SINCE…2001.06.24


















©2001 minato



薔薇姫(さうびひめ)







見つけた。

ようやっと、見つけた。
我に相応しき、娘を。

我の…




「珊瑚ちゃん、どうかした?」
山を降り切った丁度その時。ふと足を止めた珊瑚へ、かごめが声を掛けた。
「…なんか今聞こえなかった?」
「?別に?」
珊瑚の問い掛けに、かごめがきょとん、とした瞳を向け、答える。前を行く犬夜叉も、何も言っては来ない。
(空耳か。)
そう一人納得した後。
一行は、四魂の欠片を探すべく次の村へと足を踏み入れた。







何時もの事ではあるが。
村の中でも一際立派な屋敷を目掛け、言い掛かりとも言えなくもない、親切ごかした言葉を法師が吹き掛けてやったれば。
百発百中の確率は下げられる事はなく。見事命中していた。
適当なお祓いは済ませたが、報酬の夕餉までにはまだ間がある。犬夜叉とかごめは連れ立って散歩にでも行ったのか、共に姿を消していた。七宝と雲母も、屋敷の裏庭で何やらじゃれあっている様である。
今、用意された部屋へ居るのは詐欺法師と、退治屋の娘のみ。その珊瑚は、黙々と飛来骨を横にして磨きを掛けている最中。それをぼんやりと見詰めているのが、弥勒。
「平和ですなぁ…。」
「詐欺働いた人間が言うか…。」
「まあ、良いではありませんか。」
まったく、と言いながら飛来骨から視線を上げ、前を見遣る珊瑚であったが、その目に映ったのは法師ではなく、更にその向こう。障子の影から、そろ、と頭を覗かせている童。
「?どうしたの?」
珊瑚のその視線と言葉に、弥勒も振り返る。
「おや、可愛らしい童女ですな。」
「この家の子?」
「うん。」
弥勒と珊瑚の優しい声音に、童はそう答えると、ちょこん、と障子の脇へ一歩踏み出し、全身を現した。茜色の着物を纏い、少し長めの黒髪を後ろで一つに結わえた十前後の少女。
「そっか、名前は?あたしは珊瑚。」
「…さち。…あのね。」
さちという幼子は、遠慮がちに、けれど声を掛けられるのを待っていた、とでもいう様に、己の本題へと切り込んだ。
「さちね、さっき山裾で遊んでる時、鈴を落としたみたいなの…。」
「鈴?」
しょんぼりと告げるさちへ、飛来骨を背後の壁へと立て掛けながら、珊瑚が問い返す。
「うん。でもね、もう直ぐ暗くなっちゃうからって、父さまも母さまも、一人で探しに行っちゃ駄目だって言うの…。」
確かに、この幼子を一人で外出させるには躊躇われる刻限。かといって、大人達にとっては慌ただしいばかりのこの時間帯、子供の探し物に付き合っている暇などはないであろう。しかし、子供自身にしてみれば、失くした物は直ちに探さねば気が済まないもの。今日の事は今日でなければ駄目なのだ。
「じゃあ、お姉ちゃんが一緒に行ってあげるよ。」
さちへ笑みを向けた珊瑚が、腰を上げた。
「ほんと!?」
さちの円らな瞳が、見る間に明るく塗り変わって行く。
「ほーんと。」
珊瑚が、己の方へ駆け寄って来たさちと互いの両手を繋ぎ、くるり、と一つ回転して見せた姿は、まるで本当の姉妹の様で。
「探し物であれば、人手が必要でしょう。私も参りますか。」
と、弥勒が寝かせていた錫杖を掴み、立ち上がろうとしたところ。
ささぁっ、と、さちが珊瑚の後ろへと身を隠してしまった。
「おや。」
「あれ?」
己の後方へと首を廻らし、珊瑚がさちの頭を見下ろす。彼女の深緑の腰巻をぎゅう、と掴んださちは、どうやら"男の子が苦手"な人見知りらしい。
「私は嫌われてしまったようですな。」
「こんな小さな子でもわかるんだねぇ。」
「どーいう意味です。」
