SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



紅葉(もみぢ)且つ散る







「で、良い仲の男女…取り分けおなごの方が命を落とす場合が多い、と。」
「はぁ、左様にございます。」
切り株に腰掛けた若い法師の問いに村人と思われる男が答え、今度は逆に訊いた。
「やはり、物の怪でしょうか?」
「可能性は大だね。」
その法師の傍らにしゃがみ込んだ小袖姿の娘が、双尾の妖獣の首をふるふると撫でてやりつつ、言った。
「まぁ、兎に角調べてみましょう。年若いおなごが命を落とすなど、もっ」
「勿体無いとか、そういう事じゃないだろう?」
緇衣姿の男の言葉を遮って、立ち上がり様に娘がぎろりと睨み遣る。
「…私は、以ての他の非道な所業、と言おうとしたのですが。」
「へぇー、ふぅ~ん。」
肩に乗せた妖猫の喉許を人差し指でくすぐりながら、法師の方も見ずに娘が言ったその脇で、腰を上げた法師がはぁ~、と嘆息してみせた。
(大丈夫なのか、本当に…。)
その二人を交互に眺める村人の方こそが、溜め息を吐きたい心境にあった。







珍しくも別々に行動を取った奈落探討の一行。
と言っても、一昨日から激しく喧嘩をしている例の二人組が事の発端。実家に帰る、との何時もの捨て台詞と共に骨喰いの井戸へと飛び込んだかごめを、本日遂に我慢の限界を超えた犬夜叉が追って行ったのを見送って。
「紅葉狩りにでも行きますか。」
弥勒の口調は、平和そのものであった。
「…はぁ?」
訝しげに彼を見返ったのは、珊瑚。
「暇でしょう。」
「暇だけど。」
「では参りましょう。」
「二人で?」
「ええ、二人で。」
「……。」
「七宝なら、気を利かせたのか消えていますよ。」
思わず辺りを見回していた珊瑚の希望を断ち切る様に、弥勒が言った。
「…なんで気を利かす必要があるのさ。」
「さぁて、な。」
実際のところは、楓の村の子供達と遊びに耽ってしまっているだけであったのだが。
「見頃の時季は、短いですよ。」
その弥勒の言葉は尤もで。珊瑚は、ちろり、と彼を見上げる。
「では、参りましょう。」
弥勒が、誘い文句を再び告げた。







「折角行楽に出てもこれですな…。」
「いいじゃない、あたし達らしいよ。」
ちゃりちゃりと法具の鐶を揺らしつつ、やれやれ、と一人ごちた弥勒へ、苦笑しながら珊瑚が返した。その彼女を見た後、弥勒も微笑を湛えた溜め息を一つ洩らす。
何刻(なんどき)か前。真っ赤に紅葉を始めた山へと足を踏み入れた二人は、その絶景に目を奪われ、交わす言葉も途切れがちではあったのだが、その沈黙さえも気にはならなかった。
蒼い空をも染め尽くす様な見事な呉藍(くれあい)(=紅)が、眼前に、そして足元へも敷き詰められており、紡ぐ言葉も無粋な響きを持つ様に思われる、空間。その幻惑的な美しさに、普段は凛々しい珊瑚の双眸も柔らかく緩められており。
そのような珊瑚の表情を見て、弥勒も満足げではあったのだけれども。
山を抜ける頃。袈裟姿の彼を放っておいてはくれぬ輩が現れてしまった。輩、などとは些か失礼な言い方ではあるが、それが、冒頭の村人。
彼の住む村で、恋仲になった男女が物の怪に襲われ命を奪われるという事象が頻発しているという。九死に一生を得た者が共通して口にするのは、"身形(みなり)の良い女が、亡霊の様に自分達を見下ろし泣いていた"という事。その現象を、なんとか鎮める事は出来ますまいか、というのが法師へ依頼された内容であった。
そして、現在。二人が佇んでいるのは、その村の更に先に在る城の前。
この界隈で"身形の良い女"が居るとすれば、此処しか考えられぬ状況。"小袿の様な衣を纏った上流の女"という証言も予め得ている。
「そのおなごがこの世の者でないとすれば、此処も的外れではありましょうが。」
「当たってみる価値はあるんだろ?」
城門を見上げつつ言う弥勒へ、珊瑚が問うた。
それには、ふ、と薄く笑ってみせただけの弥勒であった。







