SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



長い髪のBabe







「あれ?」
平和な、ある日のこと。髪を梳いていた珊瑚が、櫛に違和感を覚え、小さく声を上げた。
見ると、己が手の中にある櫛の歯が、三、四本こぼれてしまっていた。
(随分長いこと使ってたからな。)
飾り気のない質素な半月形の櫛を見遣り、ふ、と溜め息を()く。
仕方がない。
櫛の歯を拾おうとしたところで、表からかごめの声が彼女を呼んだ。
「珊瑚ちゃ~ん。ご飯、無くなっちゃうよお。」
皆は、先に楓のところへ食事を摂りに行っていた。先程迄山へ入り、薬草等を吟味していた珊瑚は小屋へ着くなり乱れた髪を整えていた最中で。
「今行くよ。」
軽く返事をし、珊瑚は立ち上がる。結局、拾えたのは二本。恐らくあと一、二本ある筈なのだが。このままでは食事を食いっぱぐれてしまう。
(あとで捜して片付けておかなくちゃ。)
もう一度床へ目を遣った後、珊瑚は小屋の(すだれ)を潜った。







昼餉の席に、弥勒は不在であった。
「あれ、法師さま、まだ?」
村の外れに在る寺まで勤行(ごんぎょう)に出掛けたのは、朝陽が昇る頃だったか。楓の村へ戻って来ると、弥勒はかなり高い確率で寺へ足を向けるようになっていた。
「うん。ご飯要らないのかな。」
遅れて来た珊瑚の問いに、箸を口に当てるようにしたかごめが答える。
「けっ、あいつのことだ。メシ時になったら必ず帰って来んだろ。」
「おぬしとは、違うと思うぞ。」
茶茶を入れる七宝へ、犬夜叉がぎろり、と三白眼の恐ろしい視線を返してやる。
「てめえ、どういう意味だ。」
「いいから黙って食さぬか。」
楓が其処で仲裁に入り、二人は再び椀の中の飯をがつがつと掻き込み始めた。
「最近、長くない?勤行(おつとめ)…。」
飯を盛った椀に目を落としつつ、珊瑚がぽつり、と呟いた。
「そう言えば、そうよね…。」
「あいつ、朝から女引っ掛けに行ってんじゃねえのかあ?」
「それは有り得るのぅ。」
心配げな女衆の声音を無視するように言った犬夜叉と七宝は、今度は同意見らしい。
言ってしまった後、珊瑚から不機嫌な表情で睨まれるかと思い、ちろり、と向けた犬夜叉の双眼には、思案げな様子で俯く彼女の姿が映る。
「…風穴の…心の負担が、大きくなっているんじゃ…。」
こうやって、毎日毎日戦い続けても、奈落を討ち果たすどころか、大打撃さえ与えられずにいるのが現状だ。奴の出方を待つしか、活路を見出す術が無い、今。一日ずつ過ぎて行く日々は、弥勒の寿命を縮めて行く日々に他ならない。
寺へ居る時間が増えているということは、即ち、精神を鎮めておくことが難しくなっているということではないのか。
不安で。
不安を昇華する為に費やす時間が、長くなっているのではないか。
「…珊瑚ちゃん。」
かごめが、其処で言葉を切ってしまった珊瑚の心中を察し、何かを言い掛ける。が、しかし、それより先に犬夜叉が口を開いていた。
「あの腐れ坊主がそんな繊細なタマなワケねえだろ。心配するだけ勿体ねえってもんだ。」
飯を喰らいながら、ぶっきらぼうに言う。珊瑚の方は見ずに。
彼女の言わんとしていることには否定出来ぬものがあると、犬夜叉だとてわかっている。
己が、もしも弥勒の立場だったならば?