苦言を呈した弥勒は無視し、
「ね、どの辺まで行くの?」
「うんとね、あっちのお山まで。」
などと楽しげな声で会話をしつつ、手を繋いだ二人が廊下を渡って行く。其処で、思い出した様に珊瑚が振り返った。
「じゃあ法師さま、ちょっと行って来るね。」
「気を付けるのですよ。」
律儀に断りを入れた珊瑚へ、内心苦笑しつつ弥勒が言う。
法師のその言葉へ、大丈夫、と応えた後に珊瑚は再び前を向き直り、弥勒の視界から消えて行った。







(暇だ。)
珊瑚が出掛けて行ってから、一刻程は過ぎただろうか。何をするともない弥勒は、仕方がないので結跏趺坐しつつ瞑想していた。
仕方がない、というのも無礼な言い様だが。手持ち無沙汰になると、寝るか座禅かのどちらかになってしまうのだから、立派な職業病と言えるだろう。その辺り、この詐欺法師もまだ捨てたものではないらしい。
「おや、法師さまおひとりですか?」
柔らかい風が気持ち良い為、開け放していた障子の向こう。廊下をやって来た使用人が部屋の中の法師へと声を掛けた。
「ええ。」
ぱちり、と双眸を開けた弥勒が返事をする。腰を屈めた使用人が、にこにことした顔をこちらへ向けている姿が其処に在った。
「先程は、綺麗な娘さんとご一緒だったかと思いましたが。」
「ああ、あの娘なら、こちらのさちさまと出掛けて行きました。」
「は?さち?」
苦笑しながら説明を寄越した法師へ、使用人が怪訝な声を返す。
「?ええ。こちらの娘御の。」
「はて、夢でも見ていらしたのですかな、法師さま。さちなどという者は、この屋敷にはおりませんが。」
弥勒が、己が背中から、さあっ、と血の気が退いて行く音を聞いた。
「…居ない?」
低く、訊き返す。
「はぁ。こちらには、子は授かっておらぬのですよ。」
この屋敷に、子供は居ない?
「大方、近所の子供でも紛れ込んだのでしょうなぁ。」
そんな筈はない。確かに"この家の子だ"と言ったのだ。村の童に、そのような嘘を吐く必要が何処にある?
(やられたっ!)
がしゃっ、と錫杖を激しく鳴らしながら立ち上がると、
「ほ、法師さま!?」
使用人の声には応えずに、弥勒は韋駄天の如く駆け出していた。







「さちちゃん、この辺りなの?」
「うん。」
本日、自分達が越えて来た山の裾野。珊瑚とさちは繋いでいた手を離し、鈴が落ちていないかと、辺りを探し始めた。屈んだ体勢で、草を掻き分け地を睨む。けれど、小さな鈴はなかなか見つかってはくれなかった。
「ねぇ、お姉ちゃん、これ見て!」
と、唐突にさちが歓喜の声を上げた。見つかったのか、と珊瑚がそちらへ行ってみれば、其処に在ったのは。
――― 薔薇(そうび)
「…へぇ~、綺麗…。」
吸い込まれそうな真紅の花弁を携え、荊棘(いばら)の蔓垣に守られた、その姿。その一輪だけが、凛とした佇まいを其処へ留めていた。
当たり前の様に、棘だらけの蔓の中へ手を伸ばすのは ――― さち。
「危な」
珊瑚が慌ててその手を押し留めようとしたのだが、その時には、さちに()折られた紅薔薇(べにそうび)が小さな指に握られていた。
掠り傷も、何もなく。
「はい。」
極自然な手捌きで手に入れたそれを、珊瑚へと差し出す、さち。彼女のその満面の笑みに一瞬呆けた後、
「あ、あり、がと。」
珊瑚は少女からその花を受け取った。ほぅわり、と芳しい香りが珊瑚の鼻腔をくすぐる。
「ほんと、綺麗だね。それに、良い香り…。」
長く濃い睫毛を伏せながら、うっとりと珊瑚が呟いた、その時。
「おまえの方が、よほど美しい。」
「…え?」
さちの口から、これまでとは違う声が零れた。信じ難い、細くも暗い、男の声。ぎくり、と珊瑚は身体を硬直させ、しかし次の瞬間には、見事なまでの俊敏さで、ばっ、とその場から跳び退いていた。