存外、容易いものであった。その城主へと目通りが叶ったのは。
「怪しの空気が垂れ込めている」と、何時もの調子で法師がのたもうたれば、心当たりでもあるのか、慌てふためいた門番の一人が城の中へと消えたか思うと、寸刻も置かぬうちに城主の承諾を得て戻って来た。それはもう、当の二人が驚く程円滑に城内へと招き入れられたのである。
やはり、何かある ――― 弥勒と珊瑚がそう思ったところへ。
「やはり、物の怪か。」
「…は?」
口を開いた城主の最初の言葉に、弥勒が、思わず小さく声を上げた。 ――― やはり?
訊けば、この殿さまの奥方 ――― 名を呉葉(くれは)という ――― が、最近床へ臥せっているらしい。もともと輿入れして来た頃から病がちであったという事だが、この所、いよいよ果敢(はか)なくなって来て食事も喉を通らぬとの事。
薬師に診せても、祈祷をしても、何の効果も上げられず、今に至っている。
「で、旅の法師とやら。おぬしになら呉葉を治す事が出来ると?」
「それは、今の時点で断言は出来ませぬが、そのつもりでこうして罷り越しました。」
年の頃は、二十代後半、といったところか。脇息へ左肘を預け、その左の拳へ頬を乗せた横柄な態度を崩さぬその城主の言葉へ、弥勒が、静かに答えた。
「ふん。まぁ、どちらにせよ、期待はしておらぬがな。」
昼間から手にした杯を弄びつつ、何処かを向きながら城主が呟く。
「…まったく、苦労して迎え入れたかと思えば物の怪憑きになるなどと…厄介な上に使えぬ女だ。」
心底面倒臭そうに、耳を疑いたくなるその言葉を城主が吐いた。
「な」
「さすれば。」
「!」
その言い草に思わず腰を上げ掛けた珊瑚の左手を弥勒の右手が捕え、彼女の行動を押し留めると同時に彼の静かな声が響く。
「その奥方さまに、御目通り願えますかな?」
珊瑚が、冷静に前方を見据えたままの弥勒の顔を見遣り、無言のまま居住まいを正す。先程その肩先から飛び降りた雲母も、今は彼女の膝上へと小さな体躯を乗せていた。
「それは構わぬ。案内させる故、それに連いて行くが良い。」
「承知致しました。」
一つ頭を下げた後、弥勒と珊瑚は立ち上がり、城主へと背を向ける。と、其処へ。
「待て。呉葉を診るは、法師の方であろう?ならば、其処な娘は置いて行け。」
弥勒が、足を止めた。
「邪魔になるであろう、と言うておるのだ。待ち合いを準備させる故、そちらで待って居よ。」
傍らの珊瑚は、振り返るのも嫌だとばかりに柳眉を吊り上げ、握り締めた拳をわなわなと震わせている。その言葉が何を意味しているのか、珊瑚に、ましてや弥勒にわからぬ筈はなかった。
「お言葉ですが。」
珊瑚がその拳を振り上げてしまわぬうちに。弥勒がゆっくりと振り返り、城主を見遣る。その表情は、微笑を湛えたものだったが。
「この者は、残念ながら人にはありませぬ。」
「え?」
その弥勒の科白に、珊瑚と城主が同時に声を上げた。
「これは、私の使いにあって、どちらかと言えば妖の眷属に近い。生粋の人間のおなごでなければ、こちらの御殿さまには厄介なのでございましょう?」
思わず、城主が口篭もる。ちら、と後方を見返った珊瑚が、その城主の顔を見た後に、法師の方を盗み見ると。
「では、失礼致します。」
完全無欠な笑みを乗せた顔が、其処には在った。
無言のままの城主を置き去りにした二人は、案内役の後ろについて渡り廊下を進み行く。
とうとう堪え切れなくなったのか、珊瑚が、ぷっ、と小さく吹き出した。
「見た?あの城主の顔。」
前を行く案内人には聞こえぬ様、小声で傍らの法師へと話し掛ける。
「法師さまも、反論出来ない様なきつい事を笑顔で言うんだから。」
先刻、女をなんだと思ってる、と怒声を投げたかった気持ちを抑えられた珊瑚にしてみれば、これで少しは溜飲も下がるというものだ。
「こういう時は、嘘も使いようだねぇ。」
「笑い事ではない。」
しかし、弥勒の感情を押し殺したその声に、は?と珊瑚が顔を上げた。
だってさっき厭味たっぷりの笑顔をこさえていたのは何処の誰よ、と思いながら。
()きたくもない嘘を吐いた私の身にもなってみなさい。」
…無表情、ではあるが、怒っている?
どうやら、珊瑚を妖の者だと言ってしまった己自身の嘘の拙さに嫌気が差している様であった。
「…あの嘘、上手いとあたしは思ったけど。」
別に気にしてないよ、と珊瑚は付け加える。
彼女の方はと言えば、事、交渉に関しては、この法師に任せておけば恐れる事はそうそうないのだと頼もしく思ったりもしていたのだが。
「…まあ、ああいう輩には少し釘を刺しておかねば気が済みませんからね。」
確かに、あの好色そうな城主を遣り込めてやりたかったのは、事実。
こんな助平野郎が殿さまだとわかっていれば、珊瑚を連れて来はしなかったのに、とまで一瞬のうちに後悔したのも、真実。
「ほんと、ああいう男は大嫌いだね。奥方さまもお可哀想に。」
そう、低く呟いた珊瑚の顔は、本当に忌々しげに歪められており、
(…おまえも危なかったんだって…。)
弥勒のその思惑などはまるでわかっていないという風に、まだ見ぬ貴人へと同情していたものだった。







通されたのは、随分と寝殿から離れた寂れた部屋であった。原因不明の病に囚われ、手の施しようもなくなった人間を目の付かぬところへ押し込めた、という感じがありありと伝わって来る。
「そうですか、私を診て下さると…。」
床から半身を起こした奥方 ――― 呉葉が、言った。
白小袖の上に朱鷺色の打ち掛けを肩から羽織った呉葉は、まだ幾らか幼さの残る目許をしているものの、その頬は丸みを失い、血の気というものがまるで感じられない。袖先から覗く細腕も痩せ衰え、椀さえ持ち上げる事も叶わぬのではないかと思われる程であった。
(…本来、随分と見目麗しい女だろうに…こりゃあ、放っておくと…)
長くはねぇな、との弥勒の思いと、珊瑚の方も同様であっただろう。直視するのも躊躇われる様な、痛々しいその姿。
「…体が重くて、仕方がないのです。眠りに落ちても夢ばかり見て…。」
か細い声で、呉葉がゆっくりと言を紡ぐ。
「立ち入った事をお聞きしますが、夢とは、どのような?」
その弥勒の問いには、呉葉は無言を返した。頑なに拒む、というよりは、言い澱んでいる様な、その表情。
「ああ、申し訳ございませぬ。不躾な事をお尋ね致しました。」
呉葉の傍らに、ささっ、と片膝を着いた弥勒が、唐突に彼女の両手をぎゅう、と握る。
「…法師どの?」
「私が呉葉さまを必ずやお救い致しますので、今日のところはもうお休みになられた方が宜しいかと。」
何時の間にやら、馴れ馴れしくも"呉葉さま"などと呼び方が替わっている辺り、流石と言うべきか。
彼女が横になるのをいそいそと手伝う法師の背中へ、ひんやりとした視線が遠慮もなしに突き刺さって来るのは、当然至極。
「では、失礼致します。」
一礼した後に立ち上がり、唐紙をぱしり、と閉めると。
「…痛いんですけど、珊瑚。」
その、白い鋭視が。
「へぇ、人並みに感じるんだ?」
上目にぎら、と睨んだ後に視線を落とし、ほぅ、と溜め息を吐く、珊瑚。
「で、どうだったの?」
手を握った成果は、と皆まで言わず、珊瑚が弥勒へと問うた。
「まだ、救える。」
静かに、微かに、弥勒が笑んだ。







