけどな、と弥勒が一人心中でごち、珊瑚の隣へ腰を下ろした。
「着たままでも、充分色っぽいことになっちゃってますよ。」
「な゛!」
雨に濡れて充分に水を吸った着衣は、珊瑚の肌にぴったりと張り付いてしまっている。冗談めかして言う弥勒の言葉に娘らしい反応を示した珊瑚が、がば、と両腕で、折った膝毎抱え込む様に自分の体を丸めて見せた。
すると、また。
「痛っ。」
珊瑚の眉間に、皺が寄せられる。
「背中を出しなさい。」
弥勒が、そんな珊瑚の様子を見兼ねて声を掛けた。
「な。」
一瞬、珊瑚の口が、ぱか、と開く。その直後。
「なな、何言ってんの!」
彼女が、(朱に染まりながら)怒った顔で膝を抱いたまま弥勒の方を睨み遣る。
「傷を診てやると言ってるんです。」
しれっとした顔の弥勒を見遣り、暫しの空白の後、珊瑚が言った。
「…嘘だね。」
「……。」
珊瑚のじろり、とした横目が、弥勒のへらりとした顔を容赦無く射抜く。
全く、信用が無い…とぶつぶつ言いながら向こうを向いた弥勒。当たり前だ、と思う珊瑚。
と、直ぐにこちらへ向き直った弥勒の右手に握られていたのは。
「これを貼っておけば、少しは痛みも和らぐでしょう。」
其処には、炎症を抑える効能を持つ薬草が、あった。
「え。何時の間に…?」
驚いて問う珊瑚に、弥勒があっさりと答える。
「此処へ来る途中ですが。」
自分は、痛みを我慢して歩くことで精一杯だったから、気付かなかったのだ。あの豪雨の中、弥勒が、自分の為に薬草を探しつつ歩いていたことに。時折りしゃがみ込むその行動は、足元の泥を払う為だろう、程度にしか考えてはいなかった。
「…ごめん。」
上目遣いに睨む様な視線ではあるが、バツの悪い表情で、珊瑚が素直に弥勒へ謝罪してみせた。
「信用が無いのは、私の所為なのでしょう。」
にっこりと笑んで、珊瑚のその視線を受け止めると、つ、と左腕を上げ、彼女の頬に張り付いた髪を浅く握った指先で、払う。
すると、珊瑚は、びくり、と体を反応させた。
「!だから信用が無いんだって、わかってる!?」
思わず後ろに体を逸らし、弥勒の手から逃れた珊瑚が、ぴしゃり、と言い放つ。
「うーん。残念。」
(何がだっっっ。)
一人で焦っている自分が、馬鹿みたいだ、と珊瑚は思う。法師は、こんなにも余裕綽々なのに。なんだか、悔しい。腹が立つ。…情けない。
「ですから、背中を」
「自分でやる。」
きっ、と弥勒を睨み返し、右手を差し出す。薬草を寄越せ、と。
「自分の背中ですよ?どうやってやるんです。」
珊瑚が、うっ、と絶句する。確かに、遣り様が、無い。
「大人しく、背中を出しなさい。何もしませんから。」
優しく弥勒が言った言葉を、信用しても良いのだろうか。
「ほんとに?」
「ほんとに。」
「何もしない?」
「何もしません。」
「絶対?」
「…何かして欲しいのか。珊瑚。」
ばき。
押し問答は、珊瑚の鉄拳で終止符が打たれた。
どうも釈然としないまま、それでも背中を思い遣ってくれている彼の優しさを無下にすることも出来ず、でもやっぱりなんだか言い包められている様な…いやいや、これくらいどうってことない、子供でもあるまいし。待てよ、子供じゃないからまずいんじゃ…などと、珊瑚の思考は果てしなく頭の中でぐるらぐるらと螺旋を描く。
しかし、こうまで言われては、退けなくなるのが彼女の性。それさえも計算に入れているのかどうか定かではないのが、法師の言。
あまりに「何もしないか?」などと問うてばかりいては、まるで自意識過剰の盛りのついた猫のようで、却って格好がつかない様な気までして来るから不思議だ。
意識してます、と大手を振って知らしめるのも、珊瑚の自尊心が許さない。
