道無き道
(怖いよ、姉上。)
(もう、琥珀は弱虫なんだから。)
(だって。)
(そんなことで、どうするの?おまえだって、一人立ちしなきゃ。)
(だって、姉上。あたしがついてる、って言ったじゃないか。)
(琥珀?)
(怖いよ、姉上。)
(だから、何が?)
(怖いよ、姉上 ―――― 死ぬのが。)
「っ!!」
がばっ、と夜具を掻き抱いて、珊瑚が飛び起きた。
はあ、はあ、と肩で息をして、目を大きく見開いて。
「どうしました、珊瑚?」
暗がりの中から、声が掛かった。その優しい弥勒の声音にさえ、びくり、と体を震わせる、珊瑚。
「な…なんでもない。起こして、ごめん…。」
他の者は起こさぬように、小さく珊瑚が答えた。消え入りそうな、弱い、声。
僅かに震わせたその声に、弥勒が気付かぬ筈もなかった。
「なんでもないって…、汗でびっしょりではないですか。魘されていたようですが…?」
「ちょっと、ね…いや、ただの、夢だ。」
自らに言い聞かせるように呟いて、珊瑚は前髪をかき上げた。なるほど、弥勒が言うのも無理はない。
その手にぐっしょりとした感触が伝わって来る。
「…少し、風に当たって来る…。」
弥勒が差し出した手拭いを受け取って、珊瑚がそっと立ち上がる。
「一人で大丈夫ですか。」
心配げに、法師が珊瑚を見上げて言う。
「…一緒に…」
「え?」
「…いや、なんでもない。」
山小屋の中で、犬夜叉もかごめも七宝も、そして雲母も…よく眠っている。疲れているのは、皆同じ。一人が寂しいからといって、起きていろと言うのは我儘以外の何ものでもない。
そう思い直した彼女をつい、と追い越して、弥勒が静かに木戸を開けた。
「行きましょう、珊瑚。」
にっこりと笑った弥勒の顔を見て、なんだか、珊瑚は泣きたくなった。
薄い夜具代わりの衣を羽織った珊瑚の脇に腰を下ろした弥勒は、何も言わなかった。ただ黙って、珊瑚の隣に控えていた。
座った岩肌は冷たく、夜空の星も冷え冷えと輝いており、月は、半月の姿をとっている。
膝を抱えた珊瑚が、何とはなしに、口を開いた。まるで、自然に。
「死ぬのは、怖いかな。」
「…は?」
抑揚のない珊瑚の声に、弥勒が小さく聞き返した。
「死ぬのは、怖いかな。」
同じ言葉を、珊瑚が繰り返す。
無論、答など期待してはいなかった。ただ、先程の弟の言葉を、己に問い掛けてみる。
「あの子、怖いって。姉上、怖いよ、って…。」
其処まで言って、押し上げて来る涙に気が付き、零すまいと言葉を切った。
「…そうか。」
静かに、弥勒が返事を寄越す。
空気を揺らすことさえないような、静寂を保った声で。
珊瑚が、横にあるその顔を見遣る。微笑でも、無表情でもなく、形容し難い表情が其処にはあった。こちらは見ず、真っ直ぐ前を…否、天を見据えたままの横顔が。
なんと言えば良いのだろう。珊瑚の知る限りの言葉で表すならば、これは、慈悲?
「…同情してるの?」
我ながら可愛くない、と思う言葉が
吐いて出る。少なくとも、自分にそんな表情は作れはしない。
「同情とは、どんなものだ。」
逆に、弥勒が問い返す。そう、これは同情ではない。死ぬのが怖いか、と問うて来た者に対して、湧くのは同情でも憐れみでもなく、同意。肯定。常に背中合わせについて回る、死というものに対しての、己の真実の感情。
「…判らない。」
珊瑚が、その弥勒の問いに困惑する。同情などは、要らぬのだ。しかし、今こうして自分の愚痴に法師が付き合ってくれていることを、同情だと思いたくはなかった。
「同情するほど、おまえは私に心を見せてくれてはいないでしょう。」
顔を上げて、再び珊瑚が弥勒の顔を覗き見る。今度は、彼もこちらを向いていた。
「心の澱を吐いてしまわねば、奈落を討たずして珊瑚の肩は折れてしまうのですよ。」
諭すように、ゆっくりと。今、つかえている言葉を、言ってしまえ、と。
いくらかの沈黙の後、その声に導かれるが如く、一度止めた筈の言葉が堰を切ったように流れ出す。
「あたしは…、あたしがついてる、って言ったのに、なのに、なんにも出来なくて…、一緒に死んでやることさえ出来なくて…っ…」
堪えていた涙腺が、限界を超えた。一筋流れたかと思うと、つられるように、あとからあとから溢れて、落ちた。