「で、何時までこうしてればいいのさ…。」
「私に訊かれてもねぇ。」
呉葉の部屋の一つ奥。細く薄く開けた、唐紙の向こう。其処から、四つの眼光が呉葉を見張る様に向けられていた。
彼女の手を握った時。何かが呉葉の周りを取り巻いている様な、不可思議な波動を感じた。その正体までは見極められなかったけれど。
「珊瑚、先に眠っても構いませんよ。折角蒲団を用意して頂いたのですから。」
「だっ、誰があんなもんに横になるかッ!」
ひそひそと声を潜めつつも、出来得る限りの罵声を投げる、珊瑚。呉葉を見張り続ける二人の背後に敷かれた寝具は…一つのみ。しかも、大人二人が横になるにはもってこいの大きさを誇っている。
「一人寝が寂しいのなら私も直ぐに」
「首飛ばすよ?法師さま。」
弥勒の戯言を最後まで許さず、珊瑚の低い声がぴしゃりと遮ってみせた。が。
「今のおまえは刀など持っておらん。」
ぐ。
「あの城主も、味な真似をするものだ。」
(とぼ)けた顔を崩しもせずに、へらへらと言う弥勒へ、
「そんな訳ないだろ!これはさっき女房どのが勘違い」
「はい、其処まで。」
屹と睨みを利かせた珊瑚であったが、その言葉は柔らかく阻まれる。
眉一つ動かさずに前方を見詰める法師の顔に気付き、寸分の後に珊瑚もその視線の先を追った。其処には、むくり、と半身を起こした呉葉の姿。虚ろに開かれたその目が(うつつ)を見ていないのは、明らかだ。
ゆらり、と今にも折れそうな体を引き上げ寝具から出た呉葉は、部屋の片隅にある唐櫛匣(からくしげ)の傍らに置かれた、質素な足付きの鏡の方へと首を廻らす。
「!」
其処で弥勒と珊瑚の視界に入ったものは。
立った鏡の前面から、ぬぅ、と突き出された ――― 人間の、片腕。
『呉葉さま…。』
鏡の中から手招きするその腕が、呼んだ。靄が掛かった様に鈍く反響するその声は、紛う事なき男のもの。
宣親(のぶちか)…。」
何も宿さぬ様な呉葉の双眸は真っ直ぐに鏡へと向けられており、その顔には、初めてとろりとした笑みを乗せていた。
『呉葉さま、こちらへ…』
そして、躊躇いもせずにその鏡の中から伸ばされた男の手を取り。
「直ぐに参る、宣親…。」
その名を再び呼ぶのは、恋しげな、声音。
「あ…。」
我が目を疑う珊瑚の呟きが、洩れる。
するすると、大地が水を吸う如く、極自然に鏡面へと引き込まれて行く呉葉の身体。その頭一つ程度の大きさの鏡が、何の苦労もなく彼女の細身を飲み込んで。
何事もなかった様に、辺りは静まり返っている。
「…飲まれちゃったよ…?」
襖の隙間から一部始終を窺っていた珊瑚が、小さく言った。
「…あの鏡には、異界への入り口が出来てしまっている様ですな。」
その魔鏡を見詰めたまま、弥勒が低く答え遣る。
(こっちはこっちで祓わねばならんが…村人が言っていた件とは無関係だったか?)
…姿を消してしまったのだから。
弥勒が、さてどーしたもんか、と思案を廻らしていたところへ、珊瑚の声が掛かった。
「法師さま…!」
「!?」
その声に弾かれ、思考を中断した弥勒が再び意識を鏡へと向ける。すると。
鏡の背面から、ふわり、とたなびく霞の如き気体が押し出されて来る様が己の両眼に映った。
「これは…。」
ぼやぁ、と人魂宜しく現れ出でたその霞は、次第に雲散して行ったかと思うと、次の形を成して行く。その陽炎の果てに現れたのは ――― 呉葉。
青白き、その透けた身体はふわりと中空へと浮いており、空間を遮る唐紙をいとも容易く摺り抜け、弥勒と珊瑚の視界から…外へと、消えた。
「…追います。」
「うん。」
それ以外は何も言葉を発しないまま、二人は、真闇の城外へと"呉葉"を追った。