それは、到底"もしも"の域を脱しはしない。けれど、不安に苛まれるであろう可能性を、零にするのが無理であることも想像に難くない。
それでも、此処で"そうだな"などと肯定しようものなら、珊瑚の不安を後押しするだけで何の得も有りはしない。そして何より、犬夜叉自身が信じたかった。例え、風穴に因る終焉に怯えることがあったとしても、絶対に、恐怖に支配される筈がない。あいつは、そういう男だ、と。
「そうじゃ。あやつはそんな、弱っちくは出来ておらん。」
七宝は、本気で。
"弥勒法師" とは、彼にとり"弱き心" とは一番遠い存在だったから。彼の肩の上の安心感を、幼い本能が理解していた。弥勒の消えたあの日のことを、今でも時々思い出すけれど。
それでも何故か、二度とあんな風に自分の前から居なくなってしまうことはないのだと思える、現在。故に、何の曇りもなく、そう言った。
「…そうだね。考え過ぎかな。」
二人の気持ちは有り難く受け取って。それでも、自分の予想は当たっているのだろうと確信して。
薄く笑んだ後、珊瑚は食事を再開した。







「ふう。あ~肩凝った。」
弥勒は、その頃離れの方へ戻って来ていた。
日々、仏に向かう時間が長くなっている。それは、弥勒とて自覚していた。あまりあからさまに遅延してしまうと、皆に変に思われる。わかってはいるが、それでも精神の平生を保つ為に、手を抜くことは出来なかった。精神の乱れは、法力にも影響を及ぼす。それは、自らの身の危険、ひいては皆の命にも関わってしまう重大事であるから。
左肩へ右手を乗せ、首を左右へ回し、くぁ~あ、と腑抜けた声を上げてみる。
(皆、昼餉に行っちまったか。…ん?)
胡座を掻き、だらり、としていた弥勒が、床に何やら細く小さな欠片が落ちているのに目を留めた。
「これは…。」
見覚えがあるような。
右の指で掴み取り、目の高さに掲げ、凝視していたところへ。
「あ、弥勒さま戻って来てる~。」
「ああ、只今戻りました。かごめさま。」
その小さな物体を緇衣の袂に入れ、何時もの微笑で挨拶をする。
「お帰り、法師さま。昼餉だけど…。」
かごめの後ろから顔を出した珊瑚を見上げた弥勒が、動きを一瞬止める。背後から注がれる陽の粒子を浴び、彼女の艶やかな黒髪は、目映いばかりの光沢を放っていた。
「有り難うございます、珊瑚。今戴きに上がろうかと思っていたところです。」
誰にも気付かれぬ、一瞬の間の後、弥勒が立ち上がる。
「あの、だから、」
「全部おら達が食ってしもうたぞ。」
言い澱む珊瑚の科白の上から、七宝が、悪びれずに言ってのけた。
「…は?」
「おめえが来んのが(おせ)えから悪いんだ。」
犬夜叉が、さも満腹だと言わんばかりに、腹を擦って畳み掛ける。
「全部?」
「そう、全部…。」
かごめが申し訳なさそうに、首を竦め上目遣いに、言う。
「弥勒は法師じゃから、一食くらい抜いても差し支えなかろう?」
「…それは、何処から来る"じゃから"ですか。七宝…。」
弥勒が、落胆の表情で七宝へ返す。
そら、断食くらい嫌と言うほど経験して来もしたが。俺だって、腹くらい減るわ。
「法師がメシ程度のことで、目くじら立てるもんじゃねーだろ。」
「は~~~っ。」
弥勒が、深い深い溜め息を吐く。
「法師さま、あたし、楓さまのところへ行って何か作って来ようか。」
何やら随分と可哀相に…というか、哀れに思え、珊瑚が言った。
「いえ、ただでさえ私たちは余分な食い扶持ですから…。私の分が、犬夜叉と七宝の腹の中に収まってしまったのなら、それ以上の負担はかけられますまい。」
こうやって、頻繁に楓のところへ世話になっている以上、規定値以上のことはしたくなかった。七宝のような幼児ならまだしも、自分は一人前の大人である。おまけに(というのも気が引けるが)法師という立場にも在り。
