SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



宵待草







「弥勒、さん?」
いきなり、通りの茶屋から出て来た女が、声を掛けた。
「は?」
呼ばれたとおぼしき、法衣姿の男が振り返る。
犬夜叉達一行は、新しい旅路の途中。とある町へ足を踏み入れた所であった。
「おお、(もみじ)ではありませんか。」
弥勒法師が、女の方を見遣り、懐かしそうな声を上げる。
「なあに、旅の途中?こんな所で会うなんて。」
「椛こそ、このような所で…いや、それより元気であったか?」
親しげな会話を交わす二人に、他の連れ達は足を止めて様子を窺う。
「知り合いかな?」
「そのようじゃな。」
「綺麗な人だね。」
「けっ、何時まで話してやがるっ。」
それぞれの言葉で、ぼそぼそと囁き合う。
自分達の方に注目している彼等に気付き、もみじ、と呼ばれた女が弥勒の後ろに控える一行へ視線を移す。
「あれ、お連れさんかい?かわいいおなご、二人も連れて。」
かごめと珊瑚を見て、椛が言った。
「ええ、彼女達は…」
弥勒が言い掛けたのを無視して、椛が続ける。
「ふふ。道中楽しいだろ?弥勒さん、こう見えても背中は広いし、胸は厚いし」
「もみじ。」
今度は、弥勒が椛の言葉を遮った。
意味深げな椛の言葉に、かごめと珊瑚は、はあ?と疑問の言葉を呈する。
「あら、違うの?」
罪のない口調で、椛が弥勒を振り返る。
「違いますっ!!」
若い娘二人が、赤い顔をして同時に言った。
「ふ~ん、なんだ。あたしはてっきり…」
「てっきり、なんだと言うのです。」
弥勒が、はああ、と溜め息混じりに問う。余計なことを、言ってくれるな、と心中で一人ごちながら。
「弥勒法師ともあろう者が…大人になったもんだわね。」
椛が、弥勒の左肩に己が右手を置いて、彼の耳元で囁く。
「これでも、いろいろと苦労しているのでな。」
他の者には聞こえぬように、気を遣っているらしい。が。却って誤解を招きかねない、妖しげな雰囲気だ。
「なんぞ、過去にワケありな感じじゃな。」
七宝が、かごめの肩でこそこそと言う。
「感じっつーより、ありありだろ。」
犬夜叉が、つまらなそうに吐いた。あまり、興味も無いらしい。
過去の、女、と言ったところか。皆、そのように理解して二人を見守っている。その中で珊瑚は、何やら負の気分が湧きあがって来るのを、禁じ得ずにいた。







弥勒と椛の話に因れば、一年半ほど前に、椛の村を訪れた弥勒が、妖怪退治をした際に知り合った仲らしい。その妖怪というのが、彼女の夫に獲り憑いており、退治の際に、その夫も亡くなったということだった。
「弥勒さまでも、そんなことがあったんだ…。」
妖怪を退治したものの、人の命を救えなかった、と。
「あの時は、仕様がなかったのさ。弥勒さんは、精一杯やってくれたしね。」
椛が、からからと、明るく笑いながら、言う。茶屋へ腰を落ち着けた一行の、弥勒の、隣。
髪を結い上げ、赤い紅を挿したこの美女は、弥勒より、一つ二つ、年は上だろうか。大人の女という表現がぴたりとはまるような、そんな様子を湛えている。そして、夫が死んだ話を、過去のこと、として笑い飛ばす豪快さ。憎めない人間、とは、このような女のことか。
弥勒一行の、今夜の宿がまだ決まっていないという話を受けて、椛が宿を提供すると申し出た。此処から少し離れるが、風呂も有る一軒屋だと言う。この 『風呂も有る』 という科白に、かごめが飛び付いた。
この辺りへ越して来てから、まだいくらも経っていないと言う椛だが、どうやってそのような家を手に入れたのか。聞き辛いことを、七宝が子供の特権で、罪の意識も無く彼女へ問うた。
「おなごが一人でいると、構ってくる殿方というのは何処にでもいるものさ。」
満面の笑みで、椛が答える。
「ね、弥勒さん。」
そう言って、弥勒の方を見遣る椛の言動に、見ているかごめ達の方が、どぎまぎさせられる。当の弥勒は、ははは、そうですなあ、と適当に誤魔化して笑っているのだが。
(この助平法師。行く先々に、こういう女の人が居るんじゃないの?)
珊瑚の冷たい視線が、弥勒に容赦なく浴びせられる。弥勒もそれに気付いているが、珍しく何も言わない。
「珊瑚ちゃん。」
椛にいきなり呼ばれて、驚く珊瑚。
「は、はい?」
「この人、手が早いから、気を付けなさいね。」
椛が、婉然と微笑んで、珊瑚に注意を促した。
「それは、知ってる。」
かごめと、犬夜叉と、七宝。三人が一斉に口を開いて言った。弥勒は、やれやれ、といった表情で、黙っている。
「あたしは、大丈夫です。」
(女になんて、見られてないだろうし。)
そう思うのも悔しかったが、珊瑚にとっては、これが本音だった。自分は、大丈夫。
「ふうん。」
そして、一同が席を立ち、茶屋を出ようとした時。
「なるほどね。」
椛が、弥勒を見て意味ありげに、小声で呟いた。
「…何か言ったか。」
何の表情も無い、抑揚の無い声で、弥勒が低く、言う。
「かわいいわね、って、言ったのよ。」
誰が?と問うた弥勒の声には答えずに、椛はかごめ達の後に続いて茶屋を出る。
「椛、何故かごめには注意せん?」
七宝が、不思議に思い、椛の肩に飛び乗って聞いてみる。
「ああ、だって、かごめちゃんにはこの子がいるでしょ?」
そう言って、犬夜叉の方を指差した。
「な。」
犬夜叉とかごめが、真っ赤になって同時に声を上げる。
「わかるのか?」
「わかります。」
七宝と椛が勝手に話を決め付けて、先頭を歩いて行った。