そして、どうしても譲りたくない理由が、今一つ有った。しかし、今回傷めた背中は、大分上方。肩胛骨の辺りまでには及んでいない。その一方の理由には、触れずに済むだろう。
かなりの決断力を以って意を決し、しかしそれとは法師に気付かれぬ様、渋々と己の襟元へ手を掛けた。
指先に小さな震えがあるなんて、絶対に、悟らせない。
掴んだ襟を上方へ引き上げ、少ぅし後ろへずらしてみせた。肩先が幾分広くなった程度。
あのう、と言い辛そうに切り出した弥勒が、
「…全然、足りてないんですけど。」
困った様な笑みを浮かべて、続けた。
これでは薬草をあてがうどころか、何処が痛むのかさえわかりはしない。
「うるさいなあ。」
珊瑚が呟くと同時。弥勒の右手が珊瑚の背中に掛かる髪を、ふわ、と持ち上げ、彼女の体の前方へと送ってやる。
また、珊瑚が体を竦ませる。
「背中を空けただけですよ。」
珊瑚を安心させる様に、柔らかな声音で弥勒が彼女の背に言葉を掛けた。
「……。」
その言葉には無言を返し、珊瑚が再び襟元を緩め、ようやく項の下辺りが顔を覗かせる。
まるで、陽の光など一瞬たりとも浴びたことがないのではないか、と思われる、白。
着物を通して水を吸った肌が、それをちろりちろりと揺れながら照らし出す炎の紅に負けぬ色彩を放つ。
(これで何もすんな、って、俺に言うんだからな…。)
その眼前の光景に見惚れる弥勒が、心中で大きく溜め息を吐き出した。
しかし、この女の言うことだけは聞いてやらねえとなぁ、と珍しく殊勝なことを思っているのも事実で。
その時。
これが蛞蝓妖に打たれた痕か、と思われる赤紫色の痣の左下方。
皮膚を裂く小さな傷痕を弥勒の目が捉えた。
(これは…裂傷…?)
暗がりであるからはっきりしたことは言えぬが、昨日今日出来た傷では、ない。既に塞がっているものだ。かと言って、古傷と呼べる程に周りの皮膚と同化している訳でもなかった。
小さい、というのも、今視界に入る範囲が極狭いものだからそう見えるだけであって、それが広範囲に渡っている傷のほんの一部分であろうことが、皮膚の攣れ具合から容易く読み取ることが出来る。
「その辺だから。痛むの。」
珊瑚が、言った。これ以上は脱がない、と言わんばかりに。
弥勒は何も言わぬまま右手を珊瑚の背中へ伸ばすと、その指先で彼女の肌にゆるりと触れた。
「!」
緊張しているのを悟られまいと、珊瑚は体が竦まない様に力を入れる。襟元を握り締めた両手を、きつく胸に抱いたまま。紅を頬へ間違って注したのではないか、という程に赤く染まっている顔をこの男に見られずに済むことだけが、珊瑚にとっては救いだった。
弥勒は、珊瑚の白い背中へ指を乗せたまま、その感触を確かめる様に、なぞる。
しかし、彼の触れている箇所は、今回痛めた傷ではなく。
あの宵闇の中、刻み込まれた戦いの傷。刀傷ではない、鎖鎌に因って穿たれた、消えない傷痕。
法師の指先がなぞっているのが"あの傷痕"だと気付いた珊瑚は、首を廻らせ彼の名を呼ぼうとする。
「!ちょっと法師」
しかし、それを遮って。
「…以前に言っていた、消えない傷痕とは…これ、か?」
弥勒が、低く、静かに言った。
「……。」
その落ち着いた声に圧され、振り返ろうとした頭を途中で止めた珊瑚が、視線を落とし無言で頷いてみせる。
甘かった。見えないだろう、と高をくくっていたのに。ほんの少し顔を出した裂傷など、気付く筈もないだろう、と思っていたのに。
この法師が、戦に関して素人ではない、ということを頭に入れておくのを怠ってしまった。この人は、次に何を言うだろう。それとも、あたしから何かを言わなければならないのだろうか?