その、地上の汚濁など気に病む事なく毎夜清閑を晒す月。彼の光に照らし出された、(くれない)の木の葉も美しい大楓の元に佇んでいるのは、逢引へと駆けて来た、若い男女。
交わす会話の間に、ころころという楽しげな女の笑い声が混ざる。今この世に在るのは自分等のみとでもいう様な錯覚に捉われつつ、至福の時を過ごす恋人達。
するぅり、するぅり、と宙を舞い進み行く"呉葉"の向かう先は。
「もしかして…?」
息を殺してその彼女の後を追う珊瑚が、楓の下に在る二つの人影を認め、これから起こるであろう事態を予想し、呟く。
(やはり、繋がっていたか?)
当然弥勒も珊瑚と同じ所見ではあったが、今少し呉葉の出方を見ようと、珊瑚と共に草叢(くさむら)の影に身を伏せた。
『どうして…?』
其処へ響いて来たのは、秋が深まった今も軒先から外し忘れられた風鈴の如き、哀調を帯びた声音。
「ひぃっ!?」
その声のする上空を見上げた男女の視界に飛び込んで来たのは、人として到底在り得ぬ色合いを纏う、霞の女の姿。
『私達は、現し世で一目逢う事さえ叶わぬというのに…』
「う、うわぁっ!」
悲しげに自分等を見下ろすその女の視線から逃れようと、二人は手に手を取り合い、脱兎の如く駆け出した。
『どうしてあなた達は、焦がれる相手と自由に逢う事が出来るの…?』
羨望に顰められていた柳眉が、徐々に釣り上がって行くと、白光を放つ長髪も、ざわ、と泳ぎ出し。
『私達とあなた達は、何故平等では有り得ない…!?』
「いかん!」
ざっ、と草葉を鳴らして立ち上がると、弥勒は前方へと疾走していた。前を見据えるその双眸が捉えたのは、逃げる男女へ、ぶわ、と一息に飛び寄った呉葉の蒼白の細腕が、ぐるり、と女の首を絡め取った光景。
瞬く間に血の気が失われて行く恋人の顔を見た男は、疾うに腰を抜かしており震えるばかり。
「ご無礼を(つかまつ)る!」
じゃんっ、という錫杖の鐶の音と同時。
走り寄った弥勒の持つ法具の切っ先が、女の首に廻された呉葉の腕を見事に突いた。途端、ぱぁん、と淡い光が散って、呉葉の両の腕は女の首から弾き飛ばされる。
自由になった女がゆら、と横倒れになるところを受け止めたのは、弥勒の後方から間を置かずに追い付いて来ていた、珊瑚。
『どうして…狡いではありませぬか。私も宣親も、何も悪い事などしていなかったのに…。』
元の呉葉の表情に戻った霞の女が、落涙する頬を隠しもせずに、法師へと問うた。
「…如何な理由がおありでも、このような狼藉に及んではなりませぬ。これが、貴女さまの本意ではございますまい?」
きっと。
名も知らぬ男女を不幸へと誘うのを目的としているのではないであろう。
あの、哀しみに濡れた瞳は。
呉葉は、その法師の問い掛けには反駁する事もなく無言を返すと、ゆるり、と背中を晒し、元来た道を戻り行く。
先程の烈火を鎮めたその白く透き通った背は、寂莫の感を湛えており、これ以上言葉を掛ける事さえ躊躇われる程で。
弥勒と珊瑚は、その孤独なる背が視界から消えるまで、身動ぎもせずに見送っていた。
そして、ううん、という女の呻き声が、静寂を穿つ。
「間に合いましたか。」
「大丈夫。命に別状はないよ。」
珊瑚の腕の中で意識を取り戻そうとしている女を見下ろし、安堵した様に弥勒が言い、珊瑚もそれに優しく応える。
そして珊瑚は次に空いた方の腕で、腰が立たずにへたり込んでいる傍らの男の膝を、ぴしゃん、と叩いた。
「ほら、あんたも!しっかりしなよ、まったく。」
情けない、とまでは流石に口には出さなかったけれど。その口調は、叱咤と呆れの半々、といったところか。
ようやっと腰を上げた男は朦朧とした女を背負い、二人へ礼を述べると、ふらふらとした足取りながらも家路へと就き、暗闇の中へと溶けて行った。
頼りなげなその姿を見遣り、小さく嘆息する珊瑚。
「危なっかしいなぁ、あの二人…。」
「まぁ、共に逃げようとしただけ良いのではありませんか。」
(確かに、我先に逃げようとはせずに手を繋いでいたっけか、腰を抜かす前は。)
そう珊瑚が思ったところへ、顔色を変えた弥勒が突然唸った。
「しまった、失敗した…!」
「え!?何が…!?」
不覚を取った、という表情を晒す弥勒の顔に、珊瑚も不安を隠せずに激しく訊き返す。
「私達があの部屋で睦み合うておれば、充分な囮になったであろうに…!」
「……。」
ぐぐぐ、と握り拳を震えさせ悔しがっている阿呆法師を一瞥した後、今度は珊瑚の方の握り拳が唸りを上げた。
今宵も、見事な殴打音が響き渡る。
「おまえ…私は、他人様(ひとさま)を危険に晒すよりはその方が良かったかという真摯な心持ちで」
「普段が真摯ならそういう科白も説得力あったかもね。」
頬を擦る法師の言葉を遮って言い放つ珊瑚の科白の方が、何倍も説得力があるというものだ。
…いいですけどね、と呟きながら、今度は弥勒が嘆息する番であった。
馬鹿げた会話に終止符を打つ様に、珊瑚は声差しを変え、静かに問うてみる。
「…城へ帰ったのかな。」
「恐らく。」
両の袂へ腕を挿し入れた弥勒が、城の在る方角を見詰め、答えた。
「…どうするのさ。」
「…本人にお尋ねするしかありますまい。」
辛い思いをさせる事になるであろうが。
「…そうだね、訊かなきゃ、ね。」
――― 全てを。