椛の家に案内された一行は、夕餉を馳走になっていた。
町からは、一刻ほどは歩いたであろうか。そろそろ夕陽も落ちようか、という頃に、その家はあった。周りには、一軒の家もなく、野ばかりが広がっている。
(こんな所に一人で住んでて、寂しくないのかな。)
現代に住むかごめにとって、当然至極な感想だった。自分だったら、寂しくて、怖くて、独りでは居られない…。
話をし、酒を呑みながら、時間はゆるりと過ぎて行く。かごめの膝の上では七宝が、珊瑚の膝では雲母が、それぞれ眠りに落ちていた。
明日も早い。そろそろ床に着こうか、というかごめの提案に、一同が賛同し、椛から用意して貰った部屋へ移ろうとした所。
「弥勒さんは、もう少し、お酒に付き合ってくれないかい…?」
艶めいた声音で、椛が、座ったまま弥勒を見上げて引き留める。
「…わかりました。では、もう少々。」
立ち上がった弥勒だったが、椛の隣へ腰を下ろす。
「皆は、先に寝ていて下さい。」
「え、じゃ、じゃあ、お先に。」
かごめが、少し困惑して、言った。
「おやすみ。」
部屋の中の二人の方は見ずに、珊瑚が、そう言って出て行く。
かごめと犬夜叉も、珊瑚の後に続いて部屋を出て…障子を、閉めた。
(弥勒さま、断ると思ったのに…。)
珊瑚は、雲母を抱いたまま何も喋らない。その雰囲気を察して、かごめも何も言わなかった。
…にしても、珍しく、犬夜叉が、何も言わない。何時もなら、何か一つ、悪態を吐く所なのに。
(こいつまで、どうしちゃったんだろう。)
息が詰まりそうな空気の悪さに、七宝の寝顔を怨めしそうに見遣るかごめであった。







どのくらい、時が経っただろうか。七宝、雲母は勿論、かごめも犬夜叉も、ぐっすりと寝ているようだ。
しかし。
珊瑚は一睡も出来ぬまま、横になっていた。
(法師さま、まだ戻ってない…。)
そう思うと、胸が苦しくて、堪らない。自分でも持て余す、この正体の定かでない、想い。
『妬いているのか』
以前に弥勒に言われた言葉が、珊瑚の頭の中で息を吹き返す。
(違う。そんなんじゃ…。)
もっと、汚い。この感情。やきもち、などという可愛らしいものではなく。
(これは、嫉妬…?)
どろどろした、負の感情。要らぬもの。なのに、拭っても拭っても湧いて来て、留まることを知らぬ泉のように。
(どうして、あたし、こんな気持ちになるの。)
今、弥勒と椛は何をしているのだろうか。酒を酌み交わし、月も隠れるほどの闇夜に。
以前 『何か』 があった男と、女。しかも、どちらも大人で…。
(嫌だ。どうしてこんなこと、考えるんだ。)
自分で自分の心を否定しても、到底無駄なことで、眠るどころの騒ぎではなかった。
心の突き動かすまま、起き上がり、部屋の障子を開け出て行く珊瑚。
(行って、どうするつもりなんだろう。あたしは…。)
二人の姿を見てしまったら、どうなるのだろうか。己自身が、わからない。
迷いながらも踏み出した珊瑚の背中を、目を開けた犬夜叉が、何も言わずに見送っていた。