「おまえ!?」
さちから距離を取った珊瑚が、その少女へと問う…が。
ぐらり。
目の前…否、目の中が、歪んだ様に圧迫された。
「!?」
がく、と膝から力が抜け、抗う間も無く地へと崩れ落ちる珊瑚の身体。倒れ伏す半身を支える為に、反射的に両手を前に出していた。
手にしていた薔薇が、彼女と共に、ぽとん、と地上へ投げ出される。
(なん、だ?これは…。)
「動けまいよ。その香りは、痺れを齎す妖香だ。」
「な、に…?きさま…ッ…」
己が身体を支えた筈の両腕は、かくかくと震え、幾らも経たぬうちに肘を折ってしまい。
「死にはしない。直に痺れも消える。だが、痺れが消えた頃には、おまえは人間ではなくなっておる。」
"さち"が、その愛らしい顔とは不釣合いな男の声を切れ間なく珊瑚へと浴びせ掛けた。
(ちっ。迂闊だった…。)
内心舌打ちする、珊瑚。
「私と共に来い、珊瑚。」
両肘を地へ着き、頭を無理やり起こした珊瑚の方へ、さちが一歩ずつ近付く。
「な、にを…っ。」
その、珊瑚の覚束ない言葉を引き継ぐ様に。
「何処であろうと連れ去る事は罷り成らぬ。その娘だけは。」
しゃらん、と清澄な音と ――― 声。
その落ち着き払った声音に、さちが、ゆるりと振り向いた。その視線の先には、少々肩を上下させた、緇衣と袈裟を纏いし仏門の男。
「ほう、し…さま…。」
地へ伏し、眉根を寄せた珊瑚が、たどたどしくもその名を呼んだ。
「…邪魔立てすると為にはならぬぞ、法師。」
「生憎と、為になろうがなるまいが気にするな、という教えを受けておるのでな。」
随分と簡約した罰当たりな言い様ではあったが。
まるで動じる風もなく減らず口を叩く弥勒へ、ふ、とさちが薄く笑って見せた。
「身の程を知るが良い。」
そう呟き、くい、と小さな右手を挙げ、人差し指を左へ切る、さち。
「!?」
途端。弥勒の傍らへ広がっていた荊棘の蔓垣が、生きた蛇の如くざざぁっ、と彼の身体へと一気に絡み付いていた。
「なっ」
かしゃしゃん、という音色と共に、取り落とされる、錫杖。
上半身へ何重にも巻きついた蔓の棘が、浅く肌を刺して来る。そして、右足首をぐるり、と捕われ、弥勒の身体は思い切り地を叩いた。拍子、地へ伏した左側の皮膚が棘を深く受け入れる事となり。
「つ…っ…!」
「法師、さ、ま…っ!」
ぱ、と小さく散った血飛沫を認め、珊瑚が無理やり声を上げた。
「大人しくしていろ。動けば棘が食い込むだけだ。」
棘とは言うが、其処は流石に妖の使い。一般に生息している茨のそれよりも、一回り二回りは大きく成長しており、立派な凶器と化していた。
動きを封じられた弥勒を一瞥した後、さちが珊瑚の方を再び見遣る。すると、ぴし、とその(おもて)へ縦に亀裂が走った。
かと思うと、ばきばきと裂けたその皮膚の中から現れたのは ――― 血の色を見事に再現したかの如き深紅色の髪を高く結い上げた、男。その髪は、地へ届かんばかりの長さを誇り。
そして、赤光の双眸、真っ赤な冷爪。その赤と対照をなす様な白き絵衣の上にゆるりと纏う唐衣は、まるで、釆女(うねめ)の如く。
女物の様なその装束を違和感無く綽綽と着こなした、禍々しき美丈夫であった。
「人の皮を被っていたのか…。」
道理で、気配を読み取れなかった筈である。倒れた弥勒が、ぎらりと薔薇の妖魔を睨み上げ、問うた。
「さちは…中身はどうした?」
「随分と前に喰ろうた。訊くまでも無かろう?」
無表情な面で以って弥勒を見下ろし、いとも容易く妖魔が答える。
「き…、さま…ッ。」
ぱさり、と背から頬へと乱れ落つ己の黒髪を、弱々しくも、ぶん、と振った珊瑚が頭を持ち上げ非難の声を上げた。
