SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



落花抱く流水緩し







雨が止んだのは、三日振りの事だった。
渇き切った大地には恵みの雨と言えない事もなかったが、何分、その降雨量が多過ぎた。
地上で蠢く蟻の様な人間達は、その天から撒かれた豪雨に為す術もなく屋内へと足止めを喰らっていたのだが、ようやっと切れ間を見せた雲を見るやいなや、滞った野良仕事だのなんだのへと駆け出して行った。
無論、行動範囲を狭められていたのは、里人ばかりではない。
「ったくよぉ、降り過ぎだってぇの。」
足元の草を蹴り薙ぐと、辛うじて葉に掴まっていた水滴達が砕け散る。
粗雑な口調で言った半妖を先頭にしたこの一行も、同じ事。
とある屋敷に巣食った小者の妖怪を退治した後、其処から一歩も進めずに毎日空と睨めっこをして過ごして来たのだから、犬夜叉の機嫌が斜めどころか直立にささくれ立っていようとも、不思議はなかった。
「もう雨は止んだのですから文句を言うのはやめなさい。」
犬妖とは正反対に、落ち着き払った声音で彼を諌めるのは、弥勒。
やっと旅を再開させた矢先から、苛々した声と楽しくない科白を聞かされるのは、御免である。
「そうじゃ、丁度良かったくらいではないか。」
その法師の肩口から後押しをするのは、七宝。その幼子の科白に、弥勒は苦笑するしかなかった。
先の戦いで、弥勒がまたしても大量の最猛勝をその利き手へと吸い込んでから、まだ幾らも時が経ってはいない。歩ける様になったとはいえ、完全に復調したとは言い難かった。
其処へ舞い込んで来た妖怪退治と、雨。本調子ではない体調を隠し旅を進めようとする、水臭いこの法師を留まらせるには、絶好の機会であったと言えるであろう。
「法師さま、本当にもう大丈夫なわけ?」
ひょい、と片脇から顔を出した珊瑚が問うた。(くだん)の妖怪退治を遂行したのは、無論、この娘。
「ええ。これも、おまえの看護のお蔭です。」
ぺかり、と光を背負った様な極上の笑みを浮かべた弥勒に見返され、頬を朱に染めた珊瑚が、そそそんな事ないよ、と言おうとしたところへ。
「向こうじゃ!早く!」
「もう引き揚げられたのであろうな!?」
走る数人の村人達が、一行を追い越して行く。
「なんだぁ?」
その背中を見送りながら、犬夜叉が怪訝そうに呟いた。村人達が向かう先には ――― 二桁に届くかどうか、という程度の人だかり。
「引き揚げられた、って…誰か川に落ちたの?」
不安げにかごめが呟く。
今、自分達が歩いているこの土手の下。
向こう岸へ渡るには渡し舟でも必要な程の、幅広の川が横たわっている。川向こうには、狭い川岸に沿い断崖絶壁が聳え立っていた。普段は穏やかな流水を湛えていると思しきその河川は、大雨で水嵩を増し、蛇のうねりの如く水波を荒立てており。
「行ってみましょう。」
誰よりも早く反応した弥勒は、そう言った時には既に駆け出していた。彼に続き、一行も土手を伝い川岸へと下りる。そして、人の集う一点へと走り寄る ――― その、途中。
「…ん?」
珊瑚が、ふと足を止めた。彼女の視界の端に映ったのは、ぴたん、ぴたん、と弾ませた尾鰭で地を叩いてもがく、一匹の魚。どうやら、荒れ狂う波間に乗せられ川岸へと打ち揚げられてしまった様であったが、一大事に心を奪われた人間達の誰一人としてそれに気付いてはくれなかったらしい。
唯一人の娘を除いては。
「あ~あ、まったく。水の者のクセに何やってんだい。」
たたっ、と走り寄った珊瑚は、呆れた様な声音で以ってしゃがみ込んだ。が。
「……。」
見た事、ない。
(なんだろう、この魚…。)
形的には、鮎辺りと大差はなかった。けれど、その鱗の色が。
(綺麗…。)
その白い両手で魚を掬い上げ、珊瑚は素直にそう感じていた。空色の様な、澄んだ、蒼。こんな鮮やかな鱗を纏った魚は、終ぞ見た事がない。
この辺りにだけ生息してるのかな、と思った其処へ、
「珊瑚ちゃん、どうしたのー?」
先を行くかごめから、声が掛かる。
「なんでもない、今行くよ。」
少し大き目の声で返事を投げ、珊瑚は立ち上がった。二、三歩川面の近くまで寄り、
「ほら、今度はちゃんと上手く波に乗るんだよ。」
その美しい魚を、ぽぉん、と軽く放ってやる。僅かに姿を現した太陽の光をその体に浴び、きらきらと猶一層の煌めきを纏った後、魚は波間へと消えて行った。それを見届けた珊瑚は、踵を返しかごめ達の後を追う。
その、稀なる魚を見た事は、その後一度も思い出しはしなかった。







「まだ息があるぞ!」
引き揚げられたのは、まだ年若い娘。
川に落ち流されたけれど、岸から延びる川柳の細枝に運良く絡め取られていたところを、通り掛かった村の衆に助けられ今に至っているという事であった。
「これはいかん。息を吹き込まねば。」
あたふたと狼狽するだけの村人達を掻き分けた弥勒が、仰向けに寝かされた娘の脇へと膝を着く。極、自然な成り行きで。