「流石は、法師じゃなぁ。」
「は~~~っ…。」
きらきらとした狐妖の表情を見て、また、深い溜め息。しかし。
「けっ、かっこつけて痩せ我慢してんじゃねーっつの。」
犬夜叉の悪態に、
「元はと言えば。」
溜め息で済ませられる程、大人ではなかったらしい。
「おまえが食ったんだろうが!!」
げし、げし、と、態度の悪い半妖へ容赦のない蹴りが飛んだ。







「あれ、弥勒さまは?」
「出掛けると言って、出て行ったぞ。」
かごめが、小屋の外にも内にも見当たらない弥勒を不審に思い、七宝に問うと、この答。
「またあ?」
昼餉の、後。ふわふわと柔らかい空気と、辺り一面に広がる花の香が心地良い、午後。
「なぁにやってんだか、あの不良法師は。」
桜の枝の上で休んでいた犬夜叉が、上から言葉を降らせて来た。大方が散ってしまったその枝の隙間から、青空が遠慮なく拝めるのだから、葉桜も悪くはない、と犬夜叉は思う。まあ、大概寝ているのだから、どちらにしてもあまり影響はないのだが。
「もしかして、またお寺?」
そう言ったのは、楓の手伝いから戻って来た珊瑚。
「いや、なんぞ用があるらしい。いそいそと出掛けて行ったぞ。」
「また女の人の手相でも見に行ったのかしら…。」
七宝の説明に、かごめが、顎に手を当て考えるような仕草をする。
「…案外、昼間帰りが遅かったのも、その約束を取り付けていたからではないじゃろか。」
腕組みをした七宝が、大人のようなことを口走ってみせた。
「けっ、約束ならまだしも、実は女のとこに行ってたんじゃねえのか?」
くだらねえ、といった表情で両腕を頭の後ろに組み、再び幹に己が身を預け寝る体勢に入る犬夜叉。と、其処に、
「おすわりっ!!!」
かごめの怒声が勢い良く飛んで、半妖の体が、どげしっ、と地面に叩き伏せられた。かなり、高い位置から。
「いっでぇーーー!!なな、何すんでいっ、かごめッ!」
地面に這い蹲ったままの状態で、(おもて)だけを何とか持ち上げた犬妖が不服そうに叫ぶ。
(なんであんたは、そんなにデリカシーがないの…。)
はぁ~、と呆れたように大きな息を吐いたかごめは、少々悲しくなってしまう。
珊瑚の前だというのに。この男は。
「どうしたのさ、かごめちゃん。」
しかし、かごめの急な変貌に珊瑚の方が驚き、訊ねる。
「え?あ、あはは~。犬夜叉ってば、弥勒さまに失礼だな、って思って。」
危ない。
適当に誤魔化すかごめ。そうだった。あの場面を覗いていたなんて恐ろしいこと、まだ二人には気付かれていないのだった。表立って珊瑚に気を使え、などと言ってしまっては、どういう意味かと問い質されるに違いない。
「法師さまは、自業自得でしょ?犬夜叉が可哀相だよ。」
珊瑚の言葉に、冷汗を浮かべながらも愛想笑いをしてみせたかごめは、思う。
(怒ってる…。)
弥勒を悪く言った犬夜叉に対してではなく。女癖の悪い、不良法師に対して。
ただ"出掛けてくる"などと、弥勒の場合、女以外に有り得ない。どれほど庇おうと思っても、かごめ自身がそう確信してしまっているのだから手に負えない。それ以外に考えられない、と皆に思われてしまう日頃の所業が悪いのだ。
(弥勒さま、何考えてんだろ。珊瑚ちゃんに、非道いじゃない。)
その珊瑚はと言えば、苛々した様子を隠せずに、雲母を伴い、裏の畑の方へと消えてしまった。
ざくざくと怒ったように歩く珊瑚の頭の中を占めるのは、一つの顔。
(あんの助平法師!なんなのよ、一体、なんなワケ!?)
こうなってしまうと、先刻、自分が彼に対して抱いていた懸念さえ、馬鹿らしくなって来る。
あの男は、人を何だと思っているのだ。
あのようなことを、言っておきながら。
あのようなことを、しておきながら。
(…あたしが舞い上がっていただけ?)