「一緒に死んでやることなど、餞にはなりはしない。」
そう言って、弥勒は右手で珊瑚の頭を抱え、己の肩先へ押し付けた。
その弥勒の行動に驚いた珊瑚だが、何故だか、今夜は素直に甘える気になった。顔を埋めたその着物から、懐かしい夏草のような大地の匂いがした所為なのか。それは、彼女にも判らない。
「あの子、怖いよ、って…死ぬのは、怖いよ、って…。」
繰り返すのは、同じ言葉。同じ思い。無意識に、珊瑚の口から発せられる、愛しい弟の断末魔。
弥勒の右腕に取り縋り、肩を震わせて、泣いた。その左手は彼の背に廻され、きつく袈裟を握り締めている。
この細い肩に、重く圧し掛かる苛烈な境遇。普段気丈にしていても、幾度となく、悪夢に魘されて。
(俺達は、似ているのだろうか。)
当て
所なく、道無き道を歩み、その果てに待つは、己の終焉か、憎き
彼奴の消滅か。
誰にも判りはしない問いを抱えて、それでも、ただ歩を進めていくしか許されない。
死ぬのは、怖いか ――― 。
答えは、正、そして、否でもある。
死だけが怖いのではない。『 それ 』 が、何時来るとも知れぬから、恐ろしいのだ。こうして生きる為に戦い続けていながら、その志半ばに突然襲い来るやもしれぬ、闇の使いが。
考えたからとて、払拭出来る類の情感ではない。本能が、それを、拒む ――― まだ、逝けぬ、と。
(あたし、どうしてこんなことを法師さまに言っているんだろう。)
泣きながらも、珊瑚の中には何処かで冷静に自問する己が居た。
こんな風に、誰かに縋って…しかも、この法師の肩を借りて泣くなどとは。
この人なら、判ってくれると思ったのか。風穴を奈落に穿たれ、寿命を決められてしまった、この法師なら。死というものに対する、明確な答えを指し示してくれるとでも、思ったのか?
浅はかだ、と珊瑚は己を恥じた。なればこそ、この人に吐き出してしまうとは、なんと思慮に欠けた甘え。
「ごめん、法師さま。」
握り締めた袈裟を放し、
徐に珊瑚が体を起こした。泣き腫らした目と頬を自分の拳で、ぐい、と拭う。
「甘えたことを言った。今のは、忘れて。」
未だ震える声を隠せずに、それでも平常を保つように、珊瑚が言う。
「時には、甘えることも必要です。珊瑚は、一人で全てを昇華しようとしているようだ。」
名残惜しそうに、弥勒も珊瑚の背に廻した右手を放す。その右手には、祈りを込めた数珠が、何時もと変わらず其処に巻かれて。
「人のこと言えないだろ、法師さまは。」
その右手を見つめながら、珊瑚が少し非難めかして言った。
「そうですか?私はこれでも欲を我慢しているつもりはないのだが。」
そう言った時には、既に弥勒の手が珊瑚の膝の上に乗っている。流石に早い。
「言ってる意味が、違うだろ!?」
その彼の手の甲を、ぎり、と抓って珊瑚が睨んでみせる。
「つれないおなごだ。」
大仰に肩を落として溜め息を吐く弥勒を見て、珊瑚の心は別の感情に捕われていた。
(この人の心は、なんて強いのだろう。)
人前で泣いてしまう自分とは、大違いだ。きっと、不条理な宿業に泣いてしまいたいのは、法師さまの方だろうに…。
「法師さまは、泣かないの?」
後先考えずに発してしまった珊瑚の言葉に、弥勒が目を丸くする。
「は?」
「あ、いや、泣きたいのは、法師さまの方なんじゃないかと思って…」
何やら見当違いのことを言っているような気がして、珊瑚の口調が怪しくなる。
馬鹿みたいだ。自分が泣いたからと、この法師が、では私も、などという姿を決して見せる筈もないのに。
「私が泣いたら、おまえも肩を貸してくれるのか?」
「え。それは…。」
目を細めて言った弥勒の言葉に、珊瑚が返事を言い澱む。何時ものように、無下に突き放すのも躊躇われた。実際、今しがた自分は彼の肩を借りてしまったのだから。
「!」
返事をしないうちに、弥勒の両腕が珊瑚の肩先を包んだかと思うと、其処へ頭を落として来た。何も言わずに。
「…法師さ、ま?」
沈黙したままの弥勒へ、珊瑚が困惑して声を掛ける。話の流れ上、殴り飛ばせる雰囲気ではなかった。猶も沈黙を守り続ける、弥勒。
(まさか、泣いてるの…?)