「ちょっと、なんでアンタがやるのさっ。」
思わず、珊瑚が口を挟む。
「では誰がやるのです。」
…それはそうだけど。
いとも容易く絶句させられてしまい、珊瑚の胸にはむかむかとしたやり場のない怒りが渦を巻く。
人助けなんだから、人命救助なんだから、と心に言い聞かせてはみるものの、彼の手が娘の顎に触れたのを直視した途端、怒りは、もっとずっと表現し難い感情へと形を変えて行った。
その時。
「ちょっと待って、弥勒さま。人工呼吸はそれじゃ駄目よ!」
かごめが、唐突に声を上げた。
「じんこうこきゅう?」
顔を起こした弥勒が、その声の主を見遣る。
「ええと、だから、息を吹き込むにはそれだけじゃ駄目なんだってば。確か、気道を確保して…」
「きどう?それはどうすれば?」
聞き慣れぬ言葉の連発に、弥勒が屈んだままの体勢でかごめを見上げ、問うた。
「ど、どうすれば、って…。」
詳しく聞かれても、と口篭もってしまう、かごめ。つい、聞きかじり程度の知識を振り翳してしまったに過ぎなかった。
事細かに説明しろ、というのも、中学三年生の一少女には酷な話である。
「だから!顎をこう上げて、鼻をつまむの!」
かなり適当な事を言っている、と自覚してはいたが、彼女も退き下がれず声高に告げた。
「…鼻?」
「そう!空気が抜けない様に!」
胡散臭そうに訊き返して来た弥勒へ、かごめも(多分ね)という言葉は飲み込み、答える。
「…私の?」
「相手のよっ!」
己の鼻先へ人差し指を向けている弥勒へ、間髪入れずにかごめが言った。
「鼻をつまんでとは…色気のない接吻ですなぁ…。」
「…接吻じゃないでしょーが。」
嘆息しつつ眉根を寄せた弥勒へ、かごめは呆れた声を向けた。どうやら見た目重視のこの法師、あまり美しくない為様に及ぶのは些か気に入らない様である。しかし、そんな事にこだわっていられる状況ではない。事態は切迫しているのだ。
すると、彼女のその説明に己の中で折り合いを付けたのか、
「どれ。」
と、娘の鼻を抑え、弥勒が顔を近付ける。
耐え切れず、珊瑚が目を逸らしそうになった、その刹那。
「ぶはっ!」
失神していた娘が、鼻を塞がれ苦しくなったのか、飲んでしまっていた水を勢い良く吐き出した。おおっ、と、周囲から歓喜の声が上がる。
げほごほげほっ、と激しく咳き込んだ後、半身を起こした娘が言を零した。
「あ…あれ、あたし…?」
「…無事で何よりでした。」
傍らに座している法師が、袖で顔を拭いつつ目を瞑ったまま静かに言った。
「良かったのぅ!」
「あの濁流の中、奇跡じゃ!」
と、娘の生還を喜び合っている村人の中で、くっくっくっ、と俯いたまま声を殺し肩を震わせているおなごが、一人。
「…楽しそうですな。」
「べ、別に~?」
立ち上がった法師の科白へ、口許に当てた手もそのままに上目で彼を覗き見、笑いを隠し切れずにいる珊瑚が返した。
「おらは、かごめが説明している間に死んでしまうのではないかと思うとったぞ。」
びょん、と法師の肩先へと飛び乗った七宝が、ぼそり、と言う。
確かに。
あのかごめさまの話がなければ、美味し…もとい、自らの手で娘を救ってやる事が出来た筈なのだが。
あ~あ、と口には出さぬけれど。
まぁ、こっちの娘が笑顔でいられるのならば、それもいいか、と。
不届き千万な納得の仕方をしていたものだった。







「で、なんでまた妖怪退治なんだよ。」
「いいじゃないの、ついでだし。」
うんざりした様に吐き捨てた犬夜叉へ、かごめが柔らかく言った。
「四魂の欠片の気配もするし。」
「何!?なんでそれを早く言わねぇ!?」
あっさり言ったかごめの科白を捉え、犬夜叉が声を荒げる。
「今感じたんだから、仕様がないでしょー。」
唾を飛ばしそうな勢いで突っ込んで来た彼へ、かごめは少しの動揺も見せずにすらりと答えた。
一行がざくざくと歩いているのは、先程の対岸。傍らに屹立した崖は間もなく途切れ、代わって深い林が始まろうとしていた。
川そのものはと言えば、先刻より幾らか緩くなっているものの未だ急流の(てい)を収める事なく、増水した水面(みなも)は汚濁した色合いを隠さない。
「やはり、四魂の力を使っているのか。」
「なるほどね。」
呟いた法師の後を受け、戦装束へと身を包んだ珊瑚が小さく頷く。
川流れに遭い、運良く命を取り留めた娘の話。
先刻土手を歩いている際に、川面から、何か鮮やかな光が弾け飛んだのを見たという。きらり、きらり、と光ったそれは、直ぐに消えた。何だろう、と不思議に思った娘は、川岸へと下りる。しかし、其処に広がるのはやはり濁った河川のみ。諦め、ふと顔を上げた時。川向こうの林から出て来た、多数の人影。
人影、ではあったけれど、それは"人"ではなく。
「さ、猿…?」
猿人であった。
毛むくじゃらの顔に、身体。紛れもなく猿であるのに、しっかりと二本足で立って歩行している。腕組みなんぞをしている者までおり、その様だけは、正しく、人。