確かに、はっきりと、好きだ惚れたと言われた訳ではないのだけれど。
あの程度のこと、女に見境のないあの法師なら、何てこともない、誰とでも交わせる遊びだったのかもしれない。
そう考えると、珊瑚の胸は、ちくちくと痛んだ。
そうなのかもしれない。何も、特別なことではなかったのだ。
大人の弥勒と。
子供の自分とでは。
(ばっかじゃないの。)
胸の真ん中辺りに、形容し難い痛みが走る。どうってことない、どうってことない、と繰り返し言い聞かせる程に、その己の中から生じる痛みは強さを増して行き、止めようもなかった。
何故泣いているのだろう。あたしは。
冷めて行く頭とは反比例するように、辺りに立ち込める花の香が次第に色濃く感ぜられるようになる。
一瞬意識を奪われる、今はもう遠い、朱唇に乗せられた彼の人の体温。
己が頬を濡らし始めた涙を、拭いもせずに。
みぃ、と小さな妖猫が、心配げに珊瑚の足元へ擦り寄って来る。
「大丈夫だよ。雲母。」
彼女は出来る限り笑んでしゃがむと、雲母をその腕に抱き上げた。温くて柔らかい雪白の毛が、珊瑚の鼻先をくすぐる。彼女の胸元へ抱かれた従者が、主の頬をぺろ、と舐めた。
「おまえ、喉が渇いているの?」
くすり、と笑い、雲母に頬擦りする珊瑚。
喉が渇いているのは、あたしだ。ひりついて、痛い。乾いた喉を潤せるのは、水なんかじゃなくて。
「もう、泣きたくないのにね…。」
雲母の体躯に顔を埋め、珊瑚は、声も立てずに泣き続けた。







「只今戻りました。」
陽が大分傾き夕刻が迫る頃、ようやく弥勒が姿を現した。
「弥勒さま。何処に行ってたの?」
離れの中に居たかごめ、犬夜叉、七宝の目が一斉に戸口へと注がれる。珊瑚は、顔を上げもせず、取り込んだ洗い物を膝の上で畳んでいた。
「え?いや、町の様子を見に…。」
あまりに勢い込んで問うて来た三人の目に、一瞬ぽかん、と法師が立ち竦む。
しらばっくれている。かごめがそう思った時、下を向いたままの珊瑚が口を開いた。
「何しに行ってたのさ。町なんかに。」
不機嫌そうに、弥勒を責めるような声。やばい。かごめが危機を察知する。
「何しにって…。まあ、いいではありませんか。」
「やっぱり女じゃな!?」
何時もの表情を崩さず答える弥勒へ、七宝の声が割って入る。
「違いますよ、失礼な。なんですか、やっぱりとは。」
「おまえ、日頃の自分の行いわかってねーな…。」
犬夜叉が、呆れたように腕組みをしたままでぼそり、と吐いた。
「じゃあ、何してたって言うの?」
今日の珊瑚はなんだか怖い。七宝がそう感じたのは、恐らく当たっていただろう。
「…随分突っ掛かって来ますな、今日は。珊瑚、私の行動がそんなに気になりますか?」
(ぎゃ~!!)
心の中で悲鳴を上げる、かごめ。
(弥勒さま、そんなところで挑発してどうすんのッ!?)
「だ、誰が法師さまのことなんか…!」
嗚呼、売り言葉に買い言葉。もう、事態を収拾する術を、かごめは知らない…。
照れて、と言うよりは、怒って言い放った珊瑚の言葉に弥勒が猶も続ける。
「では、私が自由な時間に何をしようと、珊瑚には関係ないでしょう。」
(え?)
何時もと、違う?弥勒の反応が。かごめと犬夜叉は、己が耳を疑った。
「ちょっとちょっと、弥勒さま…?」
止めに入ってはみたが、もう遅かった。
関係ない。
珊瑚には、関係ない。
その科白が、珊瑚の戻る道を塞いでしまっていた。火に油、である。
「そんなこと、最初から知ってるよ!あんたなんかと、関係あってたまるもんかっ。」
「おい、珊瑚…。」
如何に男女のことには愚昧な犬夜叉でも、これはやばい、と察したようで、間に入ろうとする、が。
「何処でも好きなとこへ行って、女の人と遊んでりゃいいだろっ!」
ぐさ。
流石にこれは、弥勒の胸にも堪えたらしい。良く実った稲穂が如く、がっくりと(こうべ)を垂れた。
「…ちょっと待ちなさい。何故(なにゆえ)其処でおなご遊びに」
「もうおらんぞ。」
七宝が、冷ややかに言う。
法師の胸に風穴を開けたその剛毅な娘は、疾うに小屋から姿を消していた。
「……。」
「弥勒、どうしたんでい。おまえらしくもねえ。」