「そうですか、あれは夢ではなかったのですね…。」
昨日の様に、半身だけを床から起こした呉葉が、内掛けへと左手を掛けつつ応えた。
昨晩、弥勒と珊瑚が城内へと戻ったれば、鏡の中へと吸い込まれた呉葉の実体も既に帰館しており、安らかな寝息を立てていた。無論、霞掛かった"呉葉"の姿も消えており。
朝陽が昇るのを待ち、二人は彼女へ真実を告げた。
鏡の中へ吸い込まれた事のみを。
抜け出した呉葉の魂…恐らくは生き霊、についてまで伝える事は、彼女の体調を慮りまだ伏せておこうと決めていた。人を捕り殺していたという事実は、今の衰弱した呉葉の身体には負担が大き過ぎるであろう。
そして彼女は、驚く様子も見せずに、その魔鏡の件をあっさりと受け止めたのだった。
「毎夜毎夜、宣親と逢う夢を見ていたものとばかり思っていのですが…。」
俯いた呉葉が、ぽつり、ぽつり、と話し始める。
「宣親どの、というのは…?」
正座をした弥勒が、内側へ向けさせた両手を腿の辺りへ乗せながら、伸ばした背筋を崩さずに問う。
「…その鏡を私にくれた者です。」
傍らに置いたその異界への入り口を見遣り、呉葉は答えた。







呉葉は、もともとは隣国の姫君であった。決して豊かで強大な国ではなかったが、それでも主従民それぞれが慎ましく平和に暮らしていた。
そして、宣親というのは呉葉の乳母の長子であり、彼女とは乳兄妹の間柄にあった男。物心ついた頃…否、生まれた時から傍に居て、共に四季を迎え、過ごし、成長して来た二人。
一つ年上のその宣親は、精悍な面差しに堅実な人柄、そして武門に秀でた男であり、城主―――呉葉の父からの信頼も厚かった。
故に、誰も咎めはしなかったのだ。
身分違いの呉葉と宣親が、恋仲になろうとも。
男児に恵まれなかったこの国で、隆盛の為に強国との縁談を組もうとする者など居はしなかった。ただ、呉葉が ――― 姫さまが幸せになれれば、と。その相手が、国主の信任厚き宣親であれば猶の事で。
それ程に、美しく優しい姫君は愛されていたのだ。親は勿論、臣からも民からも。
そしてそれ程までに…この国は、弱く、甘く、平和過ぎた。
遊山に現れたとある城主に、国そのものを掻き回される事となったのは、今から五年程前になる。代替わりしたばかりのその若い城主が、呉葉を見初めてしまった事が始まりだった。
逢ったその日のうちに、彼女を正室に迎え入れたいと申し入れたのだ。しかし、呉葉の想いを知る父は、正式な手続きに則ってこれを断った。そして、親としてではなく一国を統べる主として、この判断が誤りであったと思い知るまでにそう日は要さない。
弱小国に自尊心を傷付けられたその城主が攻め入って来る事など、予想していて然るべき。なれど、例え予想をしていようとも、それに沿うだけの国力が、武力が、呉葉の国には望める筈もなく。
如何に幼き頃から平和の中で甘やかされて育ったとはいえ、呉葉にとて己の国と民を守りたいと願う心は充分に存在しており。
これ以上民を死なせる訳にも、宣親を無駄死にさせる訳にもいかなかったから。故に、和睦の為に人質同然の輿入れを決意したのは彼女自身であったのだ。
将来を約束した宣親が、それを止められる程に私に生きる者ではなかった事も、二人にとっては幸だったのか不幸だったのか。
お家の為、民の為、と泣く泣く恋しい男と別れ、あの城主の元へと呉葉が遂に輿入れして来たのは四年前。
呉葉に飽いたか、夫が次々と側室を迎える様になったのは、三年前。
涙は見せぬ様にと健気に気を張りながら、来る日も来る日も、十四の時に宣親に贈られて以来愛用し続けている鏡を見遣り、溜め息を吐く呉葉。
若い奥方のその姿を面白くなく見詰めていたのは、あの好色な城主。何時まで経っても心を開かぬその原因は、国に残して来た男の所為だと、知っていた。
そして、晩秋の夕暮れ。呉葉の耳に宣親が原因不明の病で亡くなったとの報せが入ったのは二年前。
もとより、添い遂げる事など叶わぬ夢と化していた。二度と会えぬであろう事も、頭では理解していた筈だった。それでも。
彼が生きていてさえくれるのならば、こうして意に沿わぬ暮らしを送る事にも意味があるのだと言い聞かせ今日まで来たのだ。それを、武士である宣親が病で命を落とすなどと、どれほどに口惜しかった事であろう。ならば、あの時戦う事を選んだ方が、彼にとってはまだ幸せだったのではないのだろうか ――― 。
湧き上がる煩悶を、押し殺す事は出来ない。
もともと身体の丈夫ではない呉葉が一気に体調を崩すには、充分過ぎる起因であった。
食が細くなり、みるみるうちに痩せていくが、それでも夫の前ではその喪失感を悟られぬ様にと、悲嘆にくれる様子を見せはしなかった。 だからといって、心が通い合う訳もなく、夫婦の溝は日に日に深まるばかり。そして、決裂を決定付ける、夫と臣下の不用意な会話を聞いてしまうのだ。
『あの男さえ始末してしまえば、奥方さまも諦めがついて良いだろうと思うたのですが。』
『苦労して時間を掛け手を回したというに、幾らも変わらぬではないか、呉葉は!それどころか却って心を閉ざしおって、あの女…!』
忌々しげに放たれた、おぞましき科白。
宣親は、殺された。
愛する男は、己の夫の手に因って、己の所為で殺された。弓を引く間も、刀を抜く間も与えられずに。
自分が、その場からどうやって部屋へ戻ったのかも定かではなかった。
何の為に生きて来たのかさえ見失い、夜毎泣いても涙の枯れる事はなく。永久(とこしえ)に渦巻く(おり)の中へ沈んで行く己が見えた。
どれ程に後を追いたいと思った事か。なれど、残して来た国を思えば自害する事も能わずに。
しかし、夫の愚行はこれで終わりはしなかった。故郷などという憂いを誘うものが存在するのがそもそもの悪因なのだと、今度は呉葉の国へ再び攻め入り、二月も掛からぬうちに制圧し。
国主も、妻も、その場で手討ちとなった。
疾うに、呉葉には泣く余力も、命を絶つ気力も残されてはいなかった。
夫と口を利こうともせず、死んだ様に時を過ごし、遂には床から起き上がれなくなった彼女を、夫が、可愛さ余って憎さ百倍とばかりに見限ったのは、一年前。
その頃から毎晩夢の中へと宣親が現れる様になり、その懐かしい腕に引かれるまま身を委ね、二度と手に入れる事は叶わぬと思っていた幸福感に酔い痴れていた。
それでも、呉葉の衰弱の進行を止める事は出来なかったけれど。
「あれは夢などではなく、宣親が鏡を通して私に逢いに来てくれていたのですね…。」
何処までも澄んだ湖面の如く穏やかな口調で、呉葉が囁く。
「……。」
弥勒も、珊瑚も、黙したまま其処へ座していた。
争乱吹き荒ぶ、この時代。このような話は何処にでも転がっており、決して珍しい事ではない。けれど、本人にとっては一度きりの人生。世間から見てよくある話であろうとも、それを体現する者は、その者一人、己自身の生き様でしか有り得なかった。
そして、ありふれた境遇だからと鼻で笑って流し遣れる程に、軽んじられて良いものではないのだ。 人が、喩え一人でも命を失っている以上。
「…法師どの。この物の怪憑きの女の幕引き、如何様にされるおつもりですか…?」
「…鏡を…異界への入り口と成りしその魔鏡の扉が二度と開かぬ様、封じます。」
呉葉の問いに、その彼女の視線を受け止めた弥勒が答えた。
「さすれば、呉葉さまの御体調も、快復に向かわれましょう。」
法師の言葉には穏やかな表情のままの呉葉であったけれど、その双眸がゆっくりと伏せられる。
「…一つ頼みがあります、法師どの。」
「…拙僧に適う事でございますれば、なんなりと。」
「鏡を封じるのは…私があの中へ飲まれた後にしては下さいませぬか。」
「!」
珊瑚が、絶句する。
「…そのような事を承知致しますれば、私は御仏に顔向けが出来なくなりましょう。」
諦めに似た口調ながらも、弥勒が言った。
「法師どのには誠に申し訳ないのですが…この呉葉の為に、其処を何とか曲げて頂く訳には参りませぬか…?」
「……。」
再び開けられた呉葉の両眼は一欠片の曇りもなく、魔と共に永遠に封じられる事を、切に、願う。
「そんな、死んでは駄目です!生きていなくちゃ」
次の幸せにも、巡り逢えない ――― そう、珊瑚が言を繋げ様とする前に。
「私は、宣親が死んだ時に既に(むくろ)と化しているのですよ、珊瑚どの…。」
突かれた様に、珊瑚は口を噤むしかなかった。
生きていても、死んでいる。生かされているだけの、この、身体 ――― 。
「…それに、私の見た夢は、宣親一つではないのです。」
「…え?」
弥勒と珊瑚が、呉葉の顔を見詰め返す。
「私の心…平凡な恋を羨むこの魂が、彷徨っていた事を知っています。…あれも、夢ではないのでしょう?」
夢の中で逢瀬を重ねる間にも、これは幻夢だと、現実ではないのだと嘆く心は身体を抜け出し、狭量なる狼藉へと及び。
「私こそが、封じられねばならぬのです。喩え魔鏡を封じようとも、私の魂が卑しい限り、人を殺め続け…」
鏡の枠を、細い指先で、つ、となぞる。
「先は長くありません。」
この想いが己の中に在る限り、体調の快復など望むべくもないと、自覚していた。
「…後生です、法師どの…。」
懇願する様に縋る瞳を向けられた弥勒は、沈黙を守る。
最早、呉葉を諌止する事は己には出来ぬ ――― 否、彼女の思いを遂げさせてやりたいとまでに思い始めた珊瑚が、そのたった一つの術を握る法師の顔を傍目で見遣った。
その整った面差しは、何の感情も読み取れぬまま、其処に静かに在るばかりだったが。
沈黙を破るが如く、しゃら、と法具の鐶が音を立てる。
錫杖を握った弥勒が、立ち上がる前に。
「…今宵、宣親どのがお迎えに参られましたら、今後誰一人お二人には手出しが出来ぬ様に致します。…どうか、お忘れ物の無き様に。」
「あ…。」
冷静な声音は崩さぬまま法師が告げた言葉に、呉葉は救われたと言わんばかりに目を見開き、小さく声を漏らした。
「行きますよ、珊瑚。」
「あ、あ。うん。」
部屋から出、すら、と唐紙を閉めたその後ろ。有り難うございます、と、震えを隠さぬ呟きが、聞こえた。