「娘、四魂の欠片の噂を聞かぬか?」
聞こえる筈もない、その声が。遠く離れた対岸で放たれた声が、こちら側まで聞こえた。大声を張り上げるでもなく、直ぐ傍で話し掛ける様な声音。
「し、知ら、ない…。」
やっとの思いで紡ぎ出した答えは、随分と小さなものだったと自分でも記憶している。けれど、対岸に居る猿の耳まで届いたらしく、
「知らぬか。ならば、死ね。」
にやぁ、と破顔一笑、今にも向こう岸から飛び掛かって来そうな体勢を、彼奴(きゃつ)が見せた。
背筋を走った悪寒に耐え兼ね、それ以上声も出せぬまま娘は逃げ出そうとしたのだが。
ぬかるんだ岸辺は、容易くぐにゃりと足元を崩し。そのまま、川へと滑り落ちた。
それ程流されぬうちに川柳が身体に纏わり付き、命綱の役目を果たしてくれたのが幸いしたものの、娘の記憶は川に落ちたところで途切れている。
猿共も、放っておけば死に至る人間へわざわざ手を出す無駄な所業には及ばなかったという事であろう。
もともと、この辺りには猿猴類の妖が居たらしい。けれど、その悪行と言えば畑を荒らすなどの一般の野猿と変わらぬもので。人間を殺めようとするなど、今までには一度もなかったのである。
そして、そのような人知を超えた能力も、村人達の誰一人としてこれまで見た者は居なかった。
――― と、なれば。四魂の欠片の力を使っていると考える方が自然であろう。
「…お出でなすった様ですな。」
「随分と数だきゃ多いみてぇだな。」
ざわつき始めた、風の流れ。それに乗って届けられる、妖の気配。
法師と犬妖の言葉と同時、退治屋が娘も背に負った武具へと右手を回す。
「ひゃっ。」
「!」
抱き付いて来た七宝を胸に受け止めたかごめが、前方を見遣り、瞠目した。
五十には上ろうか。林から現れ出でし、その数は。
「おまえ達、四魂の欠片を持っているな?」
一人…というのも躊躇われるが、猿妖の"一人"が、低く問い掛ける。その周囲に控えるのは、同じく人間の様に佇む猿人達。そして、普段見掛ける野猿の体躯より二回り程大きな"普通"の大猿共。こちらこそが、もともとの猿妖の姿なのであろうと思われた。
「てめぇらエテ公なんぞにやれる四魂の欠片は持ち合わせちゃいねぇ。」
かごめを背に隠す様に立った犬夜叉が、一歩前へ出て彼奴等へと黄玉の鋭視を投げた。
「一つ訊くが…四魂の欠片、きさまら一体幾つ手に入れておる?」
猿人の数が、異様に多い。人型を成している者達が四魂の力を借りてその姿を形成しているのだとすれば、かなりの欠片数が費やされている…?
弥勒は、その懸念を直接奴等にぶつけてみる。
「我等の欠片か?元は、一つ。それを砕けるだけ砕き、出来得る限り数多くの者が持てる様に細工したまで。」
先程問い掛けて来たのと同じ者が、答を寄越した。どうやら彼が猿猴類の長らしい。
「へっ、なんでぇ。質より量、ってヤツの典型か。」
腕組みをした犬夜叉が、馬鹿にした風に鼻で笑い、言う。
「ぬかせ、小僧。四魂の欠片、置いて行かねば此処での落命は免れんぞ!」
「そんな低質野郎共が俺に喧嘩売るなんざ、百年(はえ)ぇ!」
言うが早いか一行へと襲い掛かって来た猿共を見据え、犬夜叉の両手がばきばきと音を立て。
瞬時の内に、三人の猿妖を叩き伏せていた。
「かごめ、下がってろ!」
地を蹴った犬夜叉が、その鉄爪を惜しげもなく振り翳し。
左から右へと風を切った錫杖が見事敵の体躯を薙ぎ払い。
宙を舞う飛来骨が、一瞬間で何匹もの猿妖を粉砕していた。
数的優位に見合わぬ己が陣営の劣勢に、堪らず長が指笛を吹く。ぴぃぃぃ、というその甲高く細い音に呼応したのは ――― 上空。
からから、と、切り立った崖上から細かな落石があった。
「!」
頭上の異変に気付いた弥勒が、そちらを仰ぎ見ると。
「上だッ!」
弥勒が、切迫した声音で怒鳴った。その声に皆の視線が崖上へと集中し、落下して来る数個の巨大な石塊を認めた次の瞬間にはその場から跳び退っていた。
其処彼処で、ずどぉぉん、という轟音と共に、巨岩が砕け、散った。
「ちくしょう、上にも居やがんのか!」
かごめを脇に抱え、すとん、と着地した犬夜叉が忌々しげに上空を見上げ遣る。すると、遠い、遠いその絶壁の上。ちらちらと人影が見え隠れしている。
雑魚も雑魚。己達との力の差は歴然だった。しかし、上下からの挟み撃ちとなると ―――
「珊瑚!」
彼女の名を弥勒が呼び、呼ばれた娘は視線でそれに頷いた後、
「雲母!」
間髪居れず、妖獣を召喚する。主の声に瞬く間に体躯を変化させたその妖猫の背へ、珊瑚と弥勒が所作も鮮やかに跳び乗った。
「犬夜叉、我々は上へ行く!良いな!?」
「ああ、任せたっ!」
弥勒の声へ応えたのと同時、すら、と鉄砕牙を鞘から抜き放つ。
犬夜叉、かごめ、七宝の三名を地上へ残し、ぐんぐんと高度を上げた雲母は、あっと言う間に崖の頂上へと舞い降りていた。其処に居たのは、こちらもその数五十ばかりの猿妖共。
「結構居ますな。」
「どうせ雑魚ばかりだろ。」