犬夜叉が、責めるように問い質す。
「ほんとだわ。あんな言い方、弥勒さまらしくないかも。」
「おなごに振られて帰って来たのか?」
みし。
畳み掛けるような非難の中で、黄金色の頭だけが法師の標的となり、大きなタンコブをこさえられていた。
ふう、と溜め息を吐いたところで、弥勒が言い訳を述べ始める。
「いえ、何やら、苛めてみたくなったのですよ。」
「え゛。」
呆気ない、弥勒の答。
機嫌が悪いとか、珊瑚の言葉が気に障ったとか、そういうことではなく。
「ふくれて突っ掛かって来る珊瑚がおかしくて、意地悪をしてあげたくなりまして。」
「そ、そんな理由で?」
唖然としたかごめは、口を閉じるのを忘れてしまう。
「ワケわかんねえ…。」
犬夜叉と七宝には…特に犬耳の妖には、到底理解不能である。
ようやく口を引き結び、それでも脱力しきった肩を引き上げることはまだ出来ぬままの少女には、わからなくもない行動ではあるが。
(それじゃ、子供と一緒じゃないよ…。)
「いやあ、あんなに怒るとは、予想外でしたが。」
ははは、と苦笑してみせるその顔は、普段と寸分違わない。
「なんという奴じゃ!珊瑚が可哀相ではないか!」
「おまえな、自分で自分の首絞めて楽しいか?」
妖二人が此処ぞとばかりに、弥勒へ非難の言葉をざばざばと浴びせ掛ける。
猶も責めようとする彼等を、左手を上げ制しながら。
「苦言は、後でいくらでも聞く。今は、珊瑚を追います。」
そう言い、彼等の返事を待たずに弥勒も簾の向こうへ消えて行った。
「まったく…。」
ややこしくしているのは、自分自身だということに、弥勒さまは気付いているのだろうか。
かごめはそう思うが、直ぐにうんざりとしたように否定する。
わかっていて、やっているに決まっている。
それさえなければ、こんな風に後を追ってくれる男だというのに。
(勿体無い。きっと、上手くやろうと思えばやれちゃう人でしょうに…珊瑚ちゃんも苦労するわ…。)
友の恋の道行きを心配している場合でもないのだが。それでも同情せずにはいられない、この不可思議な連帯感。乙女の(さが)、というやつか。
「はっ!弥勒に追わせて、良いのか?かごめ!」
「…いいのよ、七宝ちゃん。」
子供で可愛いらしいのは、七宝ちゃんだけにして欲しい…。







闇雲に歩き回り、獣道に入る辺りまで来てしまったことに気付いた珊瑚は、其処に在った菩提樹の根元に腰を下ろした。
悲しい。けれど、悔しい。悔しい、けれど、悲しい。押し寄せる、制御の利かぬ感情の波。
それでも、絶対に泣いてなんかやらない、と意固地に心を保っていた。
膝を抱え、其処へ顔を埋めた珊瑚の姿をようやく発見した弥勒は、ずきり、と己の胸が音を立てるのを聞いた。
(俺は、一体何やってんだ。)
泣かせてしまったのか。わかっていたくせに。
「また、泣いているのですか?」
感情を抑え、普段と何ら変わらぬ口調で弥勒が声を掛ける。
その声に、びくり、と反応した珊瑚が、がば、と顔を上げた。
「…なんであたしが泣かなくちゃいけないの。」
静かな、冷たい声。怒鳴り飛ばされた方が、まだましだ、と、弥勒が思うような。
「そうですか。私は、てっきり。いえ、泣いていないのら、それで良い。」
安堵したように、それでいて何処か落胆したように、弥勒は珊瑚の隣に腰を下ろした。しゃら、という金属音が、彼女の頭の上で鳴る。
「何しに来たの。」
自分の横に座った法師を避けるように、す、と珊瑚が距離を空ける。
「何しにって…。」
余程、怒っているらしい。弥勒はそう思ったが、当の彼女の方は、怒りの感情だけではなく。
悲観的な思いと、絶望に似た諦めと、法師への懐疑の念に包まれていた。
「あたしが何処で何してようと、法師さまには関係ないだろ。」
先刻の言葉を、そっくりそのまま返す。まるで、そう言いたげな珊瑚のもの言いに、弥勒は、苦笑いを返すしかない。
「関係ありますよ。」
「え?」
珊瑚が、意外な法師の返答に反応する。
「私は、おまえが何処で何をしているのか、気になってしまいますからなぁ。」
「は?」