「珊瑚を喰らうが目的かっ!」
珊瑚の眼前へと跪いた彼奴(きゃつ)へ、半身を起こした弥勒が激しく問い掛ける。その答は。
「喰らう?そのようなもの、他の女で事足りる。」
荊棘の魔は、首だけを法師の方へと廻らせ、今度は、にや、と笑った。
「先ずは、この女の生気を飲み下す。我の中で其を妖魔のそれへ精製し直し、女へ再び戻し遣る。」
「な…に?」
精製し直す、だと?まるで人間を粗悪品みたいに言うじゃねぇか、この野郎。
「さすれば、珊瑚は我が妻に相応しき、妖魔と成る。」
当の珊瑚と()の法師が、瞬間、瞠目した。
「ようやっと見つけたのだ。我の探し求めていた、炎の如き美しさを湛えた女を。」
それこそ"何か"に憑かれたかの如く、虜となった双眼を珊瑚へ向ける、魔物。
珊瑚の背を走る、おぞましき感覚。魔を狩る側のこのあたしが、妖魔に"成る" ――― ?
否、それよりも、我が妻、と言ったか?こやつは。
その戯言に、全身の血という血が沸騰する様な感覚へと陥ったのは、弥勒。
珊瑚を選ぶ辺り、こいつの趣味の良さは認めるが。
大方、その辺で珊瑚の姿を目に留めて一目惚れでもしやがったんだろうが、昨日今日現れたばかりの、ぽっと出の輩へそう簡単にくれてやれるか、この阿呆。
心中で、口汚く罵るけれど。
「だったら、俺を先に殺すべきだったな。」
それだけ、告げる。
彼奴は、ふん、と鼻で笑った後、赤い爪を纏った指先で珊瑚の背に散った髪を(おもむろ)に掴んだ。緑髪を掴む右手をぐるり、と廻し、二重程その髪を己が手首へと絡ませ、ぐいら、と彼女の身体を持ち上げた。
「!」
「い…ッ…!」
髪を強く引っ張られた痛みに、思わず珊瑚が声を洩らす。その頃には、奴の右側へ収まる様に引き上げられており。
彼奴の手から零れた珊瑚の黒髪が、ゆらゆらと風を孕んで揺れている。何時の間にやら解けたその髪は、彼女の前身へも幾束となく滑り落ち、さらりと乱れ泳いでいた。
その艶麗たる姿を晒す女を満足げに見遣る奴の赤目と、珊瑚の視線がぶつかった。
「は、な…せ…っ。」
眉根へ皺を寄せた珊瑚が苦しげに、それでも負けじと自由にならぬ言葉を紡いだが、解放される訳もなく、その耳へ届くのは、法師へと向けられた妖魔の声。
「今は、ぬしを殺す手間も惜しい。一刻も早く、珊瑚を紅薔薇の姫に染め直さなねばならぬのでな。」
その、眼光赤き双眸を、選んだ女の顔から一分(いちぶ)も逸らさず、告げる。
「…がっつきやがって……臆面もなく言ってんじゃねぇぞ…。」
卑俗な科白を吐いた彼奴へと、冷徹な眼差しの弥勒が低く呟いた。
――― こういう餓鬼みてぇな野郎は、反吐(へど)が出る。それが、目の前にいる彼の娘を標的にした科白であれば、猶の事。
「法師よ、そう(はや)らずとも後で始末してくれようぞ。」
其処でようやく弥勒を見返った薔薇の魔物が、整った顔立ちで艶笑する。
「我の妻の手でな。」
「させると思うかっ!!」
左膝を立てた弥勒が、怒声を投げた。髪を掴まれ首を反らされた珊瑚へ、彼奴が今正に口づけんとするより早く。
蔓の棘を気遣う素振りも見せず、有らん限りの力で縛り付けられた両腕を外側へと広げ行く。ぶすりぶすり、と嫌な音を立て肌を突き破る数多の棘を、如実に感じながら。
「!?」
法師のその捨て身の為様に、彼奴が目を奪われる。珊瑚も、弥勒の己が身を顧みない姿を視界に宿していた。
「や…め、ほう、し…」
瞬く間に流下する幾筋もの、血液。血染めの袈裟が、珊瑚の目を射抜き。
「痛みを感じぬのか…?」
妖魔の呟きも、聞こえはしなかった。
やめて、法師さま。そんな血塗れな姿、見たくない。死んでしまったら、どうするの ――― ?