雪白の背中からひらりと跳び降りた二人が、数に勝る敵を眼前に認めながらも、寸分怯まぬ会話を交わす。
ぎらぎらとした奴等の双眼は、敵意も顕わに弥勒と珊瑚へ向けられていた。
その片隅で猶も下方へ落とし遣る為に、岩塊をごろら、ごろら、と転がしている猿妖目掛け、
「させるかっ!」
珊瑚の右手から、横殴りに白い使いが放たれる。唸りを上げた低空飛行の果て、飛来骨はその岩塊と猿妖を粉々に四散させていた。それを合図にしたかの如く、一斉に彼奴等が二人へと襲い掛かる。
無論、それに動じる訳もなく。慣れた為様で攻撃をかわしつつ、それぞれの得物で以って妖共を次々と退治して行くのは雑作もない事であったが ――― 数の大差は、また別の話である。
「それにしたって、多過ぎますな~。」
「何弱音吐いてんのさ!」
弧を描き、出発点へと違わず戻って来た使いを、ばし、と受け止めた珊瑚が、錫杖を武具の如く扱う弥勒の方も見ずに言葉を投げた。そして、直ぐに思い出す。飄々とした声の彼が、病み上がりであった事を。
(早く片付けなきゃ…。)
(はや)る心は隙を生む。そのような初歩的な事、忘れる筈もなかったのだが。
自然、法師の援護へ廻る形となっている事に、珊瑚自身も気付いてはいなかった。尤も、この法師にそんな心配は全く無用だったのだけれど…。
「珊瑚、後ろ!」
「!」
振り返り様に顔色を変えた弥勒の声に、珊瑚は"背中の眼"を開ける。
他人の背ばかりを気にし、己の背後への配慮を欠いていた。
「ちッ!」
投げ払ったばかりの飛来骨は、まだ戻る筈もない。首を後方へと廻らしつつ、右手を柄に乗せた身体を、抜刀の勢いに乗せそのままぐるりと旋回させた時。
両腕を振り上げ攻め込んで来る猿人の左から、疾風。
「ぎゃ!」
彼奴の断末魔を押し上げたその喉許に、雲母の牙が突き立っていた。
「!雲母!」
どう、と右側へと(もつ)れ合って倒れる雲母と妖。妖の方は既に事切れている。しかし ―――
「雲母!?」
みゃうん、と弱々しい声を上げた後、一瞬間で雲母の体躯は小さなそれへと変化していた。
(毒か!?)
雲母の傍に膝を折った珊瑚だが、敵は攻撃を緩めはしない。再び向かって来る彼奴等へ、抜いた刀をぎらりと翳す。
その間、受け止め手を失い転がっていた飛来骨は、猿人達の手に堕ち険崖の下へと放られていた。
「くっ!」
片膝を着いたまま、中段から右上へと刃を薙ぎ、一匹。振り下ろし様に身体を反転させ、一匹。
――― 多勢に無勢、此処に、極まれり。
「ちっ!」
舌打ちしたのは、弥勒。そして錫杖を地に突き刺した後、空いた左手が握るは、闇の入り口・風穴を封印する数珠。
それを見咎めた珊瑚が、剣撃の手を休めずに、叫んだ。
「駄目っ、法師さま!!」
呪いを解放する、寸前。
「こいつら、体内に毒飼ってやがる!また何日も寝込むつもり!?」
激昂とも取れる程の珊瑚の激しい声音に、弥勒の指先が静止した。
嫌な言い方だと、承知していた。けれど、まだ法師さまの身体が心配だから、などと本音を言っても聞き届けてはくれぬだろう。ならば、旅の足枷に成り得る、と言った方が何倍も効き目があるのだ、この男には。
「…地道に行くしかないという事かっ。」
引き抜いた錫杖を一閃させ、弥勒が言った。その表情には、些かの乱れもない。
「そういう事!」
安堵した様に笑んだ珊瑚が、組んだ猿妖へ右の蹴りをくれてやる。
焦りは、既に消えていた。こうなれば、一匹ずつ退治して行くのもそう難しい事ではない。
そろそろ体力の限界か、と思われた頃、二人がそれぞれ最後の一匹と向かい合う。振り下ろされた常人より太く長いその腕を、掲げた錫杖で、がし、と受け止めた。真横になったその法具を握る左手に力を込め、引き下げた柄尻で相手の鳩尾を(したたか)かに突く。
「ぐぁ!」
身体をくの字に曲げる、猿妖。柄尻を前へ出した連鎖で己の肩先へ戻った錫杖の切っ先を、右横へと滑らせそのまま左へ薙いだ。正に、流水の、為様。
両断され、ばらばらと崩れ落ちる彼奴の身体を一瞥し、弥勒に割り当てられた戦は終了した。
そして、もう一方の、戦局。
横殴りに大振りされた、檜皮色の毛で覆われた猿の腕。それを、低く身を屈めかわした珊瑚は、屈んだままの状態で左足を軸にぐるり、と旋回した。結い上げられた黒髪が、鞭の様に、しなる。
無論、右の足は伸ばされており、奴へ見事な足払いを掛けた形となった。一瞬仰向けに浮いた猿妖の身体が、地へ落下する前に。そのまま下段から、抜き身を躊躇いもなく上方へと振り抜く。ばっさりと二つに分かたれた妖の体躯が、珊瑚の眼前にぐしゃりと落ちた。
「…終わりましたか。」
「ああ、そっちも」
言い掛けた刹那。
立ち上がり、刀身を鞘に収めつつ、屍骸から一歩後退った珊瑚の足元が、がら、と崩れた。
「!?」
「!さん」
己の足場の悪さを忘れていたのは珊瑚の不覚であった。
弥勒が彼女の名を呼び終わらぬうちに、背中から珊瑚は落ちて行く。
――― 断崖の最上から。
(ちっ!)