弥勒の右肩にしなだれかかり、酌をする椛は何も話さなかった。昔話をする訳でもなく、ただ、弥勒と杯を傾けている。
「椛。」
口を開いたのは、弥勒の方だった。椛が、弥勒の肩から彼の顔を見上げる。
「私に、何か出来ることは、あるか。」
何か?それは、深い意味を持って放たれた言葉であるのは、椛にもわかった。
「わかっていて、ついて来たんだろ?弥勒さん。」
核心を言の葉には乗せぬままで、会話を進める二人。
「…この町で、何件目だ…。」
越して来たのは。きっと、此処が初めて故郷を捨てて辿り着いた場所ではあるまい、と。
「もう、忘れてしまったよ…。」
椛が、弥勒の背中に寄り掛かり、その肩を抱くように。
「寂しくて、寂しくて…あの村には居られなかった…。」
己が顔を、弥勒の肩に掛けた腕に載せて、小さく椛は言った。
椛は、貧しい家の娘で、売られるように嫁に出された。その嫁ぎ先の夫が、非道い男で、朝から晩まで椛を働かせ、暴力も奮うような輩であった。
欲も過剰にあり、その強欲さが、魔を呼んだ。闇に獲り憑かれ、魔を心に巣食わせてしまった男を、通りすがりの法師が、成敗した。
魔を封じ、人間としての部分だけを救うのは、既に不可能なほど侵食されていた。故に、彼は、成敗した。
「辛かったあたしを解放してくれたのは、弥勒さん。あんただけだった…。」
椛が、遠い目をして呟く。その表情は、弥勒からは、見えない。
夫を魔物に獲り殺されたようなものだが、彼女にとって、それは、自由を得たも同然だった。日頃の所業を知る村人達も、皆、椛に同情していた。
それでも、寂しくて。
通りすがりの法師に、甘えてしまった。それは刹那でしか有り得ないのに、それでも独りはもう嫌だった。
束の間だとわかっていながら、手を出してしまった蜜が、忘れられなくて。
法師が去った後、心の隙間は広がるばかりで。
「それで…魔を、呼び込んでしまったのか。」
弥勒の背中に縋っている椛から、体温は感じられなかった。
「違うわ。」
椛が、彼の背中から体を離し、前の方へ己が体を移動させる。弥勒の眼前に膝まづき、その頬に両手を差し伸べて…。
「あたしは、あたしの傍に居た男の人が…居なくなってしまうのが、耐えられなかった。背中を見るのは、もう嫌だったんだ…。だから、ある日…一人の男を殺してしまった。」
冷たい指先を頬に感じながら、弥勒は身動(みじろ)ぎもせずに、聞いている。
「だから、あたしは、鬼になったんだ。」
寂しげな、椛の顔の、上の方。其処には、人に有る筈のない異形の…銀色の角が、二本、有った。
殺してしまえば、一生背中を見送ることもないと知ってしまった。だから、言い寄って来る男達は、皆、殺した。寂しさのあまり心に巣食った闇は、椛そのものを魔に変えてしまったのだ。
だから、一つ処には、留まって居られない。こうやって、転々と、住処を変えて、男を、人を、喰らって生きている。
「弥勒さん…あたしを、成敗する…?」
「…おまえが、人を喰らう以上、封じねばならん。」
微笑を浮かべて問う椛に、弥勒が、答える。
「封じるなんて、優しいのね。相変わらず…。殺す、と言ってくれて構わないのに。」
ふわり、と椛の体が弥勒の体に被さって、両の腕で彼の背中を抱き締める。
弥勒が、椛の背中に手を廻す。どんなに触れても、暖かさは、其処には無い。
「何か出来ることはないか、と言ってくれたね。」
椛が、先程言った弥勒の言葉を繰り返す。
「……。」
無言で、彼女の背中をきつく、抱いた。
「あたしを、抱いておくれ。」
切なげな声で、椛が弥勒の耳元で囁く。しかし、弥勒の答は、否。
「椛。それは、出来ぬ。」
苦しそうに、弥勒が言葉を絞り出す。彼から体を離し、立ち上がった椛が言う。
「あたしが妖魔に…、鬼になってしまったから?」
悲しげな瞳で、弥勒を見下ろして。
「そうではない。椛。おまえがどんな姿に身を(やつ)そうと、おまえを疎んじる心は、無い。ただ」
「ただ?」
椛が、小首を傾げて、弥勒の言葉尻を掴む。そして、つい、と右腕を上げて、弥勒の背後を指差す。途端、障子がばちん、とひとりでに弾けて、消えた。
「ひゃっ。」
何が起こったかわからず、一瞬、驚きの声を上げる ――― 珊瑚が、其処に居た。
「珊瑚?」
弥勒が、後ろを振り返る。
「聞いて、いたのか。」
「ごめん…。」
それ以上、何も言えずに珊瑚は俯いてしまう。
「…弥勒さん。答は?ただ…?」
この状況で答を言わせる為、わざと障子を消したような椛の態度に、弥勒は閉口してしまった。
「答えてくれぬのなら、鬼としてあたしはあんたを喰らってしまうよ…。」
「ま、待って!」
珊瑚が、弥勒の前に体を差し出し、両の手を広げて、庇う。
「待って。そんなの、悲し過ぎる。寂しくて、鬼になってしまったんでしょう?だったら、何か、方法はないの?ねえ、法師さま。封じるなんて言わないで、妖だけ消すことは出来ないの!?」
泣いていた。泣くべきところでは、ない。法師も、椛でさえも、涙を流してはいないのだ。なのに、自分が泣いてしまっては、二人に対して失礼なのではないかとも、思った。それでも、寂しい、という気持ちに反応してしまう、珊瑚の心。
「珊瑚…。」
弥勒は、その名を呟いたが、後に続く言葉は、非情なものであるのがわかっているから、それ以上、言えずにいた。何か、方法は ――― そう問う珊瑚への答は、無い、と一言しか、有り得ない。
「珊瑚ちゃん…寂しいのね。あなたも…。」
珊瑚の顔を、優しく微笑んで見遣る椛。
「…あなたにも、いつか、わかる日が来る。寂しくて、鬼になってしまう程の恋情が…。」
自分の後ろへ珊瑚を制し、弥勒が一歩前へ出る。
「法師さま…!」
「弥勒、さん…答えてはくれぬのね。それが、あんたの優しさなの…?」
「いいや…私は、臆病なだけかも知れぬ。」
懐から引き抜かれたその指先には、札が握られている。
「…結局、私には何もしてやれないのだな…。」
悲しそうな、弥勒の声。椛が、それに異を唱える。
「いいえ…あたしは、待っていたの。早く、消えて失くなりたかったのかもしれない。」
弥勒の持つ破魔の札が、椛の胸に、捧げられる。
「…どうして…こんな…。」
珊瑚が、涙を拭わぬまま、真っ直ぐに二人を見つめる。目を、逸らしてはいけないような気がして。
椛の胸の札周辺から、薄淡い青が滲み出す。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在…」
弥勒の指先が、九字を切り結んでいく。その言霊が発せられるほどに、椛の体は、どんどん薄く、陽炎の如く揺れて、消えていき。
最後の、残影。
ふわり、と弥勒の首に廻された、椛の腕。
「愛していたわ…。」
呟いた椛の頬には涙が伝い、九字を呼ぶ弥勒の唇に、己が唇をそっと重ねた。
その腕も、唇も、温かかった。それは、昔の椛の肌の(ぬく)さと、何ら変わりなく…。
「…前。」
最後の言霊を、弥勒が切り結ぶと同時。ぱしん、と弱々しい音がして、椛の姿は永遠に、消えた。