夜の帳が降り、二人の男女がこの先離れる事もない、永遠の旅路へと就く時を迎える。
『呉葉さま、どうぞ、こちらへ…。』
鏡から伸ばされたその手を取った呉葉が、
「宣親、今直ぐに連れて行っておくれ…。」
熱に浮かされた様な瞳を携え、小さく、応えた。
昨日見た時と何ら変わらぬその虚ろな双眸からは、けれど、一筋の涙が引かれているのを珊瑚は見た。
愛する男の元へ行く為に魔道へと歩を進めるその姿を、美しいと感じてしまうのは、不謹慎だろうか。
鮮やかな朱鷺の内掛けの裾の先までが鏡の中へと消えたのを合図に、襖をからり、と開け、弥勒と珊瑚はその魔鏡の前に(ひざまず)く。
呉葉の魂が生き霊と成って這い出す前に、封じねばならない。
弥勒は、右の袂から手首に回る程度の小さな数珠を取り出すと、その手で鏡の上を円で囲む様に動かして見せた。そして、その数珠は懐へと仕舞う。
「…?」
何の(まじな)いだろう、と珊瑚が思っていると、懐から抜いたその指先には今度は二枚の封魔の符が挟まれていた。
その符を、鏡の前面と背面へと貼り付け、左の袂から出した古い数珠を、戒めの様に何重にも巻いて行く。
準備していた濃紫の風呂敷で鏡を丁寧に包むと、それを珊瑚へと預ける。
「…これで、終わり?」
やや拍子抜けした珊瑚が、弥勒へと問うた。その答は。
「…いや。まだやる事が残っている。」