内心舌打ちした珊瑚の左手は、疾うに右肘甲に伸びていた。其処から引き出した、鎖状の縄。それを、力の限り上へと投げる。すると、その縄は崖から突出した岩の先端へと綺麗に絡み付いていた。
手応えを感じた珊瑚は、両手で握った縄のしなりに因って岩壁へ叩き付けられぬ様、直ぐさま両足裏を前に出す。
その足裏が、だんっ、と壁を捉えた。
「無事か珊瑚!」
「…なんとか。」
上空から降って来た弥勒の声に、遥か下方を見下ろしつつ珊瑚が答えた。
落ちれば、一溜まりもない高度である。何せ、地上に居る仲間達が、あの点は誰、この点は誰、と辛うじて判別出来る程度でしかない。
珊瑚の声に、止まり掛けた心の臓を撫で下ろすのは、弥勒。龍の髭で編んだそれは、そう簡単に千切れるものではない筈。けれど、危険を孕んでいる事実に変わりはなかった。
雲母は、未だ変化は叶わぬ。
ならば、縄が絡んだ岩まで珊瑚が自力で登り、其処から弥勒が引き上げてやるしかない。その岩の上から跳躍などしようものなら、加えられた力で崩れてしまいそうな程、それは頼りなげな大きさなのである。しかし崖上から其処までの距離は、幸い、弥勒が腹這いになり手を伸ばせば、届かぬ事もなさそうであった。
出来るだけ余計な力を掛けぬ様、慎重に縄を手繰る、珊瑚。ようやく辿り着いた瘤の様な岩の上に着地すると、縄をゆっくりと外して行く。
「良いか、珊瑚。」
「うん、お願い。」
差し伸べられる、弥勒の右手。封印の数珠が、薄い太陽光を鈍く反射している。
その指先に、珊瑚の白い指が触れる。
――― 否。触れたと、思った。
「!?」
近付いた筈の距離が、離れ行く。
珊瑚の立った岩塊が、岩壁から、ばか、と剥がれ落ちていた。
握ったと思ったその細い指が摺り抜け、己の指が、空を切った。
空へ、仰向けに投げ出される、珊瑚の身体。二人の視線が絡んだ一瞬は、永遠の様な長さで。
「珊瑚っ!!」
気付いた時には、地を蹴っていた。
何をしてやれる訳も、ないのに。
珊瑚の方は、自然頭が下を向き落下して行く己を認めた瞬間、様々な感情達が心内を一息に駆け巡っていた。
…こんな風に、死ぬんだ。
なんて、不様な。
心残りの象徴である琥珀へ、里の者達へ、ごめんね、と呟いた後。
何一つ、成し遂げてはいないのに。…でも。
この世で最後に見たのが法師さまの顔なら、幸せかな。
あの、大好きな笑顔じゃなかったけど ―――
そう思った後に込み上げて来た恐怖は、瞬時に消えた。
誰かが、頭から落ちて行く己へと追い付いて来て、腕を強く掴む。
(え、)
瞠目した刹那、引き寄せられたのは、紫の ―――
(ほ、法師さま!?)
声は、出なかった。
どうして?どうして自分から飛び下りたりするの!?
怒りに似た感情が湧き上がるけれど。
一杯に広げられた弥勒の右の五指が、珊瑚の頭頂部を守る様に添えられたかと思うと、その彼女の頭を己の胸へと抱え込む。
その行動に、珊瑚の噴出し掛けた感情は、蓋をされた様に抑えられた。
彼の左腕は彼女の肩先へと強く廻され、解かれる時は永久に来ないのではないかとさえ思われて。
(こんな事されたって、嬉しくないのに…)
本当の想いを胸裡でさえ形にはせぬ珊瑚の意識は、其処で、切れた。
顎先を持ち上げ、迫り来る地表を睨み付けるのは、弥勒。
どんなに珊瑚の頭部を懐へ隠そうとも、叩き付けられれば二人共生きてはいまい。
どうすれば?どうすれば、こいつだけでも助けられる?
(くっそぉぉーッ!)