「珊瑚が泣かずとも、良いのだ…。」
弥勒が、隣で泣き続ける珊瑚の肩を、そっと引き寄せる。
「だって…椛さん、悪く、ないのに。人を殺めるのは、そりゃ…でも、好きで鬼になった訳じゃ、ないのに…!」
寂しくて、鬼になるほどの恋情。己には、まだわからない。けれど、大事な人が居なくなってしまう寂しさなら知っている。自分も何時か、この思いに耐え切れず奈落を倒す前に鬼になるのかもしれない…。そう思うと怖くて堪らなかった。
「…そうだな。鬼になるほどの、心、か…。人の心の方が、妖魔よりも、数倍怪奇かも知れぬな…。」
女を、鬼にしてしまったのは、自分。それほどまでの熱情を抱いてくれていたとは、気付かなかったのも、この自分。
「恋じゃなくても、鬼には、なるの…?」
珊瑚が、法師へ問う。人の心の闇が、魔を引き込んでしまうなら。
自分だって、椛のように、角が生えてくるやも知れぬ。それほどまでに、己が心は、復讐という陰の感情で、満たされている。
「…珊瑚を、鬼にはしませんよ。」
彼女の細い肩へ廻した腕に、ほんの少し力を込めて、弥勒が言った。
(椛。これが、おまえへの答になるか?)
そう、心の内で、呟いて。