思いもかけぬ状況に置かれ、珊瑚が次に取るべき態度に迷っていると。
珊瑚の背中から指先を離した弥勒が、その両手を彼女の泥の着いた肩へ置く。水を含んだ小袖は、弥勒の掌へひんやりとした感触を伝えて来た。
そして、大事な物でもその掌中へ捕えているかの如く優しく、ゆっくりと、両腕を引き下ろす。
珊瑚の、着物毎。
既に緩められていた襟元は、何の抵抗も無く彼女の肩を滑り落ちて左右に分かたれた。
「!何を…!」
飛び上がらんばかりに狼狽した珊瑚が、赤かった頬を更に濃く染め、立ち上がろうとする。無論、振り返り様に一発拳をお見舞いするつもりであったのは言うまでも無く。しかし。
「何もしないと言っただろう。座っていなさい。」
普段でさえあまり耳にしたことが無い程に落ち着いた、真摯な声。その声音に抑えられた珊瑚は、一瞬息を飲み込み、次に浮かしかけた腰を再び床に下ろすのを余儀なくされる。
吊り上がった柳眉をどうすれば良いのかわからずに、怒りの表情は消せぬままに。
それでも黙りこくることしか出来なかった。
こういう時に、そんな真面目な声を出すなんて、ずるい。何時もみたいに、戯言めかして言ってくれたら、あたしにだって反駁出来る語彙くらいあるのに。
なのにこやつは、切り札を最初から使って来た。これが、ずるい、と言わずしてなんと言おう?
珊瑚は、この悪辣な(としか彼女には思えない)法師に対し、胸の奥で子供のように文句を(あげつら)う。
肘の辺りに、重くなった衣が(ひだ)を作って溜まっている。胸元をきつく握り締めていたことが幸いして、辛うじて、前身ははだけられてはいなかった。
怒りと共存する思いは、羞恥。
己の背がこの法師の眼前に晒されているかと思うと、顔から火が出る、という言葉を地で行くような熱が、顔どころか全身を駆け巡る。どうして直ぐに彼を張り倒してこの状況を脱してしまわなかったのか、との後悔がその熱の後に一気に心を侵食していく。
何故?
そんなことは、わからない。ただ、あの法師の声が、次の行動へ移ろうとした珊瑚の時機の全てを奪ってしまったことだけは、紛れも無い事実。
そして、弥勒は。
目の前に現れた、珊瑚の白肌の上に走る、かくも長大な、傷痕。
其処へ一瞬右の指を翳したが、ふと、その右手を引き留めた。呪われた利き手で触れることを、刹那、躊躇う。以前、傷の話に触れた時の珊瑚の表情を思い出す。あの時の彼女の憂えた顔は、それが奈落絡みに因って印されたものだということを暗に物語っていた。
寸刻の逡巡の後、利き手を下ろし、己だけの持ち物である何も宿さぬ左腕を、つ、と上げた。長い指先を、その傷に再びそっと這わせると、珊瑚はまた、ぴくり、と肩を硬直させる。
なんと、痛ましいことか。まさか、これ程に大きな傷だったとは。
この長大さと同一に、彼女の心の傷も深いのだと、改めて思い知らされていた。
「醜い、だろ。」
不意に、珊瑚が呟く。
「年頃の娘の背中じゃ、ないよね。」
自虐的な言葉を、知らず口に乗せていた。法師に背を見られ、傷痕に触れられ、この娘が何を言えば良いのかわからぬ程に混乱していても、当然のことで。そしてその混乱とは裏腹、紡ぐ言葉が色を失った様に素っ気ない響きを持っているのも、却って心中の混迷を際立たせる働きを為していた。
「…珊瑚。」
柔和な声で、弥勒がその名を呼ぶが、彼女はそのまま続ける。
「誰だって、目を背けたくなるさ。」
きっと、この人は、興味を持っただけ。ほんの少し目に入った傷端を、興味半分で全体を見たいと思っただけ。そして、思いも拠らぬ程広範囲に渡る醜い痕に、呆然として無言を貫いていたのだ。そう、怖い物見たさに、指を触れてはみたけれど…その実体に、嫌悪して。
――― 珊瑚は、法師の心中を、そう推し量っていた。
「醜くなど、ない。」
清廉な声が、珊瑚の言葉に呼応した。
ゆっくりと、静かに。