胸の奥で叫ぶけれど、当然彼へ届く事はなく、弱々しく振った(かぶり)も、全く意味をなさなかった。
左右へ強引に引かれた荊棘の蔓が、胸や背中をも食い破って行く。己が身体の自由を侵犯するその根源を引き千切るべく、力を込めた弥勒の両の拳にも、袂の中を通った自身の血がぬらりと伝って来ていた。
「…く…っ…!」
ぎちぎちと、蔓が悲鳴を上げている。一度肌を抉った棘は抜ける事なく、無理やり引かれる力に因って皮膚を横へと裂き、血流の幅を広げて行くばかり。
だくだくと流れる血を、痛みを、認めている筈なのに、その無謀を止めようとはしない、弥勒。
――― 大体、この程度の細蔓、千切れぬ筈はないのだ。ただ、ちぃっとばかり棘が邪魔をするだけで。
これしきの捕縄で、俺を、縛れる筈などありはしない。
「…ぬしの痛覚、疾うに壊れたか…?」
「痛みなんぞより、我慢ならねぇ事がある。」
弥勒が、にや、と口端を上げ、妖魔のその呟きへ平然と答え遣る。
(やめてよ。もういいってば、法師さま ――― 。)
彼の足元をどす黒く染める止め処ない血流を見咎め、珊瑚が法師を諌止しようとするけれど、それが言葉になる事はなかった。
非力な筈の人間が見せるその抵抗に、妖魔は焦ったか、再び珊瑚の頭を、ぐ、と己の顔へと近付ける。
「どう足掻こうと、女は我が手に堕つが運命(さだめ)!」
「や…」
珊瑚の首筋を滑り落ちて行く、冷たい汗。
弱々しく半開きになっていたその双眸を無理やりこじ開けると、珊瑚は、眼前の彼奴を屹と睨み据えた。
最早、抵抗する事など叶わぬけれど。こやつの魔手から逃れ、法師の自殺行為を押し留めるには。
「!?おぬし」
その尋常ならぬ雰囲気に、魔物が珊瑚の行動を悟る。
両手両足のみならず、言葉を紡ぐ事さえ出来ずとも。その回らぬ舌を、歯と歯で断絶する事は、まだ可能 ―――
「やめろ珊瑚っ!!」
怒号と同時。
ぶつッ、という激しい音。
裂罅(れっか)線が、加えられた強力に耐え切れず、遂にその身を分かつ。
「!?」
がば、と妖魔が法師へと視線を移した、刹那。
引き千切られた蔓の残骸を棘毎身体へ纏ったままの弥勒は、疾うに、右足に絡んだ蔓さえ左手で剥ぎ取っており。
「な」
と、瞠目させた妖魔の赤光の双眼の視界を塞ぐは、空気を裂いて走り飛んで来た破魔の札。
「!」
「だから俺を先に殺すべきだと言ったろう!」
一足飛びに彼奴への距離を詰めた弥勒が、掴んだ錫杖をじゃらん、と一度旋回させ大上段へと振り上げる。
「こいつは、てめぇ如きが娶れる様な女じゃねぇんだよ!」
赫怒と共に 。
――― 激烈な、潰乱音。
札の上へと寸分違わず振り下ろされた仏法守護の錫杖が、荊棘の妖魔の面を捉え、その紅と白の妖の姿を鮮やかに粉砕していた。
彼奴の手が珊瑚の髪からずるり、と朽ち落ち、自由になった彼女の身体が地へと仰向けに倒れ行く。しかし、その背には、妖魔の残骸などには全く目もくれぬ弥勒の左腕が素早く廻され、とさ、と珊瑚の身体を受け止めていた。
「無事か、珊瑚。」
しゃら、と法具を地面へ置き膝を着いた弥勒が、左に抱いた珊瑚の耳にも煩わしくないよう、柔和な声差しでその安否を気遣う。