明くる朝。かごめと七宝が、昨夜の一件を弥勒から説明された。起きると、屋敷が変貌していたことに驚いて、法師へ問い質したのだ。
弥勒の答は、実は椛は妖怪で、昨夜のうちに成敗した、その所為で屋敷も崩れていっている、というものだった。
塞ぎ込んでいる珊瑚の状態からして、弥勒の説明には欠けている 『何か』 があったとかごめは読んだが、二人の様子を見て、それ以上は聞かないことに決めた。弥勒の表情は何時もとそう違った訳ではなかったが、珊瑚の方が、憔悴しているようだった。
「もしかして。」
弥勒の説明を黙って聞いていた犬夜叉の方を向き、かごめが問う。
「犬夜叉、気付いてたの?」
昨夜の、あの様子。それなら、合点がいく。
「まあな。俺も、気付いたのはこの屋敷に入ってからだけど。」
「ふーん、なるほどね。」
かごめが、感心したように言う。
「そうか。気付いていたのか…。何故、言わなかったのです?」
弥勒が、犬夜叉にゆっくりと問う。
「別に…弥勒の女のことだろ。おまえが、どうにかすると思って。」
弥勒が何も言わないのだから、自分も言わない。そういうことだろう。犬夜叉にしては、気を遣った方だ。
「…そうですか。」
弥勒は、やはり静かに答えただけだった。
一行は、屋敷を後にして旅路へ戻ろうとする。
主を失って見る見るうちに荒れ果てていく屋敷の前に、珊瑚は立ち竦んでいた。
椛は、『誰か』 が欲しくて鬼に成ったのではない。弥勒を待って、戻って来る筈はないとわかっていながら待ち焦がれて、その寂しさに、耐え切れなかったのだ。
そんな風に、誰かを強く求める、想い。
里を失った自分の孤独とは違う、身を焦がすような、恋情から生まれた孤独。
椛は、何時か珊瑚にもわかる、と言った。
(あたしにも、恋に狂う日が来るというのか。)
『愛していたわ。』
微かな、椛の声を思い出す。
あたしが、何時か狂うのなら。
それは、誰の為に?
「行きますよ、珊瑚。」
遠くから、法師の声が背中に掛かる。
「うん。」
振り返り、屋敷へと背を向ける、珊瑚。
誰の為に?それは、その答は、あたしはもう知っている。
それでも、あたしは鬼にはならない。
誰かを想う恋であろうと、家族を失った悲しみであろうと。何者も、あたしを鬼にすることは出来ない。
『珊瑚を、鬼にはしませんよ。』
そう、あたしの中の『答』が言ったから。
弥勒の横へ並んだところで、もう一度、振り返る。
忘れない。
そう思って、再び前へ向き直る。
その時。
二人の背中で、屋敷が砂のように砕けて、散った。








B.G.M. <宵待草>


珍しく、ギャグ落ちしないで終わってます。弥勒法師、最後までなんとかシリアスで行けました。
この話、少ぅし『浅茅が宿』 入ってます。 学生時代『雨月物語』の授業を取っていて、その中でもこの話が一番好きで。だからと言って似せるつもりはなかったのですが、終わってみたら、ちょっと似てた。
この、犬夜叉の物分かりの良さも、なんなのでしょう。相変わらず、犬は難しい。
実は、椛の最初の名前は"椿"でした。椿の花の、ぼとり、と首毎落ちるような、あの感じ。それが彼女には合っているかな、と。そうしたら、原作にいらっしゃったのですね、椿というキャラが。知らなかった私は、慌てて名前を変えました。
そして、やっと珊瑚嬢開眼です。
では、最後まで読んで下さって、有り難うございました。

2001.06.24