真っ逆様に落ちて行く己の身体を自由に出来ず、眉尻を吊り上げた弥勒が、出ない答を求め、最後まで問い続けていた。
それは、たった一刹那の、出来事 ―――







その、暫し前。
鉄砕牙を操る犬夜叉が、猿妖共を斬り伏せた頃だった。
からんからん、と小石が上空から降って来た事に気付いたのは、七宝。なんじゃ、と上を見上げると。
「さ、珊瑚ッ!?」
遥か上方で、珊瑚が宙吊りになっていた。
「珊瑚ちゃん!?」
かごめは、ずるずると飛来骨を引き摺って来たとろこであった。この、珊瑚の愛用の武具が上空から落下して来た時に、正直悪い予感はしていたのだが。それが、こんな形で的中しようとは。
「何やってんだ弥勒はっ!」
そう犬夜叉が吼えた刹那、その弥勒と思しき人影が手を伸ばしているところが見えた。
良かった、とかごめが安堵の息を洩らしたのも束の間。
絶壁から突出した岩が、ぼろり、と玩具の様に脆くも崩れる。
「あ!?」
「きゃあぁぁっ!!」
七宝の声と、両手で顔を覆ったかごめの絶叫が響いた。落下する珊瑚の身体を追う様に、宙へと身を躍らせた弥勒の姿が、はっきりと、見えた。
このままでは、この川岸へと激突する。あの高さから地面へ落ちれば、見るも無惨な骸と化すだろう。
そう、"地面"へ、落ちれば ――― 。
犬夜叉の右の指が、ぴくり、と跳ねた。
「お、おらがっ!」
変化して二人を受け止めようと考えたのか、七宝が懐から木の葉を取り出していたのだけれど。
それよりも早く。
「二人して情けねぇ姿晒してんじゃねぇーッ!!」
怒号一声。
頭上へと振り被った刀を力の限り振り下ろした。
墜落して来る仲間へと向けられた、疾風迅雷の ―――
「か、風の傷!?」
かごめが、思わず声を上げる。
激烈な風を巻き込んだその道行の先に在るのは。
「何をするんじゃ犬夜叉ぁっ!」
二人を殺す気か、との七宝の声は、凄まじい爆裂音によって掻き消されていた。
地上から迫り来るその風の激走を、弥勒は見る。
(な、)
どがががががッ、と岩壁を抉り上方へと駆け抜ける、鉄砕牙に因って生み出された道筋。
それは、落下して行く弥勒と珊瑚とは紙一重の距離を保ち、二人と並行に聳え立つ険阻な崖を見事なまでに削り取って行く。
「!?」
一瞬、粉々にされる、と思ったのだったが、それは己達の身体を掠め、熾烈なる風を巻き起こし上空へと昇って行った。同時、逆巻く烈風が、周囲に存在する大気の全ての方向を混乱させる。
轟々と、唸りを上げ吹き荒ぶ、風。
爆風が二人の身体を木っ端の様に舞い上げたかと思うと、その風圧に押されたまま、墜落して行く軌道が変わった。
「あ…。」
かごめの目に映る、二人の姿。激しい風に圧された弥勒と珊瑚は、一つになったまま、川面へと、消えた。
「よ、良かったぁ…。」
へなへなぺたん、と、かごめはその場に座り込んでしまう。地上への衝突は、免れた。犬夜叉が、まさかこれを狙っていようとは。
「安心するのはまだ早ぇ。」
ちゃきん、と刃を鞘に収めた犬夜叉が、言う。
この、濁流。激突死が、溺死の可能性へ摺り替えられたに過ぎぬのだ。
「追うぞっ!」
犬夜叉の言葉に、腰を上げたかごめと七宝は、神妙な顔で頷いていた。







じゃぶ、と濃紫の手甲が巻かれた腕が水面から浮かび上がり、川岸へと伸ばされた。その掌へと力を込めると、
「ぷはぁっ!」
ざばぁ、という水音をさせ、弥勒の頭が川面から現れた。その左肩には、珊瑚の頭が乗っている。
(あの野郎、殺す気かよ、まったく…。)
その野郎のお蔭で今こうして悪態を吐けるのだとわかってはいたが、一応、お決まりの文句を並べてみた後に、後方を振り返った。
その背後では、相変わらずの激流が渦を巻いている。しかし、今、首から下をその川へと浸している自分達は、片手一本で岸辺へと掴まっていられるのだ。
「……。」
大体、此処へ泳ぎ着くのにも、大した労力を必要とはしなかった。己等の身体の周囲だけが、まるで流れを変えた様に…否、流れを無視した様に、と言うべきか。…緩やかで、汚濁した色合いさえ浄化されている様な。
禁じ得ない違和感を認めながらも、それを追求している暇などありはしなかった。
抱き上げた珊瑚を先に岸へ押し上げてやると、両手を着き、今度は己の身体を己で、ぐい、と引き上げた。
水を吸い重くなった袈裟を気にする素振りも見せず、その両眼は一点へと向けられている。
「珊瑚っ。」
仰向けに寝かせた珊瑚の頬に張り付いた髪もそのままに、傍らに膝を着いた弥勒が、その頬をぴたぴたと叩いた。
反応は、ない。彼女の蒼白な頬と血の気を失った唇が、弥勒の鼓動を速まらせて行く。
頬から首筋へとずらした弥勒の指が、脈打つ珊瑚の命を認めていたが、次に口許へと翳した手の甲は、風を感じはしなかった。
(ちくしょう、此処まで来て…っ!)