「…こっちの、せり、ふ、だよ…。」
妖力の源となる妖が滅んだ所為か。痺れが薄らいで行くのが、彼女にもはっきりとわかった。そして、珊瑚の小袖の白い領分が瞬時のうちに弥勒の血を吸い、色を変える。
「何を言う。おまえこそ、無駄に体力を使いおって。」
最後の、舌を噛み切ろうとした事を言っているのだろうか、少々怒気を孕んだその表情と声音は。
「まさか、私がおまえの舌一つ守れん様な、情けない男だとでも思っていた訳ではあるまいな?」
抱きかかえられた珊瑚を射抜く、清廉な眼差し。その上、反論を許さぬ厳しさを含ませる事も、忘れはしないのだ、この法師は。
「…ごめ、ん…。」
視線を俯かせ、珊瑚が小さく呟いた。
「今日は素直だな。」
に、と何時もの(不良の、という注釈が要りそうだが)笑顔を見せてくれた事が、何より嬉しい。
「では、命の恩人へ褒美を下さいますか、姫。」
と、唐突にわざとらしい口調になった弥勒が、珊瑚の顔へと更に己のそれを近付け、言った。
「ちょ…っ、調子に乗る、なッ!」
大分身体の感覚を取り戻した珊瑚が、法師の右頬を、左の指で、ぎり、と捻り上げる。
「痛たたたた。」
涙目になった弥勒の胸をどん、と押し退けると、ふらり、と珊瑚は自力で立ち上がった。その背後で、非道いおなごだ、などと一人ごちつつも、彼も腰を上げた気配がした。
まったくもう、と珊瑚も憤慨するけれど。
はたと、己の着物一面が深紅に染められている事を、思い出す。無論、染め粉の原料は、法師の血。
「ちょっと法師さま!怪我だいじょ」
血相を変え振り向いた珊瑚の首の後ろへと廻されて来たのは、その法師の両の(かいな)。彼女の左肩先へ、ぱたり、と頭を落とし遣る、弥勒。
「!何す」
いきなり真正面から抱き付いて来た弥勒へ、何時もの条件反射的に珊瑚が怒声を上げ掛けたが、次の彼の言葉でそれも何処かへ消し飛んでしまう。
「…目眩して来た。」
「ちょっとー!?」
倒れ込んで来た弥勒を今度は自分が支える立場に回りながら、思わず、焦る声を発する珊瑚。しかし、当の本人はと言えば、
「…あぁーあ。こんなに髪、絡まっちまって。」
などと、己の指先で彼女の髪をゆるゆると弄んでいるのだから、いい気なものだ。
「そんな事どうでもいいから!早く、屋敷へ戻って手当てし」
ぎく、と言葉が途切れる。
抱き返す己の白い指が、彼の血で、ぬるり、と濡れていた。
「髪は女の命だってぇのに、あの野郎、無下に扱いやがって…。」
己の肩先から聞こえて来る、法師の声。
彼女の言葉など全く意に介さぬ様にぶつらぶつらと呟くその科白に、珊瑚の胸はきりきりと締め付けられる。法師の身体を苛んだ荊棘の蔓より、何倍も楽であろうと思いつつも、その痛みを無視する事は出来なくて。
「ごめんね…。」
消え入りそうな声が、吐息と共に弥勒の襟足辺りに舞い降りた。
「…何がだ?」
独り言を止め、弥勒が訊き返す。
「…ごめんね。」
それでも、珊瑚は同じ言葉を繰り返すばかり。
「…そう思うなら。」
珊瑚の髪を絡め取っていた弥勒の左手が、ぽんぽん、と彼女の後頭部をやんわりとはたき。
「あまり、危ない男に惚れられるな。」