「まったく、このような刻限に何と無粋な…!」
城主の寝所の廊下で膝を着いた旅の法師と娘を、行灯の薄明かりの元、その殿が面倒臭そうに吐き捨てた。
乱れた夜着を纏ったその城主の後方には、恐らく側室の一人が控えているのだろう。暗がりで、良くは見えないけれど。
(あんたの方が無礼だろう…?)
胸の内で、珊瑚が呟く。
己の妻があのような状態に在るというのに、この男の傍若無人な振る舞いには、虫唾を通り越して吐き気がする。権力に胡座を掻いた、主たる器量のない主ほど、周囲の人間にとり迷惑千万な存在はない。
其処で弥勒は、城主へと呉葉の件を告げた。
己の力及ばず、物の怪が奥方さまを連れ去ってしまい、此処へ戻って来る事は最早叶わぬでありましょう、と。
「ふん、そのような事、明朝でも構わぬであっただろうに。今更居ようが居まいが些かの差もない女よ。」
ぼりぼり、と左手で右の首筋を掻きながら、城主が相変わらずの暴言を吐く。
今度外で会ったら飛来骨でぶん殴ってやる、との不穏当な思惑を目の前の可憐な娘が抱えているとも知らず。
「正室が物の怪憑きであったなどと、もの笑いの種も良い所だ。わしの顔に泥を塗りおって…」
いや、やっぱり今此処で苦無の一つくらいぶっ刺してやろうか、との思いが珊瑚の脳裏を掠めた時。
「その物の怪ですが。」
弥勒が、言う。
「今後御殿さまをも狙わぬとも限りませんので、魔除けにこれをお持ち下さい。」
懐から取り出した先程の短い数珠を、この下衆な殿さまへと握らせた。
「こんなもんで効くのかのぅ…。」
数珠を弄ぶ城主を見遣りながら、珊瑚が、
(法師さま、法師し過ぎだよ…。)
と、些かの不満を覚えたところへ。
「もう良い、用は済んだのであろう?下がれ。それとも、そちらの妖女は此処で共に遊んで行くか?」
下卑た笑いを浮かべた城主が、彼女へとまたしても戯言を放つ。
やっぱり、今度会ったら刀の錆だな、と一番物騒な方法を決意した珊瑚は、
「結構でございますっ。」
ぎらり、と凛々しい瞳で一睨み投げた後、弥勒と二人、腰を上げる。
失敗したのだから褒美はないぞ、と背後から掛かる声さえも、煩わしく感じていた。







「直ぐに発つ?」
「この刻限の山越えは、ちと辛いですな。」
「…雲母も眠そうだしね。」
渡り廊下を進み行く二人が、何気ない会話を交わす。珊瑚の肩に陣取ったその妖猫は、先程から首をくらくらと泳がせている。
「…あの数珠、馬鹿殿に渡す必要あったの?」
「は?」
少々怒気を孕んだ様な珊瑚の物言いに、弥勒は彼女の方へと首を廻らした。
「法師さま、あいつの味方な訳?」
わざわざ、祓いの法具まで渡すなんて。
「…どっちの味方とかそういう問題でもないでしょう。」
「…そうだけど、さ。」
「まぁ…娶ったおなごに見向きもして貰えなかった哀れな男、とも言えますが。」
「それは自業自得だろう!?」
思わず勢い込んで反問する珊瑚へ、弥勒は薄い苦笑を返すのみ。その無言の笑みに、珊瑚も押し黙る。
我ながら、子供っぽい事を言ってしまったと、わかっていた。
仮にも…そう、仮にも、だけれども。法師なのである、この"法師"は。
ちゃんと念の為の防護策も打っておくのは当然なのだ。
――― 喩え、許し難く愚劣極まりない阿呆な野郎が相手でも。
少なくとも、この法師は己の破戒に繋がりそうな呉葉の願いを、叶えてやったではないか。
そう己へと言い聞かせながらも、如何ともし難く苛立つ心を抱えつつ、部屋へと向かう珊瑚。
隣には、涼しい顔をした弥勒が居た。







「ほっ、法師どの、待たれよ!」
次の早朝。
城門を潜ろうとする弥勒と珊瑚が、蒼白な顔を晒した家臣の一人に呼び止められた。
「何か?」
何時もの柔らかな物腰で振り返った弥勒が、問う。
その法師の頬にくっきりと浮かんだ、彼等にとっては日常茶飯事である赤痣に、家臣が一寸怯んだ後。
「殿が、殿が…!」
息を切らせ、言を紡がんとするその男から弥勒へと視線を移した珊瑚が見たのは、一片の動揺も見せぬ法師の姿であった。