冗談じゃねぇ、と。
その青褪めた唇へ、自身の唇を重ねていた。
かごめに言われた様に、右の指を珊瑚の形の良い鼻へと乗せ、左手を細い顎へ添え。
あの時の様に、躊躇する思いなど微塵も存在しなかった。
珊瑚を、助けられるのならば。
どんな不様も醜態も晒せると思った。
否。そんな風に考える余裕さえ、この男の頭からは消し飛んでいた。ただ純粋に、救える確率が確実に高い方の遣り方を選択しただけで。
三つ四つと息を吹き込んだ後、唇を離し、珊瑚の瞼を確認する。なれどそれは、ぴくりとも動かない。
「目ぇ開けろ…っ。」
ぽたぽたと前髪を伝って落ちて来る水滴を払いもせずに、再び唇を押し当てていた。
冷えたその、唇に。
「珊瑚っ!」
再度彼女の意識を確認するが、伏せられた長い睫毛に溜まった小さな雫は、其処から滑り落ちる事はなかった。
頼む ―――
そう心中で呟こうとも、誰へ頼むと言っているのか、それさえも忘れてしまっている法師の筈の男は、一心不乱に息を送り込む。
繰り返す、命の遣り取り。
「まだ逝くなっ!」
弥勒の顎を伝い、珊瑚の頬へ間断なく降り注ぐ、極々小さな雫達。それは、頬の丸みに沿って耳朶の方へと形を変え足跡を残して行く。「冷たいじゃないか」という珊瑚の声が、脳裏に浮かんでは、消えた。
早過ぎる。こんな風に死んで良い女ではない。
何もかも失い、その代わりに手に入れたのは、消えない傷痕。それでも己の道を行こうとする、頑ななまでに一途なこの女は、幸せになる権利を誰よりも持っている。
それを待たずに逝くなど、御仏が許しても、この俺が、認めない。
この俺より先に死ぬなど、承知出来る筈がない。
純粋な生への執着以外に、何ものも介在しない清廉潔白な口付けが、繰り返される。
その、何度目かの時だった。
重ね遣った己の唇の、下で。珊瑚の口許が、微かに自力で動いた様な感触が伝わって来る。
顔を上げ、弥勒が彼女の(おもて)を見下ろすと。
きゅ、とその珊瑚の眉間が寄せられたかと思うと、ごほっ、と水を吐き出した。
「!」
ごほんごほん、と苦しげに咳き込み、それが収まった後、はっきりと呼吸が再開される。
言葉もないままに、ほぉぉ~っと深い深い息を吐いた後、弥勒の頭は脱力したかの如く珊瑚の右肩辺りへ、ぽすん、と落ちた。
薄っすらと瞼を開けた珊瑚が、重みを感じる己が肩先へと視線をずらす。
「…!?」
まるで自分が押し倒されている様な態勢に在り、視界に映ったのは、彼の法師の頭。
「ななな、何晒してんのさーッ!?」
飛び起きた珊瑚の右腕が、勢い良く弥勒の身体を突き飛ばしていた。
「あいたたた。」
尻を着き、左腕で上半身を支えた弥勒が、頭を掻く様な仕草で覇気のない声を上げた。
「おまえ…」
意識戻った瞬間が、それか。
…まぁ、元気が良いのは良い事だが。
「あ、あれ?ずぶ濡れ…あれ?助かってる…?」
事態を飲み込めぬ珊瑚が、きょろきょろと辺りを見回し、不思議そうな声差しで呟く。その彼女へ、弥勒が此処までの成り行きを説明してやった。さすれば、流石に罪の意識に捉われたのか、
「あ、ありがと…。」
一言だけ、告げた。
無論それは、かごめが言うところの"人工呼吸"について礼を述べている訳ではない。弥勒は、それに関しては少しも触れてはいなかった。そんな事を言おうものなら、突き飛ばされるだけで済まぬのは目に見えている。
珊瑚の礼は、川から引き揚げてくれた事に対して言っているのか、それとも、宙へと飛び込んだ弥勒の無謀に対して言っているのか ――― 明らかにする必要もないのだけれど。
「で、さっきは何してたって?」
「……。」
ぎら、と法師を一瞥した珊瑚は、それでも直ぐに嘆息し、まったくもう油断も隙もないんだから、と呆れた風に呟いた。それ以上は突っ込まない、とでも言う様に。
諦めが平生よりも早い様に思われるのは、やはり先の弥勒の行動を慮っての事なのだろうか。
其処で、険しくなった柳眉を晒した珊瑚が低く叫ぶ。
「雲母…!」
左右を見渡そうとも、その妖猫の姿はない。しかし、その声に返事を寄越した者が居た。勿論、雲母ではなかったが。
「弥勒っ、珊瑚!」
「珊瑚ちゃん!」
七宝、かごめ、そして犬夜叉の声が入り混じり、二人の耳へと届いた。
七宝の胸には、目を開けた雲母が抱えられており、犬夜叉はと言えば、飛来骨をその背に乗せていた。
「良かったぁ~、無事だったのね!」
駆け寄ったかごめの顔が、泣き笑いの様に、歪む。
未だ座ったままの珊瑚の膝へと、七宝が雲母を預けた。どうやら、風の傷を喰らった断崖が崩壊した際、なんとか自力で着地したらしかった。
「置いてって、ごめんね…。」
主の膝の上で、二股の尻尾を抱き込み丸くなる雲母の白い毛並を優しく撫でてやる。毒はそう強い物ではなかったらしく、命に別状はない様だった。
「で、私の錫杖は。」
「探してねえ。」
「……。」
飛来骨を軽々と背負った犬夜叉へ濡れ鼠のまま弥勒が問うと、彼は一言で答えて見せた。
「…そう言えば先程は大変助かりましたなぁ。少しでもずれていたら死んでいたなど、なんという緊張感。冥土への入り口を垣間見る事が出来るとは、いやはや滅多にない巡り会わせでありました。いや~、礼を言う、犬夜叉。」
「…てめぇ、ほんっとに嫌な野郎だな。」
恐ろしい程の笑顔で言った法師へ、それが礼か、とでも言わんばかりの眼差しを返す、犬妖。
「では、戻りましょうか。」
そんな蔑視などはとんと意に介さぬ風に、極自然な口調で弥勒が皆を促した。
「錫杖くらい一人で探しに行けよっ。」
「砕けに砕け散った四魂の欠片を、拾いに行くのでしょーが。」
其処で、弥勒を除いた全員が、「あ」と口を開けた。
…あの量を、全て?