と、本人には防ぎ様もない無茶を言ったものだったが。
"他の男に"と言いたかった本音を、"危ない男に"と摩り替えた辺り、この法師も相当に素直ではないらしい。
「そうそうないよ、こんな事。」
「……。」
娘は娘の方で、このような、とんとわかっていない言葉を吐くのだから、この男の苦労はまだ暫く続くであろうと思われた。まったく、己の容貌をきちんと理解していない女ほど、厄介なものはない。
「さ、行こう法師さま。本当に、出血が酷いよ…?」
珊瑚が、くい、と背中の袈裟を軽く引いて合図を寄越し、弥勒もようやく頭を鷹揚に起こした。真実は、もう少しこうしていたかったけれど、正面から心配げな顔を惜しげもなく晒して来る珊瑚の言う事を、無視出来る程の身勝手さを持ち合わせてはいなかった。
「…ですな。折角珊瑚が自ら手当てをしくれると言うのですから。」
「…?そりゃ、手当てくらい、するけど…?」
自分の所為で怪我を負ってしまったこの法師を治療するのは、当たり前の事で。彼の言わんとしている意味が、わからない。
法師を引き摺る様にして辿り着いた屋敷で、なんなのなんでそんなに血だらけなのー!?と慌てふためくかごめや七宝を尻目に、
「では珊瑚、頼みます。」
と、やおら袈裟と緇衣を脱ぎ始めた弥勒の本意をようやく悟った珊瑚は。
「ふっざけんなッッ!!」
薔薇色に染まった己の頬とお揃いの色をした手形を、彼の法師へと土産に残し。
「なんで俺が…。」
ぶちぶちと文句を連ねる犬夜叉と七宝が弥勒の手当てを始めた頃には、彼が貧血に因る目眩に襲われていたという事は妖二人のみの知るところであった。
そして。
あの程度の事に狼狽し、法師の怪我のその根源たる己が治療を放棄してしまった罪悪感。危機を救ってくれた恩人に対し、あろう事か張り手までお見舞いして。
(あたしは、これだから…。)
何時もであらば、自業自得、と畳み掛けてやるところだが、彼の示してくれた至誠を思い出すと、今度ばかりはちくり、と胸が痛んだ。
(自業自得は、このあたしか…。)
はぁ~あ、と深い溜め息を吐く、珊瑚。
その珊瑚が、やっぱりちゃんと手当てしてあげれば良かったな、などと珍しく殊勝な事を思いつつ、弥勒の治療が終わるのをそわそわと待ち焦がれていたという事実は、彼女以外の、誰も、知らない。









テンクー初キリ、38000ゲッター・みらいさん御依頼の「鬼姫・珊瑚編」でございました。
実は「鬼姫」の話は勉強不足だったもので、どちらかというと「山の中の姫・珊瑚編」っぽくなってしまいました、スミマセン…。
タイトルはそれらに引っ掛け「姫」シリーズ。「薔薇」は字面だけ見ると何処か現代風な印象を受けてしまうので、本文では「そうび」、タイトルでは更に古臭く「さうび」と表記してみました。
珊瑚のイメージ=薔薇、とは思ってはいないのですが、荊棘を使いたかったのです。
みらいさん、こんなのでお許し頂けますでしょうか?想像と掛け離れておりましたら、誠に申し訳ございません。寛大な御心で受け取って下さると嬉しく思います。
では、最後までお読み下さいまして、有り難うございました。

2001.11.10