「よ、寄るな…ッ!呉葉、宣親…!」
「殿、お止め下さいませ、誰もおりませぬ!」
再び城内へと足を踏み入れた弥勒と珊瑚の眼前。
寝所で抜き身を振り回し、何もない空を斬ろうとしているのは、彼の城主。驚愕に見開かれた双眸はきょろきょろと一点に留まらず彷徨い、白い夜着も不様に乱れている。
「呉葉…っ、寄るなと言うに!の、宣親やめろ!」
訳のわからぬ事を口走り、制止に入る臣などには目もくれず。
途端、刀を取り落とし、今度は頭を抱えて座り込んでしまった。幼子の様に小さく背を丸め、がたがたと震え始める。
「わ…、わしが悪かった…!だから、許してくれ…呉葉、宣親!き、消えてくれぇッ!」
その髪を掻き毟る様に添えられた右手には、きちんと弥勒が渡してやった数珠が巻かれており。
(…あれ?法師さまの魔除け、効かない筈、ないのに…。)
彼の護法の実力には、珊瑚とて一目置いている。なのに、何故こんなにあっさり破られる?弥勒の力を凌駕し得る程の強力な邪念などではなかった筈。
「法師どの、これは一体どうした事なのだ?何とかして下さらんか!」
「これは私の手には負えません。どなたか他の方を雇われた方が宜しいかと。」
「え?」
切羽詰った家臣の依頼をあっさりと断った法師の科白に、その家臣と珊瑚が同時に声を上げた。
「では珊瑚。帰りましょう。」
「ええ!?」
あまりに容易く見捨てた法師に一瞬驚いた珊瑚だが、疾うに背中を向けて廊下を戻って行く法師へと慌てて続く。
未だ途切れる事なく、己が手で奈落の底へと突き落とした二人へ許しを乞う、彼の城主を置き去りにし。
ちょっと待て、これ、と呼ぶ声を背で聞きつつ、再び二人は城門を潜り、低劣な主の居座る国を後にした。







紅葉狩りが目的で訪れた山を戻り行く途中。
適当な場所で濃紫の風呂敷を開き、鏡を取り出す。
珊瑚からそれを受け取った弥勒は、巻き付けた数珠を静かに解き、地面へと置いた。その上へ、集めた白膠木(ぬるで)の葉を被せる。そして、形ばかりでも、と珊瑚の苦無を拝借して削り取った白膠木の材の欠片をも幾らか添えて火を起こし。ゆるゆると(くゆ)る煙と穏やかな炎を眼前に、弥勒は数珠を手に掛け瞼を瞑り、誦経を始めた。
その落ち着いた低い声音を微かに聞きながら、珊瑚は目の前で焔と化して行く葉の下に眠る、魔鏡を見詰め遣る。
少し濁った白い煙が、(くれない)に染まった天然の天蓋を突き抜け、薄青の空へと溶けて行く。
艱苦の果てに、二人は辿り着けただろうか。
誰にも邪魔をされぬ世界へと。
相手が死した時、己の心も死んだのだと言った、呉葉の言葉を思い出す。
生くるも死ぬるも共に在る、と。
それが良い事なのか、正直珊瑚にはわからない。けれど、あれほど相手を想い、時代と家、そして国という己の力ではどうにもならぬものから解放された呉葉の願いは、これで叶ったのだと思いたかった。
先日までは、ただ、美しいと眺めていた紅葉の群れが、今は少し物悲しいものに見えてしまうけれど。
――― 気付くと、弥勒の誦経は止んでいた。
燃え残った鏡の残骸を、至極丁重に土中へ埋葬してやり、
「では、帰りますか。」
何時もと変わらぬ口調で弥勒が告げる。しかし、珊瑚の応えはそれに呼応したものではなかった。
「ねぇ、法師さま。」
「はい?」
右胸に抱えた錫杖が、ちりん、と鳴いた。
「…あの城主に、何か、した?」
先程から(わだかま)っていた疑問を、思い切って口にしてみる。
「何か、とは?」
惚けて言う弥勒を、逃すつもりはない。
「あの数珠、効いてなかったじゃない。」
「いえ、充分役目を果たしておりましたよ。」
弥勒の答は、全く以て意味不明瞭。
不審げな瞳を向けて来る珊瑚へ、弥勒は困った様な笑みを浮かべた後、一つ溜め息を吐いた。
「鏡の周囲に僅かに在ったお二人の残留思念を、少ぅしばかり増幅させてあの数珠に篭めました。」
「な。」
その事実とは不釣合いな程すらすらと述べた恐ろしい科白に、珊瑚は開いた口が塞がらなかった。
それでも、やっとの事で一言だけ告げる。
「…それって、外法なんじゃ…?」
「心配せずとも、三日も経てばあの幻覚も消えますよ。」
しれっ、と言い放つ弥勒の言葉には、そういう問題でもないだろう、と思うのだけれど。
あの愚人へ少しでも罪の意識を芽生えさせる事が出来るなら。
何やら胸がすく様な気がするのは、気の所為だろうか?
何一つ自分へは教えてくれなかった弥勒の人の悪さを知りつつも、それさえ許せてしまえる様な。
「…腐れ法師。」
平生は罵倒する怒りの声音で発せられる筈のその呼び名が、珊瑚の笑んだ唇から洩れる。
まるで、褒め言葉の様に。
それには、肩越しに振り返り、弥勒は目を細め不敵に笑っただけだった。







――― その日より 魂にわかれし我れむくろ 美しと見ば 人にとぶらへ









41000ゲッター・虎鉄さんご依頼の「半分妖化した薄幸の女性をミロサンが成敗(救済)する」お話でございました。
タイトルは「紅葉している一方で散って行く葉もある」という意味です、多分。
「くれは」の名は最初「紅葉」でくれはと読ませようとも思ったのですが、それだとあまりにもアザトイかと思い、「呉」を当ててみました。
展開は相変わらずのご都合主義で、つぎはぎだらけの感は否めませんが、ワタクシなりに頑張ってみた次第です。
虎鉄さん、こんなもんで宜しいでしょうか?折角詳細設定を頂いたのに、消化(&昇華)し切れていないのが申し訳ないのですが…。寛いお心でお納め頂けましたら、嬉しいです。
では、最後までお付き合い下さいまして、有り難うございました。

2001.11.22