湖水を撫でる、清爽な微風の響きを携えて。
白磁の皮膚に触れた指先を軽く握り、左側へ倒す。今度は指の背と手の甲が珊瑚の背中を滑って行った。頑なに閉ざしていた胸の奥に沈んだ(おり)へと、その彼の体温が、降りて行く。
何か、言わなくては。
言わなくてはいけない様な、出所の知れぬ使命感に駆られて。
「琥珀、が…」
なれど、言い澱む。言葉がみつからない。それ以上、言えない。唇に、乗せられない…。
「もういい、珊瑚。」
そう言って、弥勒は。
珊瑚の背中へ、接吻した。
「!法師」
言い掛けた言葉は、最後まで声になることはなかった。
それきり、しん、と静まり返った空気の中で、弥勒は浅く触れた唇で、珊瑚の傷痕をなぞる。それはまるで、傷が癒える様にと願い、痕が消える様にと祈るかの如く。
珊瑚は体を強張らせ、小さく震えている。
泣いていた。
辛いとか、悔しいとか、悲しいとか…そういった負の感情ではなくて。
流れることを止めようとは思わない、体温を持った、涙。
この背に走る傷を、醜くはない、と言ってくれる。触れて、くれる。
本当は、知っていた。この人が、興味本位に他人の傷を暴き、醜悪な印しを蔑む様な男ではないということを。それでも先に失望されるのが怖かったから、自嘲的な科白が、その思いには逆らう様に口を吐いて出ていた。
それさえも見透かした様な、法師の為様。
背中に、弥勒の温かく柔らかな唇の感触を受け、気持ちが(ほど)かれていく様に感じるのは、錯覚ではないだろう。
その反面、心臓が早鐘のように鳴っているのも事実で。
己の両肘の上方を掴む彼の指先は、力を込めずにいてくれているものの、珊瑚に心地良い痛みを連れて来る。その間も、弥勒は彼女の背中から唇を離さない。珊瑚の傷全てを拭おうとするかのように、口づけを重ねる。
忌まわしい、傷。忘れることを許されぬ、痕。
己が心の真実は、それを、醜いなどとは思わない。喩え操られていたにせよ、愛しい弟が刻んだ、闇の一閃を。
それでも、この法師にだけは見られたくなかった。
故に、体温を奪われるのを覚悟で着物を脱ぐのを躊躇した。なれど、今は。
其処だけが、暖かい。重苦しく圧し掛かっていた傷が、陽だまりに包まれたように、軽くなっていく。まるで ―――
そう思った瞬間。弥勒の唇が珊瑚の背中から離れ、代わりに彼の両腕が珊瑚の視界に滑り込んで来る。右腕を封印する数珠が、しゃら、と極小さな音を立てた。
弥勒の胸に、珊瑚の背中がふわりと抱き留められた。珊瑚の体の前に廻された彼の両の(かいな)は、彼女の目線の先で、ゆるり、と組まれている。
「な、何してんの、さ。馬鹿法師…。」
声にならない様な小ささで、悪態を吐いてはみるが。暴れ出した心臓は収まることを知らず、喉にさえ力が入らない。当然、語気など期待出来る筈もなかった。
「いいから、黙っとけ。」
ぼそり、と呟くのは、"本気"の時の言い様。
いいから、って何さ。文句を言っている相手に対して、開き直ったのか、この男は。…などと思うのは、自分への言い訳でしかない。非難する気が失せているのは、己が充分承知していた。
そう。大体、非難するならもっと早くからしていなければ、説得力の欠片も有りはしない。今更、だ。
背中には、弥勒の温かい肌の感触。右の肩先には、彼の頭が降りて来ており、その濡れた前髪が珊瑚の肩をゆるくくすぐっている。
「薬草、役に立たねえな…。」
弥勒が、珊瑚の耳の傍で低く囁く。
「だから、平気だって言ったじゃないか…。」
返事を寄越す珊瑚の声は、何処か心許無く、上擦っている。
疾うに、打撲の痛みなど忘れ去っていた。そんなものより、引き千切れそうな胸と心の臓の高鳴りの方が、数倍苦しい。
また、ずるい、と珊瑚は思う。こんな風に体中が心臓と化した様にどくどくと波打つ思いを抱えているのは、恐らく自分だけなのだろう。その証拠に、この男の落ち着き払った言動はどうだ。今、己は、胸の前できつく握った両手にさえ、心臓の震えが伝わって来るというのに。