本気で言っているのかもわからぬような気の抜けた言い方に、珊瑚の方も間抜けな声を上げた。
「珊瑚は、私のことなど気にならないと言った。故に、それなら関係ないではないか、と言ったのです。しかし、私はおまえが気になりますので、この論理に当て嵌めると、関係ある、ということになりますな。」
其処で尤もらしく自分で頷き、悪びれる気配もない法師。
「そ、そんな、屁理屈…。」
ぐ、と口篭もりながらも、一応言い返しては、みる。が、いとも端的な言葉で片付けられてしまうのだ。
「屁理屈ではない。真実です。」
「……。」
この男は。何か、上手く丸め込まれたような気がしないでもないが。また、負けてしまうのか、あたしは…。
いいや、こんなのは法師得意の、その場凌ぎの煙の巻き方に違いないのだ。言い含められて、なるものか。
珊瑚は、不機嫌そうなその顔を弥勒から逸らし、ぷい、と前へ向き直った。
「珊瑚。これをおまえに。」
「?なに。」
それでも柳眉を上げた表情は崩さぬまま、再び弥勒の方を見遣る珊瑚。其処には、己が袂から油紙で出来た小さな包みを取り出した、彼の右腕があった。
差し出されたその手から、包み紙を受け取った珊瑚が、きょとんとした面持ちで問いかける。
「…。何、これ。」
心地良い重みが、彼女の掌に伝わる。
「開けてみなさい。」
弥勒に促され、不審を抱きながらも、かさり、と音をさせながら包み紙を開いていく珊瑚。
「あ…。」
姿を現したのは、丸い、半月の、櫛。真紅に染め抜かれたその一部に、白い桜の花弁が細工されている。
「こ、これ、あたしに?」
(綺麗…。)
思わず、怒りの表情を作るのも忘れ、弥勒の顔を振り仰ぐ。
「はい。」
短く、それだけ、彼は返答した。
「なんで…?」
櫛が使い物にならなくなったこと、どうしてこの法師が知っているのか。
そして。
何故、彼が自分にこのようなものを買い与えてくれるのか…。
弥勒が答えた内容は、前者の問いに対してであった。
「これをみつけまして。」
再び袂へ手を差し込み、また、何かを差し出す。その指に握られていたものは、今朝、こぼれてしまった、珊瑚の櫛の歯。
「よ、よくわかったね。」
女物の櫛の一部なんて。見ただけでそう簡単にわかるものなのか?
「珊瑚が、髪を梳いているのを何度か見たことがありますから。」
これは、嘘。真実は、見ていた、である。その黒い髪に見惚れていたとは、まだ、この口の上手い法師にも言えないらしい。
そんな弥勒の心には無論気付かず、珊瑚が問う。
「もしかして、町へ行ったのは…?」
これを、買うために?
「ええ。珊瑚に似合うものをと思い、色々と見て廻っていましたら、なかなか決められませんで。このような刻限になってしまいました。」
苦笑を浮かべ、法師が言った。
そんな。
自分は、何という早合点をし、法師へ的外れな責めを行ってしまったのか。先程まで抱いていた勝手な嫉妬と、焦燥。全てが子供染みて思え、恥ずかしくなる。
「…ごめん。あたし…。」
「おまえが謝ることではない。私がつい、からかい心を出してしまっただけのこと。」
下を向いてしまった珊瑚へ、弥勒の優しい声が掛かった。
「それとも、気に入らぬか?」
話題を逸らすように、彼が言う。先程のことは、自分が悪い。それなのに、珊瑚が負い目を感じてしまうのは、忍びないから。
「ううん!凄く…気に入った。あたし、こんな綺麗な櫛、持ったことない…。」
そう言うと、うっとりとした眼で珊瑚は手の中の櫛を見遣る。ほんの少し、頬を朱に染めて。
「ありがと…。」
なんとか、礼の言葉を絞り出す。
(…櫛なんかと、一体どっちの方が綺麗なんだか。)
櫛を見つめる珊瑚の伏せられた長い睫毛を視界に宿し、弥勒が、心の内で一人呟く。そして。
「一つお願いがあるのですが。聞いてくれますか、珊瑚。」
「…何?法師さまの場合、聞ける願いとそうでない願いがあるんだけど。」
警戒心を再び復活させた珊瑚が、くる、と目を上げる。
「はは、聞ける願い、だと良いのですが。」
「だから、何?礼くらい、ちゃんとするよ。」
珊瑚が、弥勒の言葉の先を促す。それに引かれて彼は言葉を繋ぐ。
「その櫛で、私に珊瑚の髪を梳かせてはもらえませんか。」