とんでもなくちっこい欠片の欠片を、あの、残骸の中から…?
気が遠くなる様な錯覚を覚えたのは、犬夜叉だけではなかっただろう。ちくしょうだからエテ公は嫌いなんだよあの馬鹿共がっ、との彼のぼやきは、全員に共通するところ。
弥勒と珊瑚の二人は先に火にあたってからの方が良いのでは、とのかごめの提案は、本人達にやんわりと断られ、そのまま四魂の破片収集へと移行する事となった。
真夏に差しかかろうという、この文月。何時の間にやら曇天から晴天へと姿を変えた空から降り注ぐ陽の暖かさがあれば、充分であろう。それよりも、また妖達に欠片を悪用されぬよう手を打つ事の方が、優先順位としては先である。
未だぶつくさ言っている犬夜叉と、まぁまぁ、と宥めすかすかごめと、彼女の肩に止まった七宝の、後ろ。
髪の先を掴み、ぎゅう、と水を絞った珊瑚が続こうとしたけれど、急流を湛えた川面を見詰めたままの法師に気付き、足を止めた。
「どうしたの?法師さま。」
その声に、弥勒が振り返らずに答える。
「…いえ。この川に落ちた時…我々の周囲だけ、濁流が"避けて"行く様な感覚がして…。」
何かが作用したとしか思えない。でなければ、あの激しいうねりの中を流されながらも、その圧迫を感じなかった事への説明の付けようがなかった。だが、何も、怪しい気配は認められない。
先程も、現在(いま)も。
「法師さまの邪念に、水の方が逃げてったんじゃない?」
先程は追及せずにいた珊瑚の逆襲。
珊瑚の方へと弥勒が頭を廻らすと、厭味たっぷりの彼女の白い目が、こちらへと向けられていた。
(言うじゃねぇか。)
その珊瑚の科白には微笑を返し、彼女の前へと歩み寄る。纏わり付く着物が、足取りの邪魔をするが。
「おや、此処にも私の邪念が残っていましたな。これは失敬。」
何の気なしに告げられた言葉と同時、弥勒の右の親指が珊瑚の唇に触れ、それを真横へと滑らせ己の"邪念の名残"を拭ってやった。
まるで、紅でも引くかの如く。
「え」
一瞬呆けた後に。
ゆっくりと離れて行く、弥勒の指。(とぼ)けた表情は、何時もの、それ。
その意味を悟った珊瑚が、怒髪天をついた。
「この…ッ、助平法師がーーーッ!!」
びたーん、という殴打音を背中で聞き、
「よぅ飽きんのぅ。」
「懲りないわね…。」
「付き合ってらんねぇ。」
それぞれが詰まるところ同じ意味合いを込めた科白を吐いてみせる。
その背後には、怒りと羞恥の両の情感で頬を染め抜いた珊瑚。彼女の胸には、安心し切った様子で眠っている、雲母。その背を柔らかな双眸で見詰め遣る、頬を腫らした弥勒。
そして更にその後方。
――― 気付きはしない。
激流の波間から、ぱしゃん、と空色の光彩を放ち飛び跳ねた、稀なる魚が居た事に。









43000ゲッター・RIRISUさんご依頼の「犬一行総出演妖怪退治で弥勒→珊瑚人工呼吸完遂」でございました。
メインは人工呼吸の筈なのに、それ以外の部分がやたらと長くなってしまいましたスミマセン。人工呼吸については、"中途半端な知識"というのを大前提に書いておりますので、突っ込みはナシで。
魚は一体何者だったのか?ですが、そのエピソードを入れると益々違うモノになりそうだったので、割愛。故に、強引な持って行き方になってしまい、余計な部分が幅を利かせている感が無きにしも非ず…RIRISUさん、脱線しまくりな内容で申し訳ないですが、どうかお許し頂きとうございます。貰ってやって下さいませ。
では、最後までお読み下さいまして、有り難うございました。

2001.12.03