己の速まる鼓動と、熱を持った体温に気付きながら、珊瑚もそのままで静止していた。
其処へ。
さわ。
「!!!!?」
がば、と我に返った珊瑚が、言い慣れた科白を吐く。
「この、くされ法師ッッ!」
珊瑚の腰下へ這わされた弥勒の腕が、そのまま自身の墓穴を掘ることとなった。
ばき。
珊瑚の怒声と共に上がった異音が、弥勒の頭の上で鳴り響く。
「痛い…。」
頭を摩りながら、弥勒が情けない声で呟いた。
「ふざけるのも、大概にしろっ。」
涙目になった珊瑚が、頬を紅潮させて、彼を睨み上げる。その右手は、拳骨を作ったままだ。
「何やってんだあ!?」
二人の虚を突いて、背後から、第三者の声が介入した。
「てめ、弥勒っ。珊瑚連れ出して、何してやがる!?」
珊瑚の怒声に目を醒ました犬夜叉が、戸口から二人を見つけて慌てて言う。
「珊瑚ちゃん?ちょっと、弥勒さま!?」
その更に後ろからかごめが起き出して、珊瑚の赤い目に気が付いたのか弥勒を責めるような呼び方をした。
「非道いですな。二人共。」
弥勒が、苦笑いを作って腰を上げた。
「外れてやしないだろ。」
ぼそり、と珊瑚が下から睨んだまま、言い放つ。
いいからこっち来い、おめえは油断も隙もあったもんじゃねえ、とぶつぶつ言い続ける犬夜叉とかごめの方へ、やれやれ、と肩で息を吐いた法師が向かおうとした、その背中へ。
「…ありがと。」
下を向いた珊瑚が、小さくぽつり、と呟いた。
「…希望はあるのだ、珊瑚…。」
肩越しに、その珊瑚を見下ろした弥勒も、低く囁くように言う。そして、極自然に前を向き直る。
何か言った?弥勒さま、と言うかごめに、いいえ、何も、と返して。
核心に触れるような珊瑚の言葉が、未だ弥勒の耳に残る。
法師さまは、泣かないの?泣きたいのは、法師さまの方なんじゃないの?
言った本人も、それ程の影響力を持っているとは、気付いていまい。
泣ければ、楽になるのだろうか。珊瑚にはそう勧めたけれど、己は?
判らない。泣きたいのか、それとも、泣けぬのかも。
(俺の方が、よほど往生際が悪いな。)
心底、己の性格を嘲るように、弥勒が心の中で吐き捨てた。
その背中を見つめながら、珊瑚も立ち上がる。
希望は、ある。あたしが、奈落を討つことを諦めない限り。
悔しいけれど、奴が、あたしと琥珀に利用価値を見出している限り。
それでも、夢魔はこの先幾度となく己を苛むだろう。
眠りを貪るという自由を、蹂躙するように。
なれど、それは自分だけが苦しいのではなく。
桔梗を見捨てることが出来ずにかごめを苦しめている、という事実に追い詰められる犬夜叉も。
愛する者の気持ちを独り占めすることが叶わぬと判っていて、傍に居ることを選んだかごめも。
目の前で親を殺され、幼い身空で縁者を失った七宝も。
そして、己に落ち度がないまま背負わされた地獄を、その利き手に携えねばならぬ、この法師も。
それぞれが、永く辛い闇を越えようとしている。朝陽が昇るのを信じて。
泣いたからと言って、気分が晴れる訳でもない。しかし、法師に聞いて貰っている間、確かにあたしはあたしだった。何の戸惑いも、強がりもなく。
何故、それだけでこうも鎮められたようになる?
そして、あたしも誰かを…例えば、あの法師の心を鎮めてやることは、出来ぬのだろうか…?
自分でも思いもよらぬその思考へ、被さるように蘇る、夢の言の葉。
(姉上、怖いよ。)
琥珀の怯えた声が、珊瑚の頭の中で波の渦のようにとうとうと流れ、四肢全てを、絡み取って行く。
その華奢な体を雁字搦めにし、一歩の前進さえ、許さぬように。
しかし、彼女が歩みを止めることはない。
例え泣かれても、縋られても、今宵のように己自身が泣くことになっても、心は既に決まっている。
――― 五逆の一つを犯した咎人を、おまえは救おうというのか?―――
夢魔が囁いて来る、問い掛け。
(死ぬのは、怖いよ。)
そう。御仏の教えに背くことになろうとも。何も、誰も、あの子を救ってくれはしないのならば、あたしが、動く。
先人が指し示してくれる道など、もとより有りはしないけれど。
呪縛から解き放たれる為に、誰も行くことのない獣道を進んで行く覚悟は、疾うに出来ている。
(姉上。)
今ひとたび、そう呼ばれる為に。
B.G.M. <Life> SIAM SHADE
ウチの珊瑚嬢は、直ぐに泣いちゃいます。これ以降も。イカンですねえ。でも泣いてないと、法師との絡みが書けない未熟者です。
そして、問い掛けに対しての答えがちゃんと出ないまま終わってるし。中途半端。本来法師という職業柄、もうちびっとマシなこと語らなきゃ駄目な筈なのに…。駄目なのは私。科白が思いつきませんでした。ごめん、法師。
この話は上記の曲を聴いて生まれました。機会があれば是非。←宣伝班
それでは、最後まで読んで下さって、有り難うございました。
2001.06.24