口許に微笑を浮かべ、法師は言った。想像していなかった彼の科白に、一瞬珊瑚は目を丸くする。
「え?」
「やはり、無理な願いか?」
笑みを絶やさぬまま、柔らかな口調で弥勒が再び訊ねる。
口調は、駄目で元々という控えめな印象を受けるが、心中では、絶対(ぜって)ぇ、首を縦に振らせる!などという、何とも訳のわからぬ決心を秘めているのだが。
「…ちょっとだけなら、いいよ。」
しかし、彼が思っていた以上にあっさりと、珊瑚は肯定の応えを返して来た。これには、言い出した弥勒の方が拍子抜けする程で。
「え、良い、のですか?」
「だから、ちょっとくらいならね。」
珊瑚は、弥勒の方は見ずに、つっけんどんに言う。
「では、珊瑚の気が変わらぬうちに。」
弥勒がそう言い、珊瑚の手から真新しい櫛を受け取り、その背中へと廻る。
彼女の背中で一つに結わえられた髪を、弥勒の長い指が解き遣った。すると、豊かな艶髪が、さらさらと音を立て扇の如く広がっていく。一瞬間その光景に目を奪われた後、髪をひと掬いそっと持ち上げ、櫛を通す。何とも言えぬ髪の抵抗感が、弥勒の指先に伝わって来た。
「…おまえの髪は、まこと、美しいな。」
思わず、口を吐いて出た本心。梳く毎に、微かに舞う彼女の香に()てられてしまったらしい。
しかし、言った言葉に嘘は無い。
「ありがと。髪だけは、あたしも自慢なんだ。」
珊瑚にしては珍しく、褒め言葉を素直に受け取る。何時もなら、何言ってんのさ、お世辞は要らん、などと、一蹴されるようなものなのに。
(余程、髪は大事と見える。やはり女だな。)
そんな彼女の反応を嬉しく思い、心の中で、くすり、と笑う。
「珊瑚が自慢出来るのは、髪だけではないでしょう。」
「…思い当たらないけど。」
暫し考えを巡らしてみたが、自分で探し当てることは困難で。
「気が強い、意地っ張り、そんじょ其処らの男は敵わない…とか、他人より飛び出ているところは沢山あるでしょうに。」
「それって、自慢じゃないだろう!?」
弥勒の戯言に、珊瑚が怒って振り返ろうとする。
「動くのではない。自慢の髪が、傷んでしまいますよ。」
くすくすと笑いながら、弥勒が珊瑚を諭すように言った。
(こいつ、あたしが動けないのをわかっていてからかったな。)
珊瑚が、心の中で歯噛みする。やはり、敵(?)に背中を取らせるべきではなかったか。
「おまえの強さは、自慢するに値する。」
「?何か言った?」
弥勒の、極、小さな声。意識的に、彼女の耳までは届かぬように。
今、はっきりとこの言葉を伝えたなら、彼女は即座に否定するだろう。そして、きっとまた、辛い顔をさせてしまうから。
おまえは、自分の強さに気付いていないだけなのに。
それでも、今のこの暖かい空気を壊したくなはないから、それ以上は、今は、告げない。
「いいえ。おまえの髪に、見惚れたままですよ。」
先程言えぬと思った言葉でも、本心を覆い隠す為ならば、傘にさえ出来てしまえる己の性格を少々怨めしく思う。
「…どーだか。」
そんな、全く信用していない、という意味の返事をしてみたが、弥勒の声が優しいので、珊瑚も何やら心が穏やかになる。
こんな風に、誰かに己が髪を預け、梳いて貰う気持ち良さ。
姫君になったような、何処かくすぐったい気分。蘇る、幸福な記憶。
おまえの髪は、美しい、と。大事にしなければ駄目よ、と囁く声。
あれは、母がまだこの世に在って、惜しげもなくあたしの体を抱いてくれていた頃…。
不快ではない沈黙が二人の男女の間に流れ、時はついぞ止まらぬものだということを忘れさせるような甘やかな錯覚を起こさせる。
己の頭ではなく、胸の奥が命じるままに、弥勒が、つ、と珊瑚の髪の一束を、口許に持ってゆく。彼女には気付かれぬように。そして。
(これくらいの役得なら、バチは当たらねえだろ…。)
浅い、接吻をする。
それがまるで、彼女の唇であるかのように。脆い細工物へ口づけるように。
尊いものへ、祈りを捧げるように柔らかく。
その瞬間、珊瑚が声を上げた。
「法師さま。」
ぎく。
「な、なんです?」
平静を装い、弥勒が問い返す。果たして、拳が飛んで来るか?