その弥勒の方は、膝を立てて座ったその間に珊瑚を抱え込むようにし、すと、と己が背中を壁際に預ける。そして、冷え切った彼女の体に廻した両腕に、力を込め、言う。
「見ろ。こんなに体温取られちまって…。」
暫く雨水に濡れたままの着物を纏っていた珊瑚の体は、その衣に温かさを奪われてしまっており、その布切れ如きにさえ、弥勒は嫉妬を覚えずにはいられなかった。
少し呆れた様に吐き出した法師の言葉に、娘の方はといえば、バツが悪そうな声を上げる。
「だって…。」
ミラレタク、ナカッタカラ。
胸の内で呟いた言葉が聞こえた筈もないのに、こうしてりゃ見えねえよ、と聞き取れるかどうかという程の微かな声で、弥勒が言った。
己を背中からきつく抱く彼の腕に、視線を落とす珊瑚。明らかに自分のそれとは異なるものを見せつけられ、心拍が更なる高みへ押し上げられる。その均整の取れた腕には、所々に薄い傷跡が見受けられ、それが、これまでこの法師が安穏と暮らして来たのではないことを、音も無く物語っていた。
この人も、戦いの道を進み、越えて来た ――― 。
別に在った道筋が、何時の間にか一つになり、今、同じ道を行く。
喩えそれが、冥府魔道だったとしても。
恐れる心が無いと言えば嘘であるけれど、辿り着く先が冥府であろうとも、今は、魔道へ一歩を踏み出せる。
(…いいや、そんなところへ、堕ちはしない。)
どちらにせよ、こんな風に心が強く保たれるようになったのは、一体、何の ――― 誰の、お蔭だろうか。
法師の右腕で螺旋を描く数珠を愛しげに見遣り、珊瑚は、ふ、と目を伏せて微笑した。
暫しの、沈黙。今の二人には、それさえも全く苦にはならなくて、何の変化も無いままにただ降り注ぐこの時が永遠に続けばいいと、深く、願う。
雨音は、何時の間にか消えかかっていた。それとも、雨の叩き付ける音さえ忘れる程に、此処に広がる小さな空間に、耽溺していたのだろうか。
その時、ふと、珊瑚は背中で弥勒の鼓動を聞き取った。それは、幾分早足で刻まれており。
無論、己の心拍はそれ以上に駆け足であるのだが、その意外な事実に何やら嬉しくなる、珊瑚。先程思った、ずるい、という非難を一つ、撤回してあげてもいい、と思う。
その勢いを買って、彼女が沈黙を破り、言う。
「法師さま。」
「…ん?」
けだるそうに、しかし優しく、弥勒が返事をする。
「何もしない、って、言ったよね。」
「ああ。」
何も、も何も無い。こんな風に、既に小さな境界線は一つ、壊してしまった。
(まさか、しても良いよ、なんて言うんじゃねえだろうな。)
無駄だと思いながらもほんの少しの期待を持って、弥勒が珊瑚の二の句を待つ。
その珊瑚の口調は、何時もとは違う婉然としたものではあったけれど、告げられた言葉は、
「約束は、守ってよ。」
「…はい。」
がっくりと肩を落とし、期待した俺が馬鹿だった、と心中で一人ごちた弥勒の落胆の表情は、当然、珊瑚の視界には入らない。
涙は、疾うに止まっていた。







深夜に雨は上がり、明け方には土も随分と硬さを取り戻していた。この山は、なかなかに土壌が良いらしい。
結局山小屋で一晩明かしてしまった二人は、陽が昇るのと同時に薪を拾い直しに外へと出ていた。小屋から拝借した縄で、拾った薪を縛り、斜面を登りに掛かるところであるが。
犬夜叉やかごめ達に何を言われるのかが、珊瑚の新たな頭痛の種となっている。
(なんて説明すりゃいいんだか…。)
別に、雨に足止めを喰らって避難していた、と言えば済む話ではあるが、それだけで終わるとは思えない。犬夜叉は兎も角として、突っ込んで来ると思われるかごめの尋問に、上手く答えられる自信は、己には、無い。かといって、説明を法師一人に任せては、無いこと無いこと言われるのが目に見えている。
はああ、と珊瑚が嘆息した脇で、法師が、ふわああ、と大きな欠伸をしてみせた。
肩から背中を露わにした珊瑚を胸に抱き締めたまま、彼女の小さな寝息を聞きながら、結局一睡も出来なかったらしい。
ちろり、と珊瑚が法師の方を見遣る。その視線に気付いた弥勒は、
「…誰の所為だと思っているのです。」
何時もの口調に戻り、恨み言を一つ言った。
「法師さま、あたしの言うこと、ちゃんと聞いてくれるんだね。」
ははは、と苦笑しつつ、珊瑚が冗談めかして返事を寄越す。
「当たり前です。」
まずは、信用を得ないとな。最初のうちは、これくらい辛抱しねえと…等と、邪まな考えでいるのだが。珊瑚は勿論、そんな風には思っておらず。
「あのねえ、法師さま。」
「はい?」
くる、と弥勒へ背を向ける珊瑚。始まりの言葉を投げておきながら、そのまま、無言になる。
弥勒も何も言わず、彼女の背中を見つめ、言葉を待つ。
「あたし…あの傷…ちょっと、重かったりしてさ…。」
真実は、体中を縛り付ける(はがね)の鎖の様に感じていたのが、常で。己の背に負ったその意味の大きさに、押し潰されそうになっていたのも、事実だったけれど。
深刻な雰囲気にはならぬ様、珊瑚が口を開いた。
表情の見えぬ彼女の言葉へ、静かに弥勒は耳を傾ける。
「…でもさ、昨日は…凄く、軽くなった。」
其処で、珊瑚は黒髪を揺らして法師の方へ向き直る。
「まるで、背中に羽が生えたみたいだったよ。」
これまで見せたことのない、この娘の、無防備な笑顔。
本当の、満面の笑み。
(…おまえは、菩薩か…?)
朝陽を浴びた珊瑚のその笑顔に()てられ、本気で目眩を起こしそうになる、弥勒。
ああ、こんな笑顔を見せて貰えるのなら、たまには理性に従ってみるのも悪くはないな。
心底、そう思って。
「私は、何処にだって接吻してあげますよ。」
にっこりと笑んだ弥勒が、珊瑚の唇に己の人差し指を、ちょこん、と当て、臆面も無く言ったところへ。
ばきょ。
珊瑚の拳が、弥勒の頭に勢い良く落ちる。
(全く、これさえ無ければ…!)
怒った珊瑚は、頭を抱える弥勒は見殺しにし、薪を抱えて先に斜面を登り始める。
怒りの為か、はたまた羞恥か、その頬を染める理由は定かではないが。
鮮やかに木々の間を抜けて行く珊瑚の背中を見遣る、弥勒。
あの背中に、俺が羽を生やしたと、彼女は言った。
けれど。
この畏怖に震える情けない心を軽くしてくれているのは、おまえの方なのに。
こんな風に、誰かを愛しいと思い、我欲まで押さえ込める程、己の胸の内を浄化してくれているのは。
珊瑚。他ならぬ、おまえなのだ。
ふう、と柔らかい溜め息を一つ吐き出した後、弥勒は持ち上げた薪の束を左肩に担ぎ、空いた手に錫杖を握り締める。
そして、先を行く珊瑚の背を、追う。
彼女が、何処かへ飛んで行ってしまわぬ様に。








B.G.M. <翼をくれた人> REPLICA


11巻の温泉シーンを読んだ瞬間、「この背中の傷は使える!(外道)」と、ストーリーが5秒で舞い降りて来たシロモノです。
ずっとUPを避けていた話で、堕天に逃げたという経路があります。しかし、此処を通らないと次へ進めないので、意を決して載せました。めちゃ恥ずかしい。私の頭の中がこんな妄想ばっかりかと思われると非常に切ないというか…図星なのですが。
それにしても「理性派法師」に「従順珊瑚」と、およそ別人な二人になってしまいました。普通なら、絶対珊瑚は着物を脱がないでしょう、例え背中が痛くても。こんな珊瑚嬢は有り得ないー!と突っ込まれそうですが、誹謗中傷はカンベンして下さいね。寛大なお心で見守ってやって下さると、嬉しい限りです。
では、最後までお付き合い下さいまして、有り難うございました。

2001.09.19
■キワさん・画■