「見て。凄い、夕焼けが大きくて、綺麗。」
ふ、と弥勒が珊瑚の髪から目を離し、前へと向き直る。
すると、炎のように燃えた太陽が辺りの空まで朱に巻き込んで、山の()へと消えて行こうとする様が彼の両目に飛び込んで来た。
「…これはまた、壮大な…。」
「でしょ?なんだか、誰かに見せたくなる。」
珊瑚が、夕焼けへと目を奪われたまま呟く。今、正面から彼女の顔を見据えたなら、夕日を浴びて、さぞかし艶めいて見えることであろう。なれど、
「誰か、とは、誰ですか?」
妙なところへ突っ込んでしまう、この(さが)
「別に、誰ってことはないけどさ。」
あっさりと興味もなさそうに彼女は答える。其処まで考えて発した言葉でななかったらしい。
「私が一緒なら、充分でしょう。」
「…何言ってんのさ。」
見なくても、わかる。珊瑚の顔は、恐らく赤く染まっていることだろう。勿論、夕焼けの所為などではなく。
珊瑚の髪をゆっくりと梳きながら、弥勒は我慢し切れず、くすくすと笑った。
「な、何笑ってんの?気持ち悪い。」
「いや、珊瑚。夕焼けが "大きい" という表現は、初めて聞きましたな。」
本当の理由には触れずに。
「う、うるさいなあっ。それに、何時までやってんのさ!?もう、帰るよ!」
これは残念、と、弥勒が珊瑚の髪から手を離し、彼女は自分で髪を結い直す。今の今まで己の掌中にあった彼女の髪が、持ち主の手によって束ねられていく様を、名残惜しげに法師がぼうっと見遣りつつ。
「はい。」
と、珊瑚の手に櫛を返した弥勒へ向かい、彼女が再び、言った。
「…有り難う。法師さま。」
櫛を与えたことにか、髪を梳いたことに対してか。それとも、共に、夕焼けに感動したことにだろうか。
珊瑚の真意はわからぬが、弥勒にとって、心地良い声音だったことは確かだ。
「行きますか。」
こくん、と小さく頷いて、二人は並んで歩き出す。
ふと、珊瑚の視線が捉えた彼の左手。今しがた、この手に己が髪を預けていたのだと思うと、何故だか胸が苦しくなった。躊躇いがちに、指を、近付ける。ゆっくりと。
其処で、ちら、と横の法師の顔を見上げる。前を向いた彼の顔は、何時もと変わらず柔和な表情を湛えており。
珊瑚は、伸ばし掛けた指を引き戻す。
今は、いいや。
手なんか繋がなくっても、隣に居てくれれば。触れていなくても、今は体温を感じることが出来るような気がするから。
「何です?珊瑚。」
「ううん。何でもない。」
彼女の視線に気付き、弥勒が問い掛けるが、返って来たのは滅多に見られぬ珊瑚の笑顔。
それはまだ、小さな笑みではあったけれど、充分なその可愛らしさに弥勒も微笑を返し遣る。
背に負った夕焼けが、充分に弥勒と珊瑚の身体を暖かく包む。そして、その(ぬく)さは、太陽の仕業だけではないのだと、二人はもう知っている。
仲間達の待つもとへと、帰り道を辿る。
決して一つにはならぬ、けれど限り無くそれに近い、長く、細く伸びた二つの影が並んで行くのを、もの言わぬ夕陽だけが炎と燃ゆる胸に刻み、明日を迎える眠りに就いた。



~ 肩おちて経にゆらぎのそぞろ髪 をとめ有信者 春の雲こき ~
与謝野晶子










前回随分と勿体ぶった後書を書いておきながら、この有り様。接吻もなければ、手も握らないという。
一歩踏み出した二人ではありますが、そうそう次へは行かせん、という珊瑚嬢寄りの私の親心。もうちょっと、二人にはつかず離れずでいて欲しくてねぇ。法師の忍耐力に期待。
別名「女殺し弥勒・モノでお嬢さんを懐柔する、の巻」なんですが、こいつってば、女に貢いだりするのでしょうか?貢がせるのは上手そう…。女にマメそうな気もするけど。どっちなんだろう。やはりモノじゃなくて、「目で殺す(爆笑)」タイプ??
例の如く、タイトルになってる曲名を載せようとしたところ、この短歌の方が合ってるような気がしまして。"乙女と僧"って訳が可能だったので、どんぴしゃ?などと。
タイトル(by Manabu Sakuma)も変えようと思ったのですが、この響き以上に合う言葉を探せませんでした。
最後までお付き合い下さいまして、有り難うございました。

